5月6日~5月15日
2026年5月6日 水曜日
眼鏡をしたまま寝て眼鏡を壊した。レンズが二枚とも縦に割れた。自分では直すことができない。さてどうしようかと思考は回転し始める。古い眼鏡を改良して掛けてみる。視界は変わったがすぐに慣れるだろうと思う。環境に合わせて自分を変える能力が高いほうだ。
なにもする気がしない。本も読みたくないしネットも見たくない。音楽も聴きたくない。するとやることがなくなる。家のなかをうろついて、見える物を見て、息をして、肉体が存在しているのを感じる。どうやら消えたがっているらしいのを感じる。肉体がそう言っている。もう終わりにしてもいいんだよと言っている。やろうと思うことはみんなやらなくてもいいことだ。図書館で借りた二冊の本はどちらも途中で嫌になった。
コピーはこの世界の基本原理の一つだ。それはすでに存在しているものと同じものを作るということだ。この世界に存在するもののほとんどはコピーによって作られた。遺伝子もコピーだ。進化(変化)よりコピーの方が基本的だ。進化はコピーの失敗だ。進化などなくてもよかった。
肉体はコピー機だ。たくさんの小さなコピー機で作られている。思考・意識もコピーだ。
バカ(無知)ほどどうしようもないものはない。いまの最大の問題はバカ問題だ。バカのいる家族は家族全員がバカだ。家族がバカを温存しバカを育成する。家族こそバカの生産拠点だ。バカがバカなのは誰の責任なのか。国家の責任だ。国家が一番先にやらなければならないことはバカの撲滅(救済)だ。バカの撲滅(救済)こそ国家の最大の役割だ。そのために国家が存在する。そんなことができるのは国家だけなのだから。しかし、バカをさらにバカにすることしかやっていない。
バカがバカを選ぶのが民主主義になっている。民主主義が進化すると必然的にそうなる。バカがバカを主張するようになるからだ。世界じゅうでバカがバカを主張できるようになっている。
なぜこんなにバカについて言及するかというと、腹が立って仕方がないからだ。バカな人間に多大な迷惑を受けているからだ。バカほど迷惑なものはない。自分の行動が他人にどう影響するかがわからない。そして、腹を立てることほどよくないことはない。腹を立てることは抑えることがむずかしいことであり、長時間続くことだからだ。問題が解決するまで腹が立ち続ける。そして問題はいつまでも解決しない。そういう時は違うことに思考を集中させるに限る。
バカでもいっぱしのことを言う。バカの方が偉そうにしゃべる。
2026年5月7日 木曜日
一つ一つの考えは似ているが全体としては違うという思想がある。同じ材料を使って違う構造を作っている。執行草舟の思想はそういうものだ。
孤独に死ぬとか言っているが名誉欲、出たがり欲に負けた。一つのことに打ち込むのがいいと言っているが、なんでもいいというのが変だ。どんな仕事でも打ち込めばいいかのようだ。
でも一つ一つの考えはおもしろい。知らないことも教えてくれる。
道元は同じことを延々と繰り返しているだけではないか。入門案内のパンフレットのようなものだ。入門すればいいことがありますよと言っているだけだ。思想の広がりがまったくない。
しかし、思想はみんなそんなものかもしれない。みんな同じことを延々と繰り返しているだけだ。どんな思想も本体は般若心経くらいの長さしかない。それ以外はすべてなくてもいい部分だ。あるいは、思想の応用問題にすぎない。あるいは、同じことを様々に表現しているだけだ。仏教などは悟りとはどういうものかを千通りの言い方で表現しているだけだ。悟りは月のようなものだ、石のようなものだ、午前三時の竹のようなものだ、・・・・・・というたとえが延々と続く。それでも悟りとはなにかわからない。
そうするとそういう思想の解説書とはなんなのか。
することとしないことのリストを作ればどういう思想かわかるのではないか。
2026年5月8日 金曜日
少子化などは誰かが仕組んでそうなるものではなく、人々の小さな動きが積み重なってそうなる。政治や経済や社会の動きはそういうものが多い。そういう動きはどうしてそうなったのかよくわからない。過去の出来事もどうしてそうなったのかわからないことが多い。だから「実際はこうだった」という言説が多くなるのだが、それだって一つの説にすぎない。
