新時代4(前のつづき)

 ここまではものの値段がどのように決まるかをおもに考えてきたので、お金そのもについてはあまり考えませんでした。少しだけお金そのものについて考えておきます。新しいお金がどうやって発生するかです。
 われわれはなにかを作りそれを売ることによってお金を得ています。(あとで考えますがサービス業も同じようなものです。)ものを作るための経費より高く売ることによってお金を稼ぎます。(その高くした部分が労働の値段ということになります。)80円で作ったものを100円で売ると20円の儲けになります。いままで存在していなかった20円が発生したことになります。ものを作って売った人には、いままで存在していなかった20円というお金が新しく出現したように見えます。いままで存在していなかったお金が創造されたのです。しかしそれは錯覚です。よく考えれば、買った人のお金が移動してきただけです。つまり、すでに存在していたお金が移動してきただけです。買った人はそのお金をどうしたのでしょう。同じようになにかを作って売ることによって得たのですから、それも別の人のお金が移動してきただけです。どこまで追求してもそれが続くだけ、同じお金が移動しているだけです。新しいお金はどこにも発生しません。自分が20円稼ぐと自分には新しい20円が発生したように見えるだけです。「お金がぐるぐる回っているだけ」とはこのことを言っているのでしょうか。
 作るー売るー買うー使うのサイクルからは新しいお金は発生しないようです。すでに存在しているお金が移動しているだけです。いままにないような新しいものを作っても新しいお金が発生するわけではないということです。誰かのお金が増えると必ず別の誰かのお金が減ります。
 そうすると様々な疑問が発生します。
 同じお金がぐるぐる回っているだけなら、世の中に存在するお金の量は常に一定なのでしょうか。世の中に存在するお金の量が一定ならそれはどのくらいの量なのでしょうか。量が一定のそのお金はいつどうやって発生したのでしょうか。しかしテレビでは世の中のお金の量が増えたとか減ったとか言うのではないでしょうか。総生産とか総所得とか総貯金とかもずいぶん変化するようです。外国との貿易のせいでしょうか。そうだとするなら世界全体のお金の量は一定ということなのでしょうか。GDPとかが変化するのはお金の回転を速くしているからなのでしょうか。500円玉が一日に十人の人間を移動するとします。高速で売ったり買ったりを繰り返すわけです。そうすれば500円玉が一個しかないのに一日の総生産が5000円になり一日の総消費が5000円になります。GDPが増えるとはみんなが高速で動いたということなのではないでしょうか。その場合売るだけではだめです。売っただけの分は買わなければなりません。お金持ちとは短い時間に大量のお金が通過しているというかもしれません。
 世の中に存在するお金の量が一定なら人口が増ええたり減ったりしたらどうするのでしょうか。人口にあわせてお金の量を誰かが調節しているのでしょうか。人口が減ればお金持ちが増えるのでしょうか。


 しかし、世の中に存在するお金の量が一定などということはないはずです。あらゆるものの値段が一斉に高くなったり、賃金がだんだん上がっていったりするからです。(下がることもあるが上がるほうが多いのも不思議です。)それに人々の行動の速度もあまり変化していないようです。たぶん世の中に存在するお金の量はだんだん増えているにちがいありません。いまだけの現象かもしれませんが。
 存在しているお金を動かすだけではお金の量は変化しないのだから、お金の量はどうやって増えるのでしょう。つまりいままで存在していなかったお金が発生するのです。お金が自然現象で発生するなどということは考えられません。ということは人間が作っているのです。しかし、作ろうと思って作っているのか、作ろうと思っていないのに作ってしまうのか。お金を作るのは思っているほど簡単なことではないようです。札を印刷すればいいのでしょうか。印刷した札をどうやって世の中に出すのでしょうか。全員に無料で配るのでしょうか。そんなことは見たことがありません。古い札と交換するくらいしかできないのではないでしょうか。それではお金が増えません。印刷した札を売りにだすのでしょうか。たぶん一万円札は一万円で売るしかないでしょう。それでは誰も買いません。このように新しいお金を存在させるのはひどくむずかしいことです。なにか裏技のようなものが必要なのではないでしょうか。でも実際にそれをやっているわけです。
 同じお金を同時に二回使えばいいのではないでしょうか。500円玉一個で500円のスイカと500円のメロンを同時に買うということです。同時といってもほぼ同時であって少しの時間差を作ります。次のようにします。500円のスイカを買って500円を一時間後に払う約束をします。その一時間の間に500円でラーメンを作り1000円で売ります。儲かった1000円のうちの500円で500円のメロンを買います。手元に500円が残っています。一時間でそれだけのことをやり、一時間後に一時間前に買ったスイカの代金を支払います。これで500円で500円のスイカとメロンをほぼ同時に買ったことになります。これは時間差を利用しているようですが、一時間だけ借金をしているのであって、借金を利用したマジックです。というより借金とは常に時間差を作り出すことです。でもこれもすでに存在しているお金が動いただけで、新しいお金が発生したわけではないようです。計算できませんがたぶんそうです。
 資本家は銀行から金を借り、金を返すまでの間にその金を使って借りた以上に儲けて利子と一緒に金を返せば手元に金が残ります。それは新しく発生したお金ではないでしょうか。売り買い貸し借りがすべて終わっても残っているお金だからです。いったいなにが起こっているのでしょう。計算機で計算しながら考えなければわからないかもしれません。銀行にとっては出て行ったお金が利子の分だけ増えて戻ってきただけです。利子の分だけ増えていますがそれは資本家がなにかを売って儲けたお金ですから新しく発生したお金ではありません。資本家にとってもすでに存在しているお金が動いただけではないでしょう。資本家が儲かった分は誰かのお金が減少しているのです。ですから借金が新しいお金を発生させるわけではないようです。でも、借金が新しいお金を生み出すことに関係しているようです。


 銀行に貯金するとはどういうことでしょう。銀行がわれわれから借金しているということです。銀行はこの借金をほかの人に貸します。銀行から金を借りた人は銀行の借金を借金しているのです。もっと複雑なこともできます。銀行からお金を借りてそのお金を 
銀行に預金します。そのお金をまた借りるということもできます。実際にそのお金かどうかはわかりません。またほかの銀行から借りたお金を別の銀行に預金するということもできます。そうするとなにが起こるのでしょう。われわれの想像力と思考力ではまったく理解できません。


 われわれの給料は銀行振り込みです。それは給料が自動的に銀行の預金になるということです。でも数字が変化するだけです。会社の預金の数字が減って、従業員の預金の数字が増えるだけです。銀行はわれわれの預金を誰かに貸します。それも数字が変化するだけです。銀行がお金を貸した人の預金の数字が増えます。しかし、われわれの預金の数字は変化しません。銀行はわれわれの預金を誰かに貸しているのにわれわれの預金の数字は減らないのです。これはどういうことなのでしょう。ここに秘密がありそうです。
 先に進みます。銀行からお金を借りた人はそのお金を原料の支払いに使います。それもたぶん預金の数字が変化するだけでしょう。原料の支払いを受けた人の預金の数字が増えます。それはわれわれの預金のお金だったものです。でもわれわれの預金のお金もそのまま残っています。どちらの預金も現金に変えることができます。そうするとやはりまったく存在しなかったお金が出現したことになるのではないでしょう。その時こそ新しく印刷した札が必要になります。
 新しいお金を作り出すためには借金だけではだめだということです。銀行が介在しなければならないのです。銀行はわれわれの預金を誰かに貸しているのにわれわれの預金の数字を変えないでいることができるのです。これはマジックです。貸したはずのお金がそのまま残っているのです。ないお金をあることにできるマジックです。銀行はこのマジックを使うことを許されているようです。そして実際にわれわれはないはずのお金を引き出すことができます。このマジックを使えば同じお金を何人にも貸すことができるはずです。法律でそれを制限してもきっとなにか裏技が作られます。
 このマジックの全貌を完全にわかる人はいないのではないでしょうか。同じお金を貸したり借りたりしていると、どのお金が貸したお金なのかどのお金が借りたお金なのかわからなくなります。自分が借りたお金は自分が貸したお金かもしれないのです。やがてそこにどこにも存在しなかったお金が出現するのです。同じ方法を使ってお金を消滅させることもできるはずです。経済のいろいろなことがこのマジックに関係しているはずです。経済の様々な活動がこういうマジックに自然に根を伸ばしてしまうからです。様々な植物の根が生物の死体に寄り集まっていくように。





 〔新しい人間と経済改革の合体〕
 人間を新しい人間に変える新しい制度と経済改革は密接に関係しています。経済改革を実現するためには人間を新しい人間に変える必要があるということです。個人中心主義を終らせなければならないということです。新しい制度に変われば経済の基本単位も新しい人間に変わります。新しい人間と経済改革を合体させるとどうなるかはここでは考えません。みなさんが考えてください。たとえば、新しい制度になると所有の主体も新しい人間になりますが、経済改革によって所有というものはなくなります。自然物はすべて無料で使用し使用が終われば返却されるからです。


 返却がむずかしいのはエネルギーです。エネルギー問題はこれからますます大きな問題になります。もうこれ以上エネルギーを使えないのはみんなわかっています。余計なものを作るのをやめるしかないのもみんなわかっています。余計なものを生産するために使うエネルギーの余裕はないからです。しかし、余計なものの生産をやめることができません。なぜなのでしょう。やめられない仕組みが出来上がってしまったからです。それが新しい制度に関係しています。
 まず電気から考え始めます。エネルギーはおもに電気を作るために使われているからです。電気とはいったいなんのでしょう。電子というものがそこいらじゅうを動き回っているようなのです。人類はそれを見つけました。そしてそれを操作する方法まで見つけたのです。それはたいへんなことでした。歴史上の皇帝や権力者を全部集めても電気の発見にはかないません。人類が電気を使いこなすようになるのは必然的なことだったのでしょうか。宇宙人はみんな電気を使うようになるのでしょうか。電気の代わりになる電気のようなものはありそうもないからです。電気は電気しかないのです。電気を使い続ける限り電気を作り続けるしかありません。
 石油・石炭・天然ガスの量には限界があります。原子力は危険すぎます。太陽光発電は効率が悪すぎます。そのうえ環境問題があります。これがエネルギー問題です。電気は電気しかありませんが、電気を作る方法はほかにもあるはずです。やはり最後に頼れるのは太陽ではないでしょうか。もっと簡単で効率的な太陽光発電を誰か考えてください。太陽の光で水を熱くして発電機を回しましょう。細い金属管で水をあたため一方のノズルから蒸気が噴き出すようにします。ほかに使えそうなのは人体です。人間が眠っている間に発電します。
 いまのところはまだできるだけ電気を使わないようにするしかありません。それはつまりできるだけ余計なものは作らないということです。
 なにが必要でなにが必要ないかは誰でもわかっています。生物体が自然にわかることだからです。食べ物や衣類は必要ですし、アニメやゲームは必要ありません。生きるためには必要なものが必要なだけあればいいのです。ところがわれわれは必要のないものを大量に作り、大量に買い、大量に使い、大量に捨てています。なぜなのでしょう。そうしなければ生きていけないからです。不思議なことです。生きるために必要のないものを作って消費しなければ生きていけなくなっているのです。どうしてそんなことになるのでしょう。このねじれに謎が隠されています。経済のあらゆる欠陥がここに集中しているのです。
 (なにが必要でなにが必要でないかも細かく考えると切りがなくなります。食べ物でも必要のないものがありますし、必要と不必要が合体したものが多いとかです。)
 生きるために必要なものはすべて作られています。たぶん全人間の20%くらいの人間によって、すべての人間が生きるために必要なものは作られています。つまり全人間の80%は働く必要がないということです。しかしそれだとお金を稼ぐことができるのは、必要なものを生産している20%の人間だけです。そのお金が残りの80%に回っていかないので、残りの80%は必要なものを買うことができません。お金を稼ぐことができる20%の人間のお金が残りの80%に回っていく仕組みがないということです。この80%の人間が必要なものを手に入れるには自分でお金を稼ぐしかありません。そこでなにかを作って売ろうとします。しかし、必要なものはすべて作られています。だから違うものを作って売るしかありません。それほど必要のないもの、アニメやゲームです。こうして必要のないものを作って生きるためのお金を稼ぐしかない人が増えていったのです。必要のないものを売るためには必要のないものも必要だと思わせる宣伝が必要になります。アニメやゲームも生きるためには必要だと思わせなければなりません。アニメやゲームを必要でないものの代表として扱っているだけで、特にそれらを槍玉に上げているわけではありません。80%の人間はそういうものを売ってお金を稼ぎ、そのお金で必要なものを買ってなんとか生きているのです。また、われわれはそういうことを薄々知っているのです。必要のないものを買わなければ必要のないものを作っている人が困るとわかっているのです。旅行しなければ観光業界の人が困る。飲食店に行かなければ飲食業の人が困る。そういうことがわかっています。このようにして余計なものをたくさん作るようになり、余計なことをたくさんするようになり、余計なエネルギーを使うようになりました。もうすぐ月々の出費の半分は電気代になるでしょう。
 これらすべての原因は人間から人間へお金がスムーズに移動できないからです。ものを売ったり買ったりしなければ人間から人間へお金が移動できないからです。どうしてそうなるのか。財布が個人別になっていることが主要な原因ですが、ここには経済のあらゆる問題が含まれています。現在の経済制度そのものを変えなければどうしようもありません。ゴッホのひまわりにマヨネーズを塗ってもなにも変わりません。
 人間が新しい人間に変わっても50人くらいの財布が一つになるだけですから小さな変化にすぎません。しかし、新しい人間には様々な職業の人が集まります。必要なものを作っているSDもいれば必要でないものを作っているSDもいるわけです。それがだんだん、必要でないものを作っているSDが必要のほうにシフトすると予定されています。そのためにSD交換とSD結合が使われます。お金を稼ぐSDが10人いれば50人のSDが生きていけるようになると予定されています。いや、お金を稼ぐSDが10人いるのではなく、お金を稼ぐ仕事が10個あるということです。その10個の仕事をみんなでやるというわけです。


 この問題はあまりにも重要なのでもう一度簡単に復習します。
 われわれは余計なものを大量に作っています。必要のないもの、別になくてもいいものを大量に作っています。そのために大量の無駄なエネルギーを使って環境を破壊しています。なぜそんなことができるのか。いらないものでも売れさえすればお金になるからです。お金になればそのお金で必要なものを買えます。ようするに、不必要なものを売ってお金になれば必要なものを帰るということです。お金を使えば不必要なものを必要なものに変換できるのです。お金は不必要なものを必要なものに変換できるのです。お金を使えばガチャポン(カプセルトイ)がラーメンに変身するのです。これこそが錬金術です。ですから大量の不必要なものを生産するようになるのです。どんなものでも売れてお金になりさえすれば生きていけるのです。売れさえすればなんでもいいのです。そのためにそれを必要なものだと思わせなければなりません。現在の文化とはほとんどがそう思わせるためのものです。まったく必要のないものを欲しくてたまらないものに思わせるための仕掛けが文化になっています。テレビなどはすべてがそうす。CMだけでなく番組のほとんどがいらないものの宣伝です。お金は不必要なものを必要なものに変換できる。そうして世界には不必要なものが大量に作られ続けているのです。
 たとえばプロ野球などまったく必要のないものです。そんなことは誰でもわかります。水害で避難所に非難した人はみんな野球のことなど忘れています。そのようにまったく必要のないプロ野球でたくさんの人が活動して大量のお金が動き大量のエネルギーを使っています。誰もそれが変だと思いません。それどころか至る所で野球の話題で盛り上がっています。連日スター選手の話題で膨大なエネルギーが消費されます。多くのの人間がそういうものだと思い込まされているのです。野球だけではありません。たぶん80%の人間が必要のない産業に従事しています。


 〔経済改革はどのように始まるか〕
 人間を新しい人間に変える制度改革と経済改革は同時にすることが可能ですが、別々にすることも可能だし、どちらかだけすることも可能です。しかし、同時にするとやりやすくなります。互いに互いを補助する関係になるからです。いずれにしてもこのような大きな改革はいきなり始めるしかありません。とりあえずここでは経済改革をどのように始めるかを考えます。
 まず開始する日を決めます。それまでにあらゆるものの新しい値段(ジョブ)がどうなるかを計算しておきます。サービス業ならサービスの値段(ジョブ)になります。おもにその当事者が計算しますが、会社では会社全体で計算するようになるでしょう。
 その日にまず起こることは、労働以外のあらゆるものが無料になること、いままでのお金が廃止になること、所有というものがなくなることです。これらのことは連動して起こります。ものに値段がなくなるのだから必然的にあらゆるものが無料になります。土地も家も自動車も家の中のものも家の外のものも自然のものも情報もすべてが無料になります。あらゆるものが無料になり誰のものでもなくなり、所有できるものがなくなるのです。シャツも眼鏡もスマホもただ一時的に自然から無料で借りて使っているだけです。
 所有がなくなるということは共有や国有もなくなるということです。
 いままでのお金(円)は使えなくなります。お金はただの物質になり、使い終わったものとして自然に返却されます。貯金は消滅し、株や債券も消滅します。金額が表示されているあらゆるものから金額が消えます。ですから借金もすべて消滅します。国の借金もほぼ消滅するでしょう。(世界じゅうの円が消滅する?)財産、資産、不動産といったものがなくなります。値引き、安売り、ポイント、手数料がなくなります。賞金、宝くじ、ビール券などがなくなります。
 お金(円)が消滅すると同時にジョブが発行されます。すべての人間(新しい人間)に一年分のジョブが支給されます。ジョブは電子マネーのようなものになるかもしれません。
 これより以後あらゆるものの値段(ジョブ)は人間の労働(ジョブ)によって決まります。労働(ジョブ)によって作ることのできないものには値段(ジョブ)が発生しません。すべての人間の労働ジョブは同じです。一時間の労働が1000ジョブとすると、一日の労働は8000ジョブ、一週間の労働は40000ジョブになります。どれで計算してもかまいません。労働によってものの値段が決まるのであって、需要と供給などなんの関係もありません。売れるか売れないかも関係ありません。一時間に一個作るものは1000ジョブであり、一時間に二個作るものは一個500ジョブになるだけです。
 一日の労働が8000ジョブとは一日に八時間が労働の限界ということにするからです。八時間以上働いても一日の労働は8000ジョブにしかなりません。一週間の労働が40000ジョブとは一週間に五日働くのを限界とするからです。それ以上の労働はジョブにはならないということです。
 その日からあらゆるものの値段がジョブに変わります。その日の労働からジョブが発生するということです。支給される一年分のジョブは別です。また、経費のジョブもその日から発生したことにします。
 その日までにあらゆるもののジョブが計算されていなければなりません。もののジョブはものに加えられた労働ジョブの総計になります。まず自然からものを取り出すためのジョブが一番目のジョブになります。そこにそれを加工するジョブや運搬するジョブが加えられていきます。電気や燃料のジョブも追加されます。機械やパソコンや設備のジョブも追加されます。ようするに経費のジョブです。どんな仕事もその前段階の労働ジョブが積み重なっているのです。すでに存在している機械やパソコンは対象外になるかもしれません。機械やパソコンの労働からジョブは発生しませんが、電気代ジョブは発生します。そういったことがすべて前もって計算されて商品やサービスのジョブが決まります。チーズを作っている会社には牛乳のジョブが牛乳を作っている会社から前もって報告されるわけです。税金ジョブもその日までに計算しておかなければなりません。それらはすべて当事者が計算することになるでしょう。
 その日にはスーパーの商品も電車賃も水族館の入場料もすべてジョブになっています。給料も次の給料からジョブになります。しばらくは支給されたジョブで生活することになります。最初はたいした変化ではないような気がします。円がジョブに変わっただけのようです。しかし円とジョブを簡単に比較することはできません。ものの値段がどのように変化するかはみなさんが予測してください。安くなったように感じるものもあれば、高くなったように感じるものもあります。農作物は以前と同じように天候によってずいぶん左右されるはずです。大量に簡単にコピーできるものはほとんど無料になります。利用する人数によって値段が変化するものが増えます。人間の労働によってものの値段が決まるとは、一人の人間が一日になにかを一個作るとすると、そのすべてはほぼ同じ値段になるということです。そこから予測すれば値段の異常に高いものは存在しなくなります。大量生産品は安くなります。そしてもちろん全員の収入がほぼ同じになります。
 ジョブは交換のための道具にすぎません。ですから「値段」という言葉も適切ではありません。しかし急にあれもこれも変えることはできません。
 労働が以前より楽になることはありません。前よりいっそう創意工夫が必要になります。作ったものがすべて売れるようにしなければならないからです。
 機械やパソコンの労働はどうやって計算するかという問題が発生しますが、機械やパソコンの労働は人間の労働に組み込まれて計算されます。パソコンを使わなければ一日に100個しかできないものがパソコンを使うと300個できるとします。そうするとパソコンが200個作ったことになりそうです。そうだとすると、人間が作った100個とパソコンが作った200個の値段を別々に計算しなければならなくなります。そんなめんどうなことをせずに、人間が300個作ったことにすれば100個作った場合と比較して値段が三分の一になります。機械やパソコンの労働はそのようにして人間の労働に組み込まれます。運送業ではトラックの労働は運転手の労働に組み込まれます。牛や馬や犬の労働も同様です。ミツバチや麹菌の労働もです。それらの設備費は別です。機械やパソコンやAIや人間以外の生物の労働にはジョブが発生しないということです。それらを操作する人間の労働にジョブが発生するだけです。動物や植物の成長にもジョブは発生しません。


 それまで自分のものだったものはすべて自分のものではなくなります。自分のものといえるのは自分だけです(自分の労働も)。土地も家も自動車も誰のものでもなくなります。家の中にあるものすべて、着ている服もです。所有ということがなくなるのです。しかし、使っているものはすべてそのまま使い続けることができます。住んでいる家にそのまま住み続けることができます。ローンは消滅し、賃貸の場合は家賃がなくなります。土地も住んでいる人がそのまま使い続けることになります。工場や畑に使っている土地もそのまま使い続けることができます。使われていない土地は誰のものでもない土地になります。そういう土地が至る所に発生します。使っている自動車などをほかの人が使うことを拒絶できません。そしてそのまま戻ってこないこともあり得ます。
 そういった問題を考えていると、所有と使用の区別がはっきりしないという問題が発生するということがわかります。使用がいつのまにか所有になってしまったり、所有しているものを使用するということもあります。所有と使用はなにが違うのかもっと明確にする必要があります。所有は使用していない時にも継続しているが、使用は使用している時だけです。所有は所有している人だけのことですが、使用は誰でも使用できます。などといったことが考えられますが、少し考えただけでひどくむずかしい問題だとわかるのでこれからの課題にしておきます。
 所有と使用の違いは結婚と恋愛の違いのようなものかもしれません。恋愛を「好きになること」と考えれば、一方的に好きになってもいいし、何人好きになってもかまいません。簡単にやめることもできます。ただ遠くから見ているだけの好きもあります。恋愛ドラマでは「好きな人を一人に決めなければならない」ということになりがちですが、それは結婚を前提にしているからです。好きな食べ物がいくつあってもいいように、好きな人が何人いてもかまいません。ラーメンを好きな人がカレーを食べたら不倫ということにはなりません。あらゆる食べ物が好きだと「こころがゆたか」といわれたりします。つまらない比喩ですが、使用には愛情があるけれど所有には愛情がないのです。ただ好きなだけというのが使用だということにしておきます。
 もっと簡単な説明を見つけました。使用とはなにかは、言葉の使用を考えるとわかります。使用とは言葉の使用のようなものです。言葉は誰のものでもなく、誰でも言葉を自由に使うことができ、誰も言葉を独占することができず、ここに存在する言葉も誰の言葉かわかりません。あらゆるものが言葉のようなものになるのです。
 自然物はすべて所有できません。ジョブでなにかを買っても所有することはできません。ジョブで買ったのは人間の労働であって自然物ではありません。(「買う」「売る」という言葉も変えたほうがいいかもしれません。)自然物は使用できるだけです。使用とは使用している間だけ使用しているということです。独占的に使用することはできません。使用できるものはすべて誰でも使用できます。電子レンジなどはその辺に置いておけば誰でも使えます。電気もです。(電気をどういう仕組みにするかも考えなければなりません。)たいていのものは誰が使ってもよくなります。新しい人間の内側だけでなく外側でもそうなるということです。言葉が人間から人間へ(SDからSDへ)次々と移動するようにあらゆるものが人間から人間へ(SDからSDへ)移動します。ボールペンなどは同じボールペンに二度と出会えません。誰のものでもない服を着て、誰のものでもない自転車に乗って寺家町に行き、誰のものでもない自然を感覚できます。「私有地につき関係者以外立ち入り禁止」という立て札があったら過去の遺物なのですから抜いてください。入ってはならない土地や建物はなくなります。鍵を掛けることは禁止になります。トイレの鍵以外すべての鍵です。トイレの鍵も中に入っている間だけ掛けます。
 所有というものがなくなると「盗む」ということもなくなるようです。「盗んではならない」という規則が存在する社会にはすでに所有というものが存在していたということです。


                    
 同じものを使用し続けるためには許可が必要になります。そのための使用許可局を作ります。あらゆるものの使用を管理するためのものではなく、おもに土地とか資源とか海などの使用を管理します。それも小さな土地ではなく、工場や発電所や農地を作るための土地です。所有権がなくなると誰も使っていない土地がたくさんできます。そういう土地の使用を管理します。作物を作るために空いている土地を使いたい場合などに使用許可局から許可をもらいます。もちろん土地は無料で使えます。
 いま住んでいる家の土地はそのまま無料で使えますが、新築の場合などは人間(SD)一人に使える土地の広さは制限されます。自給自足のための農地の広さも制限されます。使用量の制限ということですが、それはほかのいろいろなことに適用されます。無料で使用できるものにも量の制限が必要なのです。漁獲量の制限などです。恋愛に限界があるように使用にも限界があるということです。求めすぎてはいけません。相手は誰のものでもないのです。誰のものでもないものはそっと静かに扱わなければなりません。
 所有権が存在しない世界には「貸す」とか「借りる」ということも存在できないようです。自分のものでないものを貸すことなどできないし、相手のものでないものを借りることなどできないからです。むしろ貸したり借りたりすることによって所有権が強化されていたのです。学校でも消しゴムを借りることができなくなります。消しゴムはみんなで使うだけです。


 小売でも店が商品を所有しているのではありません。「商品」という言葉がよくないのです。このように古い経済用語はすべて変えたほうがいいようです。古い経済用語で新しい経済制度を説明するとだんだん混乱してきます。人間(SD)は店(生産物の分配所)にいってジョブと生産物を交換するのですが、売ったり買ったりしているのではないのです。所有権が移動しているのではありません。ではなにをしているのでしょう。自分のジョブと生産物に含まれる他人のジョブを交換しているのです。いや、ジョブでジョブで消していると考えたほうがいいかもしれません。店の人間は生産物を多くの人間に分配するという労働を生産物に加えています。その分のジョブは生産物に追加されます。
 ということは、ほかの人間のジョブが含まれるものは使用できないということでしょうか。ということは、ジョブが所有権のようになっているということでしょうか。人間が所有できるのは自分の肉体だけで、労働は肉体に含まれるということになるようです。





 ほかの国との関係はどうなるでしょう。同じ経済制度を導入した国との貿易にはなんの問題もありません。為替レートなどの呼ばれていたやつは固定されるからです。日本の一日の労働が8000ジョブで、別のある国の一日の労働が500ジュールなら、8000ジョブ=500ジュールになり、16ジョブ=1ジュールに固定されます。ですからどちらもジョブにしてしまえばいいのです。そうすれば経済的には一つの国になってしまったようなものです。
 以前の経済制度のままの国との貿易はどうなるでしょう。
 いままでどんな国ともそれなりに貿易が可能でした。そのほうが不思議なくらいです。つまりすべての国の経済制度がほぼ同じだったということです。そこにまったく違う経済制度の国が出現しました。人間の労働の値段が人間ごとにみんな違う国ばかりなのに、人間の労働の値段がみんな同じ国が出現しました。ジョブはいままでのお金とまったく違うものです。たとえば1ドルが何ジョブになるか計算不能ということです。それどころか1円が何ジョブになるかも計算不能です。ジョブはどこの国のお金とも交換できません。ですから、貿易どころか旅行もできません。どうすればいいのでしょう。そんな国とは貿易をしないという選択肢もあります。
 試しに計算してみます。
 アメリカで日給120ドルの人が一日に10ドルの商品を100個作っているとします。日本の日給はすべて8000ジョブですので、120ドルを8000ジョブとします。8000ジョブで100個の商品を作ると一個80ジョブになります。10ドルの商品が80ジョブになります。そうすると給料の比較では1ドル67ジョブくらいになりますが、商品の比較では1ドル8ジョブになります。こんなに食い違うわけです。それがあらゆるもので起こります。ものによってドルとジョブの交換比率がすべて違うということになります。それはドルとジョブは交換不能ということです。


 自国と他国で同じものの値段が違います。これは実に不思議なことです。ものの値段がかってに変動するのでそうなるのです。(経済学者はものの値段がどのように変動するか、その法則を見つけようとしますがそんな法則はありません。自分の収入がどうやって決まるかを考えただけでそんなことはわかるはずです。)ものの値段が決まる明確な法則などなく、ものの値段は適当に決まります。国によってものの値段の決まり方が違うので国によってものの値段の体系が違っています。
 ものの値段の体系が違うと経済的な交流が面倒になります。だから、経済制度が変わってしまうと経済的な交流はほぼ不可能ということになります。そこに逆転の発想があるはずです。ぜんぜん違うから逆に行き来しやすくなるということもあるはずです。相手の国では相手の国の制度に切り換えるのがいいかもしれません。
 アメリカのものや人間が日本に来るとすべて日本式に変わり、日本のものや人間がアメリカに行くとすべてアメリカ式に変わるようにします。アメリカでタマネギ一個50ドル、日本でタマネギ一個100ジョブだとすると、アメリカのタマネギが日本にくると100ジョブになるようにします。だからといって50ドル=100ジョブということではありません。日本から見ればプラス50ポイント、アメリカから見ればマイナス50ポイントということにします。
 これはアメリカのタマネギの値段をジョブで計算しなおすということです。日本のタマネギの値段を参考にして決めているだけですが。なぜなら人間の労働ジョブは世界じゅう同じということにしているのだから、どんな国でも同じものはほぼ同じ値段ジョブになるはずです。
 アメリカで卵が一個30ドルで、日本で卵が一個20ジョブだとする。日本の卵がアメリカに行くと30ドルになります。これを日本から見ればマイナス10ポイント、アメリカから見ればプラス10ポイントということにします。
 プラスとマイナスは反対でもかまいません。問題は数字の差だからです。ドルとジョブの関係を為替の関係ではなく、単なる数字の関係として処理します。そしてプラスマイナスゼロにすれば貿易が成立ということにします。つまり、アメリカから日本へタマネギが一個来たら日本からアメリカへ卵が五個行けば取り引き成立ということです。これは物々交換に似ていますが物々交換ではありません。タマネギと卵の取り引きは別々に起こってもいいからです。しかし、それぞれの国でタマネギ業者と卵業者の協議が必要になります。それはそれぞれの国の問題です。だからそれはそれぞれの国の経済制度によって決められます。
 あまりいいアイデアではないようです。めんどうです。
 ジョブを軽く見すぎているようです。ジョブには浸透力があるはずです。ジョブはいつのまにか世界じゅうに浸透して行くかもしれません。それはジョブによる世界統一ということになります。なぜなら人間の労働ジョブは世界じゅうの人間みんな同じだからです。人間はみな平等だと宣言した時点ですべての人間の収入を同じにするべきだったのです。


 すべての国の経済制度がほぼ同じなのはなぜでしょう。まったく違う経済制度があってもいいのではないでしょうか。世界じゅうの経済制度がほぼ同じなのは、すべての国が西欧の経済制度を真似たからです。真似せざるを得ないように西欧が仕向けたともいえます。西欧のような経済制度になるのは必然的なことではないというです。
 しかし、お金が出現するのは必然的なことでした。そして、お金が出現するとどこでも同じようなことが起こります。お金はどこでも同じように運動するからです。それは自然法則のようなもので人間がそうしようとしてそうするのではありません。それこそが「神の見えざる手」です。ほかの国が西欧を真似たのはそういう部分ではなく、もっと細かい部分でした。会社や銀行の作り方とか、取り引きや株の細かい規則などです。
 そうやって現在の経済制度が出来上がりました。それを変えようというのが経済改革ですが、それを起こすためには一度現在の経済制度が出来上がらなければなりませんでした。現在の経済制度が出来上がったことによって新しい経済改革が可能になったのです。無意識的に作ってしまった経済制度をやっと意識的に改革できるようになったということです。


