1025~1031

saginuma23

2026‎年‎10‎月‎25‎日 ‎日曜日

 変えることができるものと変えることができないもの。

 自分を変えるなどというが、変えることができるものと変えることができないものがある。自分について考えているようですべての人間について考えている。また、自分を変えることができるなら同じ方法で他人を変えることもできるはずだ。

 変えることができるものと変えることができないものの間に様々な種類がある。簡単に変わるものとか、なかなか変えられないものとか、絶対に変えられないものとか、かってに変わってしまうものとかだ。

 簡単に分類すれば、行動は変えられるが状態は変えられない、ということになる。思考は行動に含まれる。行動によって変えることができるものも変えられることになる。状態とは肉体の状態ということだ。見える物を変えることはできるが「見えるということ」そのものは変えることができない。「見えるということ」そのものが状態で、見える物は行動で変えることができる。自動車だとすると自動車はどこへでも移動できるが自動車そのものは変わっていない。自動車の移動が行動で自動車そのものが状態ということになる。

 肉体の状態といっても実に様々だ。形状、体調、病気、気分、感情、感覚などだ。そこにも変えることができるものと変えることができないものがあり、なかなか変えられないものやわりと簡単に変えることができるものがある。食べ物や薬や体操でなんとか変えることができるものもあり、かってに変わってしまうものもある。身長は変えることができないが体重は調節できる。髪の毛はかってに伸びてしまうが思考で行動を変えて髪の長さを変えることができる。色を変えることもできる。

 薬を飲むとか体操をするとかは行動であり、その行動によって体調や気分といった状態を変えようとする。(だんだんわけがわからなくなってきた。)


 人間それ自体はほとんど変わらない。20年振りに会った人もほとんど変わっていない。全体的な感じや雰囲気とかたたずまいのようなものがまったく変わっていない。人間がほとんど変わらないのは大部分が変わらないもので作られているからだ。考えや思想は変えることができるものなのに、それもあまり変わらない。考えや思想は変えることができるものなのに変えるのはむずかしいようだ。変わらないものこそ自分の本体だと思っているからかもしれない。考えや思想が変わらなければ行動も変わらない。行動を変えても自分は変わらない。たぶんほとんどの人は自分を変えようなどと思っていない。(ますますわけがわからなくなってきた。)

 自分を変えようと思わないことがほんとうの保守主義と言えるかもしれない。自分を変えようとしない人がほかのなにかを変えることなどできないはずだ。



 水は汚れを洗い流すものであると同時に汚れを引き寄せるものでもある。



 人間は自然のままでは子供を作ったりしなくなった。そこで子供を作らせる仕掛けが必要になった。その仕掛けとは所有・相続・愛だ。所有とはなによりも子供を作らせる仕掛けなのだ。所有というものがなければ子供を作る必要などない。そして相続というものがなければ所有が強固なものにならない。さらに愛という幻想を作ってそれを性と合体させなければならない。

 人間は自然な生殖欲というものが破壊され、単なる性欲だけになった。単なる性欲とは溜まったものを放出したいという欲望であり、小便や大便の放出欲と同じようなものだ。それを放出できればいいのであって性交などは必要がない。それが人間の自然になった。その性欲を生殖に結びつけるために所有・相続・愛という仕掛けが作られた。



 イメージとはなにか。イメージにするとよくわかることがある。

 一億人の人間とはどのくらいなのか。そんなことは誰にもわからない。でも、あるイメージにするとわかるようになる。甲子園に五万人の観客が集まる。甲子園が百個あればもう五百万人だ。甲子園百個が十個あれば五千万人になる。一億人とは甲子園百個が二十個あるだけなのだ。このイメージによって一億人とはどのくらいなのかわかるはずだ。一億人とはたったそれだけなのだ。甲子園百個が二十個あるだけだ。日本の人口は甲子園百個が二十四個。甲子園百個が二千個あれば百億人になる。


‎2026‎年‎10‎月‎26‎日 ‎月曜日

 夢では他人は影が薄い。ほとんどの他人は異物のように描かれる。現実の他人ではなく自分が作っている他人だからだろう。夢では自分だけが現実の存在だ。



 年末調整について考えている。年末調整はどうしてこんなに面倒なことになっているのか。

 政治について考えている。政治はちっぽけなことにすぎないのではないか。政治は一面記事、政治は重要なことだという思い込みがある。それこそ思い込みにすぎない。政治について語れば大きなことを語っていると思っている。

 美人も自分と同じように重苦しい肉体を抱えて生きている。むしろ女のほうがどろどろしているのではないか。

 家々の不思議について考えている。みんな家にいるらしいのが不思議だ。家などが存在するのが不思議だ。そんな家がどこまでも並んでいるのが不思議だ。ほんとうは墓なのではないか。