どうして株が高くなるのか、どうして戦争が起こっているのか誰にもわからない、やっている当人にもわからない。
すごいものなど存在しない。すごい本も存在しないし、すごい人間も存在しない。なにかを賞賛するのはすべてインチキだ。大袈裟なものやキラキラしたものには用心したほうがいい。すごい意味も存在しないし、すごい価値なども存在しない。ネット世界の99%は嘘、でたらめ、インチキ、詐欺、狂気、無知蒙昧だ。
正法眼蔵入門などを読んでみるとすべてが大袈裟だ。最初から道元はすごいものだと決めてかかっている。
ついに読みたい本がなくなった。本より現実の方がおもしろい。
人間はだんだんバカになっている。原因ははっきりしている。AIが人間の代わりに考えるようになっているからだ。
2026年5月9日 土曜日
******新しい発見******
たぶん神とか霊とかは、そういうものが実際に存在するのではなく、そういうものを信じている人からなにかが伝わってくるだけだ。だから、そういうものを信じている人が多くなるとその波動のようなものが強くなる。神社をおまいりすることに効果があるのはその神社をおまいりする人が多いからだ。神秘的なものや超自然的なものはすべてそういう構造になっている。すべて人間の力なのだ。つまり、「神が存在する」とは「神の存在を信じている人がいる」ということだ。(神の存在を信じている人がいると神が存在するようになっていく、と考えてもいいかもしれない。)
この理論によって死後の世界、輪廻転生、先祖供養などといったものがすべて理解できるようになる。先祖供養する人が多い世界では先祖供養しないと悪いことが起こるようになる。先祖供養する人が先祖供養しない人に悪いことが起こるように無意識の力が働くからだ。あの人にあげる米はすこし少なくするとか、そういう小さなことが積み重なって病気になったりする。
大学に行くことに価値のある世界では大学に行かないとやりたいこともできなくなるのと同じだ。なにかに価値があるのはそう思う人が多いというだけのことだ。そうやって無意味な価値が作動し始める。
神の始まりは自分を自分でないように感じることだと思う。精神と肉体が分離し始めると精神を自分ではないように感じるはずだ。精神を他人のように感じるのが神という意識の始まりではないか。(縄文時代はそういう感じなのではないか。すぐ近くに神がいる。自分が自分を見ているからだ。)
読むことの方がいい人と聴く方がいい人がいるようだ。ユーチューブは聴く本ということになる。聴かなければ理解できない人もいるようだ。もちろん文字を読むことができない人もいる。
読むより聴く方が信じてしまいやすい。言い方やなんかに真実味がこもってしまうようだ。
聴くよりテキストを読むほうが十倍速い。三十分の講演をテキストにして読むと五分で読める。速いほうがいいということもないが、遅いとかえって疲れるということがある。読むということは次に書いてあることも同時に読んでいる。聴くとそれができない。
ユーチューブには香心華などというすべてが嘘という人までいる。大西つねきまで騙されている。執行草舟もそうとう嘘が混じっている。肩書や自分の過去などいくらでも創作できる。全部自分がそう言っているだけなのだ。自分を伝説化しようとしているようだ。
なぜこんなわけのわからない教団に入る人がいるのか不思議でならない。そういう教団がある。わけのわからない教義が我楽多ばかりの玩具箱のように雑然と詰まっている。わけがわからないからいいのかもしれない。
たぶん、思想(体系的な思考)というものに出会ったことがない人が初めて思想のようなものに出会うとこんなものが存在するのかとびっくりするのかもしれない。びっくりさせるにはわけのわからないほうがいい。びっくり箱のような思想だ。その世界だけの専門用語もたくさんある。世間には思想というものに出会ったことがない人がたくさんいるらしい。本も読まずに生きていると思想に出会うことがないのだ。メディアのニュースや情報には断片的な考えがあるだけでまとまった思想のようなものは存在しないからだ。思想に出会ったことのない人が初めて体系的な思想に出会うと、いままでばらばらだった断片的な考えが一つにつながってびっくりする。
