0920~0922

saginuma23

‎2026‎年‎9‎月‎20‎日 ‎日曜日

 争いや対立がないと人間は成長しない。思想もほかの思想と戦うことによって作られる。間違ったものがないとまともなものはできない。このことを追求していくと次のような公式が生まれる。〔異常なものが存在しなければ正常なものが存在できない〕

 このことを様々に言い換えることができる。バカがいなければまともな人間が存在できない。狂った人間がいなければ誰も正常な人間になれない。悪人がいなければ善人は存在できない。イカレタ政治家がいなければ世界は発展しない。困ったものだ。


 縄文時代が平和だったなんて言うのは嘘だと思う。



 変な人から見たらこちらが変な人に見える。嫌いな人は必ず向こうもこちらが嫌いだ。どうしようもなくそうなっている。



 井上陽水は歌謡曲だということがやっとわかった。歌詞はたいしたことを言っていない。私小説に近いかもしれない。感動的な曲を感動的に歌っているので感動してしまう。



 すべての人間に共通することは産まれてしまったので生きているということだ。生きる理由はただ一つ、産まれてしまったからだ。「生まれてすみません」などと言うのはまだまだ未熟な思想だ。産まれなければそんなことも言えない。

 駅で電車でバスでスーパーで近くにいる人を見ればわかることだ。あんな人がなぜ生きているのか。産まれてしまったからだ。それがただ一つの理由だ。しかもそれが最高度に完璧な理由だ。それ以上の生きる理由は存在しない。



 ほかの人がやっていることで興味のあることがなにもない。読みたい本もなく、見たい作品もなく、話をききたい人もいない。ネットの世界に知りたいことがなにもない。自分は空っぽでなにもない。そう表明する作家も哲学者も思想家もいない。つまらない人間たち。空虚でなにもない人間たち。生きているのにすでに死後の世界にいる。



 見えるものを見て歩く。なにを見てもそれについて知っていることしかわからない。見ることによって新しいことがわかることはあまりない。こんな所にこんなものがあるとわかるのは新しいことかもしれない。しかし、道路や建築物のことはぜんぜんわからない。資材の性質や名前はぜんぜんわからない。窓がどうやって作られるかわからない。



 ほんのちょっとしたことを考えるのに何時間もかかる。なにもない時間が必要だ。なにもない時間が思考を熟成させる。なにもない時間(無)がなければ思考は作動しない。それに、家にいる間は絶えず体操をしている。肉体を動かさないと思考が眠ってしまう。


‎2026‎年‎9‎月‎21‎日 ‎月曜日

 よく「ほんとうにやりたいことが見つからない」などと言うが、少し冷静に考えてみれば、そんなものあるはずがないとわかる。そんなものがあると思うことが間違っている。やりたいことが見つかった人はそう思い込んでいるだけだ。そう思い込もうとしているだけだ。天職などと言ったりするのもそう思い込みたいからだ。異常なほどにそれに打ち込んだりするのも、そうしないと「やりたいこと」にならないからだ。つまり、ほんとうはそれが「ほんとうにやりたいこと」ではないからだ。それがうすうすわかっている。

 だいたい「やりたいこと」が人によって違うということがおかしい。「ほんとうにやりたいこと」があるならみんな同じになるはずだ。「うまいもの」がみんなだいたい同じになるように。

 「ほんとうにやりたいこと」とはもっと簡単なことなのだ。「食べたい」「やりたい」「眠りたい」「体を動かしたい」「屁がしたい」「風呂に入りたい」とかそういうことだ。そういう「やりたいこと」があるだけで充分ではないか。


 「ほんとうにやりたいことを見つけたい」などと言いだしたのは最近のことにすぎない。明治にそういう考えは存在しなかった(と思う)。それなのに明治時代の時代設定の朝ドラでそういうことを言っているのは脚本家の未熟だ。しかもそのドラマにかかわる人が誰もそれを指摘できない。最近のドラマがつまらないのはそういうことが多すぎるからだ。「やりたいことが見つからない」などと言いだしたのはどうしていいかわからなくなったからだ。つまりそれだけ自由になったということではないか。なんだかんだ言っても人間はだんだん自由になってきた。自由になるとはどうしていいのかわからなくなるということでもある。



 自分がやっていることは真実・真理の探究だ。この世界・宇宙・世の中・社会の構造・仕組み・公式・方程式を少しでも知りたいと思う。日々の生活以外にやっていることはほぼそれだけだ。しかし、それが「やりたいこと」なのではない。いつのまにかそういう所に追い込まれてしまっただけだ。真理の探求などは無意味だということが真理なのかもしれない。

 次になにを考えるかは決まっていない。常にそうだ。次になにを考えるかはまったく予想できない。だからなにも考えていない時間がほとんどだ。考える順番などはない。だから、考える順番が出来ているような本はみんなインチキだと思う。軍隊の行列のように整然としている本。目次のある本。小見出しのある本。編集者が項目別に分類して編集した本。



 道路にいろいろなものが落ちている。ゴミ、死体、肉体の一部、考えの破片、屁理屈の団子、糞、そういったものだ。それを拾って歩く夢をよく見る。背中に竹で作った籠を背負っている(しょっている)。それに拾ったものを入れる。どれを拾うか迷う。拾いたくないものがあるし、拾ってもまた捨てるものもある。どこかでそれを見ている人がいる。これはどういう夢なのかまだ解釈できない。



