2026年10月25日 日曜日
変えることができるものと変えることができないもの。
自分を変えるなどというが、変えることができるものと変えることができないものがある。自分について考えているようですべての人間について考えている。また、自分を変えることができるなら同じ方法で他人を変えることもできるはずだ。
変えることができるものと変えることができないものの間に様々な種類がある。簡単に変わるものとか、なかなか変えられないものとか、絶対に変えられないものとか、かってに変わってしまうものとかだ。
簡単に分類すれば、行動は変えられるが状態は変えられない、ということになる。思考は行動に含まれる。行動によって変えることができるものも変えられることになる。状態とは肉体の状態ということだ。見える物を変えることはできるが「見えるということ」そのものは変えることができない。「見えるということ」そのものが状態で、見える物は行動で変えることができる。自動車だとすると自動車はどこへでも移動できるが自動車そのものは変わっていない。自動車の移動が行動で自動車そのものが状態ということになる。
肉体の状態といっても実に様々だ。形状、体調、病気、気分、感情、感覚などだ。そこにも変えることができるものと変えることができないものがあり、なかなか変えられないものやわりと簡単に変えることができるものがある。食べ物や薬や体操でなんとか変えることができるものもあり、かってに変わってしまうものもある。身長は変えることができないが体重は調節できる。髪の毛はかってに伸びてしまうが思考で行動を変えて髪の長さを変えることができる。色を変えることもできる。
薬を飲むとか体操をするとかは行動であり、その行動によって体調や気分といった状態を変えようとする。(だんだんわけがわからなくなってきた。)
人間それ自体はほとんど変わらない。20年振りに会った人もほとんど変わっていない。全体的な感じや雰囲気とかたたずまいのようなものがまったく変わっていない。人間がほとんど変わらないのは大部分が変わらないもので作られているからだ。考えや思想は変えることができるものなのに、それもあまり変わらない。考えや思想は変えることができるものなのに変えるのはむずかしいようだ。変わらないものこそ自分の本体だと思っているからかもしれない。考えや思想が変わらなければ行動も変わらない。行動を変えても自分は変わらない。たぶんほとんどの人は自分を変えようなどと思っていない。(ますますわけがわからなくなってきた。)
自分を変えようと思わないことがほんとうの保守主義と言えるかもしれない。自分を変えようとしない人がほかのなにかを変えることなどできないはずだ。
水は汚れを洗い流すものであると同時に汚れを引き寄せるものでもある。
人間は自然のままでは子供を作ったりしなくなった。そこで子供を作らせる仕掛けが必要になった。その仕掛けとは所有・相続・愛だ。所有とはなによりも子供を作らせる仕掛けなのだ。所有というものがなければ子供を作る必要などない。そして相続というものがなければ所有が強固なものにならない。さらに愛という幻想を作ってそれを性と合体させなければならない。
人間は自然な生殖欲というものが破壊され、単なる性欲だけになった。単なる性欲とは溜まったものを放出したいという欲望であり、小便や大便の放出欲と同じようなものだ。それを放出できればいいのであって性交などは必要がない。それが人間の自然になった。その性欲を生殖に結びつけるために所有・相続・愛という仕掛けが作られた。
イメージとはなにか。イメージにするとよくわかることがある。
一億人の人間とはどのくらいなのか。そんなことは誰にもわからない。でも、あるイメージにするとわかるようになる。甲子園に五万人の観客が集まる。甲子園が百個あればもう五百万人だ。甲子園百個が十個あれば五千万人になる。一億人とは甲子園百個が二十個あるだけなのだ。このイメージによって一億人とはどのくらいなのかわかるはずだ。一億人とはたったそれだけなのだ。甲子園百個が二十個あるだけだ。日本の人口は甲子園百個が二十四個。甲子園百個が二千個あれば百億人になる。
2026年10月26日 月曜日
夢では他人は影が薄い。ほとんどの他人は異物のように描かれる。現実の他人ではなく自分が作っている他人だからだろう。夢では自分だけが現実の存在だ。
年末調整について考えている。年末調整はどうしてこんなに面倒なことになっているのか。
政治について考えている。政治はちっぽけなことにすぎないのではないか。政治は一面記事、政治は重要なことだという思い込みがある。それこそ思い込みにすぎない。政治について語れば大きなことを語っていると思っている。
美人も自分と同じように重苦しい肉体を抱えて生きている。むしろ女のほうがどろどろしているのではないか。
家々の不思議について考えている。みんな家にいるらしいのが不思議だ。家などが存在するのが不思議だ。そんな家がどこまでも並んでいるのが不思議だ。ほんとうは墓なのではないか。
いつも同じ自分なのか。別の人間になっても気がつかないだけではないか。
いろいろなことを考えている。どこにも結論はない。