こんなことを記述している間はまだ死なないようだ。死ぬ前の人はこんなことは記述しない。
わかった。酒を飲むのは思考と思考の間の空白を埋めるためだ。
なんとなく総括的な思考が多くなっている。
いろいろなことを考えたがまだわからないことばかりだ。宗教のようなものを信じるのはこの世界をわかり切ったものにしたいからだ。わからないということに耐えることができないのだ。
この世界で目撃した人間はみんないますぐ死んでしまいそうだった。いますぐ死ねる人間しか存在できない。
本に書いてあることはすべてその本の宣伝でしかない。
2026年5月10日 日曜日
人間はみんな同じようなことを同じように考えている。キリスト教も仏教も神道もそんなに違うはずはない。
なにかすごい人が出現して世界が変わる。という考え方がある。イエスの再臨とか日蓮のような人が出現するとか。これは一人の人間に頼るということだ。自分たちはなにもできない。なにもしなくていい。むしろなにもしないほうがいい。そういう考え方だ。これは不思議な考え方ではないだろうか。一人の人間にそんな力があるだろうか。こういう考え方が独裁者を生み出すのではないか。
ほかに教祖などという人もいる。どうしてそういう人が必要なのか。自分一人では自分でいることができないのか。
国を変えようと言う人は国が変わらなければ自分を変えることができないのか。それも上記のことに似ている。どこまでも他力本願だ。
自分で自分の思想を作る人はほかの思想(宗教も含む)など必要としない。自分で思想を作ることができない人がほかの人の思想に頼る。それは核の傘に守ってもらうようなものだ。しかし、自分で思想を作れない人がほかの人の思想を理解できるというのも変だ。
宗教は自分で思想を作れない人に思想を提供するのが役割だ。それほど人間には思想が必要なのだということだが思想を作れない人が多い。思想家の思想はほかの人に移植するのはむずかしい。柄谷行人の信者などはいない。拒絶反応のほうが大きいから移植できない。
すべての秘密は、人間の意識の力はすごいということではないか。多くの人間が伊勢は特別な空間だと思えばほんとうに伊勢は特別な空間になる。そう考えればほとんどの秘密が解ける。思考・意識(思念)によって空間も変化する。すべてが影響し合っているのだから当然のことだ。ある人がいるだけでその場の空気が変わる。
観察日記
ドトールとかに客がたくさん入っているがいったいなにをやっているのか。家にいるのとなにが違うのか。そこでしかできないことがあるのか。
繫華街を少し離れるともう誰もいない。誰もいなくても車は走っている。
バスに乗る人の半分は敬老パスだ。
街にいる人を見て職業がわかることはない。どんな職業でも同じような人間になるのだろう。教師や医者もわからない。水商売の女だけがなんとなくわかる。体癖はかなりわかるようになったがわかってもなんにもならない。成人男性の半分はAV男優のようだ。女のデブが増えているような気がする。
交通事故にも火事にもあったことがない。
体に悪そうなものばかり食べ、化学繊維の服ばかり着ている。
一日に思考意識したことをすべて記述すれば本三冊くらいになるにちがいない。一瞬見ただけの物も膨大な量だ。ほとんどのことは記述されることもなく忘れてしまうのか。そんなことはない。思い出そうと思えばすべて思い出せるにちがいない。
テレビで聴くよりスマホで聴く方が特別な音楽に聴こえる。スマホで聴くと自分だけの音楽のように感じる。自分だけの情報だと錯覚させる。
2026年5月11日 月曜日
体調が変になるのはたいてい意識しなくてもいいことを意識するせいだ。スポーツの勝敗など意識しないほうがいい。テレビやネットは意識しないほうがいいことばかりだ。テレビを見るのは繁華街を歩くのに似ている。
