0704~0708
2026年7月4日 土曜日
朝布団にくるまれて戦争について考えた。
戦争は個人と個人の戦いではなく、集団と集団の戦いだ。個人と個人の戦い方が様々であるように、集団と集団の戦い方も様々だ。(ここでは戦い方は問題にしない。)
集団と集団の戦いといってもある程度大きな集団でなければならない。どの程度の大きさでなければならないか。会社や学校より大きな集団だ。町内会ではまだ小さすぎるかもしれない。でも戦争は地域と地域の戦いで、ある地域集団とある地域集団の戦いだ。その地域の人間が全員戦争に参加する。あるいは巻き込まれる。
同じ大きさの地域集団が戦うのではない。大きな地域集団が小さな地域集団と戦うこともある。
地域集団がどの程度の大きさでなければならないのかはまだわからない。
この地域集団が国あるいは国のようなものだ。戦争とは国と国の戦いだ。国のようなものと国のようなものの戦いだ。
国はなぜ戦争をするのか。というより戦争をすることができるようになったのが国だ。国が戦争をするのは国が欠陥商品だからだ。しかし、人間は国という欠陥商品をどうしても作ってしまう。それはたぶん人間が欠陥商品だからだ。
人間は必ず集団を作ってしまう。様々な集団を作る。人間が作る集団の中でいまのところ最も大きいのが国だ。そして国が存在する限り国より大きな集団を作ることはできない。というより、それより大きな集団を作れない限界が国だ。
集団には規則が必要だ。個人に規則が必要なようにどんな集団にも規則が必要だ。二人カップルにも規則が必要だ。個人にも規則が必要だ。人間は規則がなければ行動できないのだ。小便をするだけでもいくつもの規則がある。国にも規則がある。たぶん、あまり大きな集団だと規則を作ることができなくなってしまうのだろう。集団に規則を作ることができる集団の大きさの限界が国だということになる。これはまだ仮説だ。(歴史上には国より大きくなりすぎた集団があるが、とても集団とはいえないようなものだった。)
国はなぜ欠陥商品なのか。簡単に言えば、全体の一部分を切り取ってそれを全体にしようとするからだ。人間の腕を切り取ってその腕を一人の人間にしようとするようなものだ。そんなことは不可能なので、腕はほかの部分と合体して元の人間に戻ろうとする。戦争とは一部分にすぎないものが全体になろうとする運動だ。
スポーツを見ることほど時間を簡単に消費する方法はない。二時間や三時間は簡単に過ぎ去る。しかもあまり考えなくてもいい。というよりほとんどなにも考えなくてもいい。サッカーと野球と相撲を同時に見ることができる。あなたのいらない時間簡単に消せます。
ほとんどの人は一般常識の範囲内であれこれ考えているだけだ。一般常識の中にも可動域がある。
ホームセンターに行くと膨大な商品がある。99、999%の商品は一生買うことがない。誰がそんなものを買うのかと思うが買う人がいるにちがいない。金があればなんでも買ってしまう。いらないものをわざわざ選んで買ったりもする。
商品の森。ホームセンターやスーパーやショッピングセンターなどを商品の森と命名する。「商品の森を散策する」といったふうに使うことができる。森を散策するのとどこか似ている。と考えると新しい考えが出現する。商品とは人間が作り出した新しい生物なのだ。そう考えてしまうと、その考えからさらにいろいろなことがわかる。生物とは地球が作り出した商品なのだ。あまりにも突飛なので自分でも理解できない。でもそこに秘密が隠されていることはわかる。
地球は生物という商品を作り出した。商品は自分たちで経済活動を開始した。商品交換や商品売買だ。生物の活動はすべて経済活動なのだ。食べることは商品を買うことであり、食べられることは商品を売ることだ。食べて元気になることは利潤の発生だ。
確かに人間が経済活動をするなら、すべての生物が経済活動をしていてもおかしくない。むしろしていなければならない。していないほうが変だ。そういう観点から考えれば、子供を作るとはどういうことなのか。財産ができるということなのか、資本が生まれるということなのか。あるいは剰余価値の発生か。カメムシだって労働もするし消費もする。貯蓄もするし交換もする。金持ちにもなるし貧乏にもなる。破産もするし相続もする。貿易もするしグローバーリズムにも乗り出す。投資もするし破産もする。人間世界にも進出して戦死する。
