2026年9月20日 日曜日
争いや対立がないと人間は成長しない。思想もほかの思想と戦うことによって作られる。間違ったものがないとまともなものはできない。このことを追求していくと次のような公式が生まれる。〔異常なものが存在しなければ正常なものが存在できない〕
このことを様々に言い換えることができる。バカがいなければまともな人間が存在できない。狂った人間がいなければ誰も正常な人間になれない。悪人がいなければ善人は存在できない。イカレタ政治家がいなければ世界は発展しない。困ったものだ。
縄文時代が平和だったなんて言うのは嘘だと思う。
変な人から見たらこちらが変な人に見える。嫌いな人は必ず向こうもこちらが嫌いだ。どうしようもなくそうなっている。
井上陽水は歌謡曲だということがやっとわかった。歌詞はたいしたことを言っていない。私小説に近いかもしれない。感動的な曲を感動的に歌っているので感動してしまう。
すべての人間に共通することは産まれてしまったので生きているということだ。生きる理由はただ一つ、産まれてしまったからだ。「生まれてすみません」などと言うのはまだまだ未熟な思想だ。産まれなければそんなことも言えない。
駅で電車でバスでスーパーで近くにいる人を見ればわかることだ。あんな人がなぜ生きているのか。産まれてしまったからだ。それがただ一つの理由だ。しかもそれが最高度に完璧な理由だ。それ以上の生きる理由は存在しない。
ほかの人がやっていることで興味のあることがなにもない。読みたい本もなく、見たい作品もなく、話をききたい人もいない。ネットの世界に知りたいことがなにもない。自分は空っぽでなにもない。そう表明する作家も哲学者も思想家もいない。つまらない人間たち。空虚でなにもない人間たち。生きているのにすでに死後の世界にいる。
見えるものを見て歩く。なにを見てもそれについて知っていることしかわからない。見ることによって新しいことがわかることはあまりない。こんな所にこんなものがあるとわかるのは新しいことかもしれない。しかし、道路や建築物のことはぜんぜんわからない。資材の性質や名前はぜんぜんわからない。窓がどうやって作られるかわからない。
ほんのちょっとしたことを考えるのに何時間もかかる。なにもない時間が必要だ。なにもない時間が思考を熟成させる。なにもない時間(無)がなければ思考は作動しない。それに、家にいる間は絶えず体操をしている。肉体を動かさないと思考が眠ってしまう。
2026年9月21日 月曜日
よく「ほんとうにやりたいことが見つからない」などと言うが、少し冷静に考えてみれば、そんなものあるはずがないとわかる。そんなものがあると思うことが間違っている。やりたいことが見つかった人はそう思い込んでいるだけだ。そう思い込もうとしているだけだ。天職などと言ったりするのもそう思い込みたいからだ。異常なほどにそれに打ち込んだりするのも、そうしないと「やりたいこと」にならないからだ。つまり、ほんとうはそれが「ほんとうにやりたいこと」ではないからだ。それがうすうすわかっている。
だいたい「やりたいこと」が人によって違うということがおかしい。「ほんとうにやりたいこと」があるならみんな同じになるはずだ。「うまいもの」がみんなだいたい同じになるように。
「ほんとうにやりたいこと」とはもっと簡単なことなのだ。「食べたい」「やりたい」「眠りたい」「体を動かしたい」「屁がしたい」「風呂に入りたい」とかそういうことだ。そういう「やりたいこと」があるだけで充分ではないか。
「ほんとうにやりたいことを見つけたい」などと言いだしたのは最近のことにすぎない。明治にそういう考えは存在しなかった(と思う)。それなのに明治時代の時代設定の朝ドラでそういうことを言っているのは脚本家の未熟だ。しかもそのドラマにかかわる人が誰もそれを指摘できない。最近のドラマがつまらないのはそういうことが多すぎるからだ。「やりたいことが見つからない」などと言いだしたのはどうしていいかわからなくなったからだ。つまりそれだけ自由になったということではないか。なんだかんだ言っても人間はだんだん自由になってきた。自由になるとはどうしていいのかわからなくなるということでもある。
自分がやっていることは真実・真理の探究だ。この世界・宇宙・世の中・社会の構造・仕組み・公式・方程式を少しでも知りたいと思う。日々の生活以外にやっていることはほぼそれだけだ。しかし、それが「やりたいこと」なのではない。いつのまにかそういう所に追い込まれてしまっただけだ。真理の探求などは無意味だということが真理なのかもしれない。