 誰かが死ぬと様々なコメントや感想が寄せられる。それがみんな同じようなものばかりだ。五パターンくらいに分類できるかもしれない。共通するのはみんな死についてなにも考えていないということだ。死についてなにも考えていないということがすぐわかる。死について考えることをずっと避け続けているのだ。「死は確定事項なのでそれを受け入れて生きるしかない」程度のことも言えない。「明日からはあの人が存在しない世界になる」などと言ってみたいと思いませんか。「あの人はもうすでに完璧に消滅した」。どんな死に方でも、できるだけ完璧に消滅すべきなのだ。しかし、そんなこともできなくなっている。生き残った人がバカなことを言うのでちゃんと死ぬこともできない。



 原理を知るということ。

 世界の構造や仕組みを知るということには科学的な分析も含まれる。土の構造はどうなっているのか、土と植物の関係はどうなっているのか、そういうことはいくらでも分析できるできるはずだ。まだわからないこともたくさんあるだろう。しかし、いつかはもっとわかるようになる。科学的分析とはどういうものかわかれば、どういうことがわかるようになるかもわかる。どういうことがわかるようになるかがわかればもうわかったようなものではないか。科学的分析でわかることはこんなことに限られるとわかればもうわかったようなものではないか。

 このことをどう説明していいのかわからない。人間にはみんな名前があるということがわかればすべての人の名前を知る必要がない、ということに似ている。科学的分析でわかることはこういうことだとわかれば全部わかる必要はない。パソコンがどういう原理で作られているかがわかれば細かいことをすべて知らなくてもいい。原理がわかれば細かいことをしらなくてもいい。細かいことがわからなければ新しい薬を作ったり新しい装置を作ったりはできないが。

 このことをさらに追及すれば次のようなことを言うことになる。人間とはどういうものかがわかれば、すべての人間と知り合いになったようなものではないか。



 涙袋ブームというのがあるらしい。そんなことはまったく知らなかった。涙袋を作ったりメークで線を描いて涙袋らしく見せるのが流行っているらしい。大きすぎるのは逆に小さくするらしい。涙袋があるのとないのとではなにが違うのかわからない。涙袋があるとカワイク見えたり美人に見えたりするのだろうか。ないほうがすっきりしていいのではないか。

 AIにきいてみると、どちらがいいということはないようだ。どう見せたいかで使い分けるのがいいようだ。あるとやわらかく親しみやすく見えるようだし、ないとすっきりしてシャープに見えるようだ。

 しかし、流行っているということは作る人が多いということだろう。やわらかく親しみやすく見える方を選択しているということだ。


‎2026‎年‎09‎月‎22‎日 ‎火曜日

 思考にも日付がある。しかし、時刻まではない。

 思考にも出来事という面がある。「いつどこでなにを食べた」ということと同じように「いつどこでなにを考えた」ということができる。しかし、思考は出来事とは違うもののように思われている。出来事ではなく作品のように思われている。作られたもののように思われている。物を作るといつでも身に着けていることができるように、思考も作られるといつでも身に着けていることができる。しかし、物はいつまでも存在し続けるが、思考はすぐ消えてしまう。

 思考が消えるように出来事の記憶もやがて消える。

 いろいろなレベルの出来事が混ざって混乱している。

 思考。

 単なる出来事。

 作った物が残る出来事。

 ほかにも記述される思考と記述されない思考の違いがある。

(全文削除)



 考えるということは自分で考えないとどうしようもない。自分で考えないと考えたことにならない。自分で考えたことにしか自分を変える力はない。他人の考えはほとんどなんの効力もない。私の考えもほかの人にはほぼ無意味だ。そして、ネットなどの世界に存在するのはすべて他人の考えだ。ネットなどでいくら発言してもほかの人にとっては他人の考えが増えているだけだ。発言する人はそういうことをわかって発言したほうがいい。発言した内容はすぐ消滅して発言したという出来事が残るだけだ。「あの人なにか言っていたね」



 ずっと美人問題というものを考えているがよくわからない問題だ。まず、問題の中心がどこにあるのかわからない。なにが問題なのかわからないということだ。

 美人のほとんどは見た目だけ美人だ。(美男もそうだ。)スタイルだけ美人や後ろ姿だけ美人や服だけ美人もいる。遠くから見ても美人というのもいる。しかし、ぐるっと回って結局は顔に戻ってくる。美人とは結局顔が美人ということだ。そしてそのほとんどは若さでしかない。でもただ美人というだけで引かれてしまう。それはどうしようもないことではないだろうか。ほとんど本能のようなものだ。夕焼けや富士山に目が引きつけられるのと同じではないか。

 しかし、人間的に魅力がある美人はほとんどいない。それを「感じがいい」と言っている。それは個人的なものであって、ほかの人にはわからないことかもしれない。そういう人間的な魅力も簡単にわかることではないのだから、たいていはもしかしたらそういう人かもしれないというだけだ。そういう人がほとんどいないということはテレビに出てくる美人に感じのいい人がまったくいないということでわかる。芸能人は顔以外の部分でどんどんマイナスになってしまう。芦田愛菜がCMでマイナスになるとかだ。

 美人でないのに感じのいい人がいる。感じがいいかどうかは美人かどうかに関係ないことだ。感じがよくて美人ならさらに美人に感じられるというだけだ。逆に感じのよくない美人はだんだん美人に感じられなくなる。


 世間では美人美人と騒いでいるのにこういう問題を本格的に追求したものはないようだ。ネットのトップ画面の三分の一は「こういう美人がいた」という話題だ。美人で客引きは資本主義経済では当然のことだ。美人のついて論じたものはみんな同じようなものだ。「美人は得か」という問題、「どうやって美人になるか」という問題、「どういう顔が美人か」という問題が美人三大問題だ。