 いつも同じ自分なのか。別の人間になっても気がつかないだけではないか。

 いろいろなことを考えている。どこにも結論はない。

 人々はくだらない考えに動かされるようになった。ゴミのような考えがたくさん漂っているのでまずゴミが引っ掛かる。


‎2026‎年‎10‎月‎27‎日 ‎火曜日

 思考能力の劣る人がいる。顔に締まりがなく緊張感がないのですぐわかる。思考能力が劣るのはどうしようもないことのようだ。それにも様々な度合がある。世間の一般常識を覚えるのが精一杯の人もいる。そのために世間の一般常識が存在するのかもしれない。最低限の生活規則を覚えるのが精一杯の人もいる。そのために教育が存在するのかもしれない。テレビなどは最低限の生活規則を教育するための装置かもしれない。こんなことをしたら警察に捕まるということをメインにしているからだ。教育・情報が思考能力が劣った人向けのものばかりになった。問題は、そのために、思考能力が普通の人まで自分で考えないようになってしまうことだ。思考能力が劣っている人のためにすることが思考能力のある人の思考を停止させてしまう。そして世間の一般常識だけの人が大量発生する。



 生まれてこのかた一冊も本を読んだことがないと威張っている人がいる。確かにテレビとネットがあればたいていのことはわかる。本の断片を読むこともできる。本を読まなければわからないのはむしろもっと簡単で基本的なことではないか。考えと考えがどんなふうにつながり合っているかということも本を読まないとわからないのではないか。

 本を読まない人は文章を書いたりもしないのか。一冊も本を読んだことがない人が書いた本を読んでみたい。



 『土と生命の42億年史』生物を作るための原子が地球上に偶然そろったので生物が生まれたという言い方をするが、そこにある原子を利用して生物が作られただけではないかと思う。また、「生命」という言葉は使わないほうがいいと思う。「生物」でいいはずだ。「生命」という言い方をすると、生命エキスのようなものがどこからか吹き込まれたように錯覚するし、生物と物質(無生物)がまったく違うものような印象になる。無生物と生物は連続していて、その中間段階もたくさん存在していると思う。「粘土が遺伝子のような役割を果たしたという説もある」と言っているように。



 空を見ることが冥福を祈っていることになる。

 祈りとか、黙禱とか、死者を悼むとか、そういうことは無意識にやっているのではないか。実際にやれと言われてもどうすればやったことになるのかわからない。なんかの式典で「黙禱!」などと言われてもどうしていいのかわからない。他の人がどうしているのかもわからない。帰りの電車のことなどを考えているに違いない。

 政治家が靖国神社に参拝するとか言っているがいったいなにをやっているのか。正しい方法はたった一つしかない。自分もすぐそちらに行きます。とか。



習慣や癖は人間にとってとても重要なものだ。人間の行動の90%は習慣や癖だからだ。(習慣と癖の違いについてはここでは考えない。一つにまとめて習慣ということにする。)

 人間にはたくさんの習慣がある。人間は習慣を作らないと生きていくことができない。習慣には間違った習慣もたくさんある。体によくないものを食べているとかだ。人間は間違った習慣を延々と繰り返す。間違っているとわかっていてもやってしまうのが習慣だが、間違っているとわからない習慣もたくさんある。

 動物は本能で生きているので習慣というものがほとんどない。少しはあるかもしれない。習慣を作って生きるのが人間の特徴だ。人間は習慣を作らなければ生きることができない。


‎2026‎年‎10‎月‎28‎日 ‎水曜日

 時間について考えた。

 何年前とか紀元前何年とか6500万年前とか42億年前とか過去を数字で考えるのは、ようするに過去にも現在があったと考えている。いまと同じ現在がずっとつながっていまの現在があると考えている。それに対して疑問を感じている。ずっと疑問を感じていたということがわかった。人間の歴史ならそれでもいいかもしれない。しかし、人間が存在しない過去に現在など存在したのだろうか。という疑問だ。過去に現在はあったのか。現在を失ったのが過去ではないか。

 仮説。過去は時間が経過するに従いだんだん現在を失っていく。百年くらいで過去は現在を失って、すべての過去は一枚の平面に属するようになる。単なる過去という一枚の平面だ。そして過去に起こったことはすべて同じ過去に起こったことになる。平安時代も縄文時代も先カンブリア時代もみんな単なる同じ過去になる。この過去とはなにか。死後の世界だ。過去の出来事はすべて死後の世界に移行する。マンモスは死後の世界に存在している。すでに死んだ人間がみんな死後の世界に存在しているのと同じだ。


 学者が5億年とか42億年とか言うのはわかりやすく説明するための方法にすぎず、時間のことを考えているのではない。



 習慣と癖の違い。行動の大きさが違う。習慣は行動だが癖はちょっとした動作のようなものだ。また、癖のほうが無意識の分量が多い。厳密な違いではない。


‎2026‎年‎10‎月‎29‎日 ‎木曜日

 音楽の目的は音楽以外のことをどうでもいいことにすることだ。音楽以外のことをどうでもいいことにしなければ音楽を聴くことはできないのだから。ほかの意識を消去しなければ音楽に集中できない。