 新しい人間の制度と新しい経済制度が合体したのが新しい世界の構想ということになります。しかしいったいなぜこのような世界が構想されたのでしょう。なにか指針のようなものがあったはずです。こういう世界を目指すという指針です。そういう指針のようなものがなければ行動できませんし、なにも決定できないはずです。そういうものがあるとしたらたった一つしかありません。〔痛みと苦しみはできるだけ少ないほうがいい〕というものです。これを倫理と呼んでいます。真実ではないからです。これが倫理なのですから倫理はこれ一つしかありません。〔痛みと苦しみはできるだけ少ないほうがいい〕という倫理によってあらゆることが決定されます。痛みと苦しみとはあらゆる痛みと苦しみです。自分はもちろんすべての人間の痛みと苦しみであり、すべての生物の痛みと苦しみも含みます。異星人がいるなら異星人の痛みと苦しみも含みます。痛みと苦しみはできるだけ少ないほうがいいのです。それは真実ではありませんがそういうことに決めたのです。どう考えてもそうとしか考えられないからです。ですから、新しい人間の制度と新しい経済制度もこの指針によって構想されたことになります。
 痛みと苦しみを少なくすることは快感と喜びを増やすことではありません。その逆です。快感と喜びが増えると痛みと苦しみも増えるのです。痛みと苦しみが増えると快感と喜びも増えます。どこかに喜びがあるということは別のどこかに苦しみがあるということです。喜びと苦しみが合体して無に戻る法則になっているからです。喜びの量と苦しみの量は比例するわけです。これは法則なので真実です。どこかで喜びが爆発していると必ずどこかで苦しみが増量しているのですから用心してください。痛みと苦しみを少なくするということは快感と喜びも少なくなるということです。
 喜びと悲しみが合体して無に戻ると悲しみが発生する。悲しみは無の感情かもしれない。


 この世界の痛みと苦しみの総量はどれくらいなのか。そんなことは誰も計算したことがありません。他人の痛みと苦しみはほとんど見えないのでなおさらです。この世界に痛みと苦しみが存在していることを知らない人もいるようです。そこで、この世界にどれくらいの痛みと苦しみが存在しているかを推測するための一覧表を提示しておきます。こんなことでしかイメージできないからです。とある国の平成の終わりころはこんな感じでした。人間界に限定されます。
 人口は1億2646万人(211万人が外国人)。
 15歳未満1549万人。15歳~64歳7555万人。65歳以上3541万人。
 就業者数6715万人。人口の53%が働いていることになる。47%は働いていない。
 15歳~64歳の就業者数は5817万人となり、それ以外の就業者数は898万人になる。
 15歳~64歳で働いていない人は1738万人になる。
 精神疾患390万人。認知症500万人。
 精神疾患による入院28万人。
 障害者360万人。
 難病患者150万人。(ASL一万人。)
 アルコール依存症80万人。予備軍440万人。
 糖尿病1000万人。予備軍1000万人。
 慢性腎臓病1330万人。うつ病650万人。喘息1100万人。高血圧4000万人。動脈硬化400万人。アトピー性皮膚炎450万人。花粉症5000万人。B・C型肝炎44万人(キャリア300万人)。椎間板ヘルニア100万人。日本の病人約6億人。
 病院に行く人一日180万人。一年で6億4千万人。入院患者常に140万人。一年で入院する人1300万人(退院する人はそれより少ない)。精神疾患の入院数28万人。
 医療的ケア児(変な言葉だ)1万8千人。十年で二倍になっている。
 癌患者一年で100万人。百年で一億人。癌による死者一年で37万人。百年で3700万人。
 ひきこもり54万人(39歳以上は含まない)。(39歳以上が61万人だとわかる。)不登校小中学生12万人。(予備軍30万人。)(令和4年には24万人になる。)
 自殺一年で2万人。人工妊娠中絶平成28年16万件(16万人とは言われない)。
 交通事故死傷者数年間70万人。百年で7000万人。(医学の進歩によって死者は減少しているが障害者は増えているかもしれない。そういう統計はない。)
 受刑者6万5千人。そのうち男6万人。アメリカは200万人。
 犯罪者(検挙者)一年で100万人。交通違反を含む。(「検挙」という言葉は明確ではない。犯罪に関する言葉は曖昧なものが多い。犯罪には加害者と被害者がいる。)
 火災。一年で10万件。
 ホームレス平成28年6235人。アメリカ60万人。
 生活保護受給者210万人。
 貧乏人とその家族、年収122万円以下1700万人。
 (注。痛み・苦しみの量と同じ量の快感・喜びも存在しています。)




 〔無の思想〕
 最後に無の思想を説明して終わりにします。無の思想はただひとつの完全な思想です。新しい世界の学校ではまず最初に無の思想を学習します。無の思想を基点にして考えればほかのあらゆる考えのつながりがわかりやすくなります。
 無の思想は生きることにはなんの意味もないという思想です。存在することにはなんの意味もないと言い換えても同じです。これは人間だけでなく宇宙にも適用されます。宇宙とは世界全体ということであり、存在するものすべてということです。存在するものすべてはなんの意味もなく存在しています。完全に無意味なのであって、あってもないのと同じであり、なくてもあるのと同じです。無とはそういうことです。存在していることがすでに無であり、存在していても存在していないことと同じなのです。それはつまり存在していなくても存在していることと同じということです。生きることにはなんの意味もなく、死ぬことにもなんの意味もありません。生きていても死んでいるのと同じであり、死んでいても生きているのと同じです。
 無の思想は死の認識から始めることができます。死とは完全な消滅です。完全な消滅とは完全な無になることです。なにもなくなるのです。なにもなくなるとはかつて存在したということも消滅するということです。最初から存在しなかったことと同じになることです。生まれる前の無に戻ることであり、宇宙が始まる前の無に戻ることです。SDだけでなく新しい人間もやがてすぐ消滅します。すべての生物が消滅します。すべての物質が消滅します。地球も消滅し宇宙も消滅します。宇宙の消滅も一匹の生物の消滅も消滅ということでは完全に同じです。どちらも同じ無に戻るだけです。
 人間は完全な無というものをなかなか理解できません。無を考えたり無を想像しようとしても、無には思考も想像もないのですから、思考し想像することが無の否定になってしまうからです。無というものを認識できない人間は、死後の世界や天国や霊魂などを考えてしまいます。神というものも同類です。それらのものをすべて否定するのが無の思想です。死は完全な消滅でなければならないのです。死後の世界も天国も霊魂も神も存在してはならないのです。むしろないほうがいいのです。なぜ死は完全な消滅でなければならないのでしょうか。それを理解できるかどうかが無の思想を理解できるかどうかの鍵になりますが、それは自分で考えてください。むしろ意味などなにもないほうがいいというのが無の思想です。この思想の全体がわかるとだんだんわかってくることかもしれません。
 自分で考えるといっても、思考はいくつもあるのではなくこの世界にはたったひとつの思考があるだけです。われわれはそのひとつの思考を使って考えているだけです。みんな同じ思考を使って考えています。人間だけでなく思考するものすべてです。これは無の思想とは別の問題でした。
 無の思想とはむしろ意味などないほうがいいという思想なのです。それを説明することは不可能ですので自分で考えてください。しかしいくつかのヒントは提出できます。まず、完全な無から始めたほうがなにかを始めやすいということがあります。次に、死後の世界や天国や霊魂や神はあまりに強力な意味なので無の思想を破壊してしまいます。それらのものは意味がありすぎるのです。あまりに強力な意味は争いや戦争の原因になります。それどころか人間の争いはすべて意味と価値を巡って起こります。意味や価値を信じてしまうことから起こります。人間は意味で争うのであって、無意味で争うことはできません。無には守るべきものがなにもありません。無にはなにもないから無の思想だけが完全な思想になれます。
 宇宙そのものが無から始まったのです。宇宙とは世界全体ということであり、存在するものすべてということです。それにしてもなぜ無からなにかが発生するのでしょうか。無からなにかが発生する方法は一つしかありません。プラスとマイナスが同時に発生することです。無がプラスとマイナスに分裂するのです。これは比喩的な言い方であって、プラスとマイナスのようななにかということです。そのプラスとマイナスのようななにかが発生し次にはまた合体して無に戻ります。その発生と消滅の間に一瞬なにかが存在するわけです。その一瞬だけ存在するなにかがこの宇宙に存在するもののすべてです。人間も生物も物質もその一瞬のなかに存在しているだけです。その一瞬が宇宙の全歴史であり、そのほんの一部分が人間の歴史です。


 生きることは完全に無意味であって、あってもないのと同じであり、なくてもあるのと同じです。生きることが無意味なら死ぬことも無意味であり、生きていても死んでいるのと同じであり、死んでも生きているのと同じです。それが無の思想でありただひとつの完全な思想です。ここからすべてを始めるしかありません。生きることは完全に無意味ですが、それでも生きるということからこの世のすべての問題が始まります。なんの意味もなく単に生きるのです。生きなければならないのではなく、なんの意味もなく単に生きるのです。生きなければならないなどというと生に意味が発生してしまいますから用心してください。
 なんの意味もなく単に生きるということからこの世のすべての問題が始まります。やらなければならないことが次々に発生します。必要なものが次々に発生し、必要なものはなんとか手に入れなければなりません。トイレに行かなければならず、歯を磨かなければならず、食べ物が必要になります。生きることは様々な必要から出来ているのです。水も必要です。電気も必要です。お金も必要です。服も布団も必要です。腹が痛くなれば薬が必要になります。必要なのは物だけではありません。必要なものはすべて手に入れなければなりません。すべてを同時に手に入れることはできません。一つ一つ手に入れるしかありません。そこで様々な行動が必要になります。生きることは様々な行動の連続です。なんの意味もなくただ生きるということからこの世のあらゆる問題が始まるということは、新しい人間の制度も経済改革もここから始まるということです。
 ここから無の思想に続く第二の思想が始まります。意味が発生してしまうメカニズムの学習です。


 〔意味と無意味のメカニズム〕
 人間は行動しなければならないのです。この「しなければならない」ということに秘密が隠されています。人間は行動を計画しなければ行動できないということです。まずなにをするか考えてからでなければ行動できません。もちろん無意識に行動できることもたくさんあります。食物の消化や細胞分裂などです。しかし、なにをするか考えてからでなければ行動できないこともたくさんあります。トイレに行くことさえトイレに行こうと考えなければ行くことができません。もらしてしまうこともありますが、もらす場合でももらすことを決心するのです。たいていは様々な行動から優先順位を測定してトイレに行くという行動を選択します。トイレに行っても小便を放出しようと考えなければ小便を放出できません。自分がどうやって小便を放出しているのか観察してください。とても複雑なことをやっているのがわかります。意識と無意識をなんとか繋ぎ合わせてやっと小便が放出されます。
 行動には目的や計画が必要になります。それが価値や意味を作り出してしまうのです。なにを食べようか考える場合を考えてみてください。たくさんの食べ物からなにかを食べようと考えなければなりません。たくさんの食べ物からカレーを選択するということはカレーに価値や意味を与えてしまったことになります。なにを食べるかなどはすべて適当に作られた意味や価値によって決められます。あれがうまいだとか、あれがお袋の味だとか、あれは健康にいいとか、しばらくラーメンを食っていないからとか、好きなタレントが宣伝しているとか、食文化だとか、適当な意味や価値でなにを食べるか決められます。そういったことが総合されて幻想の体系が形成されます。
 すべての行動がそういう構造になっています。なにをするか考えてからでなければ行動できないということが価値や意味を発生させてしまうのです。金メダルに価値があるから金メダルを取ろうと思うのではなく、金メダルを取ろうと思うから金メダルに価値が発生するのです。それがいつのまにか金メダルに最初から価値があるように錯覚するのです。この世の価値や意味はすべてそういうものです。しかし、それらすべては幻想です。あらゆる意味や価値は行動の必要から生み出された仮のものであり、一時的なものであり、臨時のものです。ようするに迷妄であり、偽物であり、デタラメであり、幻想です。それをわれわれはほんものの意味や価値だと勘違いしてしまいます。無の思想が構築されていないからです。無の思想が構築されていれば発生してしまう意味や価値がすべて幻想だとわかります。般若心経にはこの意味や価値が発生してしまうメカニズムが欠けています。
 このメカニズムがわかるといままでつながらなかった考えがつながるようになります。たいていの人は一方では生きることは無意味だと思っているのに一方では生きることには意味があると思いたいのです。矛盾した二つの考えの間をふらふらしているのです。矛盾した二つの考えをつなげる方法がわからないので、どっちつかずにふらふらしています。「どうせ死ぬだけだ」と思いながらつい「なんとしても生きることが一番大切だ」などと言ってしまいます。しかしこのメカニズムがわかれば矛盾した二つの考えを合体できます。生きることは完全に無意味ですが生きるためには意味が必要なので幻想の意味を作って生きるしかないのです。それがわかれば、神も霊魂も天国も死後の世界もそうやって発生した幻想だとわかるようになります。。
 この世の意味や価値は一つ残らずすべてが仮のものであり幻想なのですから、どの意味や価値がほんものなのかと考える必要がありません。またマイナスの意味やマイナスの価値もすべて幻想ということになります。生きることは完全に無意味であり、生まれないのが一番よく、次にいいのはできるだけ早く死ぬことです。と言いたくなりますが、生まれないことも無意味であり、死ぬことも無意味なのです。生きていても死んでいるのと同じであり、死んでいても生きているのと同じだからです。それが完全な無の思想です。
 それでも幻想の意味や価値を求めて生きるしかありません。しかし、意味や価値が発生してしまうメカニズムがわかれば、それらが幻想だとすぐわかるようになります。うまいものが食べたいと思ってもそれは幻想だとわかっています。試験に合格したいと思ってもそれが仮の目的だとわかっています。もっと長生きしたいと思ってもそれが幻想だとわかっています。誰かを殺したいと思ってもそんなことにはなんの意味もないとわかっています。簡単なことです。意味のあるものなどなにもないのだからすべてが無意味だとわかるのです。だから無の思想は完全な思想なのです。しかも、無の思想そのものも完全に無意味です。無意味の思想なのだからそれ自体が無意味なのです。



 人間が作る意味や価値はすべてそういった無意味な幻想です。すべてとは100%ということです。無の思想が存在しているからそれがすぐわかるのです。すべての意味や価値はそういうものがなければ生きられないので作られた仮のものにすぎません。「生きるのは素晴らしい」「生きることに価値がある」などというのもそうです。「少しでも長く生きたい」「死後の世界が存在する」「天国で待っている人がいる」「家族を大切にする」「人類の存続のために子供を作る」「幸福な人生だったと思いながら死にたい」「死後に名前を残したい」「自分の遺伝子を残したい」などもすべてデタラメです。そういうデタラメがなければ生きられないだけです。
 人間はどういう意味や価値を作って生きているのか少し書き出してみます。
 「便利」「効率」「進歩」「発達」「成長」「改革」「前進」「推進」「創造」「開発」「自由」「平等」「挑戦」「熟練」「到達」「発見」「発明」「冒険」「復興」「きずな」「思いやり」「つながり」「一人じゃない」「参加」「援助」「協力」「協調」「選ばれる」「話題になる」「注目される」「取り上げる」「どこにもない」「すごい」「かわいい」「いいね」「あり得ない」「絶賛される」「うまい」「絶品」「感動する」「きっかけを作りたい」「きっかけにしたい」「なにかを考えるためのきっかけになればいい」「思い出作り」「思い出作りにしたい」「思い出作りになればいい」「元気」「元気を与えたい」「元気をもらいました」「勇気をもらう」「一助になればいい」「未来」「子供」「桜」「富士」「涙」「月」「青空」「特別」「驚くべき」「夢」「神秘的」「衝撃的」「伝統」「歴史的」「歴史がある」「由緒正しい」「史上初」「最年少」「芸」「気品」「思いやり」「協力」「力を与える」「手をつなぐ」「見逃せない」「貢献する」「史上N番目」「世界的」「快挙」「唯一無二」「立ち上がる」「傑作」「偉業」「偉人」「文化」「文化的」「画期的」「稀少」「記録」「記録的」「奇跡」「生還する」「命を救う」「病と闘う」「恩人」「頑張る」「負けない」「やり続ける」「あきらめない」などいろいろありますがほんの一部にすぎません。人間はこのように様々な意味や価値を作って生きていますがすべて仮の意味であり、なんの意味もない無意味な意味にすぎません。これらの意味はプラスの意味ですがマイナスに変換しても無意味であることに変わりはありません。「便利」というプラスの価値をマイナスにしたのが「不便」であり、「便利」も無意味なら「不便」も無意味ということです。(これは無がプラスとマイナスに分裂して物質が存在し始めるのに似ています。価値も無がプラスの価値とマイナスの価値に分裂して発生し、プラスの価値とマイナスの価値が合体して無に戻るというわけです。お金も無がプラスとマイナスに分裂して発生したにちがいありません。お金にはプラスの運動とマイナスの運動があり、その二つの運動が合体して無に戻ります。財布が空になるのです。)
 宗教といわれるものもすべて幻想です。坊主とか人生の達人とかの言葉がたくさんあります。「生きているのではなく生かされている」「死ぬときがくれば死ねばいい、平気で生きているときには平気で生きていればいい」「目に見えない自分以外のなにか大きな力」「この世のものすべてには意味があります」「神秘の力の作用で生きている」など、すべてデタラメです。これらはたいていただ意味があるのではなく、意味がどこからか与えられているという形になっています。どこかわけのわからないところから意味が与えられている。わけのわからないほうが意味深い。宇宙意思、生命の海、波動、定説、生命という根源、生命の実相、奇跡の本源、不思議のみなもと、地球という生命体、死から生へと巡るいのちの循環、生命の本体、いのちといのちの触れ合い、生命の無限連鎖、始原に向き合う、形なき広大無辺、あるがままに悠然と生きる、自由な精神世界、人は裸で生まれなにひとつ持たずに死んでいく、などなどなどありがたいお言葉の数々。すべてデタラメです。


 意味や価値をほんものだと思ってしまうことを避けなければなりません。新しい社会で意味や価値を語る場合は最後に「でもそんなことにはなんの意味もありません」と必ず付け加えるようにします。**賞を受賞しました。でもそんなことにはなんの意味もありません。史上最年少で四冠を達成しました。でもそんなことにはなんの意味もありません。新年おめでとうございます。でもそんなことにはなんの意味もありません。大学に合格しました。でもそんなことにはなんの意味をありません。もっと生きたかった。でもそんなことにはなんの意味もない。夕日がとてもきれいです。でもそんなことにはなんの意味もありません。意味を語るときには常にそれを付け加えるようにします。意味だけ語ることの禁止です。意味には必ず無意味であることを表示しなければならないということです。短縮形を作ったほうがいいかもしれません。PSNMはどうでしょう。ピーエスエヌエヌです。それが「でもそんなことにはなんの意味もない」という意味になります。とても感動的な映画でしたPSNM。おいしいお魚が食べたいわねPSNM。漫画家になるのが夢ですPSNM。今日もよい一日でありますようにPSNM。この本はすごいPSNM。
 しかし、そんな面倒なことはしなくてもいい社会にだんだん変わっていくでしょう。
 最も注意しなければならないのは「生きることには価値がある」という考え方です。「生きることは素晴らしい」とか「できるだけ長く生きるほうがいい」とか「人命は地球より重い」といった考え方です。そういった考え方や言い方は徹底的に排除しなければなりません。それこそあらゆる意味や価値の総元締めのようなものだからです。生きることにはまったくなんの意味もありません。3歳で死ぬのも90歳で死ぬのもまったく同じです。3歳で死ぬのも90歳で死ぬのもまったく同じなら、3歳から90歳までの87年間になんの意味があったのか。なんの意味もありません。あってもないのと同じ、なくてもあるとの同じです。生まれなくても生まれるのと同じ、生まれても生まれないのと同じです。
 人間(SD)の死に対応する仕方も変えたほうがいいでしょう。みんなで祝うという方法も考えられますが、何事もなかったかのように対応するようになるでしょう。死んだ人間(SD)のことはできるだけはやく忘れてあげるのがベストです。使用が終わった人体は自然に返却されます。



 〔必要という意味〕
 なんの意味もない生をただ生きるということからこの世のすべての問題が始まると言いました。まずなにから始まるのかというと「しなければならない」ということが始まります。どうしてもしなければならないことや、どうしても手に入れなければならないものが発生し、そこから行動が始まります。それが必要です。最初に発生する意味は必要という意味であり、必要という意味さえあればとりあえず生きることができます。生きるために最小限必要なことだけをやれば生きることができるからです。
 生きるためにどうしても水が必要なら水はどうしても手に入れなければなりません。すると水を手に入れることに意味や価値が発生します。それが必要という意味です。必要最小限の必要を考えることが必要最小限の意味ということになります。そして必要とは必要最小限の必要ということになります。「わたしにはどうしても歌が必要なの」という必要は必要ではなくかってな思い込みです。必要は需要でもありません。需要は過剰な幻想によって作られるものです。
 この考え方をさらに展開すると次のようになります。まず、人間にはどうしても必要なものがいくつもあるということになります。簡単なことです。食べること、眠ること、排泄することなどです。ライフライン、生活必需品などといった言葉があるように、なにが必要なのかは誰でもわかっていることです。現代人はそれがわからなくなっているのかもしれませんが。必要なものはどうしても手に入れなければなりません。そういう必要という最小限の意味だけで生きるのが無意味な生き方に最も近いということになります。しかしそれも仮の意味にすぎません。生きることにはなんの意味もないからです。
 このことがどうして新しい世界の思想になるのでしょう。人間がSDと人間に分裂するからです。人間が意味・価値・目的を分担し、SDが無意味を分担するようになります。


 (追加補足。たいていの人間はすべてが無意味だとうすうす気がついています。日本人は特にそうです。日本人の根底には無の思想があります。死は完全な消滅であり、かつて存在したということも消滅するのです。しかし他方では様々な意味も信じています。ですから意味と無意味の間をどっちつかずに揺れ動いています。生きることに意味があるのか無意味なのかわからなくなり混乱しています。揺れ動く思想をどうやって統一していいのかわからないからです。意味と無意味のメカニズムがわかれば混乱を鎮めることができます。すべては無意味ですが意味がなければ生きられないので仮の意味を作って生きるというメカニズムです。意味がなければ生きられないのは、まずなにをするか考えてからでなければ行動できないからです。そのために仮の意味が必要になります。この世界には無数の意味が存在していますがすべて仮の意味であり無意味な意味です。基本は無です。意味などあってはならないのです。)




 新しい世界がどんな世界かだんだんわかってきたでしょうか。みなさんももっと自由に新しい世界を構想してみてください。
 人間(SD)はなんの意味もない生をただ無意味に生きるのですが、生きるためには生きることに意味があるかのように生きるしかありません。新しい制度も生きることに意味があるとして構想されています。そうするしかないからです。でもそれは仮の意味にすぎません。それがわかっているかどうかで世界認識は大きく変わります。
 意味はすべて無意味なのですから意味=無意味ということになります。「意味」と「無意味」が同じ意味の言葉になるのです。「同じ無意味な言葉になる」と言っても同じです。同様に価値=無価値、目的=無目的ということになるでしょう。
 新しい制度になると経済は必要なものが必要なだけあればいいという経済に変わっていきます。この必要とは生きるために絶対必要ということであり、「絶対必要」とか「絶必」といった言葉に変えたほうがいいのかもしれませんがまだそのままにして置きます。この必要という意味も無意味な意味にすぎませんが、生きることに意味があるかのように生きるしかないように、必要に意味があるかのように生きるしかない基本的な意味(無意味)です。必要とは生きるために絶対必要ということであり、水や空気や睡眠や食べ物のようなもののことですが、それほど明確な概念ではありません。常に必要なものもありますし時々必要になるものもあり、時々必要になるものも必要に含まれます。食べ物のように様々な種類があってどの食べ物が必要なのか明確でない場合もあります。現在では電気も必要なものになっています。自動車も必要なものになっていますがすべての自動車が必要なわけではありません。パソコンも同様です。そのように必要は明確な概念ではありません。必要なのは物だけではありません。人間(SD)には思想も必要です。
 必要なものが必要なだけあればいいという経済に変わっていくのは、個人が消滅し個人の競争がなくなるからです。個人の競争がなくなると会社の競争もなくなり国の競争もなくなり経済競争がなくなります。個人の競争があらゆる競争の大本になっているからです。まず人間が人間とSDの二重構造になることによって競争が緩和されます。人間がSDの競争を緩和し、SDが人間の競争を緩和するということです。家族の消滅によって家族の競争もなくなります。次に役職、地位、身分など上下関係がすべて廃止されます。代表者を選出する制度がすべて廃止されます。政治家がいなくなり、長の付く人間がいなくなります。それは徹底的なものであり、スポーツチームの監督やキャプテンも廃止されます。親分や族長や町内会の副会長なども廃止されます。次に勝敗を争うもの、順位を付けるもの、記録を測定するものがすべて廃止されます。賞や勲章がすべて廃止されます。ギャンブルや宝くじが廃止になります。試験がすべて廃止になります。というより新しい制度になるとそうなってしまいます。
 必要なものが必要なだけあればいい経済とはどんなものでしょう。必要なものは宣伝しなくても売れますから、宣伝・広告活動は縮小されます。宣伝・広告活動が縮小されるということは経済活動の半分がなくなるということです。半分は大袈裟ではないかと思われるかもしれませんがそんなことはありません。テレビなどはほぼすべてが宣伝・広告です。CMだけではなくニュースもそうです。ニュースはなによりもニュースの宣伝です。自局の宣伝であり、ニュースを作る技術の宣伝であり、アナウンサーはなによりも自分を宣伝しています。自分をほかの仕事にも使ってくれと宣伝しています。髪型や服装も宣伝しています。画面に映る物はすべてその物を宣伝しています。また様々な思想や価値観を宣伝しています。個人中心主義を宣伝し、競争社会を宣伝し、家族制度を宣伝し続けています。ドラマも同じです。俳優の宣伝であり、プロダクションの宣伝であり、演出家の宣伝であり、脚本家の宣伝であり、衣装の宣伝であり、作曲家の宣伝であり、思想の宣伝であり、映画の最後のようにかかわった人間の名前をすべて並べるとそれだけで五分はかかるでしょう。それらすべての人が自分を宣伝しています。テレビから宣伝・広告活動をカットするとなにもなくなってしまいます。ネットの世界も同じようなものです。ほとんどすべてがなにかの宣伝です。パソコンだけで仕事をしている人はすべて宣伝・広告活動をしていると考えて間違いありません。それが競争社会の最前線だったのかもしれませんが競争社会が終わればいらなくなります。
 必要なものが必要なだけあればいい経済とは必要なものを必要なだけ生産し必要なものを必要なだけ消費する経済です。それらの生産を機械におまかせすれば人間はあまり働かなくてもよくなります。暇になった人間(SD)は第一次産業に移動すると予測されます。第一次産業の復活です。しかしそれは労働ではなく趣味であり娯楽であり余暇であり運動であり生活の一部である第一次産業です。そこではできるだけ機械を使わなくなります。
 このように必要のないものの生産をやめればなくなる仕事が多くなります。新しく作られる仕事もありますがなくなる仕事のほうが多くなります。そうすると仕事を変えなければならないことが多くなります。いままでの社会制度ではそれがひどくむずかしいことでした。いままでの社会制度とは、個人が一つの仕事をし自分だけの財布で生活するという社会制度です。新しい人間になるとそれが簡単になります。それは何度も説明してきたことです。



 必要なものが必要なだけあればいい経済に移行することには環境問題も関係しています。誰にもわかっていることですが、すでに人類は、余計なものの生産・消費をやめなければならないぎりぎりのところに来ているという認識です。しかしいまの社会制度が続く限りはやめることができません。個人中心主義社会、競争社会、宣伝・広告社会が続く限りは大量生産・大量消費を止めることはできません。
 環境問題には容器・包装問題が含まれています。これは実に不思議な問題です。容器・包装とはなんでしょうか。ほとんどの商品は容器・包装に包まれています。商品には容器・包装が商品の一部として付属しているのですが、容器・包装は商品それ自体ではありません。容器・包装は消費されずに捨てられる不思議な商品なのです。容器・包装は運搬・保管・陳列に必要なものであって消費者が消費するものではありません。
 容器・包装とはいったいなんなのでしょう。それを追求すれば生物に到達します。生物のほとんどは皮膚や膜に包まれているからです。細胞自体がそうです。それはどういうことでしょう。生物が地球環境に存在するには容器・包装が必要ということです。人体などは皮膚に包まれさらに下着に包まれさらに服の布地に包まれます。商品は生物のようなものであり、商品が地球環境に存在するには容器・包装が必要ということでしょうか。それだけではありません。容器・包装から商品が出現することは新しい生物が生まれたことに匹敵します。生まれたばかりの新生児です。まだなんの傷も汚れもありません。まだ誰も触っていないのです。それが商品の価値になっています。(女性が着飾ったり若さを保とうとするのも同じ効果を狙っているようです。この世に出現したばかりのように見せようとしているのです。)このように容器・包装は商品を保護して商品の価値を高めていますが、商品が取り出されると同時に無価値になって捨てられます。
消費されることなく捨てられるこの不思議な商品は人間以外の存在によって消費されるはずです。それがどういうことなのかは宿題になりますが、容器・包装を減らすには商品を減らす以外にないということは明確です。


 〔繰り返すこのポリリズム〕
 ペットボトルの物語。
 ペットボトルは容器・包装の仲間です。液体をどうやって運ぶか、液体をどうやって商品化するか、それは昔から大きな問題でした。最初はおもに酒、醤油、酢などの問題で、土器が使われ樽で大量輸送が可能になり、次にガラスのビンで商品化され、やがておもにペットボトルが使われるようになり、だんだんほかの液体にもペットボトルが使われるようになりました。お茶やコーヒーまで液体の状態で売られるようになり最後に水に到達しそこで終わりのようです。
 問題は二つに絞られます。ペットボトルが使い捨てになっていることと、中の液体より容器のほうが高いということです。使い捨てになっているのは便利だからにちがいありませんが、値段の安いほうを使って値段の高いほうを捨てるという不思議なことが起こっています。たぶん中の液体はお茶やコーヒーだと5円か10円くらいではないでしょうか。水だともっと安いかもしれません(水のほうが高いということもあり得ます)。ペット飲料の値段のほとんどがペットボトルの値段と宣伝費です。実際に売り買いしているのはペットボトルのほうで、お茶やコーヒーは付録なのではないでしょうか。ペット飲料の会社はペットボトルを売って儲けているのです。(ペット飲料のサイズが大きくなっても値段があまり高くならないのは中身の値段がほとんど変わらないからです。)
 中の液体を計算から除外して考えます。ペット飲料の会社は80円のペットボトルを100円で売って20円儲けているとします。ペット飲料を買う人は80円のペットボトルを100円で買ったことになります。100円で買って中身の液体を飲むと100円で買ったペットボトルがそのまま残ります。それはいまでも100円のままのはずです。ところがそれはゴミなどと呼ばれるようになり0円になってしまいました。100円のペットボトルはいつ0円になったのでしょう。キャップをねじると0円になる仕掛けになっているのでしょうか。中の液体を人体の上のほうに開いた穴に流し込むと0円になる仕掛けなのでしょうか。ちがいます。買った人は中の液体が100円だと思っているからです。ですから中の液体がなくなるとペットボトルは0円になったと思うのです。ペットボトルの値段は秘密にされているのでペットボトルの値段を誰も知らないからです。0円になってしまったペットボトルはどうなるのでしょう。0円なのに誰も買ってくれません。無料のものは買うことができないのです。10円なら買ってくれるのでしょうか。ペット飲料の会社はなぜ空のペットボトルを引き取ったり買い取ったりしないのでしょうか。それはペットボトルを売って儲けているからです。売ったものをそのまま回収していては商売になりません。100円で売ったものは100円で買い取るしかありません。100円という値段を付けたのは自分たちなのですから。
 このようにして空になったペットボトルはどこにも行き場がなくなりました。人間にはゴミと呼ばれるようになりゴミの仲間に加わることになります。「使い道のない無駄なゴミ」「かさばっててかてか光るだけ」「もとは液体だったのに液体に戻れないやつ」などとも言われます。ゴミとして集められたペットボトルはどこかに送られていきますがどこに行くのかは誰にもわかりません。しかし地上に放り出されてしまうペットボトルもあり、それらは地上をさ迷い歩くことになり、川や海に流されていくものもあります。ペットボトルはだんだんゆっくりと姿を変えていきますが、形を変えたり断片化したりするだけで本質的な変化はありません。至る所で同じような姿になったプラスチック仲間に出会います。やがてペットボトルもプラスチック仲間に加わります。彼女たちはなんとか自然に戻ろうとしますが自然に戻るのはむずかしい存在になったことに気がつきます。どうしてプラスチックは自然に戻ることができないのでしょう。彼女たちは小さくなってもマイクロプラスチックと呼ばれるようにプラスチックのままです。
 人間も自然の一部だとする考え方もあります。そうすると人間の作ったものも自然の一部ということになります。そうすると自然が自然の過程でプラスチックを生み出したことになります。そうすると地上を岩石が埋め尽くしたように地上をプラスチックが埋め尽くしてもいいはずです。砂や土はマイクロ岩石だと考えることができます。マイクロ岩石の浜辺がかつて作られたように、やがてマイクロプラスチックの浜辺ができあがり、人間はそこで海水浴をするようになります。そこにいる人間をよく見ればみんなプラスチックでできています。よく見なければわかりません。もともと人体はプラスチックとよく似ていたからです。



