新時代

  新時代


 題名の候補はほかにもあります。『新しい世界の構想』『新しい人間とSD』『新世界』などです。どれでもかまいません。
 これはまったく新しい世界を構想する試みです。誰も想像したことのないような世界です。政治、経済、会社、学校、結婚・家族制度、法律、すべてが変わってしまいますが、最も変わるのは人間そのものです。
 想定する読者は小学生のみなさんです。
 中田ヤスタカの歌詞(Perfumeの曲)をたくさん引用しています。知らずに引用している日本語の文章はもっとたくさんあります。
 このテキストを文学作品として読むこともできます。近未来小説あるいはSFのようなものです。
 全部で1.28MBくらいあります。本にすると300ページくらいになるかもしれません。まだ完成していません。至る所工事中です。作者は鷺沼23区ということになります。


 〔なにを変えるのか〕
 これは現在の世界とはまったく違う世界を作る試みです。基本的な構造を変えてしまうのでまったく新しい世界に変わります。最大の変化は個人の消滅です。現在の世界の個人というものが消滅してしまいます。個人が消滅すると個人に関するものがすべて消滅し、個人を考えるような思考がすべて消滅します。個人に関する規則や法律がすべて消滅します。
 個人が消滅するとは、一つの肉体(一つの人体)を一人の人間と考える考え方をやめるということです。一つの肉体を一人の人間とするのは絶対的なことではなく、一つの考え方にすぎないとみなします。ただ単に理由もなくそう思い込んでいただけだとみなします。一つの肉体を一人の人間だとするのはそういう制度にしていただけなのです。さらに、一つの肉体を一人の人間としその一人の人間を人間の基本単位と考える考え方を廃止します。これらのことはあとでもっと詳しく説明します。
 一つの肉体を一人の人間だとするのはそう思い込んでいただけですが、ほかにも様々な思い込みがあります。新しい制度によって変更される基本的な思い込みを書き出してみます。
1、一つの肉体が一人の人間だという思い込み。
1、その一人の人間が人間の基本単位だという思い込み。
1、生きることには価値があるという思い込み。
1、家族(夫婦・親子など)が存在するのは当然だという思い込み。
1、自分の子供が自分の子供だという思い込み。
1、その自分の子供を自分が育てるという思い込み。
1、財布を個人別にするという思い込み。
1、女か男のどちらかでなければならないという思い込み。
1、自分のお金は自分が稼ぐという思い込み。
1、自分に必要なものは自分のお金で買うという思い込み。
1、一人の人間が一つの仕事をするという思い込み。
1、会社というものが存在するのは当然だという思い込み。
1、学校というものが存在するのは当然だという思い込み。
1、同じタイプの人を集めて集団を作るという思い込み。
1、集団には必ず長の付く人(代表者)がいなければならないという思い込み。
1、政治家がいなければ政治ができないという思い込み。
1、人間が土地を所有できるという思い込み。
1、物に値段があるという思い込み。
1、自分の思考が自分のものだという思い込み。
 ほかにも様々な思い込みがありますが、ほとんどの思い込みはこれらの基本的な思い込みから派生しています。まだ誰も気がついていない思い込みもあるでしょうが、これらの思い込みを基本にして人間社会のすべての制度が作られています。たとえば人間はどんな集団にも必ず長の付く代表者のような人を作ってしまいます。大統領・首相・市長・社長・会長・店長・校長・院長・生徒会長・班長・監督・世帯主・リーダー・親分・族長などです。どうしてそんなものを作ってしまうのでしょう。そういうものだと思い込んでいるからです。どうしてそんなものが必要なのか少しも考えもせず、そういうものだと思い込んでいるだけです。
 信じることは信じていることを意識できるようですが、思い込むことは思い込んでいることを意識できません。信じるということはすでに疑っているということですから、信じるとは信じられないものを信じるということであり、信じることにするということです。思い込んでいることには疑いのきざしさえありません。人間は思い込みの集合のようなものですからすべての思い込みを克服することはできません。思い込みから自由になることを自由だとするなら完全な自由は不可能です。