 女性の価値が美人・カワイイしかなくなったのはほかがみんな同じようになってしまったからだ。そのように、ほかがみんな同じようになったために浮上する価値がある。平等になると陳腐な価値が浮上する。しかし、男にそんなものはない。男が平等になるとみんな平等に陳腐になるだけ。



 調子のいい日とよくない日が一日ごとに変わる。

 休みの日の過ごし方に失敗する。自由な時間が長すぎるせいだ。自由な時間が多すぎるとかえってなにもできなくなる。余計なことをやってしまい、余計なことをやってしまうと余計なことが全時間を支配するようになるからだ。余計なことから抜け出すことができなくなる。余計なことの思考・意識に支配されてしまうからだ。


‎2026‎年‎10‎月‎30‎日

 『国宝』吉田修一

 ヤクザ界、歌舞伎界という伝統芸能を扱っているが、典型的な通俗小説だ。通俗小説とは思考・意識のパターンと表現のパターンが決まっているということだ。母親が死んだ時にはAかBかCのどれかを考えると決まっているのでどれかを選ぶだけでいい。



 少し前に「みんなが平等になるとすべてが陳腐になる」といったことを考えたが、そういう現象の一つは、すべてが単なる職業の一つになってしまうということだ。芸能もスポーツも単なる職業の一つになってしまう。僧侶も神父も暴力団も単なる職業の一つになってしまう。政治家も単なる職業の一つになってしまう。そしてすべてがパート・アルバイトのようになる。市長も大臣も総理もパート・アルバイトだ。われわれは選挙でパート・アルバイトを選んでいる。



 消費税8%10%などと言っているが実質的な税率はもっと多いにちがいない。暗黙のうちに取られている税金のようなものもあるからだ。企業の社長が払う税金が商品の値段に含まれているかもしれない。

 酒の酒税にはさらに消費税が取られている。税金に税金がかかるのだ。そんなことが許されるなら所得税にも消費税を追加できるし、消費税の消費税を取ることもできる。その消費税にもまた消費税が取られるようになる。


 こうだと教えられることと実際に起こっていることは違うということだ。


 どこかでこんな記録が生まれたと大騒ぎしているが、記録などいくらでも作ることができる。誰でも日本記録や世界記録を百ぐらい持っている。一日に放出した屁の70%が音無しだったのは世界新記録だとかだ。ギネスのようにどんなことでも記録にしようと思えばできる。



 禅などはなにも意識しないことを練習している。なにも意識しないことによって意識できることがある。なにも意識しないということは宇宙全体を意識していることになるのかもしれない。なにかを意識するということはその対象にも影響を与えているのかもしれない。



 知能が弱い人間をどうするかは大きな問題なのに、その問題がなんとなく隠蔽されている。自分で考える能力のない人が実際に存在する。その度合いも様々でそれを分類することは不可能だ。どちらなのかわからない人も多い。・・・・・・ 

 人間をすべて同じ人間として扱うのは不可能ではないか。無知には要介護無知もあるし野放しになっている無知もある。人間は知能の度合いによって大きく変わる。それらをみんな同じ人間として扱うのは不可能ではないか。

‎2026‎年‎10‎月‎31‎日 ‎土曜日

 上記の問題を夜じゅう断続的に考えていた。これはけっこう大きな問題なのかもしれない。中途半端な知性が一番よくないようだ。境界領域とか言っているらしい。中途半端な知性とは、考えることはできるのだがまともに考えることができない知性だ。そういう人は必ず考えることに失敗する。そして変なやつ、嫌なやつ、狂った人、バカなやつになる。そういう人が一番腹が立つし、嫌になる。むしろぜんぜん知性がないほうがましだ。しかもそういう境界領域が拡大しているような気がする。

 そういう人に対してどう対するかが問題なのだ。そのことをずっと考えていたようだ、何年も。なんとなくわかってきたことは、同じ人間だと思うから腹が立ったり嫌になったりするということだ。同じ人間だと思わなければいい。別の種だと思えばいい。カラスやクマに腹を立てても仕方がない。別の種なのだから、別の種として接するしかない。「B人間」といった名前を付けたいが名前は付けないほうがいい。差別に転化する怖れがあるからだ。付けるなら「皇帝人間族」とか「大臣様」とかのほうがいい。あの人たちはみんな自分が一番偉いと思っているのだから。

(まだ結論ではない。この記述はすべてそうだが。)



 この辺の中学生はどこの中学に通っているのか。近くに中学校など見たことがない。などということが気になりだす。

 どうでもいいことでもわからないことがあると気になる。そして調べたりする。人間にとって〈わからない〉とはたいへんなことなのだ。とても不安定な状態だ。調べてわかると安心してもうすべて忘れてもいい。しかし、わからないという状態にも到達しない人がいるらしい。わからないということがわかるだけでもそうとうなことなのだ。いろいろなことがわかっていないとわからないということも発生しない。

 また、適当な答えでもわかったことにして一件落着にする。

 わからないままになっているわからないこともたくさんある。それらはたぶんわからない状態で固定してしまっている。わからないことをわからないままにしておくとわからない状態で固定してしまう。