荷物を配達している人を見ると暮らしていけるだけの給料を貰えているのか心配になる。一個の配達料金はいくらなのか、そのうちいくら貰えるのか、一時間に何個配達できるのか、そんなことが気になる。
最近は若い女性の配達員が増えている。金髪や茶髪が多いのは不良ぽく見せるためだという説もある。女性にとって配達はけっこう危険な仕事だからだ。
2026年7月5日 日曜日
夜じゅう今日は月曜だと思い込んでいた。そういうことが五年に一回くらいある。どうしてそうなるのかわからない。土曜を長く感じたせいかもしれない。
変なことはいろいろある。焼けた肌を黒いと言うのはなぜなのか。ぜんぜん黒くはないからだ。焼けた肌は何色なのかよく見てみる。すると何色なのかわからない。名前のない色なのだ。茶色のようでもあるが違う。だいだい色のようでもあるが違う。朱色のようでもあるが違う。つまり何色なのかわからないので黒とでも言うしかなくなったのだ。
そえば小麦色とも言う。それが一番いいかもしれない。しかし、小麦色とは枯れ葉・枯れ草の色ではないか。
そういうことがたくさんあるにちがいない。そうじゃなにのにそういうことになっていることだ。ただの人間なのに天皇ということになっている。
トリーチャーコリンズ症候群という生まれつきの病気があることを知った。遺伝子の異常によるらしい。顔の骨がうまく形成されず顔が様々に変形する。こういう人がどうやって生きているか気になる。
ホームセンターなどに売っている植物はあまり自然に繁殖しないのではないか。パンジーやローズマリーが自然に繁殖しているのは見たことがない。繁殖しないようにしているにちがいない。繁殖すると売れなくなるからだ。種もできず枯れてそのまま消滅する。来年また買うしかない。
自分だけでも実にいろいろなことが起こる。なにもしないのにそれでもいろいろなことが起こる。ほかの人もそうだと思う。それをすべてネットに発信したらどうなるのか。
でもそんなことを発信する人はいない。ほかの人のブログなどを見ると発信することを一定のことに限定している。普通の人の趣味や興味まで専門化している。
なにもしないからいろいろなことが起こるのかもしれない。たとえば本を読むとほとんど本だけの経験になってしまう。映画を見ると映画だけの経験になってしまう。本や映画はすでに発信されているので発信する必要がない。そう考えると本や映画は実は貧しい経験なのではないか。豊かな経験を犠牲にして本を読んだりするのではないか。本を読んで有意義なことをしたとか豊かな時間を過ごしたとか思うのは思い込みかもしれない。一般常識による洗脳だ。
内田樹くらいの思想家でも社会を少しも変えることができない。ほかの思想家も同じようなものだ。社会を変えているのは裏の方でうごめいている怪しい思想家の方だ。社会を変えるといっても同じ社会を維持するためになにかを変えているだけだが。多くのまともな思想家はみんなもうあきらめているように感じられる。本を読むとそれがわかる。迫力というものがまったくないからだ。本を出して少し名前が知られることしか目指していない。この世界になんの痕跡も残さずやがて消滅する本など出してどうするつもりなのか。
養老孟司などは四十年前から同じことを延々と繰り返しているだけだ。言ってもしょうがないようなことを偉そうに言うのが哀れだ。それでなにかが変わるとでも思っているのか。
ブラームスの弦楽六重奏曲第一番の第二楽章がすごい。
2026年7月6日 月曜日
美輪明宏がどこかで違う選択をしていたら大川隆法のようになっていたかもしれない。大川隆法がどこかで違う選択をしていたら美輪明宏のようになっていたかもしれない。
社会が変わっても変わらないものがある。
時代が変わっても変わらないものがある。
国が変わっても変わらないものがある。
なにが変わってなにが変わらないのか。