 確かに、どんな顔が美しいかはそうとうむずかしい問題だ。時代によっても違うし、地域によっても違うし、見る人によっても違う。参考になるのは時々いる変わった顔の美人だ。変な顔なのにぎりぎり美人なのはなぜなのか。見上愛とか木村多江とかだ。私はあのちゃんなどはまったく美人に感じられない。また年齢による変化も参考になる。どの時点で美人でなくなるかだ。左右対称とか、全体のバランスとか、肌の輝きとか、様々な要素が関係しているのは間違いない。その全貌は誰にもわからない。誰が見ても美人に見える顔もある。

 写真は美人部分だけを切り取ることができる。だから写真だけ美人も存在する。

 最初は顔でもだんだん顔以外の要素が大きくなる。電車で観察しているだけでどういう人間なのかわかってくる。一緒に生活すると顔などほとんど関係なくなってくる。

 やはりなにが問題なのかわからなくなってきた。美人問題はむずかしい。



 ひきこもりの原因とは思想がない・思想が未熟ということに尽きるのではないか。彼らはなぜ基本的なことを考えようとしないのか。哲学的とか言われるようなことだ。そういう思考の世界があるということ自体がわからないのだと思う。そういう世界に触れずに生きることができる社会なのだ。そういう思考を触発するものが学校にもない。家庭にもない。メディアにもない。もっと簡単なことかもしれない。本を読まない人間がひきこもりになる。世間の価値観・世間の思想そのままの人だ。

 しかし私も、仕事をせずにずっと家にいたらなにも思考できなくなるにちがいないと思う。生活があまりに単調だと思考は眠ってしまうのだ。


 生きることになんの意味もないということがわかるだけでひきこもりなど簡単になおってしまうのではないかと思う。人間はみんな無意味なことをやっているだけだ。人間だけが無意味なのではない。宇宙の存在そのものが無意味なのだ。


 ひきこもりの裏返しが政治家ではないか。どこか似たところがある。政治家は政治にひきこもっている。

 基本的で根源的なことを語る政治家というものを見たことがない。不思議なことだ。政治家はこういうことだけを問題にしていればいいという前提が最初からあるようだ。政治家は生きる意味などを論じてはならないことになっているようだ。国会で死について考えたりしない。いつのまにかそういうことになっている。



 土と人間の腸は似ている。腸は土のようなものだし。土は腸のようなものだ。

0915~0919

saginuma23

‎2026‎年‎9‎月‎15‎日 ‎火曜日

 昨日は帰ってきてからここにやって来なかった。めずらしいことだ。ひどく疲れたせいだ。築何十年の肉体だからあちこちにガタが来ているのも当然だ。熟睡することもなかなかできない。毎日波乱万丈な夢を見る。ほとんどは忘れている。

 指示書のないプラモデルのようなものを作る夢を見た。なにを作っているのかもわからない。誰も作れないものを引き継いだという感じだ。プラモデルというよりなにかのミニチュアのようだった。材質もいろいろだ。作るのを見ている人も何人かいた。何時間も格闘してもう次の日になったのかと思ったがまだ夜の七時だった。巨大な乗り物を作っているようだった。半分もできないうちに目が覚めた。

 これはつまり、なにを作っているかわからないものを作っているということだ。



 男でも女でも、作家でも芸能人でも、人間そのものを好きになったことは三回くらいしかないようだ。誰かのファンになっても人間そのものが好きなわけではない。顔や姿が好きになっても人間そのものが好きなのではない。作品が好きになっても人間そのものなどまったく好きにならない。男が好きになったことはない。

 人間が好きになるとはどういうことなのか。全体が好きということか。嫌なところが一つもないということか。思想が好きだから人間も好きになるということはない。思想とは別に人間が存在するということだ。そこには思想も含まれている。すべての総合として人間が出来上がる。



 小川洋子と河合隼雄の対談集を読んでいる。

 金光教(こんこう教)というのは不思議な宗教らしい。弱い神をみんなで助けるというものらしい。弱者を助けるためにみんなが一つにまとまる。

 西洋人の不思議な精神構造。西洋人の精神は理論・理念で作られている。規則のようなものをたくさん作って生きている。その規則を破ってしまうと精神が破綻してしまう。アイヒマンがユダヤ人を殺したのは「公務員は上司の指示に従う」のが絶対の規則だからだ。だから、ユダヤ人を殺したのは上司の指示に従っただけだ。死ぬまでそう思い続ける。人を殺すことより上司の指示の方が重要なのだ。その考えが間違っていることがわかると精神が崩壊してしまうのでその考えを変えようとしない。考えにすがって生きているのだ。内田樹が「アメリカ人は理念先行型」というのはこういうことだろうと思う。

 西洋・アメリカには無の思想がないためだと思う。無が存在してはならないので常に理念のようなものがなければならない。というのも一つの解釈にすぎない。


 それにしても対談集というのは変なものだ。こんなものは日本にしかないのではないか。互いに互いの仕事を褒め合っている。


 経済のことを考えない人ほど経済的な成功に価値を置いている。経済のことを考えないといつのまにか経済的な価値を重視するようになる。留守にしていると空き巣が入ってくるようなものだ。



 12時間新しい考えは一つも起こらなかった。ほぼ行動のための思考しか考えなかった。刻々のあれをどうする・これをどうするだ。それだけで思考はけっこう忙しい。また、近くで別の二人が話をしていると本を読むこともできない。

 実用的な思考さえあればとりあえず何時間でも生きられる。何日でも生きられる。何年でも生きられる。


 一日じゅう、着ている衣類がすべてべたべたに濡れている。湿っている状態を越えて濡れている。衣類が乾いているということはそれだけで幸運なことだ。そういう幸運が最高の幸運かもしれない。パンツが乾いている幸福。



 基本的な方程式。

 ある集団で一人変なのがいるとみんな変に思える。集団の一人の性質が全員の性質に思える。一人の中国人が大声だと中国人はみんな大声だと思う。集団の個人は集団を代表してしまうということだ。逆に考えると、すべての個人が集団を代表できるのが集団だと定義できる。