1020~1024

saginuma23

‎2026‎年‎10‎月‎20‎日 ‎火曜日

 変な夢を見る。あまりにも変なのでとても説明できない。恐怖とか怪奇ではない。変な夢が三つくらい重なっていて、交互に進行する。その一つではなにかを作っている。音楽が生物になったようなものだ。その音楽生物を五体くらい培養しているらしい。もう一つの夢では道路を車で進もうとしているようだ。前の方に緑の布で出来た車が走っている。その布のあちこちが破れている。その破れを直すとスピードが出過ぎるからよくない。



 政治家がよく使う「できるところからやる」とはどういうことなのか。「できるだけ早くやる」ということではなく「できないところばかり」ということだ。50年くらい経ってから「できるところからやろうと思いましたができないところばかりでした」と言うことになる。でももう死んでいる。


 「中国がやっている」と言わずに「中国製のAIが使われている」と言う。この言い回しもよく使われる。



 ふっと気がつく。自分はだんだんなにも考えなくなっている。なにも考えていない時間が多い。ただそこにいて見える物を見てなにかをしているだけだ。ほとんどなにも考えていない。考えようとはしているが考えることがない。考えることによってだんだんなにも考えなくなったのだ。考えるということは考えを消滅させることかもしれない。考えたことはもう考えなくてもいいという感じだ。

 ここに記述することも、なにも記述することがないのでちょっとした思いつきを記述しているだけだ。



 近所のことはなにかと気になるものだ。自分がそうなのはわかるが、他人もそうだということがなかなか理解できない。たとえば近所の会社や商店が気になる。近所の会社のことが会社の人より気になるのかもしれない。あの人はいつも怠けている。あの人はいつも一番最初に帰る。ということもわかってくる。とりわけ暇な老人は窓から近所を偵察している。



 まともに歩けない老人が多い。どうしてそんなことになるのか。やはり生き方に失敗したのだと思う。まさかこうなると思わなかったと思った時にはもう遅い。体操や運動や歩行を怠ってきたのだ。ちょっとはやってみてもすぐやめてしまう。時間を決めて体操や運動をするのは意外にむずかしい。自分も体操を途中でやめてしまうことが多い。途中で別のやることを思いつくとすぐそっちをやってしまうからだ。そういう施設に行くとか集団でなにかをするとか、そういう強制がないとなかなかむずかしい。



 通勤途中で「またあの人だ」と認知できる人が百人くらいになったようだ。もっと多いかもしれない。それも人間関係の一種かもしれない。時計のように正確に移動する人もいる。前から来る人にいつもより早く出会うと自分が遅れているとわかる。五分遅くなると見たことがない人ばかりになる。

 

 ほんとうにどうでもいいことばかり記述している。

 自分はもうこのまま変わらないだろうと思う。いまと同じ状態のままで死ぬはずだ。自分が死ぬ場面は何度も考えたがいまと同じなのは間違いない。自分が死ぬ場面もよく考えるが、世界は終わる場面もよく考える。地面が裏返しになる。光る巨大な物が落ちてくる。空が地球を吸い込んでいく。地球の消滅など個人の死と同じ程度のことにすぎない。

 人類の滅亡などたいしたことではないということくらいはわかったほうがいい。



 自分を変える人がいない。いつ会っても同じ人のまま。そんな自分が嫌にならないのか。



 子供は子供で集まっている。老人は老人で集まっている。鹿や縞馬が同じ種で集まっているのに似ている。そこでふと気がついた。子供と老人は別の生物なのだ。人間は成長するに従い別の生物に変わっていく。まず幼児という生物になり、小中学生という生物に変わり、若者という生物に変わり、大人という生物に変わり、老人という生物に変わる。それぞれが別の生物なので別の原理で生きている。(白昼夢のような思考だ。)



 五日間なにも買っていない。一円も使っていない。PASMOを三回使っただけだ。こうゆうことは珍しいことなのではないか。


 人間にとって「買う」という行動はどういうものなのか。社会に参加しているという感じなのか。子供にとっては大人の行動をしているという感じかもしれない。・・・こういう簡単なことがわからない。

 なにかすごいことをやっているという感じかもしれない。自分も社会の一員になっているという。普通の人はこんな面倒なことは考えないというのが正解のようだ。

 しかし、刑務所から出て最初に買い物をするときはどんな気持ちなのか。「買う」とはなによりも人間が人間と関係することだ。最も簡単な人間と人間の関係かもしれない。


‎2026‎年‎10‎月‎21‎日 ‎水曜日

 また変な夢を見た。とても説明できないし、あまりよく覚えていない。背後に存在する心理は呆然とした静かな絶望だ。最後が近づいているような気がする。どうでもいいつまらないことを考えながら死ぬにちがいない。「クズが電柱の上まで登っている」とかだ。