人々はくだらない考えに動かされるようになった。ゴミのような考えがたくさん漂っているのでまずゴミが引っ掛かる。
2026年10月27日 火曜日
思考能力の劣る人がいる。顔に締まりがなく緊張感がないのですぐわかる。思考能力が劣るのはどうしようもないことのようだ。それにも様々な度合がある。世間の一般常識を覚えるのが精一杯の人もいる。そのために世間の一般常識が存在するのかもしれない。最低限の生活規則を覚えるのが精一杯の人もいる。そのために教育が存在するのかもしれない。テレビなどは最低限の生活規則を教育するための装置かもしれない。こんなことをしたら警察に捕まるということをメインにしているからだ。教育・情報が思考能力が劣った人向けのものばかりになった。問題は、そのために、思考能力が普通の人まで自分で考えないようになってしまうことだ。思考能力が劣っている人のためにすることが思考能力のある人の思考を停止させてしまう。そして世間の一般常識だけの人が大量発生する。
生まれてこのかた一冊も本を読んだことがないと威張っている人がいる。確かにテレビとネットがあればたいていのことはわかる。本の断片を読むこともできる。本を読まなければわからないのはむしろもっと簡単で基本的なことではないか。考えと考えがどんなふうにつながり合っているかということも本を読まないとわからないのではないか。
本を読まない人は文章を書いたりもしないのか。一冊も本を読んだことがない人が書いた本を読んでみたい。
『土と生命の42億年史』生物を作るための原子が地球上に偶然そろったので生物が生まれたという言い方をするが、そこにある原子を利用して生物が作られただけではないかと思う。また、「生命」という言葉は使わないほうがいいと思う。「生物」でいいはずだ。「生命」という言い方をすると、生命エキスのようなものがどこからか吹き込まれたように錯覚するし、生物と物質(無生物)がまったく違うものような印象になる。無生物と生物は連続していて、その中間段階もたくさん存在していると思う。「粘土が遺伝子のような役割を果たしたという説もある」と言っているように。
空を見ることが冥福を祈っていることになる。
祈りとか、黙禱とか、死者を悼むとか、そういうことは無意識にやっているのではないか。実際にやれと言われてもどうすればやったことになるのかわからない。なんかの式典で「黙禱!」などと言われてもどうしていいのかわからない。他の人がどうしているのかもわからない。帰りの電車のことなどを考えているに違いない。
政治家が靖国神社に参拝するとか言っているがいったいなにをやっているのか。正しい方法はたった一つしかない。自分もすぐそちらに行きます。とか。
習慣や癖は人間にとってとても重要なものだ。人間の行動の90%は習慣や癖だからだ。(習慣と癖の違いについてはここでは考えない。一つにまとめて習慣ということにする。)
人間にはたくさんの習慣がある。人間は習慣を作らないと生きていくことができない。習慣には間違った習慣もたくさんある。体によくないものを食べているとかだ。人間は間違った習慣を延々と繰り返す。間違っているとわかっていてもやってしまうのが習慣だが、間違っているとわからない習慣もたくさんある。
動物は本能で生きているので習慣というものがほとんどない。少しはあるかもしれない。習慣を作って生きるのが人間の特徴だ。人間は習慣を作らなければ生きることができない。
2026年10月28日 水曜日
時間について考えた。
何年前とか紀元前何年とか6500万年前とか42億年前とか過去を数字で考えるのは、ようするに過去にも現在があったと考えている。いまと同じ現在がずっとつながっていまの現在があると考えている。それに対して疑問を感じている。ずっと疑問を感じていたということがわかった。人間の歴史ならそれでもいいかもしれない。しかし、人間が存在しない過去に現在など存在したのだろうか。という疑問だ。過去に現在はあったのか。現在を失ったのが過去ではないか。
仮説。過去は時間が経過するに従いだんだん現在を失っていく。百年くらいで過去は現在を失って、すべての過去は一枚の平面に属するようになる。単なる過去という一枚の平面だ。そして過去に起こったことはすべて同じ過去に起こったことになる。平安時代も縄文時代も先カンブリア時代もみんな単なる同じ過去になる。この過去とはなにか。死後の世界だ。過去の出来事はすべて死後の世界に移行する。マンモスは死後の世界に存在している。すでに死んだ人間がみんな死後の世界に存在しているのと同じだ。
学者が5億年とか42億年とか言うのはわかりやすく説明するための方法にすぎず、時間のことを考えているのではない。
習慣と癖の違い。行動の大きさが違う。習慣は行動だが癖はちょっとした動作のようなものだ。また、癖のほうが無意識の分量が多い。厳密な違いではない。
2026年10月29日 木曜日
音楽の目的は音楽以外のことをどうでもいいことにすることだ。音楽以外のことをどうでもいいことにしなければ音楽を聴くことはできないのだから。ほかの意識を消去しなければ音楽に集中できない。