‎2026‎年‎09‎月‎16‎日 ‎水曜日

 なにもかもが湿っぽい。家の中の湿度は常に85%、外の湿度は常に100%。乾いた服をぶら下げておくと湿っぽくなる。着ている服にカビが生えそうだ。トイレのトイレットペーパーも湿っぽい。



 夜中の二時に目が覚めて眠られなくなった。珍しく自分のことを考えてみた。自分のことなど必要最低限のことしか考えないからだ。

 誰ともつきあわなくなった。いつもたいてい一人でいる。ほかの人間とは必要最低限の関係しか持たないし、必要最低限のことしか言わない。ほかには駄洒落と冗談ばかり言っている。ずっと前からだ。

 私の思想のような思想はどこにも存在しないし、私のような人間もどこにもいないようだ。長い探索によってそのことがわかった。ただそこにいるという状態が誰とも違うようで、私のような人間の存在を感じたことはない。私は常に空っぽでただあらゆることを観察しているだけだ。常に一定の集中力・緊張感を保っているらしい。自分がどういう状態なのかはまだよくわからないが、自分と同じような状態の人はほとんどいないということはわかってきた。自分と同じようなタイプの人がいればわかると思うのだが、そういうタイプの人に会ったことがない。テレビやネットやメディアで話題になるような人はみんな違うタイプだ。女の方が同じタイプに近いのかもしれない。

 自分の思想と同じような思想はどこにもない。そしてたぶん誰にも理解されない。

 ここに記述するようなことをほかの人に話すことはない。誰にも理解されようと思わないし、理解されないとわかっている。誰かになにかを教えようとしないし、教わろうとも思わない。ほかの人間の履歴とかプロフィールとかには興味がない。過去とか家族のこととか学歴とか職歴とか、小説やドラマで描かれるようなことだ。言えば聞くがこちらから尋ねることはない。そこにいる人間がその人間のすべてだと思っているからだ。そこにいる人間だけでその人間のすべてがわかる。質問して聞かなければわからないことはどうでもいいことばかりだ。過去に起こったすべてのことによってそういう人間が作られたのだから、そこにいる人間がその人間のすべてだ。



 人間を作るのに失敗した人間というテーマ。人間を作るのが一番むずかしい。作るのがむずかしいので失敗作が多い。

 人間はみんな人間という作品の制作者だ。


‎2026‎年‎9‎月‎17‎日 ‎木曜日

 まだ考えていないことがたくさんある。ありすぎるほどある。

 考えても記述していないことがたくさんある。記述するかどうか迷っていることもある。なにを記述しなにを記述しないか明確な基準があるわけではない。そのこともまだちゃんと考えていない。


 昨日は三つのことを同時に考えていたようだ。そのうち二つのことを記述してみる。



 小川洋子と河合隼雄の対談集に「物語」というキーワードが出てくる。ほかのところでもたまに目にする。「物語」とはなんだか価値のあるもののように語られることが多いようだ。この「物語」とはなんなのかよくわからない。少し考えてみると、まるでわからないということがわかった。きれいさっぱりなにもわからない。

 物語とはなんなのか。ニュースのように「誰がいつどこでなにをした」といったものなのか。それをもう少し拡大してドラマや小説のようにしたものなのか。そうするとドラマや小説が物語だということになる。ところが小川洋子などが言うことではそうではないらしい。「いまは物語がなくなっている」とか「物語が必要だ」などと言うのだから。

 人間がなにかをしたということなのは間違いないらしい。私の毎日の生活は物語ではないのだろうか。そんなものは物語ではないと言われそうだ。ドラマや小説のようなものでもないらしい。架空のドラマのようなものなのか。現実にはありえないようなドラマだ。でもそんな映画やアニメはいくらでもある。もしかしたら物語は映像ではないのかもしれない。映像でないなら言葉で作られたものだ。もしかしたら小川洋子が書くような小説が物語なのか。

 このように「物語」とはなにかさっぱりわからない。わかったことは、物語はありふれたものではなくめったにないものだ、ということだ。もしかしたらまだ存在しないのかもしれない。

 別の方向から攻撃してみる。物語が必要だというのは、物語でしか思考できないものがあるということではないか。確かにそういうことがあるかもしれない。たとえばシンデレラ物語が物語だとするなら、そこには言葉では思考できない思考が存在している、ということになる。しかしそれは解釈可能性といったものではないか。つまりそれがどういう物語なのかはそれぞれが自由に考えることができるということだ。だから、物語でしか思考できないものがあるのではなく、それぞれがどう考えてもいいのが物語ということになる。つまり、思考を刺激するということではないか。なにか謎が隠されているような気がする。ようするに、つまり、どう考えていいのかわからないのが物語ということになる。どう考えていいのかわからないのでなにかを考えたくなる。



 大森荘藏が死物世界観はよくないと言っているのもよくわからない。世界を死んだものと考えるのはよくない、生きたものとして考えなければならない。と言うのだ。物質・原子・素粒子は死物であって、そういうものの構造として世界を考えることは世界を死んだものと考えることだ。と言うのだ。だから物質・原子・素粒子も生きたものと考えなければならない。と言うのだ。かってにそう考えればいいじゃないかと思う。どう考えるかの違いしかないじゃないかと思う。アイスクリームを物質と考えるか食べ物と考えるかの違いでしかないのではないか。アイスクリームを冷たいと感じるかあまいと感じるかの違いでしかないのではないか。

 大森荘藏には最初から「生きる」ということにはものすごい価値があるという思い込みがあるようだ。その思い込みがあまりにも強すぎて、生き物だけでなくなんでも生きていることにしたいのだと思う。(現代人はそういう人が多い。「生」や「生きる」に異常なほどの価値を与えている。)