 昭和の作家でどういう人かなんとなくわかっているが名前が出てこない。そういう場合どうやって調べるか。その人に関係のありそうなことを検索して調べる。戦前の文学論争にも関係があるが、その文学論争の名前も出てこない。戦前の文学論争、京都学派などを検索すると「近代の超克」という言葉に行き当たった。そこからすぐ「保田與十郎」が出てきた。

 そんなくだらないことも考え始めると考えてしまう。服がなにかに引っ掛かるように思考がなにかに引っ掛かってしまう。



 橋爪大三郎はわかり切ったことを言っているだけだ。私にとってはわかり切ったことということだ。もう考え終わったことばかりだ。いまごろまだそんなことを考えているのか。そんな感じがする。私もずいぶん遠くまで来たもんだ。そんなわかり切ったことを新しい発見であるかのように語るのが悲しい。たぶん未熟な人に向けて発言しているのだろうが、そんなことは無駄だとわからないのが悲しい。過去に考えたことは捨てて新しい探求に進むべきだ。たぶんもう自分の思想の発展は終わったのだ。



 スマホを見ている時と見ていない時の落差が激しい。スマホから離れるとなにもなくなってしまう。そういう人が多いに違いないが、自分がそうだと意識している人はあまりいない。



 美人の芸能人もどういう人間なのかわかってくるとぜんぜん魅力を感じなくなる。そうして好きな芸能人が一人もいなくなる。芸能人だけではなくどんな世界でもそうだ。男でもそうだ。感じがいいと思う人が一人もいない。知れば知るほど嫌になる。魅力的な小学生とか魅力的な中学生とかもいない。

 人間の半分は狂っている。狂っていない人のほとんどは変な人だ。



 賃貸の家賃は宿泊費と言ってもいいかもしれない。毎日この宿に泊まっているようなものだ。常に旅の途中なのだ。



 イネ科の草で綿毛のようなものが出来るのはメルケンカルカヤだけらしい。今年は異常なほど草が伸びたので別の草だと思ってしまった。



 仕事をしていると実にいろいろなことが起こる。実にいろいろな人と関係する。ほかの人がなにを考えているか読まなければならない場面が多発する。バスの運転手の思考も読まなければならない。



 どの世界でも自分の判断で行動できる人がいなくなっている。それじゃどうやって行動しているのか。規則に従がうか上司の命令に従うかだ。上司も同じように行動する。女のほうがその傾向が強い。女は規則は正しいものだと思っている。規則がどうやって作られたかわからない。


‎2026‎年‎10‎月‎22‎日 ‎木曜日

 このところ小説を続け様に読んでいるが、小説が根本的に間違っているのは物事が連続して起こっているところだ。小説を読むと物事が途切れることなく連続して起こっていると錯覚する。現実にそんなことはないのだから、小説は現実を捉えていないということだ。やはり小説はもう終わった文学形式だと思う。いままでは小説でもなんとかなったが、もういまの現実には対応できない。

 現実は十個くらいの小説をばらばらにして適当に配置したようなものだ。そこには小説の破片が三つくらい重なったようなものもある。思考などもばらばらな思考が時々ふいに起こるだけで、一つの思考はこの記述のように五行くらいしか続かない。



 感じのいい人とはどういう人間なのか。自分にとって感じのいい人は自分と同じようなタイプの人間かもしれない。しかし、必ずしもそうだとは言えない。自分が嫌いな人は自分と同じタイプの人間を嫌うに違いないからだ。だからたぶん、感じのいい人は自分が嫌いな人ではない。「感じのいい人」と言うのはほかにもっといい別の言い方が見つからないからだ。別の言い方をすると「友達になりない」とか「知り合いになりたい」ということになるのかもしれないが、それも少し変だ。知り合いになっても話が合わないということが多いからだ。だから、思想的にも似たところがなければならないはずだ。そしてそんな人はどこにもいないということは確実だ。人間にはほかにも様々な要素がある。人生に対する態度とか、感情の持ち方とか、世界との向き合い方とか、美的感覚とか、他人への対し方とかだ。

 感じのいい人よりむしろ感じの悪い人のほうがわかりやすい。感じの悪い人は一瞬でわかる。いろいろなことでそれがわかる。表情、動作、歩き方、態度、行動、服装、持ち物などで一瞬でわかる。だから、感じの悪い所が少ない人が感じのいい人ということになるようだ。

 自然さというものが必要かもしれない。しかし、自然さとは生物的ということかもしれない。動物は自然体なことが多い。無理をしていない。余計な動きがない。



 賃貸だと庭に柿の木を植えて柿を実らせたりしない。庭に果樹が実っている家は賃貸ではないということになる。

 少し前に賃貸は宿泊所にすぎないと考えたが、持ち家でも自由自足していないなら仮の宿にすぎないのではないか。自給自足することによってはじめて「住む」ということが成り立つのではないか。その土地だけで生きられなければ「住んでいる」とは言えない。われわれは「住む」という言葉の使い方も間違ってしまった。「住む」という言葉がひどくちんけな言葉になってしまった。

 家という家がすべてちっぽけなものに見えたのでこんなことを考えたようだ。みんな模型のようなもの、作るのに失敗した洞窟、隠れ家、一時的避難所だ。マンションは刑務所だ。