次になにを考えるかは決まっていない。常にそうだ。次になにを考えるかはまったく予想できない。だからなにも考えていない時間がほとんどだ。考える順番などはない。だから、考える順番が出来ているような本はみんなインチキだと思う。軍隊の行列のように整然としている本。目次のある本。小見出しのある本。編集者が項目別に分類して編集した本。
道路にいろいろなものが落ちている。ゴミ、死体、肉体の一部、考えの破片、屁理屈の団子、糞、そういったものだ。それを拾って歩く夢をよく見る。背中に竹で作った籠を背負っている(しょっている)。それに拾ったものを入れる。どれを拾うか迷う。拾いたくないものがあるし、拾ってもまた捨てるものもある。どこかでそれを見ている人がいる。これはどういう夢なのかまだ解釈できない。
誰かが死ぬと様々なコメントや感想が寄せられる。それがみんな同じようなものばかりだ。五パターンくらいに分類できるかもしれない。共通するのはみんな死についてなにも考えていないということだ。死についてなにも考えていないということがすぐわかる。死について考えることをずっと避け続けているのだ。「死は確定事項なのでそれを受け入れて生きるしかない」程度のことも言えない。「明日からはあの人が存在しない世界になる」などと言ってみたいと思いませんか。「あの人はもうすでに完璧に消滅した」。どんな死に方でも、できるだけ完璧に消滅すべきなのだ。しかし、そんなこともできなくなっている。生き残った人がバカなことを言うのでちゃんと死ぬこともできない。
原理を知るということ。
世界の構造や仕組みを知るということには科学的な分析も含まれる。土の構造はどうなっているのか、土と植物の関係はどうなっているのか、そういうことはいくらでも分析できるできるはずだ。まだわからないこともたくさんあるだろう。しかし、いつかはもっとわかるようになる。科学的分析とはどういうものかわかれば、どういうことがわかるようになるかもわかる。どういうことがわかるようになるかがわかればもうわかったようなものではないか。科学的分析でわかることはこんなことに限られるとわかればもうわかったようなものではないか。
このことをどう説明していいのかわからない。人間にはみんな名前があるということがわかればすべての人の名前を知る必要がない、ということに似ている。科学的分析でわかることはこういうことだとわかれば全部わかる必要はない。パソコンがどういう原理で作られているかがわかれば細かいことをすべて知らなくてもいい。原理がわかれば細かいことをしらなくてもいい。細かいことがわからなければ新しい薬を作ったり新しい装置を作ったりはできないが。
このことをさらに追及すれば次のようなことを言うことになる。人間とはどういうものかがわかれば、すべての人間と知り合いになったようなものではないか。
涙袋ブームというのがあるらしい。そんなことはまったく知らなかった。涙袋を作ったりメークで線を描いて涙袋らしく見せるのが流行っているらしい。大きすぎるのは逆に小さくするらしい。涙袋があるのとないのとではなにが違うのかわからない。涙袋があるとカワイク見えたり美人に見えたりするのだろうか。ないほうがすっきりしていいのではないか。
AIにきいてみると、どちらがいいということはないようだ。どう見せたいかで使い分けるのがいいようだ。あるとやわらかく親しみやすく見えるようだし、ないとすっきりしてシャープに見えるようだ。
しかし、流行っているということは作る人が多いということだろう。やわらかく親しみやすく見える方を選択しているということだ。
2026年09月22日 火曜日
思考にも日付がある。しかし、時刻まではない。
思考にも出来事という面がある。「いつどこでなにを食べた」ということと同じように「いつどこでなにを考えた」ということができる。しかし、思考は出来事とは違うもののように思われている。出来事ではなく作品のように思われている。作られたもののように思われている。物を作るといつでも身に着けていることができるように、思考も作られるといつでも身に着けていることができる。しかし、物はいつまでも存在し続けるが、思考はすぐ消えてしまう。
思考が消えるように出来事の記憶もやがて消える。
いろいろなレベルの出来事が混ざって混乱している。
思考。
単なる出来事。
作った物が残る出来事。
ほかにも記述される思考と記述されない思考の違いがある。