 別の方向から攻撃してみる。人間は生きているということになっているが、生きているとはどういうことか本格的に考えてみれば、生きているとはどういうことなのかよくわからなくなる。人間の場合は思考・意識があるということが重要だ。思考・意識があることが生きているということだと言いたくなる。しかし意識不明になっても生きていると言われる。そのように普通の使い方でも言葉の混乱がある。意識不明になっても生きているとは生物体としては生きているということではないか。人間として生きていることと生物として生きていることは違うのだ。人間の場合は生物体として生きていることも生きていると言われる。そう考えれば物質として生きているレベルがあってもいいことになる。物質が生きているなら空も海も万物は生きていることになる。でも物質として生きていても生物としては生きていないレベルがある。生物として生きていても人間としては生きていないレベルがある。さらに、人間としては生きていても***としては生きていないレベルもあるはずだ。

 ようするに、これは言葉の使い方の問題なのだ。「生」とか「生きている」という言葉に明確な定義は存在しないということだ。「生きている空海」という使い方もある。物質・原子・素粒子を生きていることにしたいのならかってにそうすればいいだけだ。『知の構築とその呪縛』は根源的に間違っている。

(こういうことはほかにもたくさんある。たとえば、「人間は生物だ」と「人間は生物ではない」を比較してみればいい。どちらの言い方も可能だ。どうしてそんなことができるのか。・・・・・・)



 個人的な規則。

 まだ使えるものは使う。

 なくてもどうにかなっているものは買わない。


 この二つの規則に従うと買うものがなくなる。買うものが食品だけになる。

 プラスチックの食品トレーを捨てることは上記の規則に反している。まだ使えるものを捨て、なくてもいいものを買っているからだ。食品を買うと買いたくないものも一緒についてくる。プラスチックの食品トレーを捨てるたびに感じる罪悪感。自分の規則に違反している。

 (リサイクルしているからいいだろうという意見もある。しかし、リサイクルするほうがゼロから作るより多くのエネルギーを使っているにちがいないと思う。リサイクルするほうが石油を余分に使っているのだ。それが隠蔽されている。みなさんの罪悪感をやわらげるためにそれが隠蔽されている。)



 完全規則。

 人間はみんな規則に従っている。人間はどれほど規則に従うものなのか。100%全員が従っている規則もある。一人残らず全員が服を着ている。これこそ完全規則だ。そんなものは規則ではないという反論も可能だ。しかし、服を着ないことも可能なのにみんな服を着ている。そういう規則が明確に存在するわけではないのにそうしている。みんなそうするので規則にする必要もないほどの完全な規則だ。完全規則は規則にする必要がない。

(追加。これこれこれらの場所では服を着なければならないという規則はないが、猥褻物陳列罪というのはある。どのくらいの露出が猥褻物陳列罪になるのかはわからない。パンツ一枚で道路を歩くのはどうなのか。)



 至る所で人間を観察している。人間を観察するのはおもしろい。観察材料はいくらでもいる。しかし、人間観察が趣味と言う人はあまりいない。人間を観察して研究している学者もいないようだ。近くに次々に出現する人間を次々に分類して人間の分類図鑑を作っている。何通りに分類できるのか。みんな無意識にそういうことをやっているのではないか。人種分類でもない、国籍分類でもない、職業分類でもない、年収分類でもない、体癖分類でもない、まったく新しい人間分類が可能なはずだ。


‎2026‎年‎9‎月‎18‎日 ‎金曜日

 住んでみればどこも同じようなものだ。特に家の中はどこでも同じだ。家の中に地名はない。ここは新宿かもしれず、八王子かもしれない。軽井沢かもしれず、苫小牧かもしれない。外国ではないようだ。



 ネットで紹介されていた『土と生命の46億年史』という本を買ってきた。「この本を読め」という天の声が聴こえたからだ。そういうことは久し振りだ。少し読んだが知らないことばかりだ。まったく知らない世界があったのだ。しかもすぐそこに。私の進化についての考えからは土というものが完全の抜け落ちていた。宇宙の進化があり地球の誕生があり、物質から生物のようなものが発生して生物の進化につながる。そういうイメージなのでどこにも土というものが登場しない。土について考えたことがなかった。これは完全な盲点、死角になっていた。地球の進化と生物の進化は土の進化と一体になっている。生物の死骸がなければ土はできない。



 しばしば思考の散乱状態になる。考えることが多すぎてなにを考えていいのかわからない。結局なにも考えることができない。



 なにかをするとついそれに打ち込んでしまう。夢中になってしまう。一生懸命やってしまう。どんなことでもそうなのだ。あっちではゲートボールに大騒ぎしている。別のところでは掃除器掛けに集中している。だから、人間にはやることはなんでもいいというところがある。ある人は人形浄瑠璃をやり、ある人はラーメン屋をやり、ある人はマラソンをやっているが、みんなほかのものでもよかった。



 AIが人類を滅亡させるとか騒いでいるが、人類の滅亡などはたいしたことではない。たいしたことがないのにすごいことだと思われている。そう錯覚している人がたくさんいるようだ。

 人類が滅亡しても一人の人間はただ自分だけの死を死ぬだけだ。一人の人間はいつか必ずやってくる自分の一回だけの死を死ぬだけだ。一人の人間は人類全体の死を死ぬことはできない。それだけではない。人類が滅亡したかどうかは誰にもわからない。人類は人類の滅亡を確認することができない。人類が滅亡したかどうかは人類にはわからないことだ。人類は人類が滅亡したかどうかわらずに滅亡する。それを確認できるのは人類ではない誰かだ。