 ガザの住民はどうして生きることができるのか。ほとんどを救援物資で生きているのか。食糧などはほぼすべてが救援物資ではないか。いまの世界は救援物資で生きることができる世界なのだ。これはちょっとすごいことではないか。これはいったいどういうことなのか、・・・・・・その次の思考が作動しない。

 働かなくても生きることができるのに働いているということか。働いている人はみんな働かなくてもいいのに働いているということか。つまり、なんだか中途半端に生きているということだ。働かないと死んでしまう世界が正しい世界かもしれない。

 いま読んでいる『マイケルK』の影響を受けているようだ。



 知らなかったことを知るということはそれだけで快感だ。どんなことでもそうだ。人間は食べ物を食べるように知らなかったことを食べる。新しい知識・情報を食べなければ生きることができない。


‎2026‎年‎10‎月‎23‎日 ‎金曜日

 また変な夢を見た。思い出すのはやめる。忘れていいのが夢だ。



 わからないという不安・不安定。

 思い出せない名前や言葉がある。その反対に意味のわからない名前や言葉がある。どちらもなんだか不安になる。UFOとか幽霊のようなものに似ている。「せっつなかの」とはなにか摂津に「なかの」というところがあるのか。「摂津」とはどこだったか。「フェルト」とはなにか。布とは別のことを言っているようだ。布のフェルトとは別の意味もあるようだ。こうして思考が落ち着かなくなり不安になる。わからないということは不安なことだ。ひどく不安定な状態だになっている。


 ダブルバインドの根底にあるのは「わからない」ということではないか。精神的な病気の根底にあるのは「わからない」ということだ。精神的な混乱や不安定の原因はみんな「わからない」ということではないか。学者はそういう簡単なことを言わずにむずかしいことを言う。むずかしいことを言うのでますますわからなくなる。

 PTSDなども、考えることを拒絶しわからないことをわからないままにしておくからではないか。



 テレビやネットの問題はくだらない情報やどうでもいい情報でも「それについて考えてしまう」ということだ。この俳優の母は誰だったかとか考えてしまうのだ。それを考えるということはほかのことを考えなくなるということだ。



 思考が停滞している。同じものを何度も見るとだんだんそれについて考えなくなる。



 ボケ老人が増えたのはボケても生きられる社会になったからだ。という言い方は様々に応用できる。バカでも生きられる社会になったからバカが増えた。病気でも生きられる社会になった。狂っても生きられる社会になった。働かなくても生きられる社会になった。

 これこれこれだけできれば生きられる社会になった。われわれはよってたかってそういう社会を作った。


‎2026‎年‎10‎月‎24‎日 ‎土曜日

 他人の思考も自分の思考と同じように作用する。これは思想的な思考ではなく実用的な思考に限定される。実用的な思考では自分の思考と他人の思考の区別があまりない。他人に代わりに考えてもらうことができる。他人の思考で行動することができる。思想的な思考と実用的な思考といってもそれを明確に区別できないのだから、そういう次元の思考があると言ったほうがいいようだ。自分の思考と他人の思考の区別がない次元の思考があるということだ。その次元ではもうどっちが考えているのかわからない。他人の思考が自分の思考を考えている。



 スポーツ選手は偶然あるスポーツを選んだだけだ。虫が好きな人は偶然虫を選んだだけだ。さかなクンは偶然魚を選んだだけだ。選んだわけでもない。割り当てられただけだ。みんなそうやって偶然を生きているだけだ。必然なものを見つけようとしても見つからない。なにも見つからないのが必然だ。必然的なものを見つけようとしてなにも見つからないままここまでやってきた、いまここだ。なんの専門家にもならず、特別好きなものもなく、興味を限定せず、生きたいところもなく、暗闇で指が触った本を読む。必然的なものを見つけようとするとすべてが偶然だとわかる。



 映画の感想がみんなほとんど同じ。テレビのインタビューの答えのパターンが決まっている。試験の解答のようなコメント。


 スポーツなどは完全に幻想だ。幻想を生きている人間ばかりになった。

1016~1019

saginuma23

‎2026‎年‎10‎月‎16‎日 ‎金曜日

 ようするに大多数の人間がこういう社会を望んでいるからこういう社会になる。無知なのも、なにも考えないのも、こういう社会を望んでいるということだ。いくら変革しても結局はそういう社会になる。

 社会を変えたいというのはほかの人のためになにかをしたいということだ。自分は社会に関係なく一人でやっていくしかないからだ。しかし一方には「こんな社会なのでこんな人間になってしまっている」という人もいる。社会を変えなければそういう人を変えることはできない。しかし、他人を変えることは誰にもできない。

 (この思考は間違っているようだ。)



 人間は簡単なことに失敗する。食事や飲酒に失敗することも多いが、睡眠に失敗することはもっと多い。睡眠に失敗してどうなっているのかはよくわからない。夢の影響もある。見た夢で気分が落ち込んでいるのかもしれない。頭が働かないのは睡眠に失敗したせいかもしれない。