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考えるということは自分で考えないとどうしようもない。自分で考えないと考えたことにならない。自分で考えたことにしか自分を変える力はない。他人の考えはほとんどなんの効力もない。私の考えもほかの人にはほぼ無意味だ。そして、ネットなどの世界に存在するのはすべて他人の考えだ。ネットなどでいくら発言してもほかの人にとっては他人の考えが増えているだけだ。発言する人はそういうことをわかって発言したほうがいい。発言した内容はすぐ消滅して発言したという出来事が残るだけだ。「あの人なにか言っていたね」
ずっと美人問題というものを考えているがよくわからない問題だ。まず、問題の中心がどこにあるのかわからない。なにが問題なのかわからないということだ。
美人のほとんどは見た目だけ美人だ。(美男もそうだ。)スタイルだけ美人や後ろ姿だけ美人や服だけ美人もいる。遠くから見ても美人というのもいる。しかし、ぐるっと回って結局は顔に戻ってくる。美人とは結局顔が美人ということだ。そしてそのほとんどは若さでしかない。でもただ美人というだけで引かれてしまう。それはどうしようもないことではないだろうか。ほとんど本能のようなものだ。夕焼けや富士山に目が引きつけられるのと同じではないか。
しかし、人間的に魅力がある美人はほとんどいない。それを「感じがいい」と言っている。それは個人的なものであって、ほかの人にはわからないことかもしれない。そういう人間的な魅力も簡単にわかることではないのだから、たいていはもしかしたらそういう人かもしれないというだけだ。そういう人がほとんどいないということはテレビに出てくる美人に感じのいい人がまったくいないということでわかる。芸能人は顔以外の部分でどんどんマイナスになってしまう。芦田愛菜がCMでマイナスになるとかだ。
美人でないのに感じのいい人がいる。感じがいいかどうかは美人かどうかに関係ないことだ。感じがよくて美人ならさらに美人に感じられるというだけだ。逆に感じのよくない美人はだんだん美人に感じられなくなる。
世間では美人美人と騒いでいるのにこういう問題を本格的に追求したものはないようだ。ネットのトップ画面の三分の一は「こういう美人がいた」という話題だ。美人で客引きは資本主義経済では当然のことだ。美人のついて論じたものはみんな同じようなものだ。「美人は得か」という問題、「どうやって美人になるか」という問題、「どういう顔が美人か」という問題が美人三大問題だ。
確かに、どんな顔が美しいかはそうとうむずかしい問題だ。時代によっても違うし、地域によっても違うし、見る人によっても違う。参考になるのは時々いる変わった顔の美人だ。変な顔なのにぎりぎり美人なのはなぜなのか。見上愛とか木村多江とかだ。私はあのちゃんなどはまったく美人に感じられない。また年齢による変化も参考になる。どの時点で美人でなくなるかだ。左右対称とか、全体のバランスとか、肌の輝きとか、様々な要素が関係しているのは間違いない。その全貌は誰にもわからない。誰が見ても美人に見える顔もある。
写真は美人部分だけを切り取ることができる。だから写真だけ美人も存在する。
最初は顔でもだんだん顔以外の要素が大きくなる。電車で観察しているだけでどういう人間なのかわかってくる。一緒に生活すると顔などほとんど関係なくなってくる。
やはりなにが問題なのかわからなくなってきた。美人問題はむずかしい。
ひきこもりの原因とは思想がない・思想が未熟ということに尽きるのではないか。彼らはなぜ基本的なことを考えようとしないのか。哲学的とか言われるようなことだ。そういう思考の世界があるということ自体がわからないのだと思う。そういう世界に触れずに生きることができる社会なのだ。そういう思考を触発するものが学校にもない。家庭にもない。メディアにもない。もっと簡単なことかもしれない。本を読まない人間がひきこもりになる。世間の価値観・世間の思想そのままの人だ。
しかし私も、仕事をせずにずっと家にいたらなにも思考できなくなるにちがいないと思う。生活があまりに単調だと思考は眠ってしまうのだ。
生きることになんの意味もないということがわかるだけでひきこもりなど簡単になおってしまうのではないかと思う。人間はみんな無意味なことをやっているだけだ。人間だけが無意味なのではない。宇宙の存在そのものが無意味なのだ。
ひきこもりの裏返しが政治家ではないか。どこか似たところがある。政治家は政治にひきこもっている。
基本的で根源的なことを語る政治家というものを見たことがない。不思議なことだ。政治家はこういうことだけを問題にしていればいいという前提が最初からあるようだ。政治家は生きる意味などを論じてはならないことになっているようだ。国会で死について考えたりしない。いつのまにかそういうことになっている。
土と人間の腸は似ている。腸は土のようなものだし。土は腸のようなものだ。