そういうことは誰でも考えるのではないか。「政治家が変わってもなにも変わらないよ」と言う人が多いのだから。そこにはなにが変わっても変わらないものがたいせつだという考えが背後にあるようだ。しかし、変わるものと変わらないものを分けるのはかなりむずかしい。
なにがどう変わろうとしなければならないことがある。
食べなければならないことは変わらないが食べ物をどう手に入れるかは変わる。食べ物の値段も変わる。値段が変わっても商品は同じままだ。
暖房が必要ということは変わらないが、薪が石炭に変わり、石炭が灯油に変わり、灯油がエアコンに変わった。
こういった思考はとても基本的なものだ。しかし、変わることを重視する人と変わらないことを重視する人がいる。これは保守と革新といったこととは別のことだ。
変えることができるのに変わることができないと思っている。そういう場合も多い。社会が停滞するとそう思う人が増えてくる。
簡単に変えることができるものを優先的に変えるということも起こる。ものの値段などはそういうものだ。ものの値段をいくらでも変えることができる経済制度なのだ。なにも変えることができなくなるとそういうものを変えようとする。テレビを見ているとわかる。変わるものはすべて簡単に変えることができるものばかりだ。
文章や言説で違和感を感じるのは、よくわからない言葉を多用する人だ。よくわからない言葉を使った文章を読んでもよくわからない。よくわからない言葉とはたくさんのことをまとめてレッテルを貼ったような言葉だ。
その代表的な例は固有名だ。人名とか企業名とか国名とかだ。固有名を出されてもそれについて知らなければなにもわからない。それを知るだけでも別の何冊もの本を読む必要がある。もうすでにみんなそれについて知っていることを前提にしているらしいが、それを知らない人にはまったく理解できない文章になる。聴いたこともない人名を出されても思考に空白が広がるばかりだ。
固有名のほかに、キャッチフレーズのような言葉、見出しのような言葉、名札のような言葉がある。実にいろいろなことを一つにまとめて名前を付けたような言葉だ。「民主主義」とか「テクノ封建制」とか「ポピュリズム」といった言葉だ。どうしても使わなければならないこともあるが、できるだけ使わないほうがいいと思う。そういう言葉はよくわからない言葉であり、使う人によっても意味が違う。人を煙に巻く言葉だ。そういう言葉を使わないで思考する人しか信頼できない。
ところがそういう言葉を使わなければ思考できない人がいるらしい。そういう人の本は少し読めばそういう人だとわかる。その時点で読むのをやめたほうがいい。
小学高低学年で人間はほぼ完成されているのではないか。この子は将来どんな大人になるかすぐわかってしまうのだから。こんな大人になるというイメージがすぐ浮かぶ。
朝、ホームの後ろで電車を待っている人を見ていた。これらの人間はなんなのかと思った。無意味な人間が無意味に存在しているだけだ。完全な無だ。生まれてしまったので存在しているだけだ。
無でしかない人間に社会は意味を与えすぎる。「犯罪者」というのも一つの明確な意味だ。「犯罪者」という意味を与えられるととにかく意味のある人間にはなったということだ。「ひきこもり」「認知症」「後期高齢者」「ホームレス」など社会は人間に様々な意味を授与する。
犯罪に対する刑罰に様々な違いを作るのは人間の平等に反している。犯罪者は全員死刑にするといったふうにするのが平等ではないか。裁判では犯罪の犯罪度を測定しようとしているのだが、そのやり取りを見るとバカだとしか思えない。バカというよりお笑いに近い。酒を飲んでいたから罪は軽いとか、親が離婚したから死刑にはできないとか、様々な方法で罪の重さを測定しようとしている。そもそも罪の重さなど測定できるのか。犬を殺すのと猫を殺すのとどちらの方が罪が重いのか。
2026年7月7日 火曜日
経済などを勉強して交換価値や使用価値が現実に存在すると思ったら間違えだ。それらも幻想であり、人間はそういう価値が存在することにして行動しているだけだ。意味とか価値とか目的とかはすべて幻想であり、人間はそういう幻想を作り出して行動しているだけだ。このことは絶対にわかったほうがいい。しかし、このことを言う人はほとんどいない。般若心経などはこのことを言っているのにそれを読み取ることができない。逆にすごい意味のあるお経だと思ってしまう。