意識と物質を違うものだと考えるのが間違っている。意識を操作することによって物質も操作できる。思考によって世界は変わる。結局自分の意識をどう操作するかがすべてだ。意識が肉体を動かすのだから。自分の思考・意識をどう使うか、それが人間にできることのすべてだ。
2026年5月12日 火曜日
思想家や哲学者は思考・意識が思考に片寄ってしまっている。肉体が置き去りにされる。普通の人でもそういう傾向がある。人間にとって自分の肉体は未知の大陸、未知の領域なのだ。自分の肉体の探索ほど困難なことはない。
整体で背骨で呼吸するとは背骨の存在を意識するということではないか。人間は自分の骨さえ意識することができない。医者に診てもらわないと骨がどうなっているのかわらない。
意識できないものを意識できるようにする。
集団に所属しないとなにもできないというのは強制がないとなにもできないということだ。強制がないとできないということはほんとうにしたいことではないということだ。
人間をやるのはたいへんだ。ますますたいへんになっている。余計な情報が多すぎるからだ。そのために必要な情報がなかなかやってこない。これからは人間になるのをやめる人が続出するようになる。
歩き方がきれいな人はめったにいない。ほとんどの人は歩き方を研究したりしないようだ。小学生ですでに歩き方が出来上がっている。ほとんどの人は一生そのままだ。腕を振らなければ歩けない人がいる。歩き方だけで誰だかわかるようになる。ほとんどの人は自分がどう歩いているかもわからない。
二十代に歩き方を研究した。「雨の日の歩行術」などと言っていた。なつかしい、歩行術。完全に忘れていた。思い出したのだから忘れていなかったのか。
宇宙を意識すると無を意識している。無を意識すると宇宙を意識している。(道元の言いそうなことだ。)
わかったようなことを言ってなにもわかっていないのが学者だ。道元がすごいとかハイデガーがすごいとか言うのだが、そんなことを否定するのが道元でありハイデガーではないか。カントがどうしたとか、マルクスがどうしたとか、有名人で大騒ぎする女子高生となにも変わらない。
嫌なことばかり言う人がいる。エネルギーが低下することばかり言う。やる気がなくなることばかり言う。
整体の背骨で呼吸するということがわからない。その前に背骨を意識するということがわからない。
空間を神社にするということはなんとなくわかる。空間を神社にできるなら宇宙全体を神社にできるはずだ。しかし、全部がそうなったらそうなっていることもわからないはずだ。神社以外の部分があるからある部分が神社になっているとわかるのであり、全体がそうなったらそうなっていることはわからない。
これはどんなことにも当てはまる。定理のようなものだ。
定理〔全体がAになるとAになっていることがわからない〕
補助的定理〔全体が同じになるとなにが同じなのかわからない〕
応用問題。世界全体が平和になると平和になっていることがわからない。
近くにいる人間を観察するようにしている。
感じのいい人がいないということがわかった。なぜそんなことがわかったのか。感じのいい人がいれば感じがいいとわかるはずだ。でもそんな人には出会ったことがない。たぶん私には感じのいい人を感知する能力がないのだと思っていた。でもそうでないことがわかった。とても感じのいい人を見つけたからだ。そのために、ほかの人間はみんな感じがよくないのだとわかった。
業務用で感じのいい人はいる。でも業務用だとすぐわかる。
変な人間ばかりだ。変だということはすぐわかる。
とても理知的な人はよくいる。理知的なのは感じがいいのとは別のことだ。感じがいいというのは同じ星から来た仲間ということだ。近くにいるだけでそれがわかる。
2026年5月13日 水曜日
なにかをするということはそれ以外のことをなにもしていないということだ。なにもしていない状態はあらゆることに共通な状態だ。しなくてもいいことをしているのはなにもしていないのと同じだ。たいていの人は一日のほとんどをしなくてもいいことをして過ごしている。(道元が言いそうなことだ。)