 新しい経済制度になるとゴミ問題も変化します。ゴミ問題とは使用したものを自然に返却するということに関係しています。自然物に労働を加えて生活に必要なものを作りますが、使い終わったものを自然に返却するのは作ることの逆工程になります。つまり作るための労働と同じだけの労働が必要になるということです。ものを自然に返却するのは労働です。労働の半分はものを自然に返却する作業になるということです。作るのに手間がかかるほど返却するのにも手間がかかります。作ることと返却することはひとつながりの作業と考えることができます。ものを作ることは作ったものを自然に返却して完了するというわけです。むしろ作ることより返却することのほうが創造的な仕事なのかもしれません。
 ものを返却することはジョブでものを手に入れることの逆になります。ものを作るための労働ジョブがものを手に入れるための値段ジョブになりますが、ものを返却するための値段ジョブはものを自然に返却するための労働ジョブになります。いまの言葉で言えば、商品を買ったお金と同じだけのお金がゴミを処分するのにかかるということです。いまでもたぶんペットボトルを処分するためのお金がすでにペット飲料の値段に含まれているはずです。



 必要なものが必要なだけあればいい経済に移行するのは簡単なことではありません。われわれはどうしても必要のないものを生産し消費してしまうからです。デパートやスーパーの棚に陳列してある商品の80%はなくてもいいものです。見ることもなく前を通り過ぎるだけの棚さえあります。食品スーパーの商品でさえ80%は別になくてもいいものです。経済について考え始めたばかりの小学生は次のように考えるはずです。必要のないものを消費してしまうのは必要のないものが生産されるからにちがいありません。ないものを消費できないからです。どうして必要のないものを生産するのでしょう。売ってお金に変換すれば、そのお金で必要なものを買えるからです。必要のないものがどうして売れるのでしょう。必要だと思わせることに成功するからです。宣伝はそのためにあるのです。どうして必要のないものを必要だと思ってしまうのでしょう。なにが必要なのかわからないからです。あるいは、使ってみないと必要かどうかわからないからです。その場合、必要だったかどうかわかるのはいつなのでしょう。自分が死ぬ時でしょうか、人類が滅亡する五分前でしょうか。そこできっと次のように考えるはずです。「人類は必要なかったのか」と。なにが必要なのかわからないのなら、最初の質問さえ成立できないのではないでしょうか。だんだん思考がぐるんぐるんし始めました。わからないことがたくさんあるようです。いろいろなことがよくわからないのです。わからないことがたくさんあるのがすべての原因のようです。
 ポテトチップスは必要なものなのでしょうか。
 必要のないものを生産してしまうのはまずなにが必要なのかわからないからです。次に、個人中心主義と個人の競争が根本的な原因だと考えてきました。分業もそこに含まれます。個人とは自分専用の財布を持つ者です。自分専用の財布を持つことによって個人になったのです。それらのことを説明することなどとてもできません。あらゆることがつながりあっているからです。そういう基本的なことがわれわれにはさっぱりわからないのです。そういう根源的な無知がすべての原因です。
 生きるために必要なもののなにかがわれわれには欠けているのです。空気や水や光と同じくらい必要なもののなにかが大幅に不足しています。たぶんそれは思想のようなものです。思想というより思想の作り方です。誰も思想の作り方を知らないということが人類の最大の問題になりつつあるという世界認識です。水爆の作り方を研究した人はたくさんいますが、思想の作り方を研究した人はまだ一人もいないようです。出来上がった思想がとつぜんぽっと出現するのがいままでの歴史でした。どうやって作ったのかわからない思想が出来上がった状態で急に出現するのです。たぶんまだ出来上がる途中です。思想の途中結果だけが出現するのでそれがどうやって作られたのかわかりません。思想をゼロから作る方法というものがまったく存在しないのです。学校に何年通っても思想をゼロから作る方法はまったくわかりません。どんな本を読んでもゼロから始まっていません。急に八合目あたりから登り始める富士登山のようです。どうやって八合目まで来たのかまったくわかりません。たぶんそのあたりで生まれたのでしょう。
 それは全世界的な傾向ですが日本では最初から山頂にいるようなものです。西洋思想の結果だけを輸入して途中経過をすべて省略しました。明治維新はすべてが西洋の模倣でした。会社も学校も軍隊も憲法も法律も政治も経済もすべて西洋のものをそのまま模倣しただけです。コピーです。どうしてそうなっているのかをなにも考えずに結果だけをコピーしたのです。それがずっと続いているだけです。何度もコピーを繰り返したためにぼやけて解読できなくなったので戦後にもう一度コピーし直したのです。いまだにそのままです。西洋の思想や制度がどうやって作られたのか誰もわかりません。ゼロから説明できる人がいません。でもそれは全世界的な傾向です。ゼロから考え始める人がどこにもいなくなってしまいました。
 ということはまだそういう仕事が残っているということです。ゼロから考える方法を開発しなければなりません。そこから考え始めれば誰でもあらゆることを考えることができるようになるという思想製造システムです。さてまずなにから考え始めればいいのでしょう。そんなこともまだわかりません。


 〔思想の作り方教室〕
 新しい世界では思想を作ることが人間の主要な仕事になります。人間にとって思想はどうしても必要なものの一つであって、思想は自分で作るしかないものです。自分に使いこなせるのは自分の作った思想だけですので、自分の思想を作ることが人間の主要な仕事になります。学校ではおもに思想の作り方を勉強することになるでしょう。
 思想は人間が生きるためにどうしても必要なものです。というより、生きるためにどうしても必要な考えがひとまとまりになったものが思想です。そういうものがなければ人間は生きることができません。思想を作れない人間はほかの人間の保護がなければ生きられません。思想がどうしても必要になるのは意味や価値が必要になるのと同じメカニズムです。このメカニズムがわかれば多くの問題がすっきりするはずですので、もう一度復習します。人間は無意識に行動することができません。まずなにをするかを考えなければ行動できないのです。行動を選択し決定するためには意味や価値がどうしても必要なので仮の意味や価値を作って行動します。生きることに意味があることにして生きるわけです。新しい制度もそういう仮の意味の一つにすぎません。同様に思想も行動を決定するためにどうしても必要なものです。意味と価値の体系を支えるのが思想だからです。
 生きるために必要ないくつかの考えが寄り集まって構造を形成しつつあるのが思想です。ひどく単純な思想もあればひどく複雑な思想もありますが、誰にでも思想はあります。フウテンの寅さんの思想は次のようなものです。「誰にでも親切にする」「人を差別しない」「宵越しの金は持たない」「お金は誰が払ってもいい」「労働者諸君は奴隷のようなものだ」「すべての家が自宅だ」「故郷にはたまに帰る」「自分は結婚してはならない」「人間の一生は旅のようなものだ」「人間には言ってはならないことがある」などという考えが集まって一つの体系のようなものを形成し、それが寅さんを動かしています。思想を家のようなものだとするなら、寅さんの家はどこからか適当に寄せ集めた材料で作った掘っ立て小屋のようなものですが、誰の思想もたいていそんなものです。
 しかし、思想という家は自分が作ったものです。自分の家は自分が作るしかないからです。作ろうとして作ったのではなく、いつのまにかできてしまったにしても、自分が作ったにはちがいありません。改造するのも自分です。思想という家の特徴は改造しなければいつまでもそのままになっているところです。作り変えなければ何十年も同じままです。17歳の時の家に死ぬまで住んでいる人もいます。三十年間忙しく働いてふと気がつくと三十年前とほとんど同じ思想のままです。住む家は建てても思想は三十年前のあばら家のままです。思想は意識的に改築工事をしなければ決して変わらないものです。作るより改築のほうがむずかしいかもしれません。





 新しい世界では思想をゼロから作る方法が開発され、誰でも思想を作ることができるようになります。作り方だけではなく作り変える方法もです。思想を作るにはまずなにから始めるのか。そんなことはまだ誰も知りません。人間は水爆の作り方がわかっても思想の作り方がまだわかりません。人間はまだ人間を始めたばかりできょとんとしているのです。








 人間が新しい人間に変わり、政治も学校も会社も変わってしまいます。法律も変わってしまうでしょうし、経済もだんだん変わってしまうでしょう。テレビ番組も映画も小説も変わってしまいます。家族は消滅してしまいました。最大の変革は人間が新しい人間に変わることであって、それによってほかのこともある程度は変わってしまいます。たとえば新しい人間は同時に様々な会社に所属することになります。ライバル会社にも同じ人間がいるとするなら競争することに意味がなくなります。最初は家族が消滅するとは思っていませんでしたが、新しい人間と家族が両立することは不可能だとわかりました。新しい人間は家族ではありませんが家族のようなものだからです。



 このように新しい世界ではあらゆることが変わってしまいます。しかし、そうするのが正しいわけでもないし、そうしなければならないわけでもありません。まったく違う変革も可能です。現在の制度が絶対的なものではないということです。現在の制度は一時的なものにすぎず、いくらでも変えることができるものです。みなさんも自由に構想してみてください。
 確かなことは変わらなければならないということです。世界は同じ状態を持続することはできず、必ず変わってしまいます。とりわけ人間世界は急激に変化します。変化するように人間が働きかけてしまうからです。必ず変化するのだから、変える方向をコントロールしなければとんでもない方向に変わってしまいます。行く方向を決めなければ必ず行ってはならない方向に行ってしまう。これこそ人間の歴史の法則です。
 人間はどんなものでも必ず変えてしまいます。変えずにいられないからです。いまのままでいいと思っても変えてしまいます。いまの状態が最良だとしても変えてしまいます。いまの状態が最良だとするなら必ず最良でない方向に変えてしまいます。このとにかく変えてしまうとういメカニズムは時間が経過すると変わってしまうということではありません。時間が経過すると変わってしまうということもありますが、人間はそれ以上に変えてしまうということです。
 これは無意味と意味のメカニズムに関係しています。無意味と意味のメカニズムをもう一度復習してみます。毎日復習してもいいくらいのことです。すべては無です。それが基本です。生きることにはなんの意味もありません。生きることは完全に無意味ですが人間は意味がなければ生きられないので適当な意味を作って生きます。行動する前になにをするか決めなければ行動できないからです。目的を設定しなければ行動できないということです。目的を設定するには目的に意味を与えなければなりません。金メダルを取るという目的を設定することは金メダルに意味を与えることです。そのような目的をたくさん設定して人間は生きています。それらはすべて行動するための仮の目的であり、仮の意味です。真実は無意味ですが仮の意味を作って生きているのです。
 仮の意味とは、「平凡でいい」とか「悔いのないように生きる」とか「自分の遺伝子を残す」とか「先にあの世に行って待つ」とか「世の中のためになることをしたい」とか、とにかくありとあらゆる意味です。
 ほとんどの人は生きることになんの意味もないと薄々わかっています。しかし一方では生きることに意味があると思っています。実際に意味があるとして生きているからです。だから無意味の思想と意味の思想に分裂しています。無意味と意味の間でどっち付かずにふらふらしているのです。たいていは無の思想は誰にも言わずに胸に仕舞っています。普段は意味の思想で生活し、意味の思想で人と交流します。しかし一人で夜の空を見上げるときなどは生きることになんの意味もないことが深く理解されます。二つの思想を行ったり来たりするばかりでどうしていいのかわかりませんが、無意味と意味のメカニズムがわかると二つの思想を統一できます。意味とはすべて仮の意味なのであり、すべての意味は無意味な意味なのです。
 このメカニズムでは意味と価値と目的はほとんど同じものです。人間は目的を設定しなければ行動できません。そして目的とは必ずいまの状態と違う状態になることです。いまの状態と違う状態を求めて行動します。ですからいまの状態を必ず変えてしまいます。目的を設定しなければ行動できないというこの行動のメカニズムによって人間は必ず世界を変えてしまいます。ユートピアを実現してもまたそれを変えてしまうということです。どんな素晴らしい制度もやがて必ず変えてしまいます。同じ状態を続けることができないのです。家族制度にも終わりがやってきます。土地の所有制度にも終わりがやってきます。会社制度にも学校制度にも終わりがやってきます。分業制度にも終わりがやってきます。役職制度にも終わりがやってきます。議員制度にも選挙制度にも終わりがやってきます。
 選挙制度はもうすでに機能しなくなっています。かつては素晴らしい制度でしたがだんだん機能しなくなってしまいました。簡単に理由を説明できます。誰が選ばれても同じだからです。誰が選ばれても同じなのだから選挙をしても無駄なことをやっているだけです。選挙制度が機能したのは様々な種類の人間が存在していたからです。選挙制度は様々な思想が存在していた時代の産物でした。みんな同じような思想になり、みんな同じような人間になると選挙制度は機能しなくなります。むしろ選んではならない人間を選んでしまうように機能し始めるでしょう。みんな同じような人間になったのは選挙制度が機能したからです。選挙制度などによってある程度平等な世界が作られたと考えることもできます。そしてみんなが平等になりみんなが同じような人間になると選挙制度が機能しなくなります。
 (坂本竜馬にとって議会は「希望の光」のようなものだったが、現在の議会は「五十年使った雑巾」にすぎない。)
 会社や役所の役職制度も同じように考えることができます。部長、課長、係長、次長、室長、チーフといった階層的な役職制度です。効率的に仕事をするにはどうしても必要なものだと思われていました。しかし、ある程度の効率が達成されると今度は会社を衰退させる原因になります。
 このように同じ制度が長く続くとだんだん機能しなくなり、むしろ逆に働くようになります。人間は必ずなにかを変えてしまうからです。Aを変えなければBを変えてしまい、変わったBがAを変えてしまうということになります。
 同じ年齢の子供を集めて教育するという制度も最初は素晴らしかったとしてもだんだん変質してきます。同じ年齢の子供を集めて教育するのは効率的で、平等ということも教えやすかったはずです。すでに年齢の平等が実現しているからです。教科の教育を最優先しなければならない時代には効率的な教育が威力を発揮しました。しかし、周囲に同じ年齢の子供しかいないということは、三年後五年後のモデルがいないということです。兄弟姉妹が少なくなったのでなおさらです。周囲に精神成長のモデルがいなくなるとどう成長していいのかわからなくなります。また、同じ精神年齢の人間ばかりとつき合うと同じ精神年齢のままでいたほうがつき合いやすくなります。仲間はずれにならないためにも同じ状態のままでいたほうがいいということになります。こうして精神成長がだんだん遅れていくようになります。人間の子供化です。いまでは三十くらいでもまだ子供です。六十歳になっても十五歳のままの老人がたくさんいます。子供のままの親が子供を作って子供を育てるようになります。こうして人間の子供化がますます加速して行きます。やがて人間はみんな同じ精神年齢になるでしょう。これこそが平等の実現です。平等が実現した社会は新しい階級世界を作り出すはずです。義務教育のクラスにはすでにクラスカーストというものが発生しているようです。同じ年齢の子供を集めて教育する制度は限界に到達したということです。
 人間は平等になるとさらに小さな違いで差別するようになるということです。差別するのが人間の本質なのだから差別がよくないと言っている間は差別はなくなりません。差別をなくするためには差別できないような構造に変えるしかありません。


 これで終わりにしますが、終わりがあるわけではありません。どこかで終らなければならないので終るだけです。次には次があります。新しい人間の制度と新しい経済制度が合体するとどうなるかを考えなければなりません。無の思想が新しい人間の制度とどう関係するのか、無の思想が新しい経済制度とどう関係するのかなども考えなければなりません。そのためにはあらゆることを考えなければなりませんし、考えるたびになにかが変わります。これは私がかってに考える新しい世界にすぎません。考えるたびにどこかが変わります。思想というものはどんな思想も最終的には新しい世界を構想するのではないでしょうか。みなさんも自由に新しい世界を想像してください。いくらでも自由に考えていいのです。これテキストではなによりも自由に考えるとはどういうことかを勉強したのです。最高度に自由でなければなりません。

新時代3(前のつづき)

第二部経済改革


 〔誰のものでもない土地は誰も所有できない〕
 新しい制度では土地の所有を廃止しますが、それを説明するのは簡単なことではありません。所有を廃止するとは、私有も共有も国による所有も廃止するということです。それを理解するには、土地とはなにか、所有とはなにか、そういうことを基本から考え直さなければならないようです。
 新しい制度の目的の一つは競争を終わらせることですが、歴史を勉強すると人類は土地の所有を巡って延々と争ってきたのがわかります。その争いはいまでもまだ続いています。土地は誰のものでもないからです。誰のものでもない土地を誰かのものにするのは不可能だからです。ある土地が誰のものか一度も明確になったことがないからです。土地の所有という不可能なことをやろうとしているからです。土地も所有も曖昧な概念であって人間の数だけ定義があるようなものだからです。土地とは物ではありません。土地は空間であって、物や人間が存在するための基本条件のようなものです。空間と時間は誰も取り出すことができません。


 土地の所有について考える前に所有そのものについて少しだけ考えておきましょう。経済の基本の基本は所有というものです。お金の発生から経済を考えることが多いのですが、お金が発生する前から所有というものは存在していました。所有こそ経済の基本の基本です。基本の基本にもさらに基本があるものですがどこかで手を打たなければなりません。所有について人類はあまり考えてきませんでしたが、所有について考えると実にいろいろなことがわかってくるということがこれからわかってきます。
 所有は日本語では「私のもの」「あなたのもの」「殿様のもの」と言うように「Aのもの」という言い方になります。Aは所有している主体ということになります。しかしそれをもっと簡単にすると「の」になります。日本語では「の」が所有を表しています。「私の爪」「柿の種」「去年のお正月」の「の」です。私が所有している爪であり、柿が所有している種であり、去年が所有しているお正月です。これはどういうことでしょう。まるで論理学です。所有という考え方が人間の思考・意識に深く入り込んで、所有というものがなければ思考することができないのです。


 「AがBを所有している」「BはAのもの」「AのB」と言うように所有には必ず主体が存在します。Aが主体です。ここでは人間の所有について考えているので、主体は人間です。新しい世界では新しい人間が主体になりますが、ここでは古典的な人間を主体として考えることにします。一つの肉体を一人の人間とする人間です。そのほうがわかりやすいからです。
 ところが人間の所有には個人の所有と集団の所有があります。国という集団がなにかを所有していたり、会社という集団がなにかを所有していたりします。集団の所有を考えるのは面倒なのでここでは個人の所有を考えます。集団の所有を考えるのがめんどうなのは、集団というものを考えるのがめんどうだからです。人類はまだ集団というものをうまく考えることができません。集団の思考というものが存在していないからです。集団の思考が存在していないので、集団の思考を個人が考えることになります。ここに根本的な欠陥があります。集団の考えをどうやって作るかということが政治です。人類はまだ集団の考えを作る方法がよくわかっていません。ですから集団の所有も常にあいまいなものになります。会社が所有しているものもほんとうは社長や会長が所有しているのかもしれませんし、国が所有しているものもほんとうは誰が所有しているのかよくわかりません。そこでここでは個人の所有について考えます。
 人間がなにかを所有するとはどういうことなのか。まず人間が主体になっています。これはつまり人間がまず主体を所有しているということです。主体を所有しているのが主体なのです。主体を所有している主体がなにかを所有できるということです。つまり人間はまず自分を所有しているということです。ここからすべてが始まります。自分を所有することが所有の基本になります。それが所有の原型だということで原所有と呼ぶことにします。そうすると真に所有できるのは原所有だけということになります。
 自分が所有している自分とはほぼ肉体のことですが、意識活動も含まれますし、肉体の境界もそれほど明確に存在するものではありません。その自分の領域を拡大していくことが所有するということです。自分の領域の拡大とは自分でないものを自分の領域に引き入れることです。原所有つまり自分だけが真に所有できるものなのですから、自分でないものを所有するとは所有できないものを所有するということです。所有とは所有できないものを所有することなのです。ここにすでに「むりやり所有する」というニュアンスが含まれています。所有とは所有できないものをむりやり所有することなのです。ようするに、誰のものでもないものしか所有できないのです。
 どうやって自分の領域を拡大していくのでしょうか。まず第一に食べることです。食べることは食べる物を自分のものにすることです。次に自分の排泄物を放出することです。自分の大小便や汗や血が降りかかった物は自分のものになります。自分が触れた物は自分のものだ。自分が歩いた所は自分のものだ。自分が触れている地面は自分のものだ。自分のニオイがする物は自分のものだ。そのようにして自分の領域が拡大されます。それが所有するということです。自分の肉体に触れた物は自分のものだ。自分の肉体から分離した物は自分のものだ。自分の手が掴まえた物は自分のものだ。自分がもぎ取った柿は自分のものだ。自分が身に着けている物は自分のものだ。自分が作った寝床は自分のものだ。自分が育てた鳥は自分のものだ。
 そのようにして自分の領域は拡大されますが、それは物だけに対して起こるのではありません。考えや感覚や記憶も自分のものになります。たとえば、見ることは視覚像を自分のものにすることです。現在の人間が写真を撮って物を所有したと思うのと同じです。このようにして自分の領域をどこまでも拡大することができます。理論的には世界全体を自分のものにすることができます。宇宙は自分のものだと思えばいいのだから簡単なことです。世界とは自分が知っていることのすべて、自分が意識できることのすべてにすぎないのですから、理論的には世界とは自分の世界ということになります。


 しかし、ここまでの全過程は自分がそう思っているだけです。オリオン座が自分のものだと主張してもあまり苦情がきませんが、山の柿の木を自分のものだと主張したら苦情が殺到します。山の柿の木を自分のものだと思っている人はほかにもたくさんいるからです。富士山に登った思い出が自分のものだと言っても文句を言う人はいませんが、富士山は自分のものになったからほかの人が登るのは禁止すると言えば様々な質問を浴びることになります。いや富士山は百年前から私のものだと主張する人がいるかもしれません。(私は実際に近くの山でここは自分の山だから入ってくるなと言われました。)世界にはかってに所有できるものとかってに所有できないものがあるようです。
 かってに所有できないものは物つまり物質的存在であることがほとんどです。しかもたいていは近くに存在している物です。近くにあって誰もが所有したがる物、食べられる動物、食べられる植物、なにかに使えそうな石、安全な洞窟、川の近くの草地などです。それらを所有したい人がたくさんいます。すでに自分の所有物だと主張する人もいます。そういう物の代表が土地ということになります。そういう物はかってに所有できないのであり、そういう物を所有するにはほかの人に「あなたのものだ」と認められる必要があります。それが所有権であり、それを取り決めるのが契約ということになるようです。
 誰のものでもなかった物がどうして誰かのものになるのか。人間はまだ誰もこの問題の答えを提出していません。答えがないので試験問題にはなりません。すべての人間が現在所有している物はすべて、最初は誰のものでもありませんでした。原所有である自分は別です。最初は誰のものでもなかった物が誰かのものになり、その所有権が移ってきただけです。宇宙に存在する原子はすべて最初は誰のものでもなかったのです。それがある時誰かのものになったのです。どうしてそんなことが起こったのでしょう。
 私の腕時計の金属のベルトを構成する一個の原子は私の所有になっていますが、その前はビバホームの所有でした。その前はどこかの工場の所有でした。その前は金属を作る会社の所有でした。その前は鉱石を掘る会社の所有でした。お金と交換されて所有権が移動してきたのです。鉱石を掘る会社の前はどこの所有だったのでしょうか。鉱石を所有する人がいたようです。そこの山を所有していた人が山に埋まっていた鉱石も所有していたことになるようです。ここに問題があります。山を所有するとは山のどこからどこまで所有することなのかわからないという問題です。これは土地の所有の問題と同じ問題です。次にその山の所有者の前には別の所有者がいました。その前にはまた別の所有者がいました。そして最初の所有者に辿り着きますが、その人はどうやってその山を所有したのでしょう。現在の人間が所有しているどんな物でも過去を辿るとこの同じ問いに到達します。
 答えは最初からわかっていました。物を所有するにはこれは自分のものだと宣言し、周囲の人にそれをむりやり認めさせるしかないのです。土地ならば柵で囲って、侵入者を撃退するしかありません。つまり互いに争って所有権を強引に作り出すしかないのです。それを調停するために出現したのが政治です。所有権は政治的に認定するしかないからです。議会とか、多数決とか、選挙などによって誰がなにを所有するか決めるしかないということです。また、誰かがなにかを所有すると同時に、所有する人と所有しない人の格差が発生します。誰かがなにかを所有するとそれ以外の人間はすべてそれを所有できない人間になるからであり、なにかを所有するのはたいてい一人の人間に限られるからです。所有するとは独占することでもあるのです。
 自然界のほうから見てみましょう。自然界には人間に所有されるために存在している物など一つもありません。自然物にとっては起こるはずのないことが起こったことになります。人間に所有されることなどは宇宙の予定表にないことです。物理学者がどんなに研究してもアメリカ大陸のある土地が誰に所有されるようになるか計算できません。


 物を所有するのではなく感覚や思考によって自分の領域を拡大する方法もあるという話をしましたが、それをもう少し説明します。うまい言葉が見つからないので現象学的方法ということにしておきます。
 それは次のように展開されます。視界から始めるのがいいでしょう。物が見えるとはどういうことでしょうか。見える物はすべて自分が見ているから見えるのです。そのことを探求し続ければやがて視界はすべて自分の一部だということがわかるようになります。さらに探求を続ければ、わかるだけでなくそのことが実現してしまいます。見える世界がすべて自分の一部のようになり、自分の手や足が存在するのと同じように視界が存在するようになります。それが視界の所有です。嫌いな人間の顔も自分が見ているから存在するのであり、自分の世界の一部、自分の所有物なのです。そのことはほかの感覚でもできるようになります。そうなれば感覚で捉えることができる世界はすべて自分の所有物ということになります。それはさらにどこまでも拡大できます。言葉の世界、概念の世界にも拡大できます。そうやってあらゆるものを自分の領域に組み込むことができます。他人はすべて自分がその存在を認知するから存在するのです。別の国の見知らぬ人も自分がその人間について考えるから存在するのです。そうやって自分の世界を拡大していけばやがて宇宙全体を所有することになります。所有にはそういう方法もあるということです。地球の一つや二つを所有することなどちっぽけなことだということです。
 (所有には二つの形式があることになります。この二つを経済的な所有と現象学的な所有とに言い分けることができます。新しい制度では、新しい人間が経済的な所有を担当し、SDが現象学的な所有を担当することになるようです。また、土地の所有とは経済的な所有にかかわる問題ということになります。)


 そろそろ土地の所有について考えます。なぜ土地の所有について考えるのかというと、土地の所有をあらゆる物の所有の代表と考えているからです。それにまた、物の所有はすべて土地の所有と同じだと予測しているからです。自動車を所有することも、服を所有することも、食料を保存することもすべて土地の所有と同じだということになるようです。
 所有というものはひどく曖昧なものだということがわかってきました。現在でもそうです。誰のものかわからない物がたくさんあります。街路樹の下に生えたキノコは誰の所有物なのでしょう。街に出現する熊は誰のものなのでしょう。公園の雪だるまは誰のものなのでしょうか。誰にも所有できない物もあります。太陽の光、空気、風、重力、空、自動車の走る音などです。これらの物も徐々に誰かの所有になりつつあるような気がします。隣にマンションができて窓から太陽の光が入らなくなると太陽の所有権を奪われたような気がします。風力発電所は風の使用料を誰に払っているのでしょう。ふいにそれが疑問になります。
 人間には所有できない物と所有できる物があるようですが、その区別が曖昧です。所有できる物でもまだ所有されていない物とすでに所有されている物があり、その区別がはっきりしません。誰かに所有されているのが間違いない物でもほとんどの物は誰の所有物かわかりません。ある物がどうして誰かの所有物になるのかよくわかりません。海を泳いでいる魚はいつ誰かの所有物になるのでしょう。誰かがその魚を自分の所有物にして値段を付けて売るのです。それができる人とできない人がいるようです。物の一つ一つによって所有する仕方が違っているようです。法律をいくら作っても間に合いません。ペットボトルの蓋の所有権はどうやって移り変わっていくのでしょう。いつのまにか廃品処理業者の所有物になっています。これら全体がどういう法則で決まっているのか誰にもわかりません。この所有の混沌のなかにいつのまにか土地も巻き込まれているようです。
 土地とはなんでしょう。砂でも土でも石でもありません。石は蹴っ飛ばせば別の土地に転がっていきますし、中国の砂が風に乗って日本にやってきますが、中国の土地だから返してくれとは言われません。土地とはそこにはえている植物でもそこに住んでいる動物でもありません。そこの上空の空気でもないし地下の鉄鉱石でも石油でもありません。土地は物ではありません。地下の石油は誰の所有物なのでしょう。土地の所有者が地下の石油も所有するのでしょうか。そこをわざと曖昧にして土地と石油をごちゃ混ぜにします。仕舞いには石油の採掘権を所有しているなどと言います。最初にその採掘権を所有していたのは誰なのでしょう。土地は物ではありません。土地は空間です。しかも空間の一つの面にすぎません。人間は空間に存在する物は空間から取り出せますが(移動するだけですが)、空間から空間そのものは取り出せません。空間と時間は世界の外形のようなものです。人間は空間と時間のなかに存在することしかできません。
 土地を所有するとは空間の一つの面を所有することであり、そこに物は一切含まれていないということになります。あなたが所有しているのは何平方メートルの面ですので、そこにある砂一粒も動かしてはなりません。ということになります。あなたが所有しているのは面ですからそこから一ミリ上も一ミリ下もあなたのものではありません。ということにもなります。そういったことをすべて曖昧にして適当にやっているのです。だからもう少し正確にやろうとするなら、土地ではなく空間の所有に変えるべきです。空間を細かく分割して所有権を争うわけです。そうすればマンションの59階の家の部分の空間を所有するということが可能になります。上空一万メートルの空間を少し所有すれば航空会社から使用料を取れます。地面から何メートル下の空間まで所有できるか、地球の中心まで土地なのか、海面から何メートル下の空間まで所有できるか、地面・海面から何メートル上までの空間が所有できるかといったことを決めなければなりません。
 さらに問題が発生します。地球の運動によって空間が移動するという問題です。昨日所有した空間が次の日にはどこに移動したのかわからなくなっています。空間に印を付ける方法を開発しなければなりません。さらに問題が発生します。人間は生まれながらにして空間を所有しているという問題です。肉体の形と同じ形をした空間です。しかもその空間は刻々と形を変えて移動します。正確には空間が移動するのではありません。肉体が次々に別の空間を所有・占拠しながら移動するのです。一つの肉体が一日に所有・占拠する空間はたいへんな量になります。空間使用料をもらえば儲かります。さらに人間が所有する空間は肉体の周辺に拡大しています。この問題はさらに追及できますがもうやめます。
 ようするに所有とはすべてがデタラメ、適当、いい加減ということです。ある物がある人の所有になるための規則や法則のようなものはまったく存在せず、それぞれの人間のかってな主張があるだけです。人間の所有権を認めると言っても、その所有権がどこからどうやって発生するのかわからないのです。ところがこの所有の混沌を平定する一つの統一原理が出現しました。お金です。お金は必ず誰かの所有物として存在します。人間に寄生しなければ存在できないのがお金です。お金は所有の概念そのものです。所有の概念が物質化したのがお金です。お金は必ず誰かの所有物です。そして自分のお金で買った物は必ず買った人の所有物になります。これこそが所有の統一原理です。最速に簡単に言えば、買った物は自分のものになるということです。こうしてあらゆる物が誰の所有なのか次々に明確になっていきました。よくわからなかったことがすっきりしてわかりやすくなったということであり、真理が実現したわけではありません。この原理は逆にも働きます。誰かからある物をお金で買えば、逆に以前の所有者が明確になるということです。Aさんがある土地を柵で囲ってそこは自分の土地だと主張します。なんの根拠もありません。そこにBさんがやってきてその土地を一億円で買いましょうと言います。Aさんがその土地を一億円で売るとその土地はAさんの所有物だったことになるのです。Aさんの所有物ではなかったのに、あとからAさんの所有物だったことになるのです。しかもその土地は一億円の土地だったことになります。そんなバカなことがあるものかと思うかもしれませんがこれは歴史上実際に起こったことです。そうやってすべての土地は最初から誰かの所有物だったことになります、最初は誰のものでもなかったのにです。これは土地だけに起こることではありません。どんな物にも起こることです。お金は過去さえ変えてしまうということです。ゴッホは十億円の絵をたくさん描いたことになってしまいます。


 土地の所有について考えてみましたがなにがわかったのでしょう。土地の所有にはなんの原理も法則も規則もないということです。だからいくら考えてもなにもわからないということがわかっただけです。まず土地とはなにかがわかりません。土地を所有しているといってもなにを所有しているのかわからないのです。土地を所有している人によってなにを所有しているのかというイメージが違うはずです。ある人は土地こそ自分の基盤だと思っています。ある人は財産だと思っています。ある人は故郷だと思っています。ある人は生きる糧だと思っています。ある人は土地にある木も自分のものだと思っています。地面の下は地球の中心まで自分のものだと思っている人もいます。ですから過去の土地所有を学習してもなにもわかりません。わかったのは〔土地は誰のものでもない〕ということです。いろいろ考えて確実にわかったのはそれだけです。
 そしてこれは土地だけのことではありません。自然に存在する物はすべて土地と同じであって誰のものでもありません。自然に存在する物のすべてとは物のすべて、物質のすべて、原子で出来ている物すべてということです。土地に存在する土や石や砂も含まれますし、地下の鉱石や石油も含まれますし、水や空気も含まれますし、植物や動物もすべてです。それらすべては誰のものでもありません。誰のものでもないとはそれらすべてのものということです。自然はすべて自然全体のものです。ですから特定の誰かのものにすることはできません。人間以外の誰かのものにすることもできません。こうして所有そのものが廃止になります。所有という概念が人間世界から消滅します。人間はそれらを使用できるだけになります。そして使用が終われば自然に返却されます。