ほとんどの人は意味が現実に存在すると思っている。だから意味を求めすぎる。自分には意味が見つからないだけだと思っている。宗教はすべて意味を作り出してそれを現実だと信じることだ。政治家などはみんな自分の行動に意味があると思っている人ばかりだ。
意味を求めすぎるのは人間の病だ。その治療法は、意味や価値や目的はすべて幻想だとわかることしかない。そういう幻想がなければ生きられないので作り出している幻想だとわかっていなければならない。無意味な人生に意味があることにして生きる。これは意外にむずかしいことかもしれない。否定しつつ肯定し、肯定しつつ否定することだからだ。つまり肯定と否定の間で振動し続ける運動が生きるということだ。ということも幻想だということだ。ということもまた。
でも日本人はこのことがわかるはずだ。日本文化の根底にあるのはこのことなのだから。すべては無意味、完全な無意味、生きていることはすでに死んでいることだ。これはもうすでに死なのだ。存在しているものはすべて無。実際はなにも存在していない。
この記述もすべて無意味だ。
人間はどうして意味や価値や目的を作り出してしまうのか。一年に一度はおさらいをしたほうがいい(というのも幻想の価値だ)。意味も価値も目的も同じようなものだ。人間が意味や価値や目的を作り出してしまうのは、そういうものがないと行動できないからだ。どうしてそういうものがないと行動できないのか。まずなにをするか考えてからでなければ行動できないからだ。そうなったのはそうなってしまったからだ。
食べるという行動だけでも、まず食べようと考えなければならない。次になにを食べるか考えなければならない。ほかにも考えなけれなならないことがたくさんある。料理の仕方とか食器の選択とかだ。あれこれ考えてカレーを食べることにしたということはカレーに価値を与えたからだ。その時点では間違いなくカレーに価値を与えている。そう思っていなくてもそうだ。次にはどんなカレーを食べるか考えなければならない。レトルトのボンカレーに決めるにはレトルトのボンカレーに価値を与えなければならない。ほかにも様々な意味や価値や目的が作動している。食べるということに意味を与えているし、食べることを目的に行動している。食べることに意味を与えるには生きることに意味を与えなければならない。意味は次の意味へと連鎖していくのだ。
小便をするのにさえまず小便をしようと考えなければならない。トイレに行こうと考えなければトイレに行くことはできない。トイレのドアを開けよう、便器の蓋を上げよう、パンツを降ろそう。そういう行動はかなり無意識化している。肉体のどの部分にどんな力を込めて小便を放出するかはほぼ無意識化している。でも意識しなければできない。腎臓で小便を絞り出すのは完全に無意識だ。
このように意味や価値や目的はそういうものがなければ行動できないので作られる幻想なのだ。だから、その場限りのものもあるし、臨時で作られるものもある。作っては捨て作っては捨てる使い捨て意味もあるし、一回限りの臨時の価値もある。意味や価値や目的は幻想なのですぐ消えてしまう。毎日神に祈らなければならないのはすぐ消えてしまうからだ。すぐ消えてしまう幻想だから。
2026年7月8日 水曜日
ほかの人がなにを考えているかわからない。ほかの人の思考・意識がどうなっているのかわからない。ほかの人の内面状況がわからない。刻々となにかを意識しているはずなのにそれがわからない。膨大な情報があるのにそういうことがぜんぜんわからない。文学など嘘だと思う。人間の内面はあんなものではないと思う。小説がその内面をまだ一度も記述したことがないタイプの人がたくさんいる。狂っているとしか思えない人間やそれに近いタイプがたくさんいるのに、そういう人の内面(刻々の思考・意識)を記述した小説はない。言葉を拒絶したような意識は記述できない。いくら裁判をやっても被告人の内面状況がわかったためしがない。
言葉では記述不能の内面というものがたくさんあるはずだ。というより、すべての人がそうなのだ。人間の内面世界は言葉、映像、動画、音、記憶、その他の全感覚で作られている。そんなものを再現することなどできない。