メディアはすべての情報をわかり切ったことにして伝える。わかり切った部分だけを切り取ってつなげている。よくわからないことや人によって考えが違うことは排除する。その結果、思考の停止した情報ばかりになる。メディアの情報をいくら受け取っても思考が作動することはない。思考が作動しないように作られている。
(民放テレビは対象年齢が12歳に設定されている。ネットニュースも同じだ。)
ひきこもりとか不登校とかは個人の問題ではなくなっている。家族全員がひきこもりになったり不登校のようなものになったりする。家族そのものが自閉症になる。家族は孤立した世界を形成している。ほかの家族の中がどうなっているのかわからない。家族が変になると全員が変になる。そんな家族に生まれた子供はどうなるのか。
仏典などはみんな同じようなことを言っているだけだ。道元がおもしろいのは新しい熟語を作り出すところだ。青山常運歩とかだ。
さとりとはなにかを様々に言い換えているだけだ。さとりとはなにか。誰でも一日に百回はさとっている。たださとりだと気がつかないだけだ。
一日でいろいろなことが起こる。どれくらいのことが起こるかなかなかわからない。人生で起こるようなことはすべて一日で起こる。一日とはそれ自体一つの人生だ。一日が終わるとは一つの人生が終わるということだ。道元が言いそうなことだ。
2026年5月14日 木曜日
熟睡できなくて長い夢を見た。夢というより幻想とか想像に近い。登場人物が多く過去の時代と関係していた。過去の奇怪な建築物から様々な文献を持ち帰ってきた。過去と現在が入り混じっていた。別の人々が別な場所で別のことをしていた。いろいろな奇怪なことが次々に起こった。たちばなという言葉が謎を秘めていた。たちばなとはなにか調べようとしていろいろな本で調べたがどこにも出ていなかった。スマホで調べようと考えた。そして実際に目が覚めてスマホで検索してみると、たちばなには様々な謎と伝説があるのがわかった。古くから薬効が知られていて天皇家とも関係があるらしい。右近の橘とは神社の前に神社に背中を向けて立った時の右側らしい。正面に向かって立つと神社の左側になる。不思議なことがあるものだ。
あまりに疲れたので眠られなかったようだ。右腕を酷使しすぎた。肉体労働は右腕(利き腕)を酷使するものが多いようだ。字を書くのも右腕を酷使したはずだが誰も字を書かなくなった。それだけでも事務員(ホワイトカラー)は楽をしている。
読みたい本がない。つい批判的に読んでしまう。こんな本を書いてどうするつもりなのかということだ。道元を研究しても修行する人はいないようだ。有名な人を研究すると教授になれるというだけのことだ。対象はできるだけ難解なほうがいい。学者も自分の思想がない。そのために他人の思想を研究するのだがそれが自分の思想になるわけではない。
とにかくいまの人はみんな専門化しすぎている。全体がわかる人がいない。専門分野がやたら詳しいのでなんでも知っている人と錯覚する。すべてのことを考えた結果そんなふうになったと錯覚する。その人にもわからない分野があるということがわからない。学者や知識人がなにを知らないのかはわからない。ある部分がすっぽり抜け落ちていてもわからない。わからないのに知の巨人などという。(立花隆もすべてのことを考えているとは思えない。)
すべての情報を遮断すると一日は異常に長い。むかしの人には時間がたっぷりあった。自分を観察していても外部から情報がないと思考が作動しなくなっているのがわかる。スマホがないと思考が作動しなくなっている人が多い。
地元でとれたものを食べなければならないというが、地球人にとっては地球が地元ではないか。そういうのは思考の死角という。どんな思考にも死角がある。すべてを考え尽くしてはいないということだ。
また、この思考も外部からの情報に反応して作動した。
沢山の人がたくさんの情報を発信している。一日に一時間分の情報を発信する人が日本だけで100万人いるとしたら、一日に発信される情報量は100万時間になる。114年分だ。一人の人はそのなかの三時間分くらいしか受信できない。0、000003%だ。(情報を時間で測定することはできないが。)ネット上には一年間に41610年分の情報が増える。日本だけだ。