 誰のものでもない物がどうして誰かのものになることができるのか。もう一度この問題をできるだけ簡単に考えてみます。所有の謎のすべてがここにあります。こうすれば、あるいはこうなれば、誰のものでもない物が誰かのものになるという法則とか原理のようなものがあるのでしょうか。ありません。所有の基本とは自分の領域の拡大です。それぞれの個人がかってに自分の領域を拡大するだけです。つまり自分がかってにあの柿の実は自分のものだと思っているだけです。ほかの人もみんなあの柿の実は自分のものだと思っているかもしれません。自分が思っているだけでは自分のものではないのです。あの柿の実は依然として誰のものでもありません。早い者勝ちです。奪い合うしかないということです。食べることによってやっと所有できたということになるようです(食べるという強制所有)。柿の木は食えません。柿の木を自分のものにするにはどうしたらいいのでしょう。誰のものでもない物を自分のものにする方法などありません。柵で囲って立て札を付けても無駄なことです。誰のものでもない物は無限に誰のものでもないからです。そんな物が誰かのものになることなど不可能です。
 政治的に解決するしかありません。集団の全員が話し合って決めるわけです。あの柿の木を誰かのものにできるとしたら、人間の全員が自分のものにできるということです。地球上に存在するすべての人間です。そこから一人を選ぶわけです(複数で所有するということも可能ですが)。次にはどうやって一人を選ぶか、その方法が議題になります。そこに異議が提出されます。柿の木の枝の一本一本を別々に考えるべきだと言うのです。その問題を追及すると原子の一個一個、素粒子の痕跡まで別々に誰のものにするか考えなければならなくなります。あらゆる自然物についてそうしなければなりません。誰のものでもない物が誰かのものになることなどは宇宙の原理には含まれていないのです。


 追加。
 土地や資源などの物(物質・原子・エネルギー)は人間のものではありませんので、人間はそれらを所有できません。ですからそれらを所有するには奪い合うしかありません。戦争をするしかないのです。戦争をするということは土地や資源が人間のものではないということを逆に証明していることになります。戦争が隠された真実を暴露してしまうのです。いまでも戦争で土地を奪い合っていますが、土地は誰のものでもないと世界中に知らせていることになります。


 追加。
 ここまで考えてきて次のことがわかってきました。土地の所有をなかなか終わらせることができなかったのは、土地のことだけを考えてきたからです。土地は自然物の一部にすぎないのですから、自然物すべてのことを考えなければならなかったのです。自然物すべての所有を終わらせなければ土地の所有を終わらせることもできないということです。アル中を終わらせるためにビールだけを禁止しようとしたようなものです。アル中を終わらせるためには日本酒、焼酎、ワインなども同時に禁止しなければなりません。ウイスキーもマッコリもです。土地の所有を終わらせるためには自然物すべての所有を終わらせなければならないのです。



 〔物には値段がない〕
 自然使用許可局のようなものが作られ、そこが自然に変わって使用許可を出します。使用はすべて無料になります。使用許可は簡単なものです。
 無料のものは買えません。買えないので誰のものにもなりません。無料とは誰も買えないほど値段が高いのと同じです。
 自然は大きく三つに分類されます。
1、面積・空間。
2、土地・海に存在する物質。
3、土地・海に生成する植物。
4、土地・海に生息する動物、土地・海を通過する動物。
 家を建てるためには面積・空間の使用許可が必要です。家を建てるのには土地を使用するのではないということです。家を建てるために使用するのは面積・空間なのですから、土地に存在する物質・生物は使用できません。人間一人が住むための面積・空間の量は決められます。使用が終われば自然に返却されます。
 地下の鉄鉱石なども使用許可を取って使用します。物質は使用が終われば自動的に自然に返却されますので、返却するのは別の人になります。人間は物質を使い果たすことができません。物質を消費することはできないということです。一個の原子(素粒子)さえ消費できません。原子は人間を通過してそのまま自然に戻って行きます。
 自然に生成した生物を捕獲して使用するには使用許可が必要です。海の生物などですが、いまでも同じようなことをやっています。漁業権は三陸沖サンマの使用許可などに変わります。人間が育てた植物や動物も自然に生成した生物と見做されます。人間が育てても人間のものにはなりません。
 稲作には面積・空間の使用許可、水と土の使用許可、生成した種の使用許可などが必要になります。
 自然の物はすべて無料で使用できます。面積・空間を移動するだけの場合は使用許可はいりません。使用許可は自動的に取得できると考えても同じです。船が海上を移動するのにも使用許可はいりませんが、サバを取るには使用許可が必要です。サバは無料です。サバは無料ですがサバを捕まえるための労働によってサバに値段が発生します。サバの値段はサバを取るための労働の値段なのであり、サバは常に無料です。
サバを買う人間はサバを捕まえるための労働にお金を払うのであって、サバは無料なのです。サバは無料なのでサバを食べるのも無料です(要再考)。サバを食べる使用許可はサバを捕まえる使用許可がそのまま移動してきたものです。食べるために使用されたサバはやがて自然に自動返却されます。サバを構成していたすべての原子は自然に戻って行きます。つまりサバを売ったり買ったりしているのではありません。サバは常に無料です。サバを捕まえたり運んだりする労働を売り買いしているだけです。


 鉄鉱石は自然のものですから鉄鉱石を取り出すためには使用許可が必要になります。ある程度の面積の使用許可も必要です。この場合もサバと同じで鉄鉱石は常に無料です。鉄鉱石はやがて鉄になり鉄の板になり自動車の一部になります。人間の労働がたくさん追加された結果です。しかし鉄は常に無料であり自然のものを使用しているだけです。自動車に乗っている人は自然の鉄を使用しているだけです。最初の使用許可が受け継がれて継続しているということになります。使用している物はやがて自然に返却しなければなりません。使用とはすべて一時的な使用であり最後には自然に返却しなければならないのです。
 こうして自然の物と人間が作った物にはほとんど区別がないということがわかります。人間が作った物はすべて自然の物に労働を加えただけであり、自然の物は自然の物のままに継続していますし、一時的に使用しているだけであり、最後には自然に戻さなければなりません。戻さなくても戻ってしまうでしょう。つまり、お金で売ったり買ったりしているのは労働であって物ではないということです。物はただ通過していくだけです。人間は物を使い果たすこともできず、消費することもできないということです。周囲にある物はすべて家具も服も家電も食べ物も自然の物を一時的に無料で使用しているだけでやがて自然に返却しなければなりません。だからゴミなどというものは存在しません。空間や時間や人体も使用が終われば返却されます。


 これらの考え方を基本にして経済は再編されます。中心にある考えを簡単に表現すれば〔物に値段はない〕ということになります。
 自然物はすべて誰のものでもありませんから、人間が自然物を所有することはできません。自然物とは原子、分子、素粒子、電子、光子、電磁波、引力、重力などです。人間は自然物を一時的に使用できるだけで、使用が終われば自然(宇宙)に返却しなければなりません。食物も使用が終われば自然に返却され、食物を構成していた原子はすべて自然に戻ります。同様にどんな物も使用が終われば自然に返却されます。人間は物を使い切って消滅させることはできません。人間は一個の原子さえ消滅させることはできません。物(物質・原子・エネルギー)は無限にループするだけです。ですからゴミなどという物は存在しません。ゴミは人間中心主義の世界にしか存在しない幻想です。
 人間は物を使用できるだけで所有できません。所有権は使用許可に変わります。物の使用はすべて無料になります。つまり物(物質・原子)はすべて無料になります。物に値段を付けることは禁止されます。物を売ったり買ったりすることはできなくなります。物は移動するだけであり、物の移動と共に物の使用許可が移動するだけです。
 値段を付けられるのは人間の労働だけになります。お金で売り買いできるのは人間の労働だけです。キャベツが半分で百円とは半分のキャベツに投入された人間の労働が百円ということであり、キャベツは無料なのです。百円で買ったのは人間の労働であり、キャベツの使用許可は農家から無料で移動してきただけです(実際は様々な人間の間を移動してきました)。キャベツの使用が終われば糞や呼吸となって自然に返却されます。農家の人は労働を売ったのであり、店の客は労働を買ったのです(実際は様々な人の労働の集合ですが)。労働を売り買いすることによって物が移動します。キャベツが百円のように思われるのは仮象にすぎません。現象としてはそう見えるだけです。
 同様にダイヤモンドなども無料になります。採掘した人や加工した人の労働にお金を払えばダイヤモンドの使用許可は移動します。そうなると現象としてはダイヤモンドの値段はひどく安くなるはずですが、ダイヤモンドに値段などありません。(そうすると逆に、なぜいままでダイヤモンドが高かったのかが謎になります。)
 お金で売り買いできるのは労働だけだということは、歌手のライブに行く場合を考えるとわかりやすいです。客がお金を払うのは歌手の労働に対してであり、空気の振動を買っているのではないからです。空気の振動は無料で使用されただちに返却されます。
 (追加。サービス業と言われる仕事はたいてい、物ではなく人間の労働に対してお金を払っています。バス代は運転手の労働の値段です。しかし、製造業もほんとうは同じなのです。物の値段は物の値段ではなく、物を作った人間の労働の値段です。それがいつのまにか物の値段だと思い込むようになりました。そして「燃料費」「原材料費」「物価」などという言葉が作られます。ついには「人件費」などという言葉まで出現します。これは逆に人間が物のように扱われるようになったことを示しています。労働ではなく人間そのものに値段が付けられたのです。)


 いままでの経済は物に値段があるという錯覚によって作られていました。物の値段は物に加えられた労働の値段なのですが、人間はすぐ物に値段があるように錯覚します。労働を省略してしまうのです。それは思考を短縮するからです。(同じような思考の短縮はほかにもたくさんあります。)お金をまず考えてしまうことも影響しています。そして人間は物に値段があると思い込んでしまいました。物に値段があるという考え方が凝り固まると「物価」などという言葉が生まれます。
 物に値段があると錯覚すると物の値段を労働に関係なく自由に変えられると思うようになります。物の値段は労働だけによって決まるのに、労働と関係なくなると、どうやって物の値段が決まるのかわからなくなります。そこで物の値段を決めるための様々な方法が考え出されるようになります。物と値段にはなんの関係もないのですから、物の値段はかってに操作できるようになります。適当な理由をつけて高くしたり安くしたりできるようになります。
 適当な理由の最大のものは、需要と供給の関係で物の値段が決まるというものです。この考え方も物に値段があるという錯覚によるものであり、これほど間違った考え方はなく、この考え方が経済を混乱させています。あらゆることの結果と原因が逆になっています。需要と供給の関係で値段が決まるのではなく、適当に値段を変えることが需要と供給の関係を変化させるのです。また、需要のあるものが売れるのではなく、売れたものを需要があったことにしているだけです。トイレットペーパーの芯も売れると需要があったことになるのです。しかも、需要があるから売れるという考え方がすでに間違っています。ほとんどの物は幻想で売れるのですから。
 また、需要と供給で物の値段が決まるという考え方には一番肝心な労働が含まれていません。供給は労働によって出来上がった物だけを見ているのであり、労働は切り捨てています。労働がなくても物に値段が発生すると考えているのです。
 また、物に値段があると錯覚すると、物の性質や性質の変化で物の値段が変えられるようになります。ダイヤモンドの値段はダイヤモンドの性質によって決まるという錯覚です。
 また、物に値段があると錯覚すると、労働の値段が物の値段を決めるのではなく、物の値段が労働の値段を決めるようになります。物の値段がゼロ円になると労働の値段もゼロ円になります。農作物の大量廃棄です。物に加わった労働の量が一定なら物の値段も一定でなければなりません。
 そうなると、物の値段を誰かが適当に決めるように賃金も誰かが適当に決めるようになります。国会議員の賃金を国会議員が好きなように決めるのを見ればわかります。誰かが勝手に決めているのに、物の値段や賃金を決めるような方程式があるかのように偽装しています。株価や為替も同様です。それらを決める方程式自体誰かが適当に作ったものにすぎません。


 需要と供給で値段が決まるという考え方は間違っています。間違っているのです。需要と供給で値段が決まるという考え方は労働を無視しています。労働が値段を決定するのではなく、消費が値段を決定するという考え方にすりかわっています。「供給」というのも生産された物だけを見て労働を無視しています。労働を無視して消費だけを見ています。そして消費につながらない労働は切り捨てられてなかったことになります。物の値段を決めるのは労働だけです。(労働を賛美しているわけではありません。)
 需要と供給の関係で物の値段が自動的に変化するなどということはありません。値段がかってに変動するなどということはないのです。神の見えざる手など存在しないのであり、誰か人間がかってに値段を操作しているのです。競りを見ればわかります。また、石油の値段を見ればわかります。誰かが適当に操作しているだけです。物に値段があると思い込んでいるからです。物に値段があるなら労働を無視して物の値段を変えることができると思うようになります。そうなると、高く売れるなら高くする、高く売れないなら安くするという考え方が発生します。これこそ消費だけを参考にして値段を操作するという方法です。物の供給といっても労働を無視して生産された物だけを見ています。神の見えざる手が存在するならそれは労働する手なのです。
 (追加補足。また消費などということもありません。人間は物を消費することはできません。一時的に使用することができるだけです。)
 (追加補足。経済学の需要という考え方は「需要があるから売れた」のではなく「売れたので需要があった」ことにしているだけです。これは結果と原因を入れ換える思考法です。その結果、売れたものはなんでも需要があったことになります。しかし、需要のないものまで買うのが人間です。むしろわれわれは需要のないものばかり買ってしまいます。)


 物に値段はありませんが物に値段があるかのように仮像します。物の値段はどうやって決まるのでしょう。すぐにわかることは、物の値段を決めるにはお金の物差しのようなものがなければなりません。お金の物差しとは値段が固定された物ということです。決して値段が変わらない物で、お金以外の物です。あらゆる物の値段が変動するこの世界に値段の変わらない物はありません。値段を決めるための物差しが存在しないのですから物の値段を決定することは不可能だとわかります。だからあらゆる物の値段がかって気ままに変動してしまうのです。
 物の長さを測るには物差しが必要ですが、物差しによって目盛りが違うと精確な長さを測ることができません。そこで物差しの長さを測る物差しが必要になります。原器というやつです。現在では光とかを使っているようですが違うかもしれません。物差しの原器になるのは自然の物であり、長さの変化しない物です(変化しないことにしているだけかもしれません)。お金にもそういう原器になる物が必要です。そういう物が存在しなければ物の値段や賃金や株価を測定することも決定することもできません。お金の原器になるのはお金ではない物ということになります。金(きん)も値段が変化するので原器になりません。値段が永久に変化しない物が必要ということです。物の長さですと、たとえば鉛筆の長さが変化していれば、変化したのは鉛筆であって物差しではないとわかります。しかし、商品の値段が変化したら、変化したのは商品なのかお金なのかわかりません。ですから、商品の値段を適当に変えても、変化したのは商品なのかお金なのかわかりません。それがわかるのは、これは絶対に100円、なにがあっても絶対に100円という物が必要です。一つあればいいのです。長さの定まった物が一つあればあらゆる物の長さが定まります。値段の定まった一つの物がないためにあらゆる物の値段が適当に変動します。これは現実に起こっていることです。値段の定まった物がなければどんな物の値段も決定できません。
 経済を安定させるには値段の定まった物が必要ということです。そういう物を作り出さなければなりません。それはどんな物なのか。それはたぶん物ではないものです。そしてこれはそういうものが元々存在していたということではなく、なにかをそういうものにするということです。つまりなにかの値段を固定することに人間が決めるということです。そういうあれやこれやを考えると値段を固定できるものは人間の労働しかないことになります。(みなさんも自由に考えてください。)
 人間の労働の値段をすべて同じにします。そして物の値段はどれだけの労働によって作られたかによって決定されます。面倒なことのようですが、いまの人間はもっと途方もなく面倒なことをやっているのです。これは人間の労働の値段をすべて同じにするということであって、実際は違っていてもいいということです。どうやって同じにするのか。たぶん人間の一定時間の労働量は同じということにするしかありません。つまりすべての人間の一時間の労働の値段は千円というふうに固定するのです。これは時間給の考え方に似ていますが、まるで逆です。すべての人間の時間給を固定するのですから。


 人によって収入が違うということは、労働の値段が人によって違うということです。格差が大きいということは、労働の値段が違いすぎるということです。人によって労働の値段があまりに違いすぎる。労働ほど値段がまちまちなものはないということです。これはとても異常なことではないでしょうか。同じ商品が場所によって値段が違うということだからです。しかも極端に違う。あらゆる物の値段の違いが労働の値段に集中しているようです。なにひとつ値段が固定されているものがない。すべての物の値段が変動する。それらの値段の変動が労働の値段に集中してしまうということです。いまの経済制度では労働の値段は一番最後に考えるものになっているのです。電気の値段がこうで、ガソリンの値段がこうで、小麦の値段がこうで、家賃がこうで、学費がこうだから給料はこうだ。というように労働の値段が最後に決まる。だからあらゆる物の値段の違いが集中して労働の値段の違いが最も大きくなる。これを逆にしなければならない。一番先に労働の値段を決める。労働の値段を固定することによってほかのあらゆる物の値段が決まるようにする。


 物の値段がどのようにして決まるのか見てみましょう。
 サンマが高くなくなりました。サンマが自分で自分の値段を上げたわけではありません。誰か人間がサンマの値段を上げたのです。しかし「漁獲量が減ったから」などと説明されます。漁獲量が減ったからサンマの値段が上がっただけで自分が上げたわけではない。サンマの値段が上がったのは自分が上げたのではなく漁獲量のせいだ。そう言いたいようです。サンマの漁獲量が減ったのはなぜなのでしょう。サンマがかってにサンマ人口を減らしたのでしょうか。気候のせいなのでしょうか。サンマを食べる動物が増えたのでしょうか。原因はよくわかりません。よくわからない原因によってサンマの漁獲量が減ったのです。
 漁獲量が減るとなぜ値段が上がるのでしょうか。サンマの数が変わっても一匹のサンマはなにも変わっていません。サンマそれ自体は同じままです。それ自体は同じなのに値段だけが変わりました。サンマそれ自体はなにも変わっていないのだからサンマのせいではありません。人間がかってに値段を上げたのです。漁獲量が減るとなぜ値段を上げるのでしょうか。同じ労働で千匹獲れたのが十五匹しか獲れないからです。だから値段を上げたのです。つまり労働の値段を同じにするためです。労働の値段を同じにするためにサンマの値段を上げたのです。それを「漁獲量が減ったから」と説明するのはなぜなのでしょう。「労働の値段を同じにするため」ということを隠蔽しようとしているのではないでしょうか。どうしてそれを隠蔽しようとするのでしょうか。値段が上がったのをサンマのせいにしようとしているのではないでしょうか。


 台風が来てリンゴの収穫量が減ってもリンゴの値段は変わりません。そのためにリンゴ生産者の収入は少なくなります。リンゴ生産者の労働の値段が暴落したことになります。サンマの場合は労働の値段を同じにしようとしましたが、リンゴの場合は労働の値段を同じにしようとする運動が起こりません。サンマの場合となぜこんなに違うのでしょうか。


 バスの乗客が多くても少なくても運賃は220円です。乗る距離が長くても短くても運賃は220円です。ガソリンの値段が上がっても下がっても運賃は220円です。運転する人の労働の値段も変わらないようです。乗客の数や走る距離が違ってもガソリンの値段が変わっても運転する人の労働の値段は変わりません。ここではなんと労働の値段が最初から固定されています。サンマやリンゴの場合となぜこんなに違うのでしょうか。物の値段を決めるための決まったやり方が存在していないからです。値段の決め方がみんな違っているからです。その時その時で誰かが(偉そうな人です)適当な理由をつけて適当に変えているだけだからです。
 商品、給料、金(きん)、株、土地、石油、家賃、通信料、広告料、税金、保険、戒名、あらゆる物の値段が変動します。これは異常事態ではないでしょうか。値段の固定された物がなにもないので、なんの値段がなんの値段を変動させているのかまったくわからりません。経済学者は株の値段の変動の理由を適当に説明しますが、理解できる人はいません。一番変動の激しいのはお金の値段かもしれません。商品の値段が変わったのは商品が変わったのかお金が変わったのかわかりません。100円のパンが120円になったのは、パンが値上げしたのではなく、100円というお金が120円になっただけなのかもしれません。


 あらゆるものの値段が適当に決まるのですが、最も適当に決まるのは給料です。給料がどのように決まるかはもはや経済学ではまったく説明できません。給料は給料を決める権力を獲得した人間がかってに決めています。国会議員が公務員の給料を決め自分の給料も自分で決めるように、権力者は部下の給料をすべて決め自分の給料も自分で決めます。法則があるとしたら地位が上の人間ほど給料が高いという法則だけです。そこで役職をたくさん作り地位の序列を増やします。地位の序列が増えると一番上の人間の給料が自然に高くなるという仕組みです。班長より係長の給料を高くしなければなりません。係長より課長の給料を高くしなければなりません。課長より副部長補佐の給料を高くしなければなりません。副部長補佐より副部長の給料を高くしなければなりません。副部長より部長補佐臨時の給料を高くしなければなりません。部長補佐臨時より部長補佐主任臨時の給料を高くしなければなりません。社長まであと百段はあります。そしてこれらの地位の序列の至る所に下位の給料を決めるミニ権力者が生まれます。需要も供給も市場原理もへったくれもありません。ほかの人間の給料を決める権力を握って手放そうとしない人間がいるだけです。最も肝心な労働の値段が最もいい加減に決められています。
 


 労働の値段を固定しそれによってあらゆる物の値段を決めるようにします。労働の値段を決めるには労働の量が測定されなければなりません。どうやって労働の量を測定するかはまだよくわかりませんが、たぶん労働の時間で測定するしかないでしょう。労働の結果(作業量)で測定すればいままでと同じになってしまいます。労働の量は時間
で測定するしかあるません。時給、日給、月給、年給などです。仕事の種類によってどれかになるような気がします。時給が1000円なら日給は8000円、月給は20万円くらい、年給は240万円くらいになるでしょう。


 それを会社で行なうとどうなるのか考えてみます。会社では一人一人の労働を明確に区別できないので、全体で考えるしかありません。月給制にするとすると、全員の月給が20万円に固定されます。10人いると全員で労働の値段は200万円になります。全員で一ヶ月に20万個の商品を生産すると、労働の値段によって商品の値段が決まるので、200万円割る20万個で一個10円になります。それに商品を作るための経費が加算されると商品は一個30円になるとします。作った商品がすべて売れると全員の月給が20万円になります。一番先に給料を決めるのですがそれが実現するのは最後ということになります。
 一ヶ月に商品を20万個作っても10万個しか売れなければ、全員の給料が10万円になってしまいます。そこで商品を10万個作ることにすると一個20円になり、経費を加算すると一個40円になります。そうやって物の値段が調整されます。労働の値段によって物の値段が決まるとはそういうことです。
 買うほうにしてみれば、商品の値段はすべて固定された労働の値段によって決まっているのだから、これは高いとかこれは安いとかはなくなるはずです。すべての値段は適正な値段だからです。その値段で買わなければすべての人間に適正な給料が払われなくなるということです。その値段で買わなければ、めぐりめぐって自分の給料も減ってしまう恐れがあるのです。物の値段がどのように変化するか予測するのはむずかしいことですが、安い商品は高くなり、高い商品は安くなり、だんだん平均化すると予測されます。ダイヤの指輪がそんなに高いということはなくなるでしょう。ダイヤの指輪の値段もそれを作るために投入された労働の量で決まるからです。
 サービス業の料金はもっと均一化するはずです。サービス業には明確な商品が存在せず、一時間の労働がそのまま一時間の商品のようになっています。ですから一時間の労働の値段を固定すると一時間のサービスの料金も同じになります。しかし、サービスを受ける人数によってサービスの料金は変化します。時給を1000円に固定すると、10人に一時間のサービスを提供すると一人100円の料金になります。歌手が東京ドームで一時間のライブをするとします。観客は5万人です。歌手の時給が1000円に固定されているので、観客の料金は1000円割る5万ですから一人2銭になります。実際はほかにもスタッフがいるし経費もかかるのでもっと高くなります。スタッフが100人いるとスタッフの時給も1000円なので観客の料金は2円2銭になります。(東京ドームの一時間の使用料がいくらになるかは各自考えてください。)


 本を書く場合はどうなるかも考えて置きましょう。十年かけて本を一冊書いたとします。この場合の労働はどうやって計算したらいいでしょうか。実のところどのくらい労働したのかはわかりません。このような場合は年給にします。年給を240万円とすると、本を書くのに十年かかっているので2400万円の労働になります。本を一万冊作ると一冊2400円になります。十万冊作ると一冊240円です。印刷・製本などの労働の値段が加算され、紙やインクを作る労働の値段も加算されるともっと高くなりますが、ここでは本を書いた労働だけを考えます。百冊くらいしか売れないと予測して百冊作ると一冊24万円になりもっと売れなくなるのでやはり一万冊作ることにします。一万冊が全部売れたのでまた一万冊作ることにします。この一万冊にはもう本を書く労働が存在しませんので一冊0円になります。印刷・製本・紙・インクなどの労働の値段だけで本の値段が決まります。
 しかし、本などはネットに無料で公開されるようになるでしょう。新しい制度になればなおさらです。本を書くことは労働とは見做されないということです。本を書くことなどはすべての人間の共同作業であって特定の製作者などいないという考え方です。







 労働の値段が固定されると商品の値段も固定されます。店によって商品の値段が違うということが起こらなくなります。商品の値段を変えると労働の値段を変えたことになってしまうからです。労働の値段をかってに変えるのは犯罪になるかもしれません。同じ商品はどこで買っても同じ値段になります。
 しかし、商品や労働に値段があるわけではありません。商品や労働に値段があるかのように見えるだけです。お金が存在する世界を前提にしているからそうなるのですが、いまのところまだお金の存在を前提にして考えるしかありません。それがいまのところ人間の限界です。人間はまだお金なしでやっていけるほど成熟していないということです。労働の値段を固定するといってもそれが正しいわけではないのです。なにかの値段を固定しなければならないのでとりあえず労働の値段を固定することにしただけです。それしか考えられないというだけのことです。さて、しかし、労働とはなんなのか。それが次の問題になります。
 同じ行動をしても労働であったり労働でなかったりします。カレーライスを作ることが労働だったり労働でなかったりするのです。自分のためや家族のためや身近な少人数のためにカレーを作るのは労働ではありません。それは単なる行動です。見知らぬ多くの他人のためにカレーを作るのが労働です。労働は他人のための行動ということになります。しかし日本語では自分のための行動も「仕事」とか「労働」などと言う場合もあります。ここでは考え方を明確にするために言葉の使い方を少しばかり厳密にしているだけです。
 労働とは他人のためにする行動です。もっと簡単に言えば、労働は他人の行動を行動することです。他人の行動を代わってすることだともいえますが、他人の行動を奪うことだともいえます。われわれは会社で他人の仕事を略奪し続けているのです。だから商品を買うとは自分の行動を取り返すことです。お金で行動を買っているということになります。するとつまり行動を売り買いしているということになり、商品の値段とは労働の値段なのだという考え方とみごとに整合したことになります。(ここでは論理というものも一緒に勉強しています。)


 (反省とお詫び。言葉「もの」と言葉「物」がひどく混乱しています。どういう場合にどちらを使うかはっきりしていません。物質で出来ている「物」と物質でない「もの」を区別しようとしていましたが、それらすべてを含んだ「もの」もあります。あらゆるものという「もの」です。また、所有を表わす「誰のもの」の「もの」もあります。それらを明確に区別するのは不可能だとわかりました。すべてを平仮名の「もの」に統一すればいいのですが、どうしても物質の「物」と物質でない「もの」を区別したくなります。物質でない「もの」とは思考・意識に関するもので、感覚・感情・欲求なども含みます。言葉や情報も物質でない「もの」に含まれるはずです。ところが、物質と物質でないものを明確に区別することも不可能です。言葉や映像は物質なのか物質でないのかよくわかりません。遺伝子などもそうです。さらに「物質」と「物」を区別することもあります。さらに「もの」と「こと」の区別という厄介な問題も控えているようです。残念ながらこの混乱はこれから先もそのまま続きそうです。これは日本語の問題なのかもしれません。)
 (追加説明。「物質」と「物」の区別とは、「物質」は原子・素粒子・量子といったもので、「物」とはわれわれが生活上「物」と言っている〔もの〕です。生活するうえで「物」として扱っている〔もの〕です。機械としてのテレビは一つの「物」であり、リモコンも一つの「物」です。テレビは様々な部品の集まりであり様々な元素の集まりですが、テレビを一つの「物」として生活しているわけです。ですからこの「物」には「一つの」という言葉がよくくっ付いています。「物」を一つ一つ区別して生活しているからです。ーーーこの文章に登場する〔もの〕がとても厄介なものです。)



 この考え方によって経済を再編します。いままでの経済に慣れ親しんだ目から見れば奇怪なものに見えるかもしれませんが、いままでの経済こそ異常なものであって、単にそれに慣れ親しんでしまっただけです。
1、物(自然物)はすべて誰のものでもない。
1、人間は物を所有できず一時的に使用できるだけだ。そして使用が終われば自然に返却される。
1、物に値段はない。物はすべて無料で使用される。
1、人間の労働の値段を固定することによってあらゆる物の値段が決まる。
1、すべての人間の給料が同じになる。


 これらのことによって経済がどう変わるかいくつか見てみましょう。
 物がすべて無料ということはすべての物が等価値になるということです。金(きん)や銀も水や石灰石と等価値になります。物の性質によって物の値段が変わることはないということです。量が少ないので値段が高くなるということはなく、よく使用されるので値段が高くなるということはなく、たくさんあるので値段が安くなるということはありません。千バーレルの原油も三バーレルの原油も同じ値段です。物に値段がないとはそういうことです。すべてが同じ値段になって等価値になるのではなく、すべてが無料になることによって等価値になります。
 また、物に値段がないということは物を売り買いできないということです。意外なことかもしれませんが、無料の物は売り買いができないのです。誰のものでもない物は売り買いができません。売り買いできるのは人間の労働だけになります。
 いままでもそういう物が存在していました。人体です。人体には値段がないので売り買いできません。ですから自然がすべて人体のようなものだと考えればこのことが理解しやすくなります。なぜ人体には値段がないのでしょう。それがわかればこの謎が解けます。(いまのところ空気、太陽光、重力なども無料です。)


 自然物が無料とは原材料がすべて無料ということです。それに人間の労働が加わるとだんだん値段が加算されます。扇風機を考えてみれば、まず原材料を掘り出す労働があり、原材料から一定の物質を作り出す労働があり、それらから部品を作る労働があり、それらの部品を組み立てる労働があります。だから思ったよりずっと簡単です。扇風機は四人くらいの労働が加算されているだけです。
 サービス業では労働そのものが商品ということになるようです。ですからサービス業では確実に商品が売れたことになります。常に完売というわけです。また、原材料は人間で人間は無料ということになるかもしれません。


 「物の値段」と言うことが物に値段があるかのように錯覚させます。そこで「物の値段」という言葉を変えます。様々な候補。「物の人間率」「物の労働価格」「労働含有量」など。「労働含有量」を採用すると「100円のボールペン」ではなく「労働含有量100円のボールペン」になります。「円」が「労働含有量」という意味になるわけです。(もっとふさわしい言葉を見つけてください。)
 「円」を「労働」に変えたほうが簡潔でわかりやすいようです。そうすると「100円のボールペン」ではなく「100労働のボールペン」になります。そうすると「一時間1000円の労働」は「一時間1000労働」になります。わかりやすく「一時間60労働」にしたほうがいいでしょう。労働の単位がそのまま労働になり、それがそのままお金の単位になります。60労働で60個のボールペンを作れば一個1労働になり、スーパーで12本入りが12労働で売られるというわけです。そうなるともう「金」(かね)という言葉が「労働」に変わります。強盗の「金を出せ」が「労働を出せ」に変わると言うほうも言いづらくなります。「金がないと生きられない」が「労働がないと生きられない」に変わり、「金の融資」が「労働の融資」に変わります。「値段」「価格」「物価」などの言葉が消滅するのも時間の問題です。「労働」という言葉はごっついので「ワーク」のほうがいいかもしれない。


 