 人類は人類が滅亡したかどうかを知ることができない。知ることができないことを起こるということはできないのではないか。そういう基本的なことがわからない人がAIが人類を滅ぼすなどと言って騒いでいるだけだ。

 人類の滅亡などたいしたことではない。一人の人間の死と同じ重さしかない。もう少し考えれば、一人の人間の死はすべて人類の滅亡なのだ。ということになる。



 ここまでは性欲、ここからは性欲ではない、という境目がある。ある人が好きになるのも、ここまでは性欲、ここからは性欲ではない、という境目がある。しかし、その境目がどこにあるかははっきりしない。はっきりしないが境目があることはある。

 そういうことがほかにもたくさんある。ありすぎる。


‎2026‎年‎9‎月‎19‎日 ‎土曜日

 何度も言っているが、実にいろいろなことが起こる。起こりすぎる。毎日がそうだ。ほとんどのことは処理する前に消えてしまう。たぶんどんなことでも考える材料になる。どんなことでも探索すれば新しい発見があるはずだ。見たことのすべてに新しい発見がある。正岡子規がフル活動すれば一日に短歌1000個俳句2000個作ってしまう。


 なにか特定の分野を研究している人は、生活の細々したことからなにかを学習するということがあまりできないのではないかと思う。



 視覚と聴覚の違い。目は見ないことができるが耳は聴かないことができない。目はそむけたり閉じたりできるが、耳でそうするのはむずかしい。隣の家は見えないが隣の家の音は聴こえる。耳栓をしてもだめだ。視覚より聴覚の方が触覚に近い。



 政府を批判したり攻撃したりすることが正義だと思っている人がいる。どんな政府でも必ず批判しなければならない。またそれが楽しい。大きなものや強そうなものを攻撃するのが正義だと思っているが、それは趣味ではないか。趣味の思想や思想的な行動がある。趣味の思想と真剣な思想をどうやって区別するのか。



 人類は理想社会を目指しているとなんとなく思っている人が多いのではないか。理想社会は争いや対立がない社会だとなんとなく思っている人が多いはずだ。しかし、争いや対立のない社会はひどくつまらない社会ではないか。



 人間観察をしていると、自分をどうしていいかわからない人間ばかりだとわかる。自分を自分でコントロールできている人は一万人に一人くらいだ。そういう人はいつまでもじっとしていることができる。本もスマホも必要ない。なにもしていなくても自分を表現できる。

 〔じっとしていることができる〕ということが重要語句に登録される。なにもせずにじっとしていることができる。じっとしたまま自分でいることができる。覚醒したままじっとしていることができる。

 ほかの生物はみんなやっていることだ。

0911~0914

saginuma23

 ネットの書き込みや掲示板やあれこれを見ていると、けっこういろいろなことがわかっている人がたくさんいるとわかる。それなのに政治と経済がぜんぜん変わらないのはなぜなのか。政治と経済が一定の人間に支配されているからなのか。いまの社会制度の中で自分の居場所・地位を確保してしまうとそれを変えたくないと思うからなのか。それとも、いまの社会制度をどう変えていいのかわからないからなのか。どう変えてもあまり変わらないと思うのか。変に変わるよりいまの方がマシだと思うのか。

 たぶんあらゆるものが絡み合って凝り固まっているので変えられなくなっているのだ。変えるとしても小さな部分をほんの少し変えることしかできない。このような場合には大変革するしかない。基本から変えるしかない。それができなければずっとこのままだ。


 政治・経済を変えられないのでほかのものの変えられなくなっている。なによりも自分を変えることができない。今日も昨日と同じように生きるしかない。ということはずっと同じということだ。



 家に帰ると誰もいなくても誰かがいるような気がする。幽霊などのことを言っているのではない。誰もいない家にいるのは自分だ。自分が自分が帰ってくるのを待っている。これは誰でもわかることだ。誰でも経験することだ。しかし、言語化されるまでそのことに気がつかない。自分に会うために家に帰ってくる。一時間もかかって帰ってくるのは自分に会うためだ。毎日のように経験していることでも、言語化されなければ経験していることに気がつかない。そういうことがたくさんある。



 殺されたイエスの痛みとか苦しみについて記述しているものは読んだことがない。このことも、他人の痛みや苦しみに対する無理解を示している。他人の痛みや苦しみを理解することはそれほど困難なことだ。槍に刺された痛みを誰も記述できない。やられたことがない人にはまったく理解できないことなのだ。


‎2026‎年‎9‎月‎11‎日 ‎金曜日

 歯が痛いと言っても痛みそれ自体を言葉で記述することは不可能だ。言葉はその程度のものだ。たぶん、あたりまえのことを言っているだけだ。言葉で表現できないものはいくらでもある。感覚はすべて言葉で記述できないし、物はすべて言葉で記述できない。言葉はすべて大雑把なものだ。手などと言っても、なにか膨大なものの全体をひとまとめにして手と言っているだけだ。

 自分でもなにを言っているのかわからない。

 なにを言いたいのかわからない。

 言葉などその程度のものだとわかっていたほうがいい。その程度の言葉でなんとかなにかを言おうとしている。耳の聴こえない人が手話で必死になにかを伝えようとしている。言葉も手話のようなものなのだ。言葉で必死になにかを言おうとしている。



 手抜き人間の増殖。手を抜くということがどうして起こるのか。ちょっとでも余分に動きたくない。なにもかもが面倒臭い。自分の肉体を動かすのがしんどい。ゴミ袋の口を縛るのも嫌だ。トイレットペーパーを取り替えるのも嫌だ。落としたマスクを拾うなんてとてもできない。シャツのボタンは二つ留めるのが限界だ。自分の肉体の動きをできるだけ倹約したい。自分の肉体の動きをできるだけ少なくするのが経済的だと思っている。儲けにならない動きはしない。