ほかの人の内面世界は私とはぜんぜん違うかもしれない。いつもそう思う。ほかの人もそう思うだろう。いや、そんなことを思うのは私だけかもしれない。
他人のことがわからないということがこの世界を動かしているのかもしれない。他人のことがわからないので起こることがたくさんある。選挙などは常によくわからない人に投票するしかない。トランプーチンの内面世界がどうなっているかなど誰にもわからない。本人にもわからないにちがいない。トランプチンのチンプンカンプチンだ。
間違った考えがたくさんある。われわれは間違った考えに包囲されている。病原菌やウィルスに包囲されているようなものだ。テレビやネットや本にも間違った考えが大量に存在している。間違った考えに感染している人がたくさんいる。誰でも千個くらいの間違った考えに感染している。それでもなんとかやっている。防衛機能や免疫機能もあるに違いない。周囲に間違った考えがたくさん存在するのは、人間がそれを排出したからではないか。人間がそれを拒絶するからではないか。人間が排出した病原菌や人間が拒絶したウィルスが集まる場所がメディアかもしれない。
毎日生き方に失敗する。そんなことがあるのか。ある。
本を読めばなにか新しいことがわかると思っていた。でももうそんな幻想はなくなった。本を読むより、自分だけで考えていた方が新しい発見が多い。そのために、なにもしない人間になりつつある。ただそこにいてなにかを考えようとしている。考えているのではなく考えようとしている。
反抗的人間。自分の遺伝子に反抗して生きる。
正方形を90度傾けると三角形になる。
定説にすぎないものを真実であるかのように語るのは間違っている。NHKの歴史ものはみんなそうだ。歴史などはなにが真実なのかわからないものだ。真実とわかることなど一つもない。それをあたかも真実であるかのように語っている。根本の考え方が間違っているのだ。
「原爆などほんとうはなかったのかもしれない」という話しを聴いた人が「原爆はほんとうは存在しなかった」と語りだす。「かもしれない」が「そうだ」という断定に変化するのだ。そういうことがたくさんある。仮説がどうやって断定に変化するのか。様々な場合が考えられるが、自分で調べない人がそうする。自分で調べれば真実ではないとわかるはずだ。話を面白くするために断定に変えるということもある。ようするに、無知な人間が仮説を真実にすり替える。陰謀論などはすべて誰かが言った与太話を真実に変換している。
資本主義はほんとうは資本主義ではない。資本主義といわれる経済の基本にあるのは、個人が別の個人を奴隷として使っていいということだ。いまの経済制度は個人が別の個人を奴隷として使っていいという経済制度だ。だから至る所に上下関係が発生する。上下関係とは奴隷制の基本形なのだ。
不審車などと言うが車はすべて不審車だ。どんな人が乗っているかわからないからだ。不審車を見たら通報せよというが、すべての車を通報しなければならない。
同様にすべての家は不審な家だが、誰が住んでいるかわかると不審ではなくなる。
平凡な顔とはどんな顔なのか。
品があるとはどういうことなのか。言語化するのはむずかしいが、品があるか品がないかは一瞬でわかる。品があるとは自分を完全に制御できているということではないか。完全はあり得ないからある程度完全にということだ。これは美人とはまったく別のことだ。美人でも品のない人はたくさんいるし、美人でなくても品のある人がいる。
姿勢もたいせつだ。バスや電車での座り方を見ただけで品がわかる。
人間の行動は機械を作るように作られる。設計図があり様々な部品を集めて組み立てられる。完成した行動機械はスイッチを押すと自動的に行動が始まり、自動的に行動が進行する。機械化されるのは生産の分野だけではないということだ。人間の行動や思考も機械化される。通勤通学などは完全に機械化されている。作動する時間も決まっているので同じ場所で同じ人とすれ違う。
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