 自然物を見るのと人工物を見るのとではなにかが違う。ただ見るだけでなにかが違うのだ。それが家の中と外の大きな違いを作り出している。人工物には人間の思考が濃密すぎるのか。



 一日が過ぎた。労働にほぼ12時間使っている。準備や通勤や後始末も入れてだ。新しいことをなにも考えなかった。というより、考えるようなことはなにも起こらなかった。なにも考えていないのが普通の状態なのだ。ただそこにいて、なにかをやっていて、なにかを感じている。というのが一日の大部分だ。見えるものを見て、感じられることを感じている。仕事でやらなければならないことをなんとなくやっている。会社の仕事中でも仕事がすべてになっているわけではない。むしろできるだけ仕事の分量を少なくしようとしている。仕事と関係ないことを考えようとしている。仕事とは関係ない自分を優先している。


 学校に行けば勉強をおもにやっている。会社に行けば仕事をおもにやっている。そう思うのは錯覚だ。そう思うように仕向けられているだけだ。会社にいても会社の仕事をしているのは自分の5%くらいだ。会社では仕事だけをばりばりやっているとイメージがあるが、それこそイメージにすぎない。そんなふうに実際とは違うイメージを植え付けられていることがたくさんある。

 電車に乗っていても電車に乗っているのは自分の20%くらいにすぎない。でも自分の100%が電車に乗っていると思っている。そう思い込まされているのだ。そう思うのが世間の一般常識になっているだけだ。



 本を出すなどということは下品なことだ。恥ずかしいことだ。そんなことができるのは余程ずうずうしい人間だ。



 地球上の一地点にいれば地球上の全地点を理解できる。



 いま見ている雲と同じ形の雲は二度とできない。葉の一つ一つは全部形が違う。一兆の一兆倍あっても一つ一つみんな違う。人間の細胞も一つ一つみんな違う。



 有名人は自分で自分を有名人にするのではない。有名人はほかの人間がその人を有名人に仕立てるのだ。有名人を作りだして金儲けしようとする人がいるだけなのだ。有名人はみんなそういう人の金儲けのために作られているだけなのだ。



 あらゆることがわかってくるとあらゆることがデタラメだとわかってくる。


‎2026‎年‎10‎月‎17‎日 ‎土曜日

 水は物を洗うのに使われるが、水には物を引き寄せ吸着する性質があるようだ。水は菌やホコリや汚れも吸着しだんだん汚れてくる。



 蝶の種類はなかなかわからない。しかし、蝶だとわかるだけでもたいしたものではないか。犬でも犬だとしかわからないことが多い。人間だってそうだ。わかるのは性別、年齢、人種くらいだ。職業などはまったくわからない。家族、病気、前科などわからないことは無数にある。蝶の種類がわからないことなどはたいしたことではない。冷蔵庫も冷蔵庫だとわかるだけだし、キュウリもキュウリだとわかるだけだ。キュウリの住所・氏名・経歴などはまったくわからない。

 しかし、見ただけで完全にわかることもある。蝶の種類はわからなくても、見ただけで大きさや色は完全にわかる。色の名前はわからなくても色はわかる。動きの素早さや翅の動かし方もだいだいわかる。

 そういうことはあらゆる物について言えることだ。あらゆる物について常にそういうことを意識している。それは「それはなにか」という意識だ。「それはなにか」という意識は絶えず作動している意識だ。見える物のすべてに対して「それはなにか」と意識している。しかも、言葉はほとんど使わずに意識している。「帽子」という言葉がなくてもそれは帽子だと完全にわかっている。しかし、蝶が蝶とわかるには「蝶」という言葉が必要かもしれない。ほかの虫かもしれないからだ。だが、帽子は帽子以外のなにものでもない。この違い、言葉が必要かどうかの違いは微妙な違いでしかない。

 「それはなにか」という意識は視覚以外でも起こっていることだ。音や触覚でも起こっているし、言葉でも起こっている。つまり思考でも起こっている。このことを考えている間ずっと「この思考とはなにか」ということも考えてしまっている。この思考とはなにか。簡単なことほどむずかしいということだ。簡単なことほど誰も考えない。



 価値というものはすべて金儲けのために作られる。賞などを作るのもそれを価値あることにして金儲けしようとしているだけだ。世界遺産などを作るのも同じだ。世界遺産など誰かが適当に選んでいるだけだ。世界遺産になってもそれ以前となにも変わっていないのに、世界遺産になった途端に価値が発生して人がたくさん集まってきて金儲けができる。

 サルトルを紹介するユーチューブがある。最初からもうサルトルには価値があることになっている。そういうことにしないと客がやってこないからだ。有名人を解説するようなユーチューブはみんなそうだ。最初からその有名人はすごいということになっている。「親鸞はすごい人」ということが前提になっている。それはもう決定事項になっている。親鸞には客があつまる。誰も知らん人のところには誰も来ない。