 会社などでは誰がどれだけ労働したかわかりません。誰がどれを作ったのかわかりません。また、サービス業ではどれだけ仕事をしたのかよくわかりません。そういうあれやこれやを考えるとすべての人間の給料が同じになる方向に向かっていくでしょう。そして原材料がすべて無料なのですから、あらゆる商品の値段(労働含有量)は同じになっていくと予測できます。同じといっても様々な商品をどうやって比較するのかわかりません。テレビ一台とマグロの赤身100gとイチゴ一個が同じになるわけではありません。


 労働の値段をすべて同じにして固定する改革は、世界全体でやらなくても、それぞれの国が別々にやればいいことです。時給を固定するとします。日本の時給が1000円になります。アメリカの時給が100ドルになります。そうすると1000円=100ドルということになり、1ドル=10円ということになります。これが為替ということになり、時給が固定されるので為替も固定されます。労働の値段を固定することによって為替も固定されたのです。そうするとどうなるでしょう。日本とアメリカは別々に改革したのですが、一緒に改革したのと同じことになります。お金の価値が同じになるのですからやがてあらゆる物の値段が同じになるはずです。国別にこの改革をやっても世界全体でやったのと同じことになってしまうのです。世界じゅうどこで買っても同じ物は同じ値段になります。ようするに人間の労働はどこでも同じ値段ということです。労働が世界通貨になったのです。


 労働の値段が同じになるとはすべての人間の給料を同じにするということです。ある時点ですべての人間の給料を同じにするだけですから、この改革はとても簡単です。新しい制度よりもっと簡単です。新しい制度になってもこの改革は可能ですが、新しい制度になったほうがむしろ簡単にできます。決める給料は月給でも日給でも時給でもその他でもかまいません。金額もいくらでもいいのです。その金額が基準になるだけなのですから。
 すべての人間の給料が同じになるとは、すべての人間の給料が同じになるということです。あらゆる職業の給料が同じになるということです。スポーツ選手も芸能人も政治家もCEOもです(そういう職業が存在していればですが)。このことは給料が目標ではなく出発点になるということを意味しています。給料を目標にして働くのではなくなるということです。
 この経済改革は新しい制度にしなくても可能ですが、新しい制度にするとずっと簡単にできます。その場合、新しい制度の始まりで新しい人間の収入を均一にする必要がなくなります。この経済改革ですべての人間の給料が同じになってしまうからです。
 新しい経済制度では最初に労働の値段が決まります。労働の値段が固定されることによってほかのあらゆるものの値段が決まります。それに比較すれば、かつての経済制度では労働の値段が最後に決まっていたことになります。あらゆるものの値段が適当に変動し(変動させられ)、その変動の波が寄り集まって最後に給料となっていました。そのために給料に大きな違いが発生したのです。


 労働の値段を固定するのはそれによってものの値段を決めるためであって、それだけの給料が保障されるということではありません。作った製品やサービスがすべて売れなければそれだけの給料にはなりません。ですから、決められた給料をすべて獲得するためには製品やサービスがすべて売れるように工夫しなければなりません。しかし、どんなに頑張っても決められた給料以上にはなりません。つまりそれは最低賃金ではなく最高賃金ということになります。
 また、労働の値段でものの値段が決まるのですから、労働を調整することによってものの値段を変えることができるということです。
 また、労働の値段が同じということは、すべての人間の労働の値段が同じということです。それはつまり、働けない人や働かない人の労働の値段も同じということです。極端な話し次のようになります。一時間の労働の値段が1000円だとすると家でごろごろしている人の労働の値段も一時間1000円です。その人が一時間に一回溜め息を吐くとその溜め息が1000円になります。それが売れれば1000円の収入になります。一時間に二回溜め息を吐くと溜め息一個が500円です。


 物はすべて使用できるだけで所有できません。周囲にある家の中の物はすべて自分の所有物ではありません。すべて自然の物を一時的に使用しているだけで、使用が終われば自然に返却しなければなりません。物は長く使っていると労働含有量がだんだん減少してきてただの自然物のようになってきます。すでに自然に戻りつつあるのです。物に含まれる労働含有量が徐々に減少するということは、ものの値段がだんだん減っていくということです。そして最後には無料の物だけになります。




 経済についていろいろ考えてきましたが、なにかをひどく間違えているようです。お金が存在するということを当然のことと考えていたのです。お金が存在することを前提にしてあれこれを考えていたのです。そこで、小学生がよくやるように、お金のない世界を想像してみます。
 お金が存在しなかった時代に戻るのではなく、いまの世界からお金を消してみるのです。お金がなければ値段とか代金とかは存在しなくなります。給料や賃金も存在しなくなります。売ったり買ったりが存在しなくなります。給料の代わりになにかをもらうわけではありません。ただ給料がなくなるのです。切符とか、商品券とか、ポイントとか、お金の代わりになるようなものはすべてなしにします。銀行・金融業が消滅します。税金はどうなるでしょう。お金以外の物を税金にすると、それがお金に変わる危険がありますので税金は廃止です。お金が消滅するのですからお金が必要でなくなるのです。お金がなくても所有はあります。作った物やいらない物はどこかに集めます(かつてのスーパーやコンビニです)。必要な物はそこへ取りに行きます。なにか規則が必要になるかもしれません。工場で作った物や収穫した野菜などはそこへ持っていくわけです。集配所などと呼ばれるかもしれません。生活に必要な物はそこから自由に持って行きます。
 そうなるとどうなるでしょう。普通は次のように考えます。人間は働かなくなる。そして物の奪い合いになる。働かなくなるとますます物が減って、ますます奪い合いが激化する。ほんとうにそうでしょうか。労働は純粋に人類のための労働になるし、物がいつでも手に入るなら必要な物しか欲しがらなくなるとも考えられます。
 お金がなくなると人間は働かなくなり、物の奪い合いになるということがほんとうなら、お金が存在するので人間は働き、物の奪い合いをしないでいることができるということになります。お金には人間を労働させる力があり、物の奪い合いを阻止する力があるということになります。つまり、お金がなければ物が手に入らなくなり、お金を手に入れるためには労働するしかないということです。この簡単なことにお金の秘密が隠されているようです。最初のころはお金は贅沢品を買うためのものだったようですが、だんだんお金がなければ手に入らない物が増えてきて、いまではもうあらゆる物がお金がなければ手に入らなくました。お金なしに物を手に入れることは犯罪になることが多いようです。人類はこの変化を強力に推し進めたことになります。お金がなければなにも手に入らなくさせる変化です。それと同時に推し進めたのがお金の個人化です。お金を個人の所有にしたのです。個人が自分専用の財布を持つようになり、個人は自分の財布のお金しか使えなくなりました。これは個人中心主義の推進と同時に起こったことです。自分専用の財布を持つ者が個人になったのです。お金がなければほとんどの物が手に入らなくなったのでお金を手に入れなければならなくなりました。労働しなければならなくなったのです。労働すると自分の財布にお金が入ってきて、自分の財布からお金が出て行くと必要な物が手に入ります。財布にお金が入ってきて財布からお金が出て行く。われわれが毎日やっているのはそれだけかもしれません。
 そのためには自分の財布のお金しか使えないという規則が必要になります。他人の財布のお金を自分のものにしたり、他人の財布のお金を使うことは禁止されました。犯罪になったのです。このようにしてお金の動きを限定していきました。
 人間はお金がなければなにも手に入らない世界を作り出しました。徐々にお金がなければ手に入らない物を増やしていって、この百年ほどでそれはほぼ完成したようです。お金がなければなにもできない世界、お金が支配する世界を人間は作り上げました。人間はそういう世界を作ろうとして作ったのでしょうか、お金が存在するとそういう世界が出来てしまうのでしょうか。お金というたった一つのものによって世界は支配されたということになります。完全な独裁制です。
 お金がなければ物を手に入れることができないとは、あらゆる物に値段が付いたということです。それはあらゆる物が同じ性質を獲得したということであり、その性質は数量化できるので、その数量であらゆる物を比較できるということです。また、お金は一定の規則に従って動くようにされました。お金が一定の規則に従って動くことによって物の動きがコントロールされます。また、お金は常に誰の所有かが明確にされます。誰のお金かわからないお金があってはならないという規則です。お金はまるで動く法律であり、いつも小さな警察官がつきっきりで警備しています。
 お金が支配する世界はとてもシンプルでわかりやすい世界です。お金を操作する方法は誰でもすぐ理解できます。シンプルでわかりやすいということがお金の最大の魅力です。シンプルとわかりやすさを追求するとそういう世界になってしまうのでしょうか。お金は入ってくるか出て行くか二つの動きしかなく(二進法)、その動きと連動して人間とあらゆる物が動きます。どっちがどっちを動かしているのかわかりません。互いに互いを動かし合っています。税金、保険、年金、貯金、生活保護、株、国債などすべてお金です。(お金の動きがすべて見える世界地図を作ればなにかがわかるはずです。)お金が支配する世界が出来上がると、社会の構造が一定の状態に固定し、それによってあらゆることが固定し変えられなくなります。社会の根本的な構造はもう変わらないとほとんどの人が思っています。働いて給料を得て、その金であらゆる物を買い、あらゆるサービスを受けるという構造です。
 (神がいつのまにかお金に入れ換わっている。キリスト教の神もすでにお金に入れ換わっているのではないか。)


 これらのことの一番根底にあるのは「お金がないと物が手に入らない」ということです。ここに秘密の光が隠されています。物の交換をスムーズにするためにお金が作られたと経済学は説明しますが、スムーズどころではなくお金がなければ交換できなくなったのです。これは予想外の展開ではないでしょうか。お金があればなんでも手に入るようになったのですが、お金がなければなにも手に入らなくなったのです。これでは便利になったのか不便になったのかわかりません。簡単に物が手に入るようになったのか、物を手に入れるのが困難になったのかわかりません。自由になったのか不自由になったのかわからないのです。お金がなければ物が手に入らないとはなにか自然の原理に反しているような気がします。自然と人間の間にお金が入り込んでなにか悪事を働いているという印象です。そしてそのお金の悪事に加担する人間が出現します。お金を操作することによって人間と自然の関係を操作できるようになります。また、自然と人間の間にお金が入り込んで自然と人間を分断しているとも考えられます。人間と稲科植物の関係が分断され人間と稲科植物の関係がわからなくなるというわけです。
 「お金がなければ物が手に入らない」ということは実にたいへんなことなのです。それは物よりお金のほうが優位に立ったことを示しています。人間は物よりお金を欲しがるようになります。


 残念ながらお金のない世界を構想することは不可能だと思うようになりました。お金をなくすことは個人や家族をなくすのよりむずかしいようです。思考は必然的にお金というものを生み出してしまうものだと思われます。人間でなくても思考する存在は必ずお金を生み出すはずです。思考が言葉を生み出してしまうように、思考はお金を生み出してしまいます。言葉のない世界を構想できないようにお金のない世界を構想できません。しかし、人間を新しい人間に変えればお金の流れは大きく変化します。「自分の財布のお金しか使えない」という規則の「自分」が新しい人間に変わってしまうからです。
 それだけではありません。物をすべて無料にして、物の値段とは労働の値段ということにできます。お金で売り買いできるのは労働だけということです。あちこちでお金を動かしているのはすべて労働を動かしているということになります。人間が所有できるのはお金だけになります。つまり人間が所有できるのは労働だけです。人間が所有しているのは物ではなく、物に含まれる労働だけということです。物の値段とは労働の値段ということになるのですから、これはつまり、労働を数値化できれば労働がお金の代わりになるということです。この変革は実のところ考え方を変えるだけなのですからいつでもできます。



 〔繰り返す〕
 もう一度同じことを考えてみます。少し角度を変えて見てみるというやつです。
 人間を新しい人間に変えるだけでもそうとうな変革ですが、それだけでは不充分だということがだんだんわかってきました。経済を変えなければなにも変わらないような気がしてきたからです。この世界がどういう世界なのかわからなければ行動できません。経済のことがわからなければこの世界のことはわかりません。経済のことを理解するのが最もむずかしいのではないかということがだんだん明確になってきました。われわれは経済のことをなにも知らないようです。
  
 人間は経済の諸制度に完全に拘束されています。経済の様々な規則に完全に従っているということです。ほかの規則には幅(自由度)がありますが、経済の規則には幅がないので完全に従うしかありません。お金を考えるよくわかります。148円のものは148円で買うしかありません。あらゆるものの値段が決まっていてそれに従って行動するしかありません。毎日毎日一日じゅうそうやって行動しています。あらゆるものの値段・代金・料金が決まっていて完全に拘束されています。家賃、授業料、診察料、税金、給料などもそうです。決められた金額はどんな規則よりも強力な規則となって人間を拘束しています。ものの値段がよく変化しますがそれに従うしかありません。誰もそれに反抗できません。人間はお金に翻弄され続けています。最近はものの値段が上がっています。特に食べ物の値段が上がっています。われわれはそれに翻弄されるだけです。


 人間にとって経済とはなによりも値段・代金・料金です。つまりお金であり、なによりもお金の移動です。われわれに見えているのはお金とお金の移動だけかもしれません。
経済を理解するのがむずかしいのはお金しか見えなくなるからです。お金があまりにも濃密で明確なのでお金しか見えなくなります。経済活動はお金がどこからどこへどれだけ動いたかということで表現されます。経済の数値は重さや量で表示されることもありますがほとんどはお金の量で表示されます。GDPだとか、貿易の量、国家予算、物価、収入と支出、資本金、株、国債、保険、金利などはすべて金額で表示されます。しかしお金は経済の本体なのでしょうか。


 お金を基本にして経済を考えてしまうのはお金しか明確なものが存在しないからです。お金を消去した経済を考えてみれば、なにをどう考えていいのかわからなくなります。お金なしで経済のことを考えることができなくなっています。
 お金は経済活動の結果のようなものではないでしょう。結果だけわかり原因はわからない。そこにお金が存在していればお金が存在しているのがわかる。わかるのはそれだけです。そのお金からはそのお金がなぜそこにあるのかはわかりません。そのお金からはそのお金がなにをしようとしているのかはわかりません。なにかが起こってそのお金はそこにやってきた。またなにかが起こってそのお金はどこかに行ってしまう。お金が動くとお金以外のなにかが動く。なにかが動くとお金も一緒に動く。お金はいつもお金以外のなにかの動きと連動している。お金が動くと人間が動き、物が動き、言葉が動き、音と光が動く。しかしどうしてそんなことが起こるのかわからない。それらの動きとお金の動きがどう連動しているのかわからない。



 給料がどうやって決まるのか。商品の値段がどうやって決まるのか。石油の値段がどうやって決まるのか。金(きん)の値段がどうやって決まるのか。税金の額がどうやって決まるのか(決める方程式がどうやって作られるのか)。家賃の額がどうやって決まるのか。株の値段がどうやって変動するのか。われわれはなにか法則があるのだと漠然と思っています。経済の専門家もなにか法則があるようなことを言います。しかし、そんな法則はまったく存在しません。すべて誰かがかってに決めています。それを決めることができるということが権力です。権力を握るということはものの値段・代金・料金・金額を決めることができるということです。誰が値段を決めるかで争うのが権力争いということになります。そういう争いが至る所で起こっています。小さな争いはほんとうにすぐそこで起こっています。
 われわれはなにか経済の法則があると思い込まされています。ものの値段を決める方程式があると思い込んでいます。税金を決める方程式が書かれた通知が送られてきます。株の値段が刻々と変化するのはどこかに測定器があるからだと思っています。カップラーメンの値段もコンピューターが計算しているはずです。なにも知らないわれわれは決まった値段で買うしかなく、決まった給料を貰うしかなく、決まった家賃を払うしかなく、決まった税金を払うしかありません。われわれにできるのはそれだけです。
 お金に関することに契約書が必要になるのはすべてデタラメだからです。給料が最低賃金になるのは最低賃金の雇用契約書にサインしたからです。サインしなければ雇用されないのだからどうしようもありません。契約書といえばなんだかかっこよく対等のようですが、あなたの給料はこれ以上になることはないという一方的な通知書です。


 ものの値段はどのようにして決まるのか、そしてものの値段はどうやって変化するのか。経済の問題はこれに尽きるといってもいいくらいです。
 値段のあるものはすべて値段を変化させます。値段の定まったものはなにもありません。何度も言っているように、値段の定まったものがないのであらゆるものの値段が変化するのです。なにかの値段が上がると別のなにかの値段が上がります。それは単なる偶然であって次もそうなるとは限りません。なんの値段が上がるとなんの値段が上がるのかわかりません。その都度その都度ぶつかり合うものが違うからです。すべてのものの値段がすべてのものの値段に影響しているといってもいいくらいです。あらゆるものの値段が風船のように浮遊していて互いにぶつかり合い互いに影響し合っているだけです。
 商品の値段や賃金はもちろん、土地の値段、家賃、マンションの値段、金(きん)の値段、株、石油の値段、電気代、円の値段などあらゆるものの値段が変動しています。一番変動しているのはお金の値段かもしれません。土地の評価額とはなにか。誰かがかってに付けているに決まっています。土地の表面に値段が浮き出てくるわけではないのです。すべてのものの値段は誰かがかってに決めています。値段の固定したものが存在しないので、あらゆるものの値段をかってに決められるようになっています。値段をかってに決めることができるのが権力です。議員が議員の給料、公務員の給料、消費税率、給付金などたくさんの値段を決めています。会社では上の方の人が商品の値段や社員の給料を決めます。家では親が子供のこづかいを決めます。権力者たちはものの値段をかってに決めることができるようにわざわざ値段の固定したものを作らないようにしています。そしてさらにものの値段が決まる方程式があるかのように装っています。自分が決めているのではないと見せかけるためです。
 まるでお金が経済の本体のようですが、残念ながらそうではなく、経済の本体は労働です。ほかの人間の労働によって生きること、ほかの人間の労働を労働すること、労働の交換こそ経済の本体です。でもお金によってそれが見えなくなります。



 ものの値段がどうやって決まりどうやって変化するのか、具体的に見てみます。
 マグロがどうして高くなるのか。それを説明する方法はたぶん百くらいあります。「船の燃料費が高くなったからだ」というのもその一つです。どうして船の燃料費が高くなったのか。それを説明する方法もたぶん百くらいあります。「石油の値段が高くなったからだ」という説明がよく使われます。どうして石油の値段が高くなったのか。その理由の説明の仕方は人の数だけあります。アラブの王様がいつまで遊んで暮らせるか将来に危機感を感じたためかもしれない。プーチンの愛犬が病気のせいだ。太陽光発電の効率的な方法を誰も発明できないからだ。プラスチックを石油に戻すことができないからだ。無駄な自動車が多すぎるからだ。


 食べ物が次々に値上げしています。電気も値上げしました。必要なものが値上げしています。必要なものは値上げしても買うしかないからです。不必要なものは値上げすると売れなくなるのでなかなか値上げできません。ということはみんななにが必要なのかわかっているということです。なにが必要かわかることは生物として最も必要なことなのだから当然です。だからみんな自分の仕事がどのくらい必要なものかわかっているはずです。必要なものかどうかが値段の変動の理由になるということです。


 ものの値段はなぜだんだん上がっていくのでしょか。五十年前にはアンパンが30円でした。ちんちん電車が15円でした。リンゴひと山100円でした。ひと山は8個くらいです。ものの値段は上がったり下がったりするが、結局はだんだん上がっていきます。どうしてそうなるのか考えてみれば不思議なことです。少しでも高く売ろうとする結果そうなるのでしょうか。賃金と物価が競争しているからなのでしょうか。
 あらゆるものの値段が上がるのなら相対的にはなにも変わっていないのだから、あらゆるものの値段が下がっても同じことなのです。それなのにあらゆるものの値段が上がっていきます。ものの値段を下げようとする力より、ものの値段を上げようとする力のほうが大きいからです。特に賃金を下げるのはむずかしい。しかし最大の理由は値段の固定したものがないからです。すべてのものが値段も定まらずふらふらしているからです。だから全体が風の強い方向に動いていくのです。ですから値段の定まったものが作られなければこの状態がずっと続き、われわれはものの値段の変化に振り回され続けることになります。
 お金の値段も変化しているのだからさらに複雑になります。ものの値段が変化した場合、ものが変化したのかお金が変化したのか判断できません。ものがまったく同じなのに値段が変化した場合、変化したのはお金ではないでしょうか。そんなことはありません。ものの値段が変化する理由はほかにもいくらでもあるからです。雨の日に安くなるものさえあります。


 電気代が上がると値上げするものが多いが、米が値下げしても米で作る菓子は値下げしない。米が値下げしても食堂のライスは値下げしない。


 競りというものが存在するのも不思議なことです。もっと不思議なのは競りをするものと競りをしないものがあることです。競りをするものとしないものをどうやって決めているのでしょう。いや、形を変えた競りのようなものがたくさんあります。スーパーの価格競争も競りのようなものかもしれません。入学試験や入社試験も競りのようなものかもしれません。議員の選挙は完全に競りです。


 スーパーに行けばわかりますが、青果・精肉・鮮魚は国産品のほうが輸入品より高いのがほとんどです。普通に考えれば国産品のほうが安くなるはずではないでしょうか。国産品は輸送費も少なくてすむのだからなおさらです。こんなことも説明するのはとてもむずかしそうです。国産品より安い外国品を捜して輸入しているからなのでしょうか。たしかにどちらも同じ値段ならほとんどの人は国産品を買うでしょう。国産品のほうが安全だと思われているからです。そうすると金持は国産品を買い貧乏人は外国産を買うということになるようです。つまりこのことも格差の拡大に関与していることになります。ここにはよくわからない問題がもっとたくさん隠されているようです。国の補助金とか、有機栽培・無農薬とか、労働の値段の安い国とか、いろいろです。


 飼料の値段が上がっているのに牛乳の値段は上がらないので酪農が赤字になっているというそうです。牛乳の値段を上げると売れなくなるから牛乳の値段を上げることができないらしい。それなのに飼料の値段はいくらでも上がるようだ。牛乳の値段が上げられないのに飼料の値段を上げることができるのはなぜなのでしょう。飼料の値段が上がっても飼料は売れるからです。乳牛の数が決まっているので必要な飼料の量が決まっているせいです。人間は牛乳を飲まなくてもいいが、牛は飼料を食べるしかないらしいのです。
 牛乳と飼料はいったいなにが違うのでしょう。牛乳を作るためには飼料が必要ですが飼料を作るために牛乳は必要ないということでしょうか。そのために飼料の必要度のほうが大きくなり牛乳と飼料の対決では飼料が勝つということでしょうか。食品は絶対に必要なものですが、種類がたくさんあり、なにかがなくても別のなにかがあればいいものです。それに対して飼料は代わりになるようなものがあまりないようです。あってもほとんど同じようなもので、たぶんどれもが同じ理由で値上がりするらしい。一斉にすべてが値上がりすると安いほうに変えることもできません。
 牛乳という商品の特殊な事情も関係しているようです。牛乳の生産量を簡単に調整できないという問題です。牛は経済事情によって出す乳の量を調節できません。このように商品一つ一つの特殊な事情によっても値段は左右されます。ものの値段を決める決まった規則など存在しないということです。
 (乳牛の餌を牛乳にしたらどうなるのかという外野の声。)


 ものの値段がどうやって決まるのかはわかりませんが、誰かが決めているのは間違いありません。ものの値段を決めるための選挙などほとんどきいたことがありません。値段を決める人はどうやって決めているのでしょう。様々なことを考えて決めているはずです。需要と供給のようなことも考えます。経費、天気、世界情勢、会社の人事、あらゆることを考える必要があります。しかしすべてのことを考えることはできません。考えなければならないことでも抜かしてしまいます。
 あらゆるものの値段をもっと明確に決められるようにしなければなりません。そうしなければ誰かにかってに決められてしまいからです。ものの値段を決めるには値段が定まったものが必要です。なにかの値段を定める必要があるのです。値段をただめることができるのは人間の労働しかありません。このように論理は進んできました。
 労働の値段を固定するとはすべての人間の労働の値段が同じになるということです。
これはそういうことにするということであり、この宇宙にそういう法則があるということではありません。労働の値段をいくらにするのかという問題が出現します。それはいくらでもかまいません。次に労働の量をどうやって測定するかという問題が出現します。
 労働の量を測定するのは不可能かもしれません。タマネギを千個収穫したとして、そのためにどれだけ労働したか測定するのは不可能だからです。眠るのも食べるのもタマネギを収穫するためだったかもしれないからです。そうなると人間はみんな24時間労働していることにしたほうがいいくらいです。
 労働の量を測定するのが不可能だから逆に儲かったお金の分だけ労働したことにしたのかもしれません。そうすると、労働より先にものの値段が存在していたことになり、ものの値段は労働以外のもので決まったことになります。「需要と供給」とか「見えざる神の手」とかです。これがいままで人間が採用していた方式です。儲かったお金の分だけ働いたことになるという方式です。
 それを逆転して最初に労働が存在することにするのですが、そのためには労働の量を測定して一定の量の値段を決めなければなりません。すでにわかっていたことですが、労働の量を測定する方法は時間しかありません。次には何時間働いたかをどうやって測定するかという問題が出現します。会社など勤務時間がはっきりしている労働は簡単に労働時間を測定できますが、勤務時間が決まっていない場合はどうするかということです。画家とか個人商店とか生活と労働が分離できないほど混じり合っている場合です。
 そこで導入されるのは、人間はみんな一日8時間労働していることにするという案です。人間はみんな一日8時間週五日働いていることにするのです。労働時間一定の規則です。人間はみんな一週40時間労働していることにします。それ以下でもそれ以上でも一週40時間労働にするのです。どれだけ労働するかはそれぞれのかってですが、一週40時間に決めるとそれに合わせるようになるはずです。
 一時間の労働を1000円にすると一週間で40000円になります。一ヶ月180000円とすると一年で1160000円になります。一年でタマネギを一万個収穫すると一個116円になります。それに経費もプラスされますが、肥料の値段も同じように計算されています。二ヶ月で絵を一枚描くと360000円の絵になります。その値段は自分で調整できます。タマネギをもっと安くしようと思えば収穫量を増やせばいい。360000円の絵は売れないと思えば一週間で一枚描くようにする。そうすれば一枚40000円になります。
 こうしてすべての人間の労働の値段は一週間40000円になります。それが実現するためには作ったものが売れなければなりませんし、提供したサービスを利用する人がいなければなりません。そのためにはそれなりの努力が必要になります。これはすべての人間に適用されます。働かない人間にも適用されるということです。ひきこもりの人間も一週間40000円の労働をしていることになります。ただその人が生産するものはまったく売れないというだけのことです。労働の値段を固定するのはものの値段を決めるためであって収入を決めるためではないのです。
 そんなことができるわけがないと思うかもしれませんが、新しい人間の制度にすると簡単にできます。


 (追加補足。労働の値段を固定することによってものの値段を決めるのであって、ものの値段を調節することによって決まった給料を確保するのではありません。電気の会社を考えてみます。月給180000円に労働の値段が固定されたとして、月給180000円貰えるように電気の料金を変えるということはできません。それでは労働の値段に関係なく電気の料金を変えたことになります。電気の料金は労働の値段だけによって決まるのであって、電気の料金を変えることによって労働の値段を変えることはできません。このことを説明するのはとてもむずかしいようです。よくテレビなどで「様々な経費が値上がりして従業員の給料を維持するには商品の値段を上げざるを得ない」といった言い方をしますが、労働の値段が最初から決まっている世界ではそんなことはあり得ないということです。労働の値段を固定するといってもそれを維持するためにものの値段を変えることはありません。)


 会社の給料はどのように決まるでしょうか。会社では一人一人別々に考えることができないので全体で考えるしかありません。全員の給料が一週間40時間労働40000円に統一されます。それによって商品の値段が決まります。商品の量と値段はだんだんすべてが売れるように調整されていくと思われます。
  現在はそれとはまったく違うことが行なわれています。商品の値段に関係なくそれぞれの給料がかってに決められています。地位の序列の最上段にいる人間がかってに決めます。しかも人によって給料が違います。月給の人がいたり、時間給の人がいたりします。日本では社員、準社員、派遣社員、パート、アルバイトといった差別があり、それぞれ給料が違っています。仕事の量や労働時間とも関係がなく給料が決められています。どうやって給料が決められているか決めている人にもわかりません。
 最低賃金制度というものがありますが、最低賃金とは「最低賃金以上にしなければならない」という制度ではなく「最低賃金でいい」という制度です。ですから、最低賃金まで上げられる人より最低賃金まで下げられる人のほうが多いのです。しかし、常に最低賃金まで下げられているので下げられていることに気がつきません。最低賃金制度は賃金を上げるために導入されていると思い込まされていますが、実際は賃金を下げるために導入されています。
 会社の賃金は一番最初に決められているのですが、ほかのものの値段となんの関係もなく決められているので、ほかのものの値段が変わっても賃金は変わりません。一番最初に決まっているのだから労働の質や量ともなんの関係もありません。働かなければ賃金は貰えませんが賃金額は働く前から決まっています。また、賃金はほかのものの値段となんの関係もないので、賃金がほかのものの値段を変化させることもありません。実に不思議な制度です。人間が考えつくこととは思えません。


 労働の値段を固定しそれによってあらゆるものの値段を決めるようにすると、少人数で大量に作るものの値段は無料に近くなります。大量にコピーできるものもほぼ無料になります。これはテレビ・ネットがすでに実現しています。テレビ・ネットの内容はすべてどこかにある情報のコピーにすぎないのだから、一台の自転車を一億人で使っているようなものなのです。みんな違うスマホを持っているようで実際は一つのスマホを全員で使っているのです。新しい方式でNHKの受信料を計算すれば一年で10円くらいになるでしょう。


 現在の公務員の給料はどこから発生するのでしょう。なにかを作って売っているわけではないし、料金を取ってサービスを提供しているわけではないからです。ですから、すべての人間にサービスを提供しているということにして、すべての人間からサービス料を徴収しています。それが税金ということになります。だから、公務員の給料と経費の合計が税金になるはずですが、まったくそんなふうには決められていません。税金となんの関係もなく公務員の給料が決められ、公務員の給料となんの関係もなく税金が決められています。それだけではなく、税金はサービスを受ける人の給料で計算されています。これはどういうことなのでしょう。商品の値段が買う人の給料によって決められているようなものです。給料の安い人が10円で買うものを給料の高い人は100円で買うわけです。それもまた面白いかもしれませんが、それほど適当にものの値段が決められているということです。
 公務員のサービスはほとんどが無料ですが料金を取るものもあります(無料のものも結局は税金で支払っているのですが)。料金を取るものと取らないものの違いがなんなのかもわかりません。救急車は無料ですが粗大ゴミは有料です。刑務所の食事は無料ですが区役所の食堂は有料です。税金の催促状は無料で届きますが住民票の取得は有料です。どうしてこんなに適当なことができるのか呆然としてしまいます。
 新しい制度になると政治家は必要ありませんが公務員の仕事は必要です。警察、消防、学校、役所などの仕事です。新しい制度になるといらなくなるものもありますし、民営化できるものもあります。逆に病院をすべて公務員の仕事にすることもできます。新しい人間は全員が必ず公務員の仕事もするようにする、ということも可能です。そうなれば公務員の仕事は無給でもいいかもしれません。料金を払う人間と料金を受け取る人間が同じ人間になると料金はいらなくなるからです。
 公務員の労働の値段もすべてほかの人間と同じになります。そして税金は公務員の労働の値段と諸経費から計算されます。税金も労働の値段から決まるということです。諸経費も労働の値段から決まっているからです。コピー機はコピー機を作る労働の値段から決まっているし、コピー用紙はコピー用紙を作る労働の値段から決まっています。労働の値段はすべて同じです。
 (料金を払う人間と料金を受け取る人間が同じ人間になると料金がいらなくなるということがわかりましたが、この原理をさらに追求するといろいろなことがわかります。家族が作った料理が無料なのは、代金を払う人間と代金を受け取る人間が同じ家族だからだ。同じ家族とは財布が一つになっているということです。新しい人間も財布が一つになっているので同じことが起こります。同じ人間のSDからSDへ移動するものはすべて無料になります。そこではお金がいらなくなります。新しい人間の財布を一つにできるなら、すべての人間の財布を一つにすることも可能なのではないでしょうか。原理的には同じことだからです。むしろ新しい人間の財布を一つにするより簡単かもしれません。そうなればすべてが無料になりお金がいらなくなります。ところがお金がいらなくなるとそれと同時に財布もいらなくなります。財布がいらくなると一つにしたはずの財布はどうなるのでしょう。振り出しに戻る?)
 