 〔個人の消滅〕
 これらの思い込みをすべて変更し新しい社会制度を作るのですが、まず一番目に取り掛かるのは個人の消滅です。個人が消滅するだけで現在の社会制度は大きく変わってしまいますので、それがすべてだと言ってもいいほどです。個人を消滅させるとは、一つの肉体を一人の人間としてその一人の人間を人間の基本単位とするという考え方を変えるということです。個人の消滅だけで現在の諸問題がほとんど解決してしまいます。解決すると言うよりも問題が消滅してしまいます。現在の諸問題のほとんどは個人が違いすぎるということと、個人が競争するということから起こっています。個人の肉体や能力があまりに違いすぎるし、健康や病気の度合いも違っているし、家族や生まれつきも違いすぎるし、経済格差もあまりに違いすぎます。ほとんどの問題は個人というものが存在するから起こっているのです。差別や格差は個人の違いなのですから個人がいなくなると問題自体が消滅してしまいます。いじめは個人をいじめるのですから個人がいなくなると消滅します。個人がいなくなると個人を比較することがなくなり、個人の競争がすべて消滅します。個人が消滅すると競争社会が終わり、個人がかかわるあらゆることが次々と連鎖的に変わってしまいます。たったそれだけのことでこの世界がどう変わるのかこれからお見せします。


 一つの肉体が一人の人間であることを廃止します。そんなことは誰も考えたことがないでしょうからこれを理解するのはとてもむずかしいことです。一つの肉体が一人の人間であることはあまりにもあたりまえすぎて、ほとんどの人はそんなことが思考の対象になるとさえ思っていなかったはずです。これを理解するには脳を別の脳に入れ換えるくらいの思考の大変換が必要になります。
 どうやって個人を消滅させるか。それが問題です。新しい世界の構想はそれに尽きると言ってもいいでしょう。これからどうやって個人を消滅させるかを説明していきます。同時に実際にそれを実現する方法も説明します。この世界を個人のいない世界に作り変える具体的な方法です。次に個人のいなくなった世界がどんな世界になるかを説明します。これらは架空の話ではなく現実に起こすことができることです。
 個人を消滅させる方法を考えた人はまだいないはずです。どんな思想家や哲学者も個人というものは未来永劫続くものだと思っていました。個人を消滅させることなどこれっぽっちも考えなかったのですから、個人を消滅させる方法など考えもしませんでした。考え始める端緒に着いたこともないのです。ですからそこは完全な空白でした。考えれば簡単に思いついたかもしれないのに考えなかったのです。
 個人を消滅させることなどできるわけがないと誰もが思うはずです。個人をすべて殺すわけではないのですから、個人が存在したまま個人が消滅することになります。消滅しないけど消滅するのです。そんな手品のようなことができるのでしょうか。簡単に言えば人間と個人が分離して人間と個人は別のものになるのです。別の言い方では個人は残るけれども制度上は消滅するのです。