 情報が多すぎて疲れるということもある。情報疲れだ。いまの人間はみんなこれになっているのではないか。そういう人が多いのは間違いない。原因のよくわからない疲れは情報疲れということが多い。でもまだ誰も情報が原因だと気がついていない。寒暖差とか人間関係とかが原因だと思っている。

 情報の中でも最もよくないのは有名人情報だ。誰が結婚した、誰が死んだ、誰が病気になった、誰の親が死んだ、第一子の誕生、第二子の誕生など有名人情報が多すぎる。なぜそれが問題なのか。知らなくてもいいことだからだ。かつては親戚と近所と殿様の情報しかなかった。いまでは有名人が親戚のようになっている。親戚になにかが起こったという情報が次々にやってくる。

 知らなくてもいい情報が大量にやってくるようになった。知ったほうがいい情報に混じってやってくるので拒絶できない。


‎2026‎年‎9‎月‎12‎日 ‎土曜日

 空虚について。

 人間はみんな空虚を抱えている。無と言ってもいい。そうでない人もいるかもしれない。しかし、ほとんどの人はそのことに気がついていない。空虚が存在するのは思考・意識が存在するからだ。思考・意識が存在するのに思考・意識が存在しない状態が空虚だ。なんの考えもなくなると思考・意識が空虚になる。思考・意識が希薄になると思考・意識が空虚に変わる。誰でもそういう状態を知っているはずだ。


 空虚が発生するとその空虚をなにかで埋めなければならなくなる。思考はなにかを思考することを強制され、意識はなにかを意識することを強制される。そこで人は使ってはならないものを使ってしまう。考えてはならないことを考えてしまい、意識してはならないことを意識してしまう。そうやって人間はだんだん狂っていく。そうやって変な人間や狂った人間が出来上がる。


 爪を三センチくらいにしている女がいる。どうやって尻を拭くのかわからない。どうしてそんなことをしてしまうのか。そうしようという考えが空虚を埋めに入り込んできたからだ。そういうことがたくさんある。そういうことばかりだと言ってもいいほどだ。 



 選ぶということ。

 人間は服を着る。服を着るには着る服を選ばなければならない。その服を着ていることは「私はその服を選んだ」ということを示している。それだけではない。「私はこの服を選んだ」ということを主張してしまう。そうすると次は、なにかを主張するために服を選ぶようになる。「私はこの服を選んだ」ということ以上のことを主張するために服を選ぶようになる。自分はこういう人間だということを服で主張するようになる。必然的にそうなる。髪型や鞄や靴でも同じだ。ボールペンや車や家や配偶者でも同じだ。どんなものでも選ぶということはなにかを主張してしまう。

 なにかで空虚を埋めるのもそれを選んだということだ。爪が三センチの女は三センチの爪を選んだ。選んでしまった。どこかで見た映像が空虚に居座って出て行かなくなる。



 「人を殺すから戦争はよくない」という主張はなんの効力もない。むしろ逆効果かもしれない。「人を殺すから自動車はよくない」という主張がなんの効力もないのと同じだ。

 世界の交通事故死者数は去年は110万人くらいだったらしい。それでも「人を殺すから自動車を廃絶せよ」と主張する人はほとんどいない。一年間に110万人殺してもそれ以上に役に立っているからだ。どのくらい役に立っているか計算する方法はない。自動車のおかげで生きられた人間の数はわからない。

 それと同じことが戦争にも言えるのかもしれない。戦争は人をたくさん殺してもそれ以上に役に立っているのかもしれない。それを証明する方法はないが、戦争が起こり続けていても文明はそれなりに発達し、世界の人口は増え続け、世界の平均寿命は伸びているらしい。戦争がぜんぜん起こらなかったらどうなっていたのか。そんなことは誰にもわからない。石器時代がいまだに続いていたかもしれない。

 戦争によってなにかが活性化するのではないか。眠っていた人が目を覚ますのかもしれない。



 指揮官が別の人だったらアメリカに勝っていたと言う人がいる。もし勝っていたらどうなったのか。もっとひどいことになっていたような気がする。勝ったほうがいいということはないのだ。そういうことも考えずに「負けたのはよくない」と主張するのは単純すぎる。



 よくわからないこと、はっきりしないことを断定する人が多すぎる。



 いつも言っているが一日に実にいろいろなことが起こる。そのすべてについて考えることはできない。考えないまま保留になっていることがたくさんある。考えないままになっている経験がたくさんある。考えれば新しい発見があるかもしれないのに考えないままになっている。こんなことが起こったということはわかっているが、それがどういうことなのかわからない。ほとんどすべての経験が謎の経験のままになっている。



 単純な真理。

 他人の苦労はわからない。その仕事でどんなに苦労しているのかやっていない人には絶対にわからない。



 数字になることはわかりやすい。だから、お金ほどわかりやすいものはない。値段とか給与とか金額とか誰でも簡単に理解できる。経済的思考が世界を支配しているのはわかりやすいからだ。



 誰にもわからないことを考えることはできない。考えるということは、誰にでもわかることを考えるということだ。ようするに、考えるということはそれを聞いている人がいるということだ。つまり、ようするに、考えるということは常に誰かに向かって語っているということだ。人間はいつも考えるというショーをやっている。


‎2026‎年‎9‎月‎13‎日 ‎日曜日

 一日に実にいろいろなことが起こるが、その多くはほかの人間が起こしている。ほかの人間が近くに出現するということは、それだけで事件であり、それだけでなにかが起こったことになる。熊が出現すると事件になるが、人間が出現するのもそれと同じくらいの事件だ。家を出るとそういう事件が次々に起こる。電車やバスでほかの人間が近くにいることなどはとんでもないことだ。なにが起こるかわからない。いや、すでになにかが起こっている。