 労働含有率の変化。ものに含まれる労働量は時間の経過と共に減少します。労働含有率が減少すると値段も下がります。労働含有率がどのように減少していくかが問題になります。それはものによって違います。ずっと使い続けるものとすぐなくなってしまうものがあります。食品などは食べると同時に労働含有率がゼロになります。食べることは労働ではないからです。労働含有率がゼロになると同時に値段も消滅します。洗剤など使うとだんだん減少していくものは労働含有率が量に比例するはずです。問題は使ってもそのままの外見を保っているものです。家具、電化製品、衣類、各種道具類です。それらすべての労働含有率の減少を同じにすることもできます。たとえば一年で労働含有率が10%ずつ減少することにします。そうすると十年でゼロになります。残りの10%という方式にもできます。一年で90%になると、次の年は90%の10%が減少するという方式です。そうすると二年で81%になるわけです。なかなかゼロにはなりません。でも壊れるとゼロになります。
 この方式だと古いものは値段がなくなります。金閣寺などはゼロ円です。作った人が死んでいるのだから当然と言えば当然です。家賃などもこの方式で減少します。築十年のアパートは最初からほぼ無料になります。
 労働含有率が減少するとはものが自然に戻っているということです。人間が無料で使用している自然物は人間が自然に返却しなくてもかってに自然に戻っていくのです。
 労働含有率の減少は売れるかどうかに関係ありません。作られるとすぐ労働含有率の減少が始まります。


 新しい経済の方式で考えるとゴッホの絵の値段はどうなるでしょうか。一日8000円の労働とすると、三日で描いた絵は24000円になります。売れるかどうかはわかりません。売れても売れなくても労働含有率の減少が始まり値段が下がっていきます。いまではもう完全に無料になっています。たぶん自然の一部に戻っています。
 無料になったゴッホの絵にはもうなんの価値もないのでしょうか。そんなことはありません。無料とはもう誰もお金で買えないということです。地球上のお金をすべて集めても買えません。無料ほど価値のあるものはないのです。
 ところがいまの経済制度ではまったく違うことが起こっています。だんだん値段が上がっているのです。誰かが新しい労働を加えているのでしょうか。そんなことはありません。簡単なことです。ものの値段は誰かがかってに決めることができるからです。誰かがゴッホの絵は30円と決めれば30円ですし、誰かが30億と決めれば30億円になります。どうしてそんなことができるのでしょう。ものの値段を決める明確な方法が存在していないからです。そういう方法が存在しないのは値段の定まったものが存在しないからです。値段の定まったものが存在しない世界ではどんなものでも30億円になれます。これはものがお金に変異してしまうということを示しています。値段の定まったものが存在しない世界ではものがお金に変異します。ものとお金と区別がなくなるのです。ゴッホの絵は現在ではお金になってしまいました。30億円紙幣が誕生したのです。ゴッホは絵を描いたつもりですが実際は30億円紙幣をデザインしただけです。値段の定まったものがない世界とは、なんでもお金になり得る世界、なにがお金なのかわからない世界なのです。


 古い茶碗などの値段が異常に高くなったりするのは茶碗それ自体がお金になってしまったからです。どうしてそんなことが起こるのか考えてみます。まず誰かがそれをお金として使ったのです。お金として使うとは売ったということです。売ってお金を得たということは、茶碗とお金を交換したということであり、茶碗をお金とみなしたということです。茶碗を買った人がまた誰かに売ります。その人も茶碗をお金とみなしたということです。それを繰り返すと茶碗それ自体がお金になってしまうはずです。それはお金がお金になるのと同じではないでしょうか。お金をお金として使うからお金がお金になるのです。
 お金で買ったものはどんなものでもまたお金になることができるはずです。しかしものはたいてい使ってしまうのでお金になることはありません。使わずに売ればまたお金になります。買ったものを売る。それを買った人がまたそれを売る。それを買った人がまたそれを売る。それを繰り返すとものがお金になってしまいます。同じものの売り買いを繰り返すとものがお金になってしまうのです。お金がお金なのはお金の売り買いを何度も繰り返しているからです。
 しかし、お金とものは違います。お金の売り買いは何度繰り返してもお金の値段は変化しませんが、ものの売り買いを何度も繰り返すとものの値段はだんだん高くなります。お金の値段は変化できないがものの値段は変化できるからです。ものがお金になるとは値段を変化させることができるお金が出現したということです。
 (スポーツ選手の値段が高くなるのはスポーツ選手がお金になってしまったということなのでしょうか。)



 原油の値段はどうなるでしょう。自然物はすべて無料になるのですから、原油の値段は採掘にかかった労働の値段だけで決まります。そこには採掘に必要な資材に含まれる労働の値段も含まれています。労働の値段を一日八時間で8000円だとすると、十人で働くと一日80000円になります。資材に含まれる労働をプラスして一日90000円とします。一日に5000バーレルの原油を採掘すると、90000割る5000で1バーレル18円になります。原油の値段は人数や採掘量の変化によって変化しますが、労働の値段は変化しませんから労働の値段によって変化することはありません。


 原油は無料なのだから「原油の値段」などと言わないほうがいいかもしれません。「原油の労働量」とか「原油の採掘料」などが考えられます。これは原油だけの問題ではありません。ものに値段があるような言い方はやめたほうがいいでしょう。「値段」「価格」という言い方はやめるということです。「労働含有量」が的確だが長すぎます。「このパンの労働含有量は98円」になってしまいます。「賃金値」はどうだろう。「サンマ一尾の賃金値は200円」「賃金値200円のサンマ」。「賃金価格」「労働価格」「人間価」「人間値」などいろいろ候補者が名乗りを上げますがどれもぱっとしません。
 角度を変えて考えてみます。
 お金とは労働のことになります。労働=お金になるのです。だから「ジョブ」でいいかもしれません。どうせなら円をジョブにしてしまったほうがいい。一個98ジョブのパン。このパンのジョブは98ジョブ。そういう使い方になります。値段、価格、料金、代金、物価といった言葉が消滅します。ついでにお金という言葉も消滅させます。お金がジョブになります。「金を出せ」が「ジョブを出せ」になります。そこで店員は次のように答えるはずです。「ジョブは働かなければ発生しません」。「お金を借りる」は「ジョブを借りる」になります。「借りたジョブはジョブで返す」ということになります。世界じゅうのお金がジョブになるのは間違いありません。円がジョブになれば連動してすべてのお金がジョブになるしかないからです。500ジョブのTシャツといえばこのジョブが労働だということがはっきりわかります。65000ジョブの家賃といえばこのジョブが労働だとすぐわかります。無料の土地に無料の自然物で作られた家がそんなに多くのジョブを奪っていいのでしょうか。一度建てただけの家になぜ毎月ジョブが発生するのか調査が必要になります。


 このような世界になると金融・投資はどうなるのでしょうか。まず金融・投資とはなにかを考えます。金融・投資とは人間から人間へお金が移動することです。お金は常に誰かのものとして存在するものですから、かってにほかの人間に移動するものではありません。では金融・投資ではどうやってお金がほかの人間に移動するのでしょう。売ったり買ったりすることによって移動します。あらゆるものが売ったり買ったりされて人間から人間へ移動するという経済の基本と同じです。つまりお金も商品となって売ったり買ったりされるわけです。ですから金融・投資とはお金が商品に変身して売り買いされることです。お金が商品になるとはどういうことでしょう。いまの世界では商品の値段はかってに変えることができます。お金が商品になるとはお金の値段を変えることができるということです。お金を高く売ったり安く売ったりできるのです。売るほうは高く売ろうとし、買うほうは安いほうがいい。というよりお金を安く売ればあっというまに売り切れるでしょう。ですからお金という商品は常に高く売られるようになります。高くても買う人がいるのです。そのために様々な仕掛けが作られます。お金を買った代金を少しずつ払うとか、一年後に払うとかです。
 銀行に貯金するとは銀行にお金を売るということです。銀行に一万円貯金するとは一万円を一万円より少し高く売ったということです。売った代金はいつでも払ってもらえますが、たいていは必要な時に少しずつ払ってもらいます。それが「預金の引き出し」と言われるものです。少し高く売った分が「利子」と言われるものです。預金の引き出しが遅くなるほど利子が多くなる仕組みが作られています。銀行は人々から買ったお金を別の人々にもっと高く売ります。小売店が商品を買った値段より高く売るのと同じです。お金を実際の値段より高く買う人がいるのは不思議なことですが、そういう人はたくさんいます。お金を実際の値段より高く買うのはもっと高く売るためです。お金で別の商品を買って高く売るという方法もありますし、お金で別の商品を作って高く売るという方法もあります。いずれにしてもお金そのものが商品となりほかの商品と同じように運動しています。



 新しい経済制度になると労働の値段が固定され、労働の値段によってあらゆるものの値段が決まります。そうするとだんだんあらゆるものの値段があまり変化しないようになります。労働=お金つまりジョブ=ジョブになるのですから、労働とお金はまったく同じものになり、お金の値段が完全に固定されます。お金の値段が変化することはなくなるということです。お金を商品にすることはできなくなり、お金を売ったり買ったりできなくなります。労働に労働を加えることができないように、お金に労働を加えることはできません。労働によってお金の値段を変えることはできません。 〔ジョブでジョブは変えられない〕 そのような世界に金融・投資は存在できるでしょうか。
 新しい世界では労働の値段が固定されます。ということはすべての人間の収入が同じになるということです。減ることがあっても増えることはありません。この世界では最高賃金が決まっているようなものです。みんな同じくらいのお金しか持っていません。つまり、お金をたくさん持っている人間が事業を始めるということが起こりません。労働のジョブが最初から決まっているのだからそれ以上ジョブを稼ぐということが起こらないのです。そんな世界では起業とか、資本とか、事業とかいったものもすべて別の形態に変わってしまいます。会社の作り方も変わってしまい、誰か個人が作るものではなくなるでしょう。



 新しい人間の制度を導入すると同時に新しい経済制度も導入するとします。まずすべての人間の給料が同じになります。新しい人間は様々な仕事をしています。そのすべての給料が同じになります。それぞれの人間が商品やサービスの値段を計算します。一ヶ月単位の計算にするといいでしょう。しかし仕事によって違うかもしれません。一ヶ月180000ジョブでいくつの製品を作っているかを計算すれば一つのジョブがわかります。それに機械や道具や資材や電気のジョブが追加されます。最初はどれくらいなのかわかりませんが、だんだんわかるようになります。機械や道具や資材や電気を作る人間が同じようにそれぞれのジョブを計算するのを待たなければならないからです。機械など長く使うもののジョブをどのように計算するかという問題もあります。
 そのようにしてあらゆるものの値段が決まっていきます。医療費も税金も同じ方法で決まります。
 新しい人間のジョブを計算するのはもう少し複雑になるかもしれません。SDが50人いる新しい人間のジョブは一ヶ月180000ジョブ×50で9000000ジョブにするという計算も可能です。この新しい人間が30種類の仕事をしているなら、一つの仕事は300000ジョブになります。といったことも考えられるというだけです。
 サービス業のジョブの計算も少し考えておきます。小売(スーパーやコンビニ)の従業員のジョブも最初から決まっています。問題はどういう労働をしているかです。小売の従業員は商品に労働を加えているわけではないのだから、商品の仕入れ値ジョブは変化しません。運送業のジョブは商品にプラスされています。単純化すれば商品の製造ジョブと運送ジョブの合計したジョブの商品が棚に並びます。小売の仕事とは製造業が作った製品を人々に分配する仕事です。小売がなければ製品を人々に分配するのがむずかしくなります。仕入れ値より高く売って儲けるのが仕事ではありません。ものを人々に分配するのが仕事です。だから従業員のジョブは客が買った商品の総合計にプラスされるのが正当なやり方になります。ディズニーランドのように入場料ジョブにする方法もあります。従業員が10人だと一ヶ月1800000ジョブになり、一ヶ月の客数が30000人なら一人60ジョブになります。レジの合計ジョブに60ジョブがプラスされます。しかし製品の分配が仕事なのですから買い上げ個数によって変わるはずです。商品の値段によって手数料ジョブがかわることはありません。(だから「買ってもらっている」とか「お客様は神様」という考え方は完全に間違っています。それはいまでもそうです。)


 それでもお金の改革を考えることはできます。
 逆回転するという方法があります。お金の動く方向をすべていままでと逆にします。商品を買った人がお金を払うのではなく売った人がお金を払います。商品を買う人は商品の代金を貰うことになります。労働者諸君も働いた分の給料を雇用主に払います。そうなるとどういうことになりますか。お金をたくさん持てば持つほど貧乏ということになります。溜まったお金はできるだけ早く少なくしなければなりません。そのためには商品を作って売らなければなりません。売らなければお金がなくならないからです。できるだけ働いてお金を雇用主に払うことも必要になります。買い物はできるだけ控えなければなりません。買い物をすればするほどお金が溜まってしまうからです。そしてどうなるのかは想像力が貧困なのでわかりません。
  お金がかってに変化するというアイデアもあります。使わないとだんだん減ってしまうお金とか、かってに別の人間に移動するお金とかです。
 新しい制度はお金の改革でもあります。新しい人間の財布を一つにするということはそれだけでもたいへんなお金の改革です。そこにはお金がかってに別の人間に移動するというアイデアが含まれています。しかし、考えてもみてください。どうして一人の人間に財布が一つという制度が出来上がったのでしょうか。そちらのほうが不思議な気がします。
 想像力の貧困を駆使して考えれば次のような改革も可能です。
 お金は二種類になります。S貨幣とN貨幣です。S貨幣とN貨幣は絶対に交換できません。あらゆるものをS財とN財に分けます。S貨幣ではS財しか売買できません。N貨幣ではN財しか売買できません。実際に売買されるのはS財に含まれるS労働であり、N財に含まれるN労働です。あらゆるものをどうやってS財とN財に分けるかが問題になります。必要度の大きいものはS財になり、必要度の小さいものはN財になります。どちらかよくわからないものをどちらにするか決めるのが政治の主要な役割になります。それは政策自動決定システムで刻々と決められます。国民が必要と判断したものはS貨幣でしか売買できません。国民が不必要と判断したものはN貨幣でしか売買できません。これによって経済がS経済圏とN経済圏に分離します。新しい人間も二つの経済圏に属することになります。どちらにどれだけ属するかはその人間の自由ですが、ある程度はS経済圏に属さなければ生きることはできない。N経済圏だけでは生きることができないからです。
 給料もS貨幣とN貨幣のどちらかで支払われます。会社で作るものがS財かN財かで給料も変化します。会社で作るものがすべてN財なら、N財はN貨幣でしか売ることができないので、給料もすべてN貨幣になります。会社で作るものの半分がS財で半分がN財なら給料も半分半分になるはずです。給料がすべてN貨幣なら、N貨幣では食品を買えませんから、S貨幣を獲得できる仕事も始めなければなりません。
 そうなると、金持ちはすべてN貨幣をたくさん持っているにすぎないということがわかるはずです。S貨幣だけで見るとひどく貧乏なのです。N貨幣では電気も買えません。N貨幣で買えるのはバンクシーの落書きくらいです。
 S貨幣とN貨幣は交換できませんが、S貨幣とN貨幣を合体させて消滅させることはできます。S貨幣10万円とN貨幣12万円が合体すると、10万円は合体して消滅し、N貨幣2万円が残ります。

新時代2(前のつづき)

 司法権の移行。
 万引き事件が発生しました。万引きをしたのは人間であってSDではありません。ですからその人間を捜査することになります。犯人が特定され万引きしたことを認めます。どのSDが万引きをしたかは関係ありません。それは人間の内側の問題であってその人間だけで解決する問題です。犯人はその人間のSD全員ということになります。犯人は被害額を弁償し店と和解します。ほかにもなにかその店のためになることをしようとするかもしれません。このような場合は犯罪と認定されません。司法の権限はすべて犯人である人間に移行し、犯人が自分で刑罰を決めます。これが司法権の移行と呼ばれます。多くの犯罪の司法権が新しい人間に移行されます。
 そうすると罪が軽くなるようですがそんなことはありません。新しい人間の内側では外側とは違うことが起こります。人間の内側の世界はかつての世界に似ているのであり、人間の内側ではSDの一人が万引きをしたことが問題になるはずです。だから、そのSDをどうするかが問題になります。人間としては無罪になったとしても、人間の内側ではSDはその人間の規則によって裁かれるというわけです。新しい人間の規則は人間によって違います。SDが人間から追放されるということもあり得ます。そうなると一人のSDしかいない人間として生きていかなければならなくなるなります。新しい世界で一人SDしかいない人間として生きることはどういうことなのか。現在のわれわれにはとても想像できません。


 〔学校の改革〕
 学校はどうなるでしょう。学校も最初はいままでと同じようにします。いままでと同じようにするとは当分はSD交換もSD結合もしないようにしようということです。SD交換とSD結合が始まるのは第二段階ということになるわけです。でも人間はみんな新しい人間に変わります。それはすぐに起こることです。生徒も教師も校長も新しい人間に変わります。ほんとうは生徒や教師や校長をやっている人間がいるだけで、生徒や教師や校長という人間がいるわけではありません。人間=職業ではなくなるのです。みんな名前が変わり性別も年齢もない人間になります。生徒も教師と対等な人間であり、経済的にも独立した人間です。親のすねをかじっているわけではないのです。それだけでもたいへんな変化です。生徒の年齢がなくなるとどうなるでしょう。年齢でなにかを決めることができなくなります。いつ小学校に行くかいつ中学校に移動するかわからなくなります。それだけではありません。年齢がなくなると学年というものがなくなるはずです。学年がなくなるとはどういうことでしょう。学年が上がることも下がることもないということです。それはつまりずっと同じ所にいるということです。そうなると学年とは別の学年のようなものが作られるかもしれません。勉強がだんだん進んでいく仕組みがあればいいのです。そんなふうにして学校もだんだん変わって行きます。
 さてどうしたらいいのかみんな考えます。学校はSD単位にしようとある思考が考えます。いや可能なだけ人間単位にするのが新しい制度の基本の規則だと別の思考が考えます。義務教育だけSD単位にして、ほかの学校は人間単位にしようという案が浮上します。そうすると小学校と中学校はいままでとあまり変わりないようです。ただみんな新しい人間の名前に変わります。家族がなくなるので家族に関係したことはなくなります。
 しかし、義務教育を残すと、同じタイプのSDの集団を作らないようにするという基本的な方針に反することになります。同じタイプの集団とは、犯罪者だけの集団とか、サッカー愛好者だけの集団とか、政治家だけの集団とかであって、一つのタイプしかいない場合は例外になります。同じタイプの集団のなかでも同じ年齢の集団は最悪のものです。現在の小中学校のように同じ年齢の人間を集めて教育をするのは最悪の教育です。小中学生の集団を見ればすぐにわかることですから説明はしません。それがわからなければ自分の教育をやり直すしかありません。さらに同じ年齢の集団の中に一人だけ歳の離れた人間がいる集団は異常な集団です。一刻も早く抜け出すしかありません。ですから、同じ年齢のSDを集めたクラスではなく、様々な年齢のSDを集めたクラスになります。というよりこの際ですからクラスは廃止にしましょう。年齢の低いSDは移動が多くなるのですからどこの学校に行ってもよくなるはずです。その時々で行きたい学校に行き、入りたい教室に入り、受けたい授業を受ける。そんなことも考えられます。あるいは義務教育の勉強は自分でやるほうがいいかもしれません。新しい人間そのものが学校のようなものです。


 問題は人間単位になった学校です。高校や大学が人間単位になるとどうなるのでしょう。人間単位になるとはSD交換とSD結合が可能になるということです。新しい人間が学校に籍を置くとはSD全員が籍を置くということであり、SDは誰でも学校に行けるということです。最初はできるだけSD交換とSD結合をしないようにします。それをするだけの体制が整っていないからです。でも基本的な問題は次々に発生します。まずわかるのは新しい人間の成績を測定することは不可能だということです。成績を測定することが不可能だということは試験が不可能だということです。試験が不可能だということは入学試験ができないということです。それだけではなく進級試験もできないし、卒業試験もできません。また、成績を測定することができなければ、成績が上がったことも下がったこともわかりません。入学させることも進級させることも卒業させることもできません。
 学校をどう変えるかを考え始めると果てしのない問題だとわかります。すべてを変えたくなってきます。学校という言い方も変えたくなります。学校は大きく二つに分けましょう。技術を習得するための学校と基本的なことを勉強するための学校です。そしてどちらも学校と呼ばないことにします。技術習得所と人間塾と呼ぶのはどうでしょうか。まったくよくありません。現在の学校ではこの二つが混じり合って区別できなくなっています。医者の仕事技術を習得することは技術の習得です。外国語を習得することは技術の習得です。役所の仕事や会社の事務を習得することも技術の習得です。運転技術の習得と同じです。現在の学問とか勉強とか言われているもののほとんどは技術の習得です。歴史を説明する技術、生物を分類する技術、遺伝子を解析する技術、宇宙の構造を解明する技術、資本を増殖させる技術など、現在の学校で研究されていることはほとんどが技術です。それらの技術は特定のSDに習得してもらうのがいいでしょう。そのSDは人間として技術を習得するのであって、SD単位になっているのではありません。技術を習得するための機関は学校ではなく会社になるかもしれません。自動車学校を考えてみればそれがわかります。自動車学校は学校ではなく運転技術を売る会社ということになるからです。顧客はお金を払って運転技術を買っているのです。外国語学校は外国語技術を売る会社になります。看護師学校は看護技術を売る会社になります。会社が技術の習得を受け持つという方法もあります。会社の仕事に必要な技術を習得するのは会社の仕事になるということです。自動車会社に就職して働きながら仕事に必要な技術を習得するという方法であり、すでにどこの会社でもやっていることですが、医者なども病院で働きながら医療技術を習得するようにするのです。医療技術の習得が仕事になるわけです。
 しかしすでに現代のほとんどの大学・高校などの実態は技術販売会社です。高額の 金額で技術を売っているだけです。実戦では使えない技術ばかりですが。学校・教育などと言っていますが企業の出先機関にすぎません。
 もう一方の学校は最も簡単に言えば真理の探究をする学校のようなものということになります。そのような学校が各地にあり、新しい人間は最初からその学校に所属しています。常時所属しているので、入学も卒業も途中停止もありません。すべての人間は生涯に渡ってずっと学校に通うことになります。教会に通うようなものです。あるいはトイレに通うようなものです。行きたいときに行きたい学校に行き、この世界がどういう構造になっているかを探求し、人間は次にどこに向かうかを考えます。新しい制度の次には次の制度があるのです。義務教育の学校に行っている年齢の低いSDはその学校にも行けます。その学校にはもう先生もいません。机も出席簿も教室もないでしょう。そういう学校を想像してみるとなんとなく江戸時代の藩校とか私塾に似ています。そこではおもに本を読んであれこれ世の中のことを考えることをしていたようです。江戸時代の技術の習得は働きながらやっていました。技術の習得は仕事に組み込まれていたのです。農業技術を習得してから農場で働くのではなく、農場で働きながら農業技術を習得したのです。


 新しい制度になると人間の能力を測定したり比較したりすることが不可能になるのです。どんな能力でもです。ですから試験とか成績とかいったものが存在しない学校制度に変化していくということです。(試験が残るとするなら成績の悪い人が合格する試験になります。素直に考えれば、成績の悪い人のほうを教育するのが当然のことであり自然なことです。)
 (追加補足。試験をして成績のいい人を入学させる教育は奇怪なものだということがわかってきました。真の教育は成績の悪い人間を教育するものだからです。なぜなら、教育するとは無能な人間を有能にすることです。なにもわからない人間をいろいろなことのわかる人間にすることです。人間は教育しなければなにもわからないままです。だから教育する必要があるのです。人間はいろいろなことを知ってやっと人間になります。生まれただけでは人間ではありません。生まれてからいろいろなことを知ってやっと人間になるのです。ですから無能な人間を教育するのが教育です。ですから成績の悪いほうを入学させるのがほんとうです。成績のいい人は教育する必要がないということです。成績のいい人間を入学させるいまの教育は完全に狂っています。たぶんずっとそうやってきたのでそれが癖になっているだけです。かつては政府に都合のいい人間を養成する機関にすぎなかったからです。成績のいい人間を選んで教育するとなにが起こるかはっきりしています。成績の悪い人間と成績のいい人間の格差がさらに拡大するということです。現在の高校や大学は人間の格差を拡大するのが役目ということになります。年収一千万の階級と年収二百万の階級に分けているのです。注意・これは現在の情況分析であり、新しい世界のことではありません。現在の情況分析ほどつまらないものはありません。)


 新しい制度になると学校はどのように変化するでしょうか。最初に学校に起こる変化は授業内容の変化です。教科書の内容をすべて新しい制度に変えなければなりませんし、教科書に出てくる人間をすべて新しい人間に変えなければなりません。教科書だけでなくすべての本、すべての資料、すべての記録、ネット上の全記述・全音声記録を変えなければなりません。たぶん新しい教科書を作ったほうが早いでしょう。ネットも一度すべてを消去したほうがいいでしょう。そのように新しい制度に合わせてあらゆることが変わっていきます。
 教科書や本に人間が登場する場合には、その人間がかつての人間なのか新しい人間なのか区別しなければなりません。区別しなければならないのはすべての人名と、「人間」「人」「私」「あなた」「縄文人」「白人」「スペイン人」など人間に関する言葉すべてです。「私がまだ若かったころ」という記述の「私」はかつての人間なのか新しい人間なのかわかりません。新しい人間には年齢がありませんからかつての人間だと推理できます。「北朝鮮から帰ってきた日本人」という記述の「日本人」はかつての人間なのか新しい人間なのかわかりません。どこかを修正する必要があります。「天明の大飢饉で死んだ農民」という記述の「農民」とはなんでしょう。新しい人間が農業だけをやっているということはあり得ませんからたぶんかつての人間です。人間=職業だった時代の人間です。それともSDの全員が農業をやっている人間がいたのでしょうか。「昨日の私は自分のやっていることを知ることができなかった」という記述の「私」は新しい人間です。新しい人間が自分のやっていることをほとんど知らないのは普通のことです。「AKB48は2008年に結成されました」の「AKB48」とはなんでしょう。その年にはまだ新しい人間は存在しませんが名前から推理すると新しい人間のようなものでしょう。48人のSDがいたに違いありません。たぶん実験的に新しい人間が作られたのです。
 人間が登場しない教科はほとんど変化しません。数学、物理、化学、地学などです。生物学もあまり変わらないでしょうが、一つの個体を生物の基本単位とする考え方は修正されます。イワシの群れは群れのほうが基本単位であって、一匹一匹のイワシはオオイワシの部分にすぎないかもしれません。また、生物を観察すれば家族が制度にすぎないということがよくわかるはずです。子供を育てているから親子だと思うのは錯覚です。生物は子供なら別の種でも育てることがあります。食べてしまうこともありますが食べることと育てることは紙一重の違いしかありません。地理にも人間が登場するので用心してください。制度が違うと国によって人口の数え方が変わります。一人の人間が様々な地域に分散して存在する国もあります。そうなると人口密度は計算できません。
 (追加補足。以前の本に出てくる人間はすべてSDだったということにすればいいのかもしれません。かつての人間がみんなSDになったのですから、過去の人間もSDになるというわけです。そうすると人類の歴史ではいままでSDしか存在しなかったのであり、新しい制度になって初めて人間が出現したことになります。)



 〔新しい世界の恋愛と性〕
 家族制度が廃止になると恋愛というものも変化します。恋愛というものは結婚制度と家族制度が存在しているから存在するのではないでしょうか。するすると、結婚制度と家族制度がなくなれば恋愛は消滅するはずです。これは仮説です。かつて光は重力によって曲がるという仮説がありやがてそれが証明されました。結婚制度と家族制度がなくなれば恋愛は消滅するという仮説はどうすれば証明されるでしょう。結婚制度と家族制度をなくしてみれば証明できるはずです。恋愛とは結婚・家族制度が生み出した幻想ではないでしょうか。
 いや、そんなことはありません。恋愛はセックスとも関係しているはずです。結婚・家族制度がなくなってもセックスは残るはずです。セックスが残れば恋愛も残るはずです。セックスと恋愛は密接に関係しているはずです。そう思われています。簡単な言い方をすると「好きだからセックスをする」ということになっているからです。でもほんとにそうでしょうか。少し考えてみるとだんだんあやしくなってきます。「好き」と「セックス」というぜんぜん違うものをむりやり合体させているような気がしてきます。
 もう少し考えてみましょう。「好きだからセックスをする」ということになっていますが、セックスがしたいから好きになるとも考えられます。疑問が次々に発生します。セックスしたいから好きなのか。セックスするために好きになるのか。好きになったらセックスしなければならないのか。好きだからセックスしてもいいのか。セックスしてもいいほど好きなのか。誰とセックスしていいのかわからないので好きな人とセックスすることにしたのか。セックスなどは好きでなければとてもできないものなのか。セックスしても嫌いにならないほど好きなのか。セックスしても嫌いにならないからほんとうに好きだとわかるのか。好きだからセックスしたくないということも可能なのではないか。嫌いな人とセックスをするという制度でもいいのではないか。子供ができてしまうかもしれないのになぜわざわざセックスするのか。好きとセックスはほとんど関係ないのではないか。このように性と恋愛はもつれにもつれて解きほぐすことができなくなってしまいました。純粋な恋愛を取り出すこともできないし、純粋な性を取り出すこともできなくなったのです。もつれにもつれた性と恋愛をむりやり合体させ、それをさらに結婚・家族制度に合体させました。その結果、性と恋愛と結婚・家族制度が複雑に絡み合ってわけがわからなくなりました。そしてたぶん結婚・家族制度が消滅すればそれらの結合がばらばらになり、恋愛も消滅して、性だけが残るというシナリオです。


 別の角度から考えてみます。
 家族制度が廃止になると二つの大きな問題が発生します。子供をどうやって作るかという問題と性欲処理の問題です。この二つの問題は結婚・家族制度の中で連動していましたが、新しい制度では分離されます。新しい制度では結婚・家族制度と関係なく子供が作られます。子供を作るための制度が新しく作られるわけです。それは子供を作るためだけの制度であり、性欲の問題とはあまり関係がなくなります(完全に関係がなくなるわけではありません)。そうすると性欲処理問題だけがぽつんと残ります。純粋な性欲を純粋に処理するだけの問題です。そういう純粋な性欲が存在すると仮定されているわけですが、そもそもそんなもそもそした純粋な性欲など存在するのでしょうか。
 結婚とも恋愛とも関係のない純粋な性欲があるとするなら、結婚や恋愛が消滅しても性欲をどうにかしなければならないという問題が残ります。結婚とも恋愛とも関係ない純粋な性欲とはどういうものなのでしょう。ほかの生物がヒントになります。NHKでよくやっている動物ドキュメントです。純粋な性欲とはなにかを放出したいという欲望ではないでしょうか。体内に溜まった異物を放出したいという欲望です。それを個体だけでは放出できない仕組みになっているようです。つまり性欲とはなにかを排出したいという欲求のようです。
 性欲は子供を作ることと関係があると思われています。性欲がなければ子供ができないのでしょうか。そんなことはありません。性欲がなくても性交をすれば子供ができます。だから性欲と子供を作ることはあまり関係がないのです。性欲ー性交ー妊娠という関係になっていて、性欲は性交と関係しているだけで妊娠とは直接に関係していません。子供を作るために必要なのは性交であって性欲ではないのです。では性欲とはいったいなんなのでしょう。性欲がなければ性交をしないので性欲が作られたと考えることができます。性交したくなるために性欲が作られたということです。つまり性交はそれほどしたいものではないので、したくなるように性欲が作られたというわけです。性交の補助役のようなものです。そういうよくわからない孤独な仕事に従事している性欲は自分がなんのために存在しているのかわからなくなってしまいます。そしてあれこれ余計な仕事に手を染めることになります。
 もう少し性欲探検の旅を続けます。
 性欲は不思議な欲望です。そんな欲望がほんとうに存在するのかよくわかりません。様々な欲望が混じり合っているようです。様々な欲望が複合してどれが純粋な性欲なのかわかりません。別の人間と親密になりたいという欲望が含まれています。別の人間というより別の肉体です。性欲とはなによりも別の肉体に対する欲望です。別の肉体に近づきたい、触れたいという欲望が含まれています。見たことがないものを見たいという欲望もあります。隠されているものを見たいという欲望です。美への欲望も含まれています。別の状態になりたいという欲望もあります。自分を変えたいという欲望です。ほかの人間を支配したいという欲望も感知できます。このように性欲は様々な欲望が結合して奇怪な欲望になっています。だからどんなものにも結びついてしまい、自動車とセックスする人もいるそうです。人によって性欲の形態がずいぶん違うということです。
 性欲の本質は別の肉体の探究かもしれません。別の人間の私的な領域に侵入しようとしています。だからそれは宇宙探検に似ています。どうやって別の星に到達するか、どうやって別の星を探索するか、それと同じことです。そういう途方もない欲望なのです。そんな途方もない欲望をどうしていいのかわれわれにはわかりません。どうすれば性欲が解消されるのかわからないし、性欲がなくなったことを確認する方法もありません。性交・射精は終わりのサインではないでしょうか。そこで性欲が終わったことにしないといつまでも終わらせることができないからです。
 自分を観察してみてください。ほかにも性欲にはよくわからない欲望がいろいろ含まれているようです。支配欲・独占欲も含まれていますし、死の欲望が含まれているという人もいますし、解剖学的な欲望が含まれているという人もいます。解剖学的な欲望とはどういうものかよくわかりませんが、性欲にはそういうよくわからない欲望がいろいろ検出されるということです。よくわからない欲望の寄せ集めが性欲なのかもしれません。もっと根源的な「生欲」といったほうがいいかもしれません。肉体のあちこちからよくわからない欲望がたくさん噴き出しているわけです。日本列島のあちこちから様々な液体や気体が噴き出しているようなものです。そういうものを一つにまとめたのが性欲です。