 「包摂」などと言って、資本主義がすべてを吞み込んでしまったと言われる。それが一番よくわかるのは、すべてが宣伝になってしまったということだ。すべてが金儲けのための宣伝になった。テレビなどは完全にすべてがなにかの宣伝になっている。それがはっきりわかるのは、テレビに出てくる人がみんな自分を売ろうと必死になっていることだ。なにか異様なほど必死だ。それがはっきりわかってしまうのでテレビがつまらなくなったのだ。ネットの世界もそんなのばかりだ。人間の言動や行動がすべてなにかの宣伝になってしまった。マルクスについて書かれた本もなにかの宣伝だ。最初の一行から最後の一行まですべてがその本の宣伝なのでもある。

 (テレビのCMには宣伝する商品以外にも様々な宣伝が含まれている。出演するタレントの宣伝、作っている人の宣伝、作っている会社の宣伝、着ている服の宣伝、曲やダンスの宣伝などだ。そのためにCMもつまらなくなったし、みんな同じようなものになってしまった。)

 なにかを批判する言論や本も宣伝になってしまった。言論や本がただの商品になってしまったのだ。批判が商品になってしまった。株も単なる商品の一つになった。政治などはすべて経済活動だと思って見たほうがわかりやすい。



 いくらでも歩ける気候になった。一時間ほど歩いていると視力がよくなって植物の細かい部分まで見えるようになった。現実が一番すごい。いま目の前に実際にあるものがすごい。

 スーパーやダイソーなど商品を売っている店に行くと自分の欲望に直面するようになる。欲望でぎらぎらした人がたくさんいる。

 動物園に行かなくても、どこでも人間動物園だ。人間動物園ほどおもしろいものはない。

 10キロくらい歩いた。



 人間はみんな親戚だ。なのに親戚を狭い範囲に限定しようとする。なぜなのか。範囲を限定するのが思考なのだ。考える範囲を限定しなければなにも考えることができない。


‎2026‎年‎10‎月‎18‎日 ‎日曜日

 下痢になった。急いで排出しなければならないものがあるらしい。下痢になるのは人間だけではない。地球も下痢になるし、社会も下痢になる。学校も会社も家族も下痢になる。急いで排出しなければならないものがある。AIも下痢になるにちがいない。スマホなどは常に下痢だ。



 人間はたいせつなことで大騒ぎするのではない。どうでもいいことで大騒ぎする。どうでもいいとわかっていて大騒ぎする。どうでもいいから大騒ぎできる。大騒ぎしていることを重要なことだと思ってニュースにすることほど間抜けなことはない。



 スマホが対人関係の代わりになっているようだ。スマホで他人と交際できるので実際に交際する必要がない。スマホで交際するほうがずっといい。(ということもある。)


‎2026‎年‎10‎月‎19‎日 ‎月曜日

 人間はほんとうにバカだ。ダメだとわかっていても同じ失敗を何度も繰り返す。なにかをやり過ぎたり、やり足りなかったり、片手間にやってしまったり。飲み過ぎ、寝過ぎ、寝足り過ぎ、動き過ぎ、動き足りな過ぎ。ちょとでも面倒なことは後回しにする。五分しなければならない体操を一分しかしない。途中で別のことを考えるとやっていることが途中で終わる。



 このごろ小説を続けて読んでいるが、小説そのものに疑問が集中して生きた。小説とはなんなのか。小説は必要なものなのか。読まなければならない小説など存在しないのではないか。小説を書くのは無駄な作業なのではないか。

 小説を書くのは職人がコツコツとなにかを作るのに似ているのではないか。ただただ根気よく同じような動作を続けているさけだ。思想などとはなんの関係もない。むしろ絵を描くのに似ている。言葉を使って絵を描いているのだ。

 小説でなければ表現できない思想とか考えは存在しない。人間のこういう部分は小説でなければ表現できない、そういうものがあるのかというと、そんなものはないのではないか。

 小説とは人間精神の初期段階のようなものではないか。小説のようなものでしか言葉の世界に入り込めない段階があるのだ。

 人生は小説のようではない。というより、人生を小説のように考えるのは間違っている。人生を小説のように考えたらなにかを間違ってしまう。人生を小説のように考えると出来事を順番に考えるということだ。出来事を順番に考えるとは出来事を原因と結果のつらなりとし手考えるということだ。

 次はどうなるのかという興味で読ませる小説は美人や食い物で客寄せするのと同じではないか。そのついでに、人間とはこんなものだとわかる。こんな時はこう考えるとか、こんな時はこうするとかがわかる。実用書だ。



 小説家には思想的発展というものがなにもない人が多い。シンガーソングライターに思想的発達がないのに似ている。年を取って思想的になると今度は小説を書かなくなる。五木寛之のように説教坊主のようになる人が多い。



 偉そうな人間、威張る人間は大嫌いだが、そういう人間はどうしてそうなるのか。発達障害の一種ではないか。他人の気持ちが読めないのだ。読めないのでいらいらしてかえって変になる。理解できない異物を追い払うという感じだ。