 ほかの人間が近くにいるということは、その人間に起こっていることがこちらにも起こっているということだ。われわれは近くにいる人間の経験をそのまま自分も経験してしまう。近くにいる人間が増えるだけで私の経験量が増加する。ミラーニューロンというより憑依に近い。試合やライブは人が多いほど盛り上がる。五万人の観客は全員が五万人になっている。



 糞との遭遇。

 植物と動物の大きな違いの一つは動物は糞をするということだ。ほとんどの動物は糞をする。一度も糞をしないで死んでしまう昆虫もいるらしいが。脊椎動物くらいになると一生に大量の糞をする。自分の体重の何百倍もの糞をする。その大量の糞はどこへ行ってしまうのか。糞を見ることはあまりない。カラスの糞は見るがハトの糞は見たことがない。見ても気がつかないのかもしれない。家にいるアダンソンハエトリグモの糞はどこへ消えてしまうのか。

 最近見た糞。雀の糞は白くて小さな球体だ。モンクロシャチホコの幼虫の糞は黒くて硬くて形はハンノキの実を小さくしたようなものだ。それが雨に濡れるとだいだい色の寒天のようになる。昨日は道路に糞が点々と落ちていた。団子状なので人間の糞ではないようだ。犬でもない。たぶん狸だ。人間の糞が服の間から漏れたのかもしれない。

 

 人間の糞は自分の糞しか見たことがない人が多くなっているようだ。その人にとって自分とは自分の糞を見るもののことだ。私とは私の糞を見たことがある世界でただ一人の人だ。それとも、いまの人は自分の糞も見ないのかもしれない。



〇所有についての新しい展開。

 どんなものでも長く使っていると自分の一部のようになる。それは所有とは別のことだ。それを親密化と呼ぶことにする。所有と親密化は別のことだ。所有と親密化の違いを明確にしたほうがいいような気がする。親密化を所有と勘違いする人・勘違いしている人が多いからだ。また、そういう人は所有を親密化と勘違いしている。

 所有していなくても親密化することが可能だ。親密化していなくても所有することが可能だ。所有せずに親密化することに重点を置くようになれば所有を廃棄することにつながる。土地を所有せずに土地を親密化すればいい。


 所有は親密化ではない。所有は自分のものにすることではない。自分の手足を自分のものにすることはできないように、自分のものを自分のものにすることはできない。自分のものは所有できない。自分のものでないものを自分のものにすることが所有だ。つまり所有は自分のものでないものを自分のものだと錯覚している病気だ。論理を混乱させなければ起こらないことなのだ。自分のものでないものが自分のものになるはずはない。所有を終わらせなければこの世界は変わらない。



 裸になると首から下にはそれほどの違いはない。人間の特徴は顔に片寄っている。アイドルなどは首から下で区別することはできないだろう。首から上もほとんど同じになっているが。服を着るのは裸を隠すとか温度調節もあるが、特徴のない部分に特徴を作るという役目もある。

 見慣れると体形や歩き方で誰だかわかるようになる。どこかへつづく。



 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神は男なのか。それとも性別はないのか。それとも人間ではないのか。でもなんとなく男だと思い込んでいた。そういう人が多いに違いない。しかし、預言者など神の声を聴くのはみんな男ではないだろうか。神父や牧師もみんな男ではないか。

 ほかの国でも宗教関係は男が多いようだ。これはどういうことなのか、このことはこれから考えていく。


 西洋では作家も男が多いようだ。日本の方が女性作家が多いのではないか。私は一人の女性作家の本を集中的に読んだことがない。アメリカの女性作家の本は『赤毛のアン』しか読んでいないかもしれない。ヨーロッパでもシモーヌ・ヴェーユだけかもしれない。日本でも女性作家の本はあまり読まない。

 私はなぜ女性作家の本を読まないのか。つまらないからだ。女性の脚本家のドラマもつまらない。なぜ女性作家の本はつまらないのか。これはけっこうむずかしい問題だという気がする。

 やはり、女性作家には決定的になにかが欠けているという気がする。


‎2026‎年‎9‎月‎14‎日 ‎月曜日 

 変な人が多い。内田樹風に言えば、成熟できない人=幼稚な人が増えている、ということになる。成熟するのがむずかしくなっているからだと思う。むかしに比べて成熟するのがだんだんむずかしくなっているのだ。むかしはあまり考えなくても成熟できたのにいまではあれこれ考えなければ成熟できなくなった。どうしてそうなったのかいくつかの理由が考えられる。世の中があまりにも複雑になったからだ。情報が多すぎる。余計なものが多過ぎる。考えて処理しなければならないことが多過ぎる。成熟を妨げるものが多すぎる。考えなければならないことが多すぎる。否定しなければならない考えもたくさん出回っている。

 ということの全貌をわかる人が少ない。学校教育が間違っている。人間が成熟することを目指していない。幼児向けの番組など必要ないのに、幼児向けの番組ばかりになっている。

 こんなことを考えることが間違っているようだ。愚痴と批判にしかつながらないからだ。成熟について考えることは成熟にならない。



 様々な種類の遺伝子検査キットというものがあるらしい。そういうものにすぐ飛びつく人がいる。女性がほとんどだ。むずかしそうなのにわかりやすい、ということが最大の特徴なのだと思う。原理はむずかしいが結果は簡単。むずかしいことに参加しているが簡単なことにも参加している。スマホと同じだ。原理は最高度に難解だが操作は簡単。また、検査キットは自分がどういう人間か決めてくれる。自分がどういう人間か簡単に判定してくれる。占いに似ている。カウンセリングも同じようなものではないか。



 女性作家はみんな世界のある一面にしか関心がないという感じがする。世界の一部分しか見えない。