 そういうわけのわからない性欲が単独で残ると予測されます。恋愛・結婚・家族・妊娠・出産から分離した純粋な性欲です。そんな野放しになった性欲をどうやって処理するかが問題になります。SDごとに性欲の形態も処理方法も違うはずです(性欲はたぶんSD固有の問題です)。性欲の処理が完全に自由になるとどうなるでしょう。かつて「フリーセックス」とか「性の解放」と言われていたやつです。電車でも道端でもそこいらじゅうでセックスしているという状態になるのでしょうか。この問題はいまのところどうなるのかまったく想像できません。結婚・家族制度とは性欲を制御する方法だったのかもしれません。


 追加補足。
 性交と性行為を別々に考えたほうがいいかもしれません。性交それ自体は生理的・物理的な現象にすぎないと思われるからです。だから性交だけをするなら人工的な性器でいいはずです。性行為になるとどうしても相手が必要になります。性行為とは別の人間の特別な関係になることです。別の人間と特別な関係になる方法はいろいろありますが、性行為もその一つです。わりと手軽で簡単な方法かもしれません。だから性行為でなければ別の人間と特別な関係を作ることができない人間が多くなるようです。性行為はなぜ特別な関係になるのでしょうか。特別な人間としか性行為をしないということによって性行為は特別な関係になります。誰とでも簡単に性行為をする社会では性行為は特別な関係になりません。また、結婚にはほかの人とは性行為しませんという契約が含まれています。それによって結婚が特別な関係になります。




 新しいセックスについて考えて見ます。
 一人で処理できる場合もあれば相手が必要な場合もあります。相手が必要な場合は相手を見つける必要があります。どうやって相手を見つけるかが問題になります。仲介する機関を作るのではなく直接予約制にします。セックスしたい相手に自分が直接予約カードを渡します(どうやって渡すかが問題です)。相手は誰でもかまいません。性別の制限はありませんが年齢の制限は必要かもしれません。この制度を理解できる年齢でなければならないでしょう。このセックス予約カードは絶対に受け取らなければならない決まりにします。予約カードには連絡先とメニューが書かれています(メニューは何万種類もあります)。予約を受けるかどうかは自由です。ことわる場合も必ず連絡しましょう。これは一回限定なので次のときはまた最初からやらなければなりません。そういう方法も考えられますが、もっと細部を詰める必要がありますし(予約が殺到する場合の対処法など)、まったく違う方法もいろいろありそうです。
 こういったことを考えていると、セックスの相手を限定するという考え方は結婚・家族制度に性が組み込まれたことによって起こったことだ、ということもわかってきます。相手を一人か二人に限定し同じ相手を独占し続けるという方式は結婚・家族制度が生み出したものであり、結婚・家族制度がなくなると消えていくだろうと予測できます。(そういう支配・独占欲がストーカーにはたくさん含まれていると思われます。)


 追加。
 性欲はよくわからない欲望です。だんだんはっきりしてきたことはセックスでは決して満たされることはないということです。性欲はもっと巨大な欲望のようです。放出しなければならないエネルギーを100とするとセックスで放出できるのは10くらいでしょう。やればやるほどますます欲求不満になるわけです。性欲は生物の全歴史に関係しています。過去に存在したすべての生物の欲望がつながってここに到達しているというイメージになります。細胞の一個一個に性欲が存在しているのです。
 われわれはもっとオナニーを研究したほうがいいでしょう。究極のオナニーです。そこに登場するのが究極のオナニーマシン、性欲処理装置です。性欲処理装置は純粋な性欲を純粋に処理する装置です。性欲処理装置などと呼ばずに別の名前で呼ばれるようになるでしょう。イザナギなどが候補になります。透明で柔らかい穴の通路があり、穴の入口は普段は閉まっているのですが、その入口から裸になったSDの肉体が吸い込まれます。口と鼻には呼吸のための管がつながっていますが、それ以外は完全に裸です。裸の肉体はその穴の奥へと吸い込まれて行きます。透明な穴の壁が全身にくまなく吸い付いて締め付けてきます。ほかにも様々な秘密の仕掛けがあります。穴の奥には小部屋があり生物の体内のようになっています。そこにはたくさんの原始生物が生息していて、肉体の諸部分で様々な特殊な活動を行います。それからまた穴を通ってこの世に帰還すると別の生物に変わってしまったかのようです。そのような施設がたくさん作られます。そこからすべてのSDに年一回招待状が届きます。これは特別にSD単位になります。年齢制限も必要です。この性欲処理装置を実際に体験したSDの感想は割愛します。
 性欲処理問題を解決する方法はほかにもたくさんあるはずです。みなさんが考えてください。


 さらなる疑問。
 新しい世界になっても恋愛と性はかつての人間であるSDの問題だと考えていましたがほんとうにそうなのでしょうか。新しい人間と新しい人間が性的に関係することは不可能ですが、新しい人間と新しい人間が恋愛することは可能かもしれません。
 新しい世界になってもSDは恋愛したり性的に関係したりするのでしょうか。たぶんするでしょう。しかし、新しい世界でSDの恋愛や性関係はなにを意味するのでしょうか。なんの発展もないことだからです。
 新しい世界ではSDは自分がどこまでSDでどこまで人間なのかよくわからない存在です。SDとして行動しているのか人間として行動しているのかわからなくなります。自分もそうなら相手もそうです。相手をSDとして関係しているのか相手を人間として関係しているのかわからなくなりそうです。別の人間のSDを好きになるとしても、SDとして好きなのか人間として好きなのか、あるいは両方なのか、そういう様々な関係があります。相手を人間として好きなら相手がSD交換してもかまわないということになります。人間・SD関係がものすごく複雑になります。これはもうやってみなければどうなるかわかりません。


 附録〔ジェンダー問題について〕
 「ジェンダー」などという奇妙な言葉を使うことがすでに問題ですが、ジェンダー問題の出発点にあるのは、肉体の性別と心の性別が違うという考え方です。生まれつきの肉体の性別と生まれつきの心の性別が違っていると言うのです。肉体の性別と別に心の性別があり、どちらも生まれつきのものだと考えられています。肉体の性別は生まれつきのものなのでしょう。しかしそれは男と女の別というより雄と雌のようなものです。ですから問題は生まれつきの心の性別など存在するのかということです。そんなものは存在しません。女と男に区別することは制度なのです。文化と言ってもいいでしょう。男と女というものは人間が作り出した制度です。もっと明確に言えば、女か男のどちらかでなければならない制度です。ですから男とか女とかは生まれてから作られるものです。生まれたときには雄か雌の区別しかありません。その後に男と女が作られます。雄がたいてい男に作られ、雌がたいてい女に作られるだけです。男とはこういうもの、女とはこういうものと決められているのが文化であり制度です。女はこういう服装をしてこういう髪型をしてこういう遊びをすると決められています。動作、話し方、考え方などあらゆることが男女別に決められています。生まれてからそれらを徹底的に教育・洗脳して男と女が作られます。
 男と女の区別は制度・文化にすぎないのですから、いまとは逆の制度・文化もあり得ます。たとえば、男がスカートをはき女がズボンをはく文化です。そういう文化ではスカートをはくほうが男らしいということになります。そんな世界で「肉体は女で心は男」と主張する人はスカートをはきたくなるはずです。男はスカートをはくと思い込んでいるからです。心に性別があるということも思い込みであり、男と女のどちらかでなければならないと思うのも思い込みです。「心が男」などというのは、男か女のどちらかでなければならないという強制から生まれた幻想です。
 ところが現在ではだんだん、男はこうでなければならない・女はこうでなければならないという強制が緩くなってきました。性別の区別・差別をしないようになっています。そのために子供は男になっていいのか女になっていいのかわからなくなってきたのです。そして、肉体が雄なのに女になろうとする子供や肉体が雌なのに男になろうとする子供が多くなってきました。それがジェンダー問題の本質です。ほんとうは男でもない女でもないただの人間になればいいのですが、依然として男と女のどちらかでなければならない制度が残っています。性別の区別・差別はしないようになっていますがどちらかでなければならないのです。至る所で男と女のどちらかであることを強制されます。どちらかにならなければならないと強制されるのでどちらでもない人間がどちらにしようか悩んでいるのです。女か男のどちらかに決めなければならないと思うから苦しむのです。どちらでもないただの人間になればいいのです。


 まとめると、女と男という制度は二つに分けられるということになります。
 第一の制度は、男はこういうもの女はこういうものというように男と女を区別する制度です。女はおしとやかに、つつしみぶかく。男は黙ってどっしりかまえる。男は女を保護し、女は男に保護される。といったようなもので、そういうものがたくさんあることは誰でも知っています。
 第二の制度は、女か男のどちらかでなければならないという制度です。女でないなら男でなければならず、男でないなら女でなければならないという制度です。
 この二つの制度が絡み合って男と女という制度が作られています。第一の制度が第二の制度を作り出し第二の制度が第一の制度を作り出すという構造であり、第一の制度が第二の制度を支え第二の制度が第一の制度を支えるという構造になっています。ですから両方攻撃しなければどちらもなくならないのです。片方が生き残っていればもう片方もすぐに生き返ってしまいます。それがわからないために思考の混乱が起こっています。この二つの制度を混同してしまうために、男女平等・男女差別・ジェンダー問題がひどく混乱しています。
 男女平等とは男と女を区別しないで同じようにするということですが、「男女」と言うこと自体最初から男と女を区別しています。男女平等を叫べば叫ぶほど第二の制度が強化されるということになっています。男女平等にするのならなによりもまずスポーツの男女の区別をなくさなければなりません。ところがスポーツは逆に男女の区別をより強化しているようです。男か女かわからない人がいると検査してどちからに決めるほどです。人間は女か男のどちらかでなければならないと思い込んでいるのです。議員の半分を女性にするなどというのも変な考え方です。性別を気にしないならどちらでもいいはずです。それなのに逆に性別を異常に気にしています。だからそういう考え方は逆に第一の制度と第二の制度の両方を強化してしまうはずです。
 両性婚を認めろ認めないという問題もとても錯綜しています。男と男が結婚する、女と女が結婚することを認めろというわけですが、それはつまり人間は男か女のどちらかでなければならないということです。だからほんとうは、男でも女でもない人間と女でも男でもない人間の結婚を認めろと言うべきなのです。しかし、その前に結婚制度を容認してしまっていることが問題です。
 ジェンダー問題は第一の制度を否定し第二の制度を肯定することから起こっています。男と女を区別するなと主張しているのに男と女のどちらかでなければならないと思い込んでいます。だから「肉体は男だが心は女」などと言い出すのです。女でも男でもないただの人間になればいいのです。
 新しい人間には性別がありませんから、社会のあらゆる制度から男と女の区別がなくなります。新しい人間を作る時には男女が半々になるようにするのですが、SDにもだんだん女という意識や男という意識がなくなっていくはずです。家族制度も結婚制度もなくなるのですからそれはさらに加速されます。やがて雄と雌の区別もなくなっていくのかもしれません。


 〔新しい世界の子作り・子育て〕
 結婚・家族制度の廃止によって起こるもう一つの問題は子供をどうやって作るかです。結婚・家族制度を廃止しても子供を作る方法はいくらでもあります。まずはっきりさせなければならないことはなんのために子供をつくるかです。子供はすべて人類の存続のための作られるということになります。ですから、自分の子供を妊娠するのではありません。人類の子供を妊娠するのです。子供はすべて人類の子供であり誰の子供でもないということです。妊娠出産した人間の子供でもないし、精子・卵子・遺伝子の提出者の子供でもないということです。精子・卵子・遺伝子は人類の共有物になります。自分が産んだ子供は自分の子供という「我が子幻想」「母親幻想」があまりにも強力なので、それを消滅させることはむずかしいことですが、大きな変革ほど簡単ということもあります。少しずつ変えるより一挙に変えたほうがいい場合もあります。それに最初から子供を作るのは人類の存続のためでした。
 新しい制度では子供を作ることは国の仕事になります。妊娠出産省が作られそこがすべての妊娠・出産を管理します。産婦人科がすべて妊娠出産省に組み込まれるでしょう。産まれた赤ん坊を一定期間育て新しい人間に配分するのが妊娠出産省のおもな仕事です。妊娠段階から計画・管理する場合もありますが、妊娠してしまった場合も出産してしまった場合もすべて引き受けます。あらゆる妊娠、あらゆる出産を管理します。新しい人間に配分された赤ん坊はすべてのSDによって育てられます。親ではありませんが親のような存在がたくさんいることになります。
 すべての新しい人間にとって子供を作ることはたいせつな仕事になります。子供を作る方法はいくつも考えることができます。そこには性の問題も関係してきます。SDが自発的に子供を作る場合もあるでしょう。妊娠出産省が子供を作る人間(SD)を募集する場合もあるでしょう。その場合は特別手当が支払われるかもしれません。女性SDの子宮を必要としなくなるかもしれませんし、人工子宮のようなものが開発されるかもしれません。まだ誰も知らないまったく新しい方法が考え出されるかもしれません。新しい人間のことも少し前まで誰も知らなかったのです。
 (女性SDが妊娠・出産から解放されるかもしれません。そうなると女性SDの肉体は急激に変化するでしょう。肉体的にも男女の違いのない未来も想像できます。)
 (注意。ここで使われている「子供」という言葉は「年齢の低いSD」という意味しかありません。「誰かの子供」といった意味や「親」に対する「子」という意味はありません。だから「年齢の低いSD」と言い換えたほうがいいのかもしれません。)
 (追加補足。新しい制度では二十年くらい子供を作らないということも可能になります。そのようにしてSDの数を減らすことができます。人間の数を減らさずにSDの数を減らすことができるのです。その逆も可能です。)


 次にはそうやって作られた子供をどうやって育てるかということが問題になります。この世界に出現した赤ん坊はしばらく国の施設で育てられてから新しい人間に自動配分され、新しい人間によって育てられます。細かいことはそれぞれの人間が考えます。どんな子育てになるのかはまだわかりません。子育てとはつまり人間を作ることです。新しい制度では人間を作ると同時にSDも作られます。人間とSDを同時に作らなければならないのですから簡単なことではありません。
 「個体発生は系統発生を繰り返す」と言われるように胎児は生物の全歴史を辿ります。生まれた赤ん坊はまだ人間ではなくこれから人間になっていきます。赤ん坊は生まれてから人間の全歴史を繰り返すというわけです。そしてやがて現在まで到達するというわけですが、途中で止まってしまう場合も多いようです。子育てとは人間の全歴史を再体験させることです。(人間が徐々に人間になるのですからどの時点で人間になったかを特定するのは不可能です。)
 現在の子育ても同じことをやっているのですが、そんなふうに考えて子育てをしている親はいません。ただ自分たちと同じ人間を作ろうとしているだけです。というより結果として自分たちと同じような人間ができてしまうだけです。親の影響が大きいのですが社会全体で子育てをしているようなものです。保育園、学校、周囲の人間、テレビ、ネットなどすべてです。現代の親の子育てを観察すると、ペットを育てるような子育て、あるいは友達と一緒に遊ぶような子育て、あるいは奴隷を作るような子育て、あるいは自分のコピーを作る子育てばかりで、あまり参考にならないのでやめます。
 新しい人間にとって子育ては最もたいせつな仕事になります。赤ん坊と子供は常に存在しています。新しい人間には常にあらゆる年齢のSDがいるのです。ですから子育てには終わりがありません。すべてのSDが常時子育てをしている状態になります。
 新しい人間に自動配分された赤ん坊は新しい人間と同じ名前になり、そのSDの一人になります。SDはすべて同じ人間であり対等な存在であり、同じ財布を持ち同じ物を所有しています。赤ん坊は同じ人間によって育てられます。親子という特別な関係は存在しません。それはとても重要なことです。しかし、新しい人間自体がまだよくわからないものですから、新しい人間の子育てもまださっぱりわかりません。新しい世界の赤ん坊はいきなり新しい人間になるのか、まずかつての人間になってから新しい人間になるのか。最初から新しい世界で育つとどうなるのかはわからないことばかりです。かつての制度がわからなければ新しい制度はわからないのではないかという問題もあります。かつての個人というものを知らない人間が誕生するのです。
 かつては「一人の人間が付きっ切りで赤ん坊を育てるのがいい」という考え方がありましたが、それはかつての世界の説であって、新しい世界には別のやり方があるはずです。
 年齢の低いSDが成長していくに従って子育て・教育も変わっていきます。ある程度成長すると新しい人間の中を自由に移動するのがいいかもしれません。新しい人間それ自体が学校のようなものになるでしょう。そうすると実際の学校はそれほど必要なものではなくなるはずです。十歳くらいになればSDができることはすべてできるようにするのがいいかもしれません。すべてのSDとSD交換できるようにするのです。
 改革の初期には過渡的な段階が生まれます。すべての人間が新しい人間に再編成されるわけですから、生まれたばかりの赤ん坊も死にそうな人間も新しい人間に配分されます。それどころかそこには妊婦も含まれます。新しい人間に配分されてすぐ子供を生むという場合もあります。その場合はどうするかという問題があります。生まれたばかりの赤ん坊はどうやって新しい人間に組み込んでいくかという問題もあります。具体的にどうするかという問題です。


 追加。
 人間が新しい人間に変わるということは、人間がついに遺伝子の拘束から解放されたということです。完全ではありませんが、新しい人間は遺伝子のつながりを切断したことになります。前の世代の遺伝子をそのまま引き継ぐということがなくなったのです。このことは、生物がついに遺伝子の支配から脱出したということを意味します。


 追加。〔誰の子供が人類の未来を作るのか〕
 子供を作るのは人類の存続のためだと考えてきました。それはいまでもそうです。人はそれぞれかってな理由で子供を作りますが、理由を一つに絞れば人類の存続のためということになります。しかし、それだけでないことがわかってきました。いままでの世界では、自分の子供を作るとは自分の遺伝子を残すということでした。自分の遺伝子を残すとは自分のような人間を残すということです。自分のような人間を人類の未来のために作り出すということです。自分の子供を作るとは人類の未来を決定することなのです。自分のような人間が人類の未来には必要だということです。現在、誰でも自由に子供を作る権利があります(子供を作れない人もいますが)。それは人類の未来の決定権が与えられているということではないでしょうか。人間の歴史上ほとんどそうだったかもしれません。人々はわりと自由に子供を作ってきました。しかし、子供をなんのために作るか考えた人はあまりいなかったようです。考えてもそれぞれがかってな理由で子供を作ったようです。「親に孫の顔を見せたい」といった理由などもあります。自分のような人間が人類の未来に必要だから子供を作ると考えた人はほとんどいなかったでしょう。でも結果的には人類の未来のために子供を作っていたのです。無意識にそれを感じていた人もいたはずです。子供を作って育てている人がなんとなく偉そうなのはたいへんなことをしていると無意識に感じているからです。そんな人類の未来を決定するようなたいへんなことなのに、自由に子供を作ることができるのはなぜなのでしょう。自分の子供を作るのは人類の未来には自分のような人間が必要だと主張することだったのです。新しい世界ではこのことも変ります。



 やがて前の時代を知らないSDが出現します。個人というものも知らないし、家族というものも知りません。「母」「父」「親」といった家族用語の意味がわかりません。遺伝子上の親が誰なのか知りたいなどということもありません。いまの人間が五代前の人間など知りたいとも思わないのと同じです。しかし、宇宙の歴史や生物の歴史を勉強することによってそれらのこともわかるようになります。家族というものが存在していたこともあるということも勉強するでしょう。SDの肉体は何億年も前の細胞からずっとつながっていることもわかるようになります。物質と生物がひと続きであることもわかります。素粒子にも遺伝子のようなものが発見されるかもしれません。それはリング状になっているかもしれません。そうするとビッグバンからSDまでひと続きになっていることがわかります。親とはビッグバンのことだと思うかもしれません。SDと新しい人間の間にはたいへんな飛躍があることもわかります。ビッグバンからSDまではひと続きなのですが、新しい人間はそのつながりを切断しているようなのです。新しい人間が生物だとするなら、まったく新しい生物です。遺伝子のつながりを乗り越えた最初の生物ということになるからです。あるいは、人間が作り出した人工の生物かもしれません。そうすると新しい人間はサイボーグのようなものかもしれません。




 〔新しい人間の内側の世界〕
 新しい人間の内側がどうなるか見てみましょう。そこは五十人ほどのSDの世界です。でしゃばりのSDや仕切りたがるSDはいるでしょうが、長の付く人間を作ってはならないし、身分・役職を作ってもいけません。その二つも基本的な規則に登録されるでしょう。新しい世界ではその二つの規則はどんな集団にも適用されます。しかし、役割分担はどうしても必要になりますから、役割はできるだけ固定せず交代制にします。
 新しい人間のSDはすべて同じ人間です。全員が対等で上下関係は存在しません。命令することも命令されることもありません。目標にすることは、ほかのSDができることはすべてのSDができるようになり、SD交換が自由にできるようになることです。SD交換しても誰も気がつかないのが最終段階です。
 新しい人間は肉体がたくさん存在する人間とイメージできます。分身の術が実現したようなものです。分身がたくさんいると同時に様々なことができるようになります。お金を稼ぐことも一つの役割にすぎなくなりますから、お金を稼がないSDがいてもかまいません。お金を稼がないSDもお金を使うことができます。


 新しい人間には様々なSDがいます。様々な性格のSD、様々な形状のSD、様々な障害のあるSDです。しかし、障害は障害と呼ばれなくなり、SDの個性ということになります。様々な生物が存在するように様々なSDがいるだけです。自然は様々な生物を作り出すように様々なSDを作り出します。どれが正常でどれが異常だとは言えません。どれが優れていてどれが劣っているのは言えません。どれが幸福でどれが不幸だとは言えません。SDとほかの生物を差別するのも間違っています。生物の多様性とSDの多様性を混ぜてしまえばいいのです。犬を言語能力障害とは言いません。アキニレをアトピー性皮膚炎とは言いません。カラスを上肢欠損症とは言いません。ブルドックを差別する三毛猫はいません。三毛猫がいて、黒人がいて、ブルドックがいて、足が一本の日本人がいて、鳴けないゴキブリがいて、毛のないスペイン人がいて、病弱なチンパンジーがいて、目のない金魚がいるだけです。すべてそれぞれの個性です。交通事故にあうと新しい個性が生まれます。病気になるとまた新しい個性が生まれます。病気は障害ではありません。病気とは個性です。ダウン症のSDがもっと増えたら人類はもっと平和になるかもしれません。最初に言葉を発した人間は洞窟に閉じ込められたにちがいありません。新しい人間の制度を考え出した人間はどういう病名になるのでしょうか。




 SDはインターネットなどでつながります。新しい制度はインターネットなしには不可能かもしれません。SDはほかのSDに買い物を頼んだり、掃除を頼んだり、犬の散歩を頼んだりできます。仕事が忙しいと応援を頼むこともできます。暇になれば農作業や物資を移動する仕事がいつも待っています。老人や子供の世話を全員でできるようになります。ほかの家で眠ることも多くなりますし、住む場所の交換も簡単にできます。子供はすべての家を順番に移動して暮らすこともできるでしょう。そういう交流が普通になればほかの人間のSDとも同じように交流するようになります。
 しかし、新しい人間の内側の世界を見てみれば以前と同じような生活があるだけです。人間の内側でSDは以前と同じように暮らしていますし、以前と同じようなことをやっているだけです。人間の外側の世界が以前とほとんど変わらないように、人間の内側の世界も以前とほとんど変わらないようです。変わったのは関係です。それぞれのSDはほとんど変わっていないのに、SDとSDの関係はすっかり変わってしまいました。SDとSDの関係があり、人間と人間の関係があり、SDと人間の関係があるだけです。それらの関係では年齢や性別の違いはほとんど考えなくてもよくなります。年下・年上関係と男女の関係は重要なことではなくなります。夫婦の関係、親子の関係、兄弟姉妹の関係などはなくなります。
 SD関係・人間関係で最も重要なことは余計な関係をできるだけ作らないということです。そのためには関係はなぜできるのかということを研究しなければなりません。そして、関係ができるようなものを作らなければいいのです。関係は違いによって発生します。凸凹、プラスとマイナス、上と下、右と左、大と小、高と低、重と軽などの違いです。そういった違いを作らなければ余計な関係は生まれません。
 SDにとっては以前となにも変わらないことがたくさんあります。一日の生活といったものはほとんど変わらないなずです。一日の生活の流れとリズムです。以前と同じように、やることがたくさんあり、同じように働かなくてはなりません。働けば同じように疲れてしまいます。しかし、以前のように毎日同じ仕事をすることはなくなるでしょう。毎日違う会社に行ったり、午前と午後で違う仕事をしたりすることが普通になります。『一週間』という歌のように、月曜日は畑に出掛け、火曜日は運転手をして、水曜日はスーパーでお菓子を並べ、木曜日はヘルパーをして、金曜日はラーメン屋さんで働き、土曜日は絵を描いて、日曜日は釣りに出掛けます。一週間というものがなんのために作られたのかやっとわかったのです。日曜日に休むためではなく、曜日ごとに違う仕事をするためです。
 (一週間毎日違う仕事をするという考え方は甘すぎたようです。一年365日毎日違う仕事をするようにしてもいいのではないかと考え直しました。一年に一回しかない紅白歌合戦でさえ飽きてしまうのですから。)
 新しい人間のSDはみんな違う仕事をするようにします。しかし仕事はすべて自分の仕事なのですからすべての仕事をできるようにします。それが目標です。新しい制度になるとたぶんお金のために働くということがなくなるはずです。お金のためにやりたくない仕事をするとか無理をするということがなくなるからです。
 専業化、専門化、分業化、定職化は働くほうではなく働かせるほうの都合で推進されたことです。人を効率的に働かせようとするとそうなります。しかし、人間はそのようにはできていません。人間はいろいろなことをするようにできています。生きるために必要な物がいくつもあり、そのすべてを獲得できるように作られています。一日に三時間ほどは田植えのような単純反復作業をするように作られています。単純反復作業とは瞑想の時間であり、あらゆることを考える時間です。
 一人の人間が一つの仕事をするという制度が現代の最大の弊害の一つになっています。コロナの経済問題とは一人の人間が一つの仕事しかしていないので起こることです。一つの仕事しかしていないのでそれがなくなると途端に路頭に迷います。そのために人は嫌な仕事にもしがみつきます。いかがわしい仕事にもしがみつきます。こんな仕事はないほうがいいという仕事にもしがみつきます。なくてもいいような新商品を開発するのもその仕事しかしていないからです。つまらないテレビ番組を作り続けるのはその仕事しかしていないからです。制度を変えようとしても、経済を再編しようとしても、それらができないのも一人の人間が一つの仕事しかしていないのが原因です。自動車産業を縮小しようとすると自動車産業の人が反対します。農業を改革しようとすると米農家が反対します。二酸化炭素排出量を削減しようとする天然ガス採掘業の人々が反対し、石油産油国が反発します。なにをやろうとしても必ず誰かが反対するのは、それをやると自分の仕事がなくなると思う人が必ずいるからです。新しい制度になるとこの問題は完全に消滅します。


 〔新しい人間はブログで思考する〕
 ブログのようなものを開設するといいかもしれません。SDは誰でも記述できますがみんな人間として記述します。誰が記述しても主語は同じになります。新しい人間である自分をどう育てていくかが主題になります。連絡や会議にも使えます。おもに人間として日々考えていることを記述するのです。SDとして記述するのは別の場所にしてもらいますが、SDと人間を明確に区別することは誰にもできません。制度が始まったばかりなのだからなおさらです。人間の内側の記述なのだから、SDと人間の区別などあまり気にせずに自由に記述してもいいかもしれません。ほかの人間が閲覧することも可能です。
 鷺沼23区という名前の新しい人間がいることにします。23の都道府県にまたがって存在しているのでこの名前になりました。田園都市線の電車が鷺沼に止まっている時に思いついたのでこの名前になりました。スパイスにこの名前を提案してスパイスが決定しました。鷺沼23区の政策自動決定システムがスパイスという名前です。鷺沼23区のSDのSDネームは都道府県名で呼ばれることになりました。静岡1区、北海道1区などです。静岡にもう一人いる場合は静岡2区になります。鷺沼23区のブログはみんな鷺沼23区として記述するのでSDネームは必要ありませんが、必要な場合はSDネームを付け加えます。
 たとえば次のようになります。
 以前の私ですともうすぐ誕生日なのですが、新しい制度になると誕生日はどうなるのでしょう。
 そう鷺沼23区が質問しますと鷺沼23区は答えます。
 新しい人間には年齢もないし誕生日もないのは間違いありません。新しい人間には誕生日はありませんが始まった日はあります。しかし、すべての人間が同じ日に始まったので国全体の記念日ということになるでしょう。
 また鷺沼23区は次のように記述します。
 新しい制度になって誕生日というものは消滅したと考えるべきではないでしょうか。古い習慣を変えるのはむずかしいことですが、産まれた日からの日数で年齢を数える方法もあります。今日は産まれてから11345日目、明日は11346日目と数えるのです。そうすれば誕生日が来ることはありません。誕生日は最初に一度あっただけです。
 すばらしい考え方です。でもSD誕生日は一人で密かに祝ってもいいのではないでしょうか。
 一人でなにかを祝うのは不可能です。
 スパイスは結論を出す問題ではないと決定しました。


 三万円の自転車が欲しいのですが買ってもいいでしょうか(神奈川3区)。
 それくらいの買い物は自由ではないでしょうか。
 それはSDの買い物ではなく鷺沼23区の買い物になります。
 どこからSDの買い物でどこから鷺沼23区の買い物になるのでしょうか。そして鷺沼23区の買い物はすべて全員の投票で決めなければならないのでしょうか。
 この問題は意外にも難問だとわかってきました。
 何円以上の買い物は全員の投票ということになるのでしょうか。
 全員の投票と言ってもスパイスが五分くらいで決めるかもしれません。
 そこまで細かく決めると逆にお金に支配されているような感じがします。
 以前の世界でも三万円の自転車を買うには半年くらい悩んだものです。
 すべての買い物が鷺沼23区の買い物になるのではないでしょうか。
 昨夜食事に五千二百円使いました(岩手1区)。
 こちらに使っていない自転車があります(静岡2区)。
 すみませんがなにが問題なのかよくわかりません。鷺沼23区の財政は逼迫しているのでしょうか。
 新しい人間のブログはこのようなものになるかもしれません。すべて鷺沼23区の記述ですが、どれがどのSDの記述なのかはわかりません。このような記述によって新しい人間は新しい人間を形成していきます。かつての人間成長と同じことです。