女性の価値が美人・カワイイしかなくなったのはほかがみんな同じようになってしまったからだ。そのように、ほかがみんな同じようになったために浮上する価値がある。平等になると陳腐な価値が浮上する。しかし、男にそんなものはない。男が平等になるとみんな平等に陳腐になるだけ。
調子のいい日とよくない日が一日ごとに変わる。
休みの日の過ごし方に失敗する。自由な時間が長すぎるせいだ。自由な時間が多すぎるとかえってなにもできなくなる。余計なことをやってしまい、余計なことをやってしまうと余計なことが全時間を支配するようになるからだ。余計なことから抜け出すことができなくなる。余計なことの思考・意識に支配されてしまうからだ。
2026年10月30日
『国宝』吉田修一
ヤクザ界、歌舞伎界という伝統芸能を扱っているが、典型的な通俗小説だ。通俗小説とは思考・意識のパターンと表現のパターンが決まっているということだ。母親が死んだ時にはAかBかCのどれかを考えると決まっているのでどれかを選ぶだけでいい。
少し前に「みんなが平等になるとすべてが陳腐になる」といったことを考えたが、そういう現象の一つは、すべてが単なる職業の一つになってしまうということだ。芸能もスポーツも単なる職業の一つになってしまう。僧侶も神父も暴力団も単なる職業の一つになってしまう。政治家も単なる職業の一つになってしまう。そしてすべてがパート・アルバイトのようになる。市長も大臣も総理もパート・アルバイトだ。われわれは選挙でパート・アルバイトを選んでいる。
消費税8%10%などと言っているが実質的な税率はもっと多いにちがいない。暗黙のうちに取られている税金のようなものもあるからだ。企業の社長が払う税金が商品の値段に含まれているかもしれない。
酒の酒税にはさらに消費税が取られている。税金に税金がかかるのだ。そんなことが許されるなら所得税にも消費税を追加できるし、消費税の消費税を取ることもできる。その消費税にもまた消費税が取られるようになる。
こうだと教えられることと実際に起こっていることは違うということだ。
どこかでこんな記録が生まれたと大騒ぎしているが、記録などいくらでも作ることができる。誰でも日本記録や世界記録を百ぐらい持っている。一日に放出した屁の70%が音無しだったのは世界新記録だとかだ。ギネスのようにどんなことでも記録にしようと思えばできる。
禅などはなにも意識しないことを練習している。なにも意識しないことによって意識できることがある。なにも意識しないということは宇宙全体を意識していることになるのかもしれない。なにかを意識するということはその対象にも影響を与えているのかもしれない。
知能が弱い人間をどうするかは大きな問題なのに、その問題がなんとなく隠蔽されている。自分で考える能力のない人が実際に存在する。その度合いも様々でそれを分類することは不可能だ。どちらなのかわからない人も多い。・・・・・・
人間をすべて同じ人間として扱うのは不可能ではないか。無知には要介護無知もあるし野放しになっている無知もある。人間は知能の度合いによって大きく変わる。それらをみんな同じ人間として扱うのは不可能ではないか。
2026年10月31日 土曜日
上記の問題を夜じゅう断続的に考えていた。これはけっこう大きな問題なのかもしれない。中途半端な知性が一番よくないようだ。境界領域とか言っているらしい。中途半端な知性とは、考えることはできるのだがまともに考えることができない知性だ。そういう人は必ず考えることに失敗する。そして変なやつ、嫌なやつ、狂った人、バカなやつになる。そういう人が一番腹が立つし、嫌になる。むしろぜんぜん知性がないほうがましだ。しかもそういう境界領域が拡大しているような気がする。
そういう人に対してどう対するかが問題なのだ。そのことをずっと考えていたようだ、何年も。なんとなくわかってきたことは、同じ人間だと思うから腹が立ったり嫌になったりするということだ。同じ人間だと思わなければいい。別の種だと思えばいい。カラスやクマに腹を立てても仕方がない。別の種なのだから、別の種として接するしかない。「B人間」といった名前を付けたいが名前は付けないほうがいい。差別に転化する怖れがあるからだ。付けるなら「皇帝人間族」とか「大臣様」とかのほうがいい。あの人たちはみんな自分が一番偉いと思っているのだから。
(まだ結論ではない。この記述はすべてそうだが。)
この辺の中学生はどこの中学に通っているのか。近くに中学校など見たことがない。などということが気になりだす。
どうでもいいことでもわからないことがあると気になる。そして調べたりする。人間にとって〈わからない〉とはたいへんなことなのだ。とても不安定な状態だ。調べてわかると安心してもうすべて忘れてもいい。しかし、わからないという状態にも到達しない人がいるらしい。わからないということがわかるだけでもそうとうなことなのだ。いろいろなことがわかっていないとわからないということも発生しない。
また、適当な答えでもわかったことにして一件落着にする。
わからないままになっているわからないこともたくさんある。それらはたぶんわからない状態で固定してしまっている。わからないことをわからないままにしておくとわからない状態で固定してしまう。