実際はもっと細かい計算が必要だ。一日に三時間分の情報を発信する人もいる。五分くらいの情報を発信する人は何千万人もいるかもしれない。同じ情報が重なり合っている場合もある。
人類に主体はない。人類が自分はこうしようと考えて行動することはない。誰も人類のことは考えることはできない。人類の代わりに考えることができる人間はいない。一人一人の動きが合わさって人類の動きになるだけだ。人類の動きは動き終わってからしかわからない。動き終わってからどう動いたかわかるだけで、どうしてそう動いたのかもわからない。だから「私は人類のことを考える」などというのはすべてデタラメだ。
ただ見ることを楽しむことができる人もあまりいないようだ。だからスマホを見ている。人でも家でも樹でもなんでも見えるものを楽しむことができない。これは病気の一種ではないか。見えるとはどういうことかという研究をしなければ見ることを楽しむことができない。人間はそういうものだ。どんな小さなことでも研究しなければわからない。
2026年5月15日 金曜日
柄谷行人は思考に偏り過ぎだ。気・意識・感覚を無視している。
イエスのやっていることは野口晴哉に似ている。思考より気・意識・感覚がたいせつだと言っているようだ。神は考えてもわからない。神の存在は感じるものだ。
仏教によればアメリカも中国も実際は存在していない。すべてAIが作った幻想だ。毎日幻想のニュースを見せられている。前の戦争も歴史もすべて幻想だ。地球も存在していないし人間も存在していない。仏経はそういう過激な思想だ。しかし仏教もそれ自体まぼろしだ。
年齢や名前が幻想だというのはわかりやすいが、物質的なものが幻想だというのはわかりにくい。
同じことを言っても人によって言い方が違うし使う言葉も違う。吉本隆明が「共同幻想」と言っているのを私なら「集団の思考」と言う。「対幻想」は「他人との関係」だ。個人、他人、集団で吉本隆明が集団を最も重視するのは、集団の思考が最もわかりにくいからだ。集団には思考がないのにどうして集団の考えができるのかわからない。
あらゆることを総合して考えていると感じられるのは吉本隆明だけかもしれない。私が知っている範囲では。
整体のような思考・意識の使い方はあまりやってこなかった。たぶん禅の修行とかも同じことをやっている。それは、まだ意識していないものを意識するということだ。特に肉体の部分だ。肉体にはまだ意識したことがない部分がたくさんある。剣状突起などもそうだ。練習すれば剣状突起も指を意識するように意識できるようになるはずだ。たいていはそんなばかばかしいことはしない。五個の腰椎を別々に意識できるかもしれない。空間を意識し空間のつながりを意識できれば宇宙の果てまで意識できるはずだ。自分の剣状突起を意識できるようになれば他人の剣状突起も意識できるかもしれない。この試みはそんなふうに広がっていく。
最近の若者はAIのようだ。特に男はそうだ。質問を入力しなければ反応しない。なにかの反応として行動するだけで自分だけで行動できない。シンギュラリティとは、AIが人間のようになるのではなく、人間がAIのようになることではないか。AIが人間のようになるより人間がAIになるほうが早いのはまちがいない。
変な人間ばかりだ。変な人間とどうつき合うか、それがこの世界の最大の問題かもしれない。
無知な人間とはなんなのか。本をまったく読まないことなのか。本を読まなくても無知でない人がいる。なにも知ろうとしない。なにも調べようとしない。疑問を持つことがないようだ。まさに、わからないということがわからないようなのだ。
ヘンリー・パーセルは今年最大の発見かもしれない。音楽は不思議なものだ。なんの足しにもならないのにすごい。ただ聴いてそれだけだ。そういう圧倒的に無意味な時間を過ごすことができる。最高に無意味なのに最高に意味がある。音楽はそういうものだ。
このあともデタラメが続く予定。誤字は自動的に訂正してください。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。