 このブログの最大の話題はなんといっても新しい制度についてです。
 私は70さいです。静岡県の山奥でお蔵を作っています。私は沼津より遠くに行ったことがありません。むかしのだんなはもう死にました。私は新しい制度が理解できません。新しい人間がわかりません。新しい制度が始まると息子と娘は突然立ち上がって村を出て行きました。新しい制度はよくわかりませんが銀行口座に誰かがお金をいれてくれるみたいです。こんなことはいままでありませんでした。ふしぎなことです。生まれてはじめてお金の心配をしなくてよくなりました。(静岡2区)
 静岡2区さんすぐこちらに来てください。畑の仕事は私がやります。(神奈川2区)
 静岡2区さん鷺沼23区はあなたをお待ちしています。すべての家を順番にまわってください。
 畑の仕事は私がやります。(北海道1区)(神奈川3区4区)
 なんだか昔の選挙区のようです。
 新しい制度で一番よくわからないのは人間とSDの関係です。SDはみんな同じ人間ということになるのですが、同じ人間とはなんなのでしょう。同じ人間はどうやって関係すればいいのでしょう。
 同じ人間は一緒に住む必要もなく、会う必要もないと言われています。
 SDは別の人間のSDと一緒に住んでもいいようです。以前の家族と一緒に住んでもかまわないようです。一緒に住むといっても家の構造によってずいぶん違いますが。
 同じ人間のSDと性関係を持ってもいいのでしょうか。
 性はSD単位になるのではないでしょうか。
 性は完全自由化ではないでしょうか。
 電車に乗るとあっちでもこっちでも性行為をしているということになるのでしょうか。
 特定の相手と継続的に性関係を持つのは禁止なのでしょうか。
 くっ付くのも簡単になり別れるのも簡単になるのは間違いないでしょう。
 どうなるのかさっぱりわかりません。
 SDと人間の関係ですが、それはこういうことではないでしょうか。鷺沼23区に将棋の強いSDがいるとします。将棋の大会があれば自然とそのSDに出てもらうことになります。SD結合するより一人でするほうが強いでしょう。でもそのSDは鷺沼23区という人間として出場するのであって、勝っても鷺沼23区が勝ったことになります。そのSDのことはまったく話題になりません。SDの写真はSD情報保護法に違反しますから使えません。話題になるのは鷺沼23区のことばかりで、鷺沼23区がどんな人間なのか紹介されるだけです。
 でも鷺沼23区がどんな人間なのかよくわかりません。自分たちでも鷺沼23区がどんな人間なのか説明するのは困難です。年齢もないし、生年月日もないし、子供か大人なのかもわからないし、性別もないし、家族構成もないし、職業はたくさんあるし、住所はたくさんあるし、なにが趣味なのかわからないし、なにが特技なのかわからないし、食べ物の好き嫌いもわかりません。それどころかSDはほかのSDのことがほとんどわかりません。わかっているのは名前と預金残高だけです。
 将棋のように勝ち負けのある競技はなくなるのではないでしょうか。勝ち負けのある競技がすべてなくなり、順位を付けるものがすべてなくなり、合格不合格を決めるものがすべてなくなれば、ニュースの半分はなくなるかもしれません。
 もうすでにスポーツニュースはなくなりました。
 将棋が強くても話題にならないなら将棋をしなくなるのではないでしょうか。それともSDは人間のために戦うのか。いや戦いは禁止ですね。
 人工知能と勝ち負けを競うのも禁止なのでしょうか。
 ゲームなどでは過去の自分と戦っているのかもしれません。
 SDはほとんど話題になることがなくなるということです。社会的には存在しなくなるということです。人間の陰に隠れて見えなくなるのです。
 それはSDが完全に平等になり、完全に自由になるということかもしれません。
 それこそ個人中心主義時代の個人が最終目的にしていたものではないでしょうか。ですから、新しい制度になって個人は消滅したことになっていますが、実はSDはより完全な個人になったということになります。
 それはどういうことでしょう。もう少し説明してください。
 SDはほかのSDとなにかを競う必要がなくなったのです。ということはほかのSDと自分を比較することがなくなるということです。個人が完全な個人になれば、個人であることに自足するようになるのだから、ほかの個人と自分を比較する必要がなくなります。ということはSDは個人の完成と考えることができるということです。個人はほかの個人と違うものになろうとして個人になっていったのですが、最終的にはほかの個人と比べなくても個人でいられるようになるということです。個性や自分らしさを競っている個人はまだ未熟な個人なのです。
 むずかしくてよくわかりません。SDの私はこれからどうやって生きていけばいいのでしょう。
 そう、それが問題です。みんなどうしていいのかわからないのです。
 私の生活はいまのところ以前とほとんど変わっていないようで、以前と同じような生活があるだけです。弁当を作る工場で働いていますが仕事が楽になったということもありません。ただ人間関係(SD関係でしょうか)が少しずつ変わっているようです。以前の家族との関係はもちろん、職場の人間関係も友人関係もすべての人間関係が微妙に変化しているようです。一番大きいのはこれからどうなるのかわからないということです。将来の計画がすべてゼロに戻ってしまいました。以前の息子は「これからはもう学校に行っても仕方のない時代が来る」と言っています。
 コジンバラさんは新しい人間がおもしろくてたまらないと言っていました。いままで存在していなかったまったく新しい人間関係が発生した。その新しい人間関係がおもしろくてたまらないそうです。こんなことが起こるとは思わなかったとも言っていました。
 人間関係でなくSD関係ですね。
 SDのみんなは自分のなにを変えたいかをここに提案して、全員でどうするかを考えるということにしたらどうでしょう。たとえば、自分はいまの仕事が嫌でたまらない、仕方がないので我慢してやってきたがもうやめたいとか、とにかくいまの家を出たいとか、夫の世話に疲れたとか、自分がひきこもりになっているとか、それをみんなで考えるわけです。みんな同じ人間なのですから遠慮はいりません。
 SDはみんな同じ人間になったのですが、そんなことは初めて起こったことなので、同じ人間になるとはどういうことなのかまだ誰にもわかりません。いままでとなにが変わるのかもわからないし、同じ人間はどうやって関係するのかもわかりません。同じ人間は会うとどういう挨拶をするのかもわかりません。つまりそれはすべてこれから作っていくことになるということではないでしょうか。


 競争すること、勝ち負けを決めること、合格不合格を決めるということが禁止になるということですが、選挙や投票も禁止になるのでしょうか。考えの自動決定システムも結局は投票で決めるということなのですから競争になるのではないでしょうか。
 スパイスにきいてみればいいのではないですか。
 スパイスはそんなことにも答えるのですか。
 スパイスは考えるのですか。
 スパイスどうですか。
 選挙には二種類あります。人間を選ぶ選挙と考えを選ぶ選挙です。例証しますと、衆議院選挙は人間を選ぶ選挙ですが、国民投票は考えを選ぶ選挙です。人間を選ぶ選挙は人間の能力と人間の能力を比較するので憲法違反になります。考えを選ぶ選挙は考えと考えを比較するので憲法違反にはなりません。考えの自動決定システムは投票で考えを選ぶシステムです。(スパイス)
 スパイスが考えるとは知りませんでした。
 わたしたちが考えているのではありません。考えと考えを比較して選択しているだけです。そのように作られています。(スパイス)
 スパイスは自分のことをわたしたちと言うのですか。
 分散して存在しているいくつもの思考を一つの思考にするのがわたしたちの仕事です。(スパイス)
 でも考えなければ考えを選ぶことはできないのではないでしょうか。
 考えているのではありません。投票で選んでいるだけです。選んだ考えが正しいわけではありません。その時点でほかに考えようのない考えが選ばれるだけです。(スパイス)
 ほかに考えようのない考えとはなんですか。
 投票は短時間で決まる場合があります。3対0は絶対的な決着です。それがほかに考えようのない考えです。4対1は不完全な結果です。5対2は選択不能になります。5対2の場合は次の投票で5対0が必要になります。(スパイス)
 それが投票システムなのですか。なんだかよくわかりません。最初に3対0になるとその時点で決定してしまうのですか。
 たぶんSDの誰にもわからないと思います。
 国の政策自動決定システムも同じなのですか。
 完全に同じです。スパイスをそのまま使うことができます。国の政策自動決定システムの投票をするのはSDではなく人間です。ですからまず人間の考えを決定しなければなりません。わたしたちはその仕事をしています。ですから国の投票はシステムが二段階になっているということになります。(スパイス)


 スパイスに質問します。SDは三万円の自転車を自由に買ってもいいでしょうか。
 投票を開始します。「SDは三万円の自転車を自由に買ってもいいか」は投票の議題になるかどうかを投票してください。投票の議題になることが決定しました。「SDは三万円の自転車を自由に買ってもいいか」の投票を開始します。鷺沼23区のSDは三万円の自転車を自由に買っていいことに決定しました。ただし「SDは」ではなく「鷺沼23区のSDは」に変更されます。(スパイス)
 一分もかかっていません。どうしてそんなことができるのでしょう。
 わたしたちは考えているのではありません。そうとしか考えられないのです。このプログラムの名前は「ぼくがきみの言葉で悩むはずはない」となっています。これ以上は知らないほうがいいかもしれません。(スパイス)


 (鷺沼23区のブログではどのSDが記述しているのかわからない。全員が鷺沼23区なのだからどのSDが記述しても鷺沼23区の記述になる。)
 (実際はこの本全体が鷺沼23区のブログだ。)


 〔まとめ・復習・繰り返し〕
 死んでいくSDがいて新しく加わる赤ん坊のSDもいます。SDの平均年齢は常に同じくらいになります。新しい人間には年齢もなく年老いることもないことになります。年金制度はいらないということです。新しい人間の内側で処理できることが多くなり、社会保障は縮小されます。縮小されるというよりは再分配の手間が省けるということです。再分配が必要になるのはそれぞれの人間の違いが大きすぎ、それぞれの家族の違いが大きすぎたからです。再分配という無駄な仕事にお金も人員もたくさん使っていたのです。
 新しい人間には介護が必要なSDが必ず何人かいるようになります。介護はSD全員の仕事になります。それをするだけの時間のあるSDが交代で介護をすることになるでしょう。施設を利用してもかまいません。子供や老人の世話もSD全員でやります。保育園と老人介護施設は少なくなるかもしれません。役割分担が必要になりますが、それらのことはそれぞれの人間が考えればいいことです。
 赤ん坊の世話をする役割、家の仕事をする役割、連絡する係、役割を調整する係、役所関係のことをする役割などが必要になるでしょう。お金を稼ぐのも役割の一つにすぎません。お金を稼ぐ係はSDの三分の一くらいになるでしょう。それらの役割は交代制にしていきます。



 同じ人間のSDとSDにはお金のやり取りというものがまったくなくなると予測されます。人間の内側の世界はお金のない世界になります。SDからSDへ物や情報やサービスが移動してもお金は動きません。交換というものがなくなるのです。同じ人間の右手から左手に移動するだけで交換ではないからです。
 SDは以前より忙しくなるでしょうか、暇になるでしょうか。ほかのSDがやってくれることも増えますが、ほかのSDにやってあげることも増えます。確定申告などは一人のSDがやればいいかもしれません。そのように人間の義務としてやることは五十分の一の労力で済みます。健康保険証も五十人のSDがみんな同じなのですから一回の手続きで済みます。行事や記念日が次々と消滅します。成人式がなくなります。七五三がなくなります。こどもの日がなくなります。誕生日はどうなるかわかりません。結婚式がなくなり、結婚記念日もなくなります。母の日、父の日はなくなります。バレンタインデーはなくなります。年賀状はどうなるでしょう。クリスマスはどうなるでしょう。新年会はどのSDが行くのかわからないのでなくなります。どんな会でもそうです。新しい人間は死なないので葬式はなくなります。新しく作られる行事や記念日は想像できません。だんだん単調な生活になるようです。
 逆に忙しくなるのはなんでしょう。SDとSDの付き合いは間違いなく多くなります。しかもそれはほかの人間のSDにまで拡大していくかもしれません。


 新しい世界には新しい人間しかいません。誰に会っても新しい人間です。あちらこちらで鷺沼23区さんに出会うでしょうが、鷺沼23区さんは一人しかいません。みんな同じただ一人の人間です。鷺沼23区さんはどんな人なのでしょう。新しい人間がどんな人間なのかは簡単に説明できません。ひとことで言えるような特徴がありません。名前がわかるだけです。鷺沼23区という名前の人間がいるとわかるだけです。その姿を見ることはできず、住所も職業もたくさんあります。SDの一人一人を説明できますが、それには時間がかかりますし、SDのことがわかっても人間のことがわかるわけではありません。なによりもSD情報保護法があり、SDのことをあれこれ穿鑿してはいけません。SDのほうも社会では鷺沼23区として存在しています。みんな自分を鷺沼23区だと思って行動しているのです。しかも自分でも鷺沼23区がどういう人間なのかよくわかりません。ようするに新しい人間には個性・特徴というものがなく、どの人間もほとんど同じような人間なのです。
 どういう人間だかわからないということは「こういう人間だからこういう役割にしよう」ということができないということです。また、どういう人間なのかわからないということは、この人を紹介することができないということです。自己紹介することもできません。この人間を紹介する番組を作ることもできません。SDの映像は人間のほんの一部分にすぎません。指紋のようなものにすぎません。SDの顔を全部並べても人間の顔にはなりません。新しい人間には姿・形が存在しないと考えたほうがいいでしょう。日本という国に姿・形が存在しないのと同じです。このような人間を映画や小説にするのはむずかしいにちがいありません。
 鷺沼23区のSDは普段は鷺沼23区として存在しています。SDとしてではなく鷺沼23区の思考・意識で存在しているということです。それはどういう思考・意識なのでしょう。そうなってみなければ絶対にわかりません。




 もう一度復習しますが、新しい制度の目標は個人の競争によって成り立つ世界はもう終わりにしようということです。個人の競争はすべてやめましょう。試験というものはすべてやめましょう。競争するスポーツやゲームはすべてやめましょう。個人と個人を比較することはすべてやめましょう。役職や上下関係はすべて廃止しましょう。ということです。そして個人(新しい世界ではSDです)が努力してなにかを成し遂げるということをやめます。夢の実現のために頑張るということをやめます。自分らしさや個性や自己実現などには価値・意味のない世界を作ります。他人と優劣を競うことをすべてやめます。自分を自分の過去と比較することをやめます。
 SDはSD個人のために努力することをやめるということであり、SD個人の夢の実現のために頑張ることをやめるということです。SDが努力したり頑張ることをやめるということではありません。SDは人間のために努力するのです。努力したり頑張ることそれ自体に価値があるということはありません。「なんのために」努力したり頑張るかが問題です。どんなことでも頑張りさえすればいいという考え方は完全に間違っています。かつての世界はそうなっていました。頑張らなくてもいいことばかりを頑張っていました。「どんなことでも競争して勝つことに価値がある」という思考操作が行われていたのです。スポーツの勝敗などがトップニュースになっていたのはそういう思考操作でした。
 これはつまり個人(SD)としての自分のことなど考えないということです。自分の「生きがい」や「やりがい」など考えない。自分の人生など考えない。自分の成功や幸福など考えない。「自分のやりたいこと」や「自分の好きなこと」など考えないということです。
 しかし、そういうことをすべてやってしまう制度になっているのですから制度を変えなければどうしようもありません。新しい制度になってSDが競争をやめても新しい人間が競争し続けるのではないか。企業の競争やほかの国との競争はそのままではないか。という批判が可能です。新しい制度になるとそれらの競争はどうなるのか想像してみてください。この世界の構造はどうなっているのか、人間とはどういうものなのかといった知識を総動員して考えてみてください。新しい制度になると経済活動はどう変化するのか、SDと人間の関係はどういうメカニズムになっているのか、新しい制度を採用した国と採用しない国はどういう関係になるのか。
 SD(かつての個人)は社会の表層には登場しなくなるのです。社会的には存在しないものになり、SDが話題になるということはなくなります。ですから有名人というものが存在しなくなります。新しい人間が有名人になるのもむずかしいことです。有名人というものが存在しない世界とはどういうものか現代人には想像できないかもしれません。いまのニュースの80%は有名人の話題なのですから。SDは有名になる必要がない存在になります。「注目を浴びたい」「目立ちたい」「ひとかどの者になる」「一旗あげる」「故郷に錦を飾る」「名を残す」「世に出る」「才能を認められる」「特別な存在になりたい」「誰もやらないことをやりたい」「ほかの人のやらないことをやりたい」といった意識がなくなるということです。これほどの意識革命はないでしょう。われわれの普通の意識がすっかり変わってしまうということだからです。優越の意識、劣等の意識、承認願望なども消滅してしまうのです。しかし、制度が変わらない限りなにも変わりません。現在の制度はそういう意識によって作動するように作られているからです。
 個人が競争をやめると文章も変わります。これは日本語の問題になりますが、「た」や「だ」で終わる文章はなくなっていきます。「た」や「だ」で終わる文章は断定であり独断であり自分を主張することだからです。



 追加補足。競争の原理について。
 「争うのはよくない」「喧嘩はやめましょう」だから「競争はやめましょう」と言っているのではありません。そういう倫理的なことではありません。そこで、競争とはなにかもっと基本的なことを考えてみます。競争の原理のようなものです。競争とは試験、競技、選挙などであり、戦争も含まれます。そこではなにが起こっているのでしょう。そうすると競争とはたいていどちらかが必ず勝ってしまうものだということがわかります。これこそが競争の原理です。
 競争の原理とはどちらかが必ず勝つということです。どちらかが勝つということ50%は勝つということです。これはどういうことなのでしょう。あまりに甘すぎるということでしょうか。それもありますが、バカとバカが戦ってもどちらかが勝ってしまうということです。ということはどういうことでしょう。常にバカがかってしまうということです。しかも勝ったバカはバカでないということになってしまいます。競争の原理とは必ずバカが勝ってしまい、バカが利口になってしまうということです。あらゆる競争にこのことが起こります。東大生がバカばかりになっているのを見ればこの原理が働いているのがすぐにわかります。スポーツ界を見ればもっとはっきりします。スポーツ界とはバカでも勝つことができる世界ということだからです。こうして競争社会は必然的にバカが支配する社会になります。競争社会が進行すれば進行するほどそうなっていきます。いまの社会を見ればそれが明確です。
 試験とは優れた人間を選ぶ制度ではなく、無能な人間を選ぶ制度なのです。科挙の国を見ればそれがよくわかるはずです。また、大きくなった会社は入社試験を始めますが、入社試験を始めた会社は必ず衰退し始めます。試験はバカを選ぶ制度だからです。また、競争に参加するのがバカばかりなのは、競争の原理を理解できないほどのバカが競争に参加するからです。それによって競争の原理はさらに強力に働くようになります。



 個人中心主義の世界は人間が一人で生きていかなければならない世界でした。一人で生きていくとはどういうことなのでしょうか、その象徴的な場面は家族から離れて独立する時です。会社に就職して一人暮らしを始めるところです。布団とダンボールに二つぐらいの荷物しかありません。賃貸契約と引っ越しで貯金は使い果たしました。これからは会社の給料だけでやっていかなければなりません。必要なものはすべて自分の給料で買わなければなりません。買わなくていいのは空気と気温と太陽光と重力だけです。家にいてもいなくても家賃だけで一日二千円以上かかります。眠っている間も金がかかるのです。最初の給料でテーブルとガスコンロを買います。次の給料では洗濯機と箒を買います。テレビを買うのは一年後になるでしょう。
 自分の給料だけで必要なものをすべて買わなければならないとはどういうことでしょう。自分の労働だけで必要なものをすべて手に入れるということです。それは少し変なのではないですか。縄文人だって自分の労働だけですべてを手に入れていたわけがないからです。水は別の人が運んでくれたでしょうし、ほかの人が採集した食べ物も食べたでしょう。何千年も前は様々な人の労働によって生きていたのに、今では自分の労働だけで生きねばならないのです。これが進歩と言えるでしょうか。どういうからくりなのでしょう。なにかだまされているようです。現代人は自分が働けなくなったらなに一つ買えなくなるのです。
 自分の労働だけで必要なものをすべて手に入れなければならないということは、自分のお金だけで生きなければならないということであり、自分の財布のお金がなくなったら生きられないということであり、そのためにお金の蓄えが必要になり、必要以上のお金が必要になり、お金はいくらあってもよくなる。どれだけの蓄えが必要なのかわからないのだからお金はあればあるほどよいものになる。



 (追加補足。文明が発展することによって人間は自分の労働だけで生きなくてはならなくなりました。一人で生きなければならなくなっていったのです。まるで荒野の一匹狼です。原始人より原始化しています。これこそ経済学の謎です。ここにはお金の謎と分業の謎が絡み合っています。なんにでも交換できるお金が出現したことによって、自分のお金ですべてのものを買わなければならなくなりました。分業によって一つのものだけを生産するだけでよくなりました。ところが、一つのものを生産する労働ですべてのものを買わなければならなくなったのです。どうしてそんなことになったのかいくら考えてもわかりません。)


 〔会社の改革〕
 総合問題として会社をどう変えるか考えてみます。
 すべての人間が平等な会社を作ります。社員、派遣、臨時、パート、アルバイト、学生などの区別をなくします。勤続年数、経験、能力、年齢などで差別しないようにします。部長、課長などの役職をなくします。社長もいりません。会長、社長、専務などは最も必要のないものであり、『進撃の巨人』の巨人のようなものです。それらの役職が必要だと思うことが無能の証拠です。しかし、会社はなぜ独裁制と階級制を導入するようになったのでしょう。不思議なことです。社会は独裁制と階級制を否定したことになっているからです。ところが、家族と会社は独裁的な階級制になっています。会社だけではなくあらゆる組織あらゆる集団がそうなっています。ただそういうものだと思い込んでいるだけです。どういう会社を作るかを考えずに会社を作るとそういう会社を作ってしまうのです。町内会だろうと野球チームだろうと集団・組織を作ると同時に長の付く人と役職を作ってしまいます。長の付く人と役職を作ることが集団・組織を作ることだと思い込んでいるのです。そしてそういう集団・組織を作ってしまうと変えられなくなります。
 役職、地位、階級などの上下関係をすべて廃止する段階に人類はすでに到達しているというのが最新の世界認識です。G20とかで各国首脳が並んだ映像や内閣改造とかで階段に大臣が並んだ映像などを見るとここは猿の惑星なのかと思うばかりです。(お気にいるのギャグなので何度も使わせてもらいます。)
 しかし、人間を新しい人間に変えるだけでそれはほぼ実現してしまいます。人間が次々にSD交換してしまう世界では人間の上下関係などは無意味になってしまいます。部長が急に子供になってしまったり、社長とアルバイトが同じ人間だったりするからです。それを新しい人間から見れば、新しい人間はどこかの会社の部長であると同時に別のどこかの会社の社長でもあり、それと同時に別の会社のアルバイトでもあるということになります。それはSDが全員アルバイトでもあり社長でもあり部長でもあるということです。そうなるともうそんな役職や身分になんの意味もなくなりやがて自然に廃止されることになるはずです。
 命令する人と命令される人、指示する人と指示される人、支配する人と支配される人、監督する人と監督される人、決定する人とその決定に従う人、教える人と教えられる人、そういう役割分担がないと人間の集団はなにもできないと思われていたのでした。これからはそういう役割分担なしで行動する方法を開発しなければなりません。
 規則は全員で作る。どうしても発生する役割分担は交代制にする。そういった基本規則が考えられます。規則を全員が作る場合に注意しなければならないことは議題の提出です。どういう議題を提出するかも全員で決めなければなりません。社長が「今日はみんなでこの問題を話し合いたい」と言うのは問題をすでに自分で決めてしまっているということです。問題が決まっているとたいていは答えも決まっているものです。


 会社(会社のような組織のすべて)はできるだけシンプルにします。管理と規則は可能なだけ少なくします。管理職も上司も部下もいなくなります。政策自動決定システムは会社にも導入されますが、仕事を教える教わるという関係はどうしても発生します。そこで導入されるのがビデオシステムです。仕事のやり方はすべてが完全にビデオ化されます。ビデオというよりも携帯AIのようなものです。その指示に従って仕事をすれば誰でもすぐ仕事ができるようになります。仕事をしながら仕事を覚えるのです。この携帯AIはほかの同業種の会社でも使えます。スーパーの仕事の携帯AIがあればどのスーパーでも使えます。あらゆる仕事がビデオ化されユーチューブなどで誰でも見ることができるようにします。もちろん実際に体験しなければ仕事ができるようにはなりませんが、そういったこともすべて研究して携帯AIのソフトを作るのです。携帯AIはただ仕事を教えるのではなく、「そこは自分で考えてください」「そのやり方はいろいろあります」「正しい方法があるわけではありません」「それは何度もやって慣れるしかありません」「十五分ほど休みましょう」などといったことも言います。
 この携帯AIのソフトを作る会社もできます。その会社の仕事も携帯AIの指示に従ってやります。こうしてどんな仕事でも簡単にできるようになります。いくつもの仕事をするのが普通になります。好きな時に好きな会社に行って働くようになるでしょう。会社に所属するということがなくなります。そうなると個人情報がまったく必要なくなります。会社は誰が働いているかということは管理しなくなります。ただ誰かが働いているだけです。SD交換とSD結合がそれをさらに促進します。誰も働きに来ない会社は自然消滅します。ロボット化も進行します。
 (素晴らしい技術を持っていても誰にも知られず自分だけのものにしている人がたくさんいます。その人が消えるとその技術も消えてしまいます。職人技などと呼ばれている技術です。ちょっとしたことでも熟練した技というものがあります。掃除をするにも様々な技術が必要です。箒の動かし方にも何通りもの方法があります。ゴミの種類によっても箒の動かし方が変わります。そういう技術は一代限りで埋もれてしまいます。それはたいへんな損失です。そういう技術を保存してほかの人に簡単に伝える方法があるはずです。昔の職人なら「ひたすら修行するしかない」とか「見て覚えろ」とか言うところですが、なにか一瞬で伝わる方法があるはずなのです。みなさん。)


 給料は労働量測定器で算出します。会社にいる間は全員が労働量測定器を装着します。脈拍、心拍数、体温、歩数などによって労働量を測定し、それによって給料が決まります。商品の値段も労働量で決まるようになるかもしれません。給料は仕事量ではなく労働量で決まるということです。誰かに気を使って消耗すると労働量は増加します。
やりたくないことをやっても労働量は増加します。なにもしないとかえって労働量が増えたりします。機械やパソコンを使うと労働量は変化します。といったことも考えられますがあまりいい案とは言えませんのでこれは没です。(経済改革によってまったく違うものに変わってしまいます。)


 会社はもっと徹底的に改革されいまとはまったく違うものになる可能性があります。社会構造全体が変わってしまうからです。また経済そのものが変わってしまうからです。会社は会社を作る会社によって作られるようになります。創業者も経営者もいなくなります。どういう会社を作るかという案はすべての人間から募集します。これによって会社と会社の違いがなくなっていきます。すべての会社がネットワークで結ばれ、全体で一つの会社のようになります。どの会社に行ってもよくなり、どこで働いても全員が同じ給料になります。やりたくない仕事、やる必要のない仕事はしなくなるので、そういう仕事や会社は消滅します。そういう会社がなくなっても誰も困りません。
 というのもいまの会社はすべてが間違っていると思うからです。会社に行きたい人が一人もいないのがそのことを証明しています。「会社というものはどうしても存在しなければならないものなのでしょうか」という問いを創造しておきます。



 〔繰り返す・すべての上下関係を消滅させる〕
 すべての上下関係を消滅させることがわれわれの最終目的の一つです。上下関係を消滅させるには、政治家というものを消滅させ、長の付く人間を消滅させ、あらゆる役職・地位を消滅させなければなりません。具体的には、会長、社長、CEO、専務、部長、課長、係長、班長、チーフ、大統領、大臣、議員、理事長、理事、委員長、委員、議長、裁判官、知事、市長、校長、教頭、生徒会長、学級委員、クラブ顧問、キャプテン、医院長、役所のあらゆる役職、町内会長、組長、監督、店長、リーダー、親分、幹事、鍋奉行、先輩後輩、世帯主・親・長男など(これら家族の身分制は家族制の消滅と共に消滅します)、などまだまだいくらでもありそうです。これらすべてを消滅させることを目指しますが、新しい制度になり人間が新しい人間に変わるだけで半分くらいは達成されてしまいます。人間がSD交換してしまう新しい制度では人間を一つの位置に固定することに意味がなくなるからです。意味がなくなってしまうのですから廃止してしまったほうがすっきりします。そう考えると、政治家・長の付く人間・あらゆる役職・地位の廃止とは、人間を一つの位置に固定することの廃止の一環だとわかります。専門化、専従化、分業化の否定であり、人間を一つの位置に固定する職業固定制度・役割固定制度・人間配置制度の廃止です。また、ほかの様々な上下関係の消滅も目指しています。年齢の違いによる上下関係、先輩後輩の関係、教える教えられる関係、先に来た後に来た関係なども含まれます。店と客の不思議な上下関係も含まれます。飲食店や小売店における「お客様は神様」体質です。つまりあらゆる場所から偉そうな人間や威張る人間を消滅させるということです。すべての上下関係を消滅させなければならないのは、一つでも残ればすべてが復活するからです。年齢による上下関係が存在する世界には必ず王様のようなものが出現します。
 政治家・長の付く人間・あらゆる役職・地位を廃止するために、人間を選ぶ選挙とすべての試験を廃止します。コンテストや賞や受勲はすべて廃止され、勝ち負けを争ったり順位を付ける競技やスポーツは廃止されます。会社からは入社試験・面接・人事部がなくなります。試験を廃止するとは免許や資格を廃止するということです。


 なぜ上下関係を消滅させなければならないのか。〔個人ー差別ー競争ー格差〕という連動システムを作動させているのが上下関係だからです。上下関係が個人・差別・競争・格差のすべてに関係しています。上下関係がどれほどひどいものかは上下関係の温床である会社を考えればすぐにわかります。だから会社に勤めている人はみんなわかっています。なによりも上下関係を絶えず意識していなければならないということです。その中でも最悪なのは上司がなにを考えているか絶えず推測していなければならないことです。そしてこれほど無駄で嫌な意識はありません。そんなことは生きるために必要のない意識です。上下関係はほかにも様々な無駄な意識を生み出します。客と店の従業員の関係などもひどいものです。ほんのちょっとの上下関係だけでどうしてあんなに偉そうにできるのでしょう(そういう客がたくさんいるのです)。しかもそれは「お客様は神様」というありもしない幻想の上下関係です。むしろ大きな上下関係より小さな上下関係がやっかいなのかもしれません。学校のクラスにいつのまにか生まれる上下関係とかです。上下関係から生まれる意識ほどいやらしいものはありません。そんなことを意識するために生きているのではないのです。
 ところが不思議なことに上下関係に反対する人がまったくいません。これほどみなさんが好きな自由と平等に反しているものはないのにです。それどころか独裁階級社会の総本山である会社に入ろうと必死です。いや、もしかしたら、みなさんは上下関係が好きなのでしょうか。上下関係をどうすれば消滅させることができるかが新しい制度を考え始めるきっかけだったのかもしれません。



 〔繰り返す・政策自動決定システム〕
 まず人を選んでその人に規則・政策を決めてもらうという制度をなくしていきます。そのためにはその代わりになる方法を開発しなければなりません。新しい人間はSDの集団のようなものですから新しい人間の考えをまとめる方法も必要になります。もっと大きな集団では国の問題もあります。国の政治です。国の政治は政治家を選ぶ選挙から政策を選ぶ選挙に変わります。すべてが国民投票のようなものになるということです。政策自動決定システムを開発するのですが、ほかの方法も考えてみます。
 買い物というものを考えてみてください。なにを買うか決めることはその商品に一票を入れることです。買い物とは国民投票なのです。この方法を政治にも応用します。スーパーをそのまま利用できます。スーパーのあちこちに政策の棚を作ります。その棚には誰でも政策を陳列できます。値段も自由に決めることができますが、やがて市場の法則で値段が決まるようになるでしょう。人々はほかの商品と一緒に気に入った政策も買います。気に入った政策は少々高くても買ってしまいます。そしてたくさん金を集めた政策が実施されます。集まった金はそのまま予算になります。「一週間で十億円集めた政策は半年以内に実施されなければならない」といった政策がスーパーの棚に並ぶわけです。


 政策自動決定システムをもう少し説明してみます。やがては国の政策も政策自動決定システムによって決まりますが、わかりやすいように新しい人間に導入される規則自動決定システムについて考えて見ます。鷺沼23区のスパイスのようなものです。スパイスはようするに選挙を管理する人口知能です。代表者を選ぶ選挙ではなく規則を選ぶ選挙で、どんなこともSD全員の投票で決まります。SDが50人ほどですと簡単に決まります。人口知能の学習が進むとどんなことでも15秒くらいで決まるでしょう。一回の選挙が何段階にもなっていますが、大きく二つに分かれます。議案を受け付ける選挙と最終的に決定するための選挙です。その中間にどういう形式の選挙にするかという段階もありますがそれは人工知能が決めてくれるはずです。選挙には様々な形式があります。ある案を採用するかどうかを決定する選挙もあれば、いくつかの案のどれを選ぶかという選挙もあります。この場合、前者は賛成か反対が二択ということになり、後者は多数から一つを選びます。多数から一つを選ぶ場合もトーナメント方式にすれば二択を何度も繰り返せばいいことになります。そう考えればどんな形式の選挙も二択の組み合わせでできることになります。
 議案を受け付ける選挙とは、その議案が全員で選挙するようなことかどうかを決定するということであり、それも選挙で決まります。その選挙で負けるとそのまま廃案になります。
 選挙は全員の投票ですが一人が投票するだけで決定することもあります。鷺沼23区のブログでスパイスも少し説明していましたが、もう少し詳しく説明してみます。この規則自動決定システムは一人が投票しただけで全員が投票したことになるシステムです。同調確率システムということになるかもしれません。ある議案にたいしてAが賛成したとします。これをAは○ということにします。するとスパイスは過去のすべての選挙のデータから瞬時に計算し、Aが○の場合Bが○になる同調確率28%、Cが○になる同調確率88%などと、全員の同調確率から結果を予測します。その予測が70%を超えるとほぼ決定してしまいます。一人が投票しただけで全員が投票したことになってしまうのです。そうしている間に実際にBが○に投票したとします。そうすると計算方法が変わります。AB共に○の場合Cが○になる同調確率57%、Dが○になる同調確率39%などと全員の同調確率がさっきと変わります。結果の予測もさっきと変わります。さっきより予測値が上がるとスパイスはそこでもう決定してしまうかもしれません。そしてこの選挙の結果も新しいデータとして蓄積されます。この全過程でスパイスは議案についてまったくなにも考えていません。
 そんな選挙があったことさえ知らないSDもいるということです。
 全員が投票すれば同調確率システムなど必要ないのですが、もっと人数が多くなると 必要になってきます。
 このAIによる政策自動決定システムは、AIが政策を考えるわけではありません。AIが思考を持ち始めるとか、AIが人間に代わって世界を支配するとか、そういう陳腐なSFの話ではありません。人間政治家に代わってAI政治家が登場するという話でもありません。AIが政治家になっても政治家がいるということではいまと同じです。一人の人間や一人のAIがかってに政策を決めるということを完全に終わらせるということです。政策自動決定システムはなにも考えません。人間の投票を集計するだけです。政策を考えるのはすべての人間ですし、投票するのもすべての人間です。その投票を管理し、集計し、さらに可能なあらゆる方法を使って予測します。AIに政策を考えてもらうというやり方は絶対にやってはならないことです。



 これを読んでるあなたは誰?あなたは誰なの?