 〔新しい人間とSD〕
 どうやって個人を消滅させるのか。あれこれ考えてみましたが個人を消滅させる方法はたった一つしかありません。まずすべての人間を五十人ほどのグループに分けます。そしてこのグループを一人の人間にするのです。
 この改革を日本だけでする場合を考えてみます。まずすべての人間の情報を集めます。どんな情報を集めるかが問題になります。名前、住所、年齢、性別、職業、学校、年収、資産などが考えられます。それほど厳密にする必要はありません。ある程度の適当さも必要です。しかし年齢はばらけることが必要ですし、性別は半々になるほうがいいでしょう。そうすると十代以下の男女二人ずつ、十代の男女二人ずつ、二十代の男女二人ずつ、同様に各年代の男女二人ずつといったふうになるはずです。そうすると全部で四十人くらいになります。まだ何人のグループに分けるかは決まっていません。すべてのグループを同じ人数にしなくてもいいでしょう。職業はできるだけばらばらにします。住所は近くても遠くてもいいでしょう。外国に住んでいる人はどうするかとか、新生児はどうするかという問題も発生しますがあとで考えます。年収の合計と資産の合計は各グループが同じくらいになるようにしたほうがいいかもしれません。家族は必ずばらばらになります。
 このグループ分けはそれほど厳密にする必要はありません。年齢をばらけること、性別を半々にすること、職業をばらばらにすること、年収の合計を同じくらいにすること、家族をばらばらにすること、それくらいのことでいいようです。ほかのことは偶然におまかせするということです。誰がグループ分けをするのかということが問題になりますが、AIを活用することになるでしょう。
 グループ分けが完了すると、同じグループになった人間の一覧表がすべての人間に配送されます。それぞれのグループには番号が付いています。そしてある時、これらのグループが一人の人間になったと宣言されます。その宣言と同時に、グループの全員が同じ名前になり、全員の財布が一つになり、すべての物が共有になり、全員が同じ人間になります。名前は最初は送付状の番号ですが、あとから適当な名前を付けることができます。いままでのような苗字と個人名の二段方式の名前ではなくなります。会社や商品や音楽グループのような名前になります。「PP48」とか「網走車輪」とかでもいいし、「あいにょん」とか「ひげ無しムズムズ」といった名前でもいいのです。財布が一つになるとは全員の銀行口座が同じになるということです。全員の給料が同じ口座に入り、全員がその口座からお金を引き出して生活するのです。全員が同じ番号のキャッシュカードを持つということです。すべての物が共有になるとは、たとえばすべての家が全員のものになりどこに住んでもいいということです。洗濯機が一つあれば全員がそれを使えます。これらのことはグループが新しい一人の人間になったと宣言されると同時に起こることです。
 グループが新しい人間になったのですから、かつての人間はもう人間ではありません。別の呼び方が必要になります。かつての人間はいままで存在しなかったような存在になるのですからまったく新しい言葉を作ったほうがいいでしょう。というわけでかつての人間はSDと呼ばれるようになります。新しい人間がかつての人間のようになり、かつての人間がSDと呼ばれるようになります。新しい人間はSDの複合体ということになります。このようにして個人が消滅します。新しい人間が新しい個人ということになるのですが、新しい人間はとても個人と呼べるようなものではなく複合人間のようなものなのですから、新しい人間を個人と呼ぶのはやめます。だから個人というものは消滅します。
 グループ分けが完了するとSD情報は封印されます。(消滅するのではありません。)
こうしていままでの人間はすべて消滅して新しい人間に変わります。いままでの人間はすべて新しい人間に変わるということです。このことを理解することはとてもむずかしいことですがだんだんわかってきます。たとえば会社などでは全員が新しい人間に変わります。全員の名前が新しくなり、給料の振込み先が変わります。最初はそのくらいしか変わらないとも言えます。
 かつての人間が新しい人間に変わるとは、法律や規則の文面の人間が新しい人間に変わるということです。法律や規則が変わらなくても人間が変わってしまうということです。憲法も同様に、憲法を少しも変えることなく憲法に規定される人間が新しい人間に変わります。人間、国民、人民、何人、個人などと呼ばれるものがすべて新しい人間に変わります。
 憲法は人間とはなにかを定義していません。人間の権利や人間の自由などについては記述されていますが、その人間とはなにかについてはまったく定義していないのです。ですからその人間を新しい人間に変えることが可能になります。人間を新しい人間に変えれば憲法の人間も新しい人間に変わってしまいます。つまり憲法を一行も変えずに憲法はすっかり変わってしまったことになります。
 (注意点。憲法の記述に登場する「個人」も新しい人間に変わりますが、新しい人間を個人と呼ぶことは混乱を招きます。新しい人間は個人とは呼べないようなものだからです。「個人」という言葉は別の言葉に変えたほうがいいでしょう。これは日本語だけの問題かもしれません。)
 このように、新しい制度の開始が宣言されると同時にすべての人間が新しい人間に変わります。学校では生徒も先生も校長も新しい人間に変わります。契約書の甲や乙が新しい人間に変わります。憲法の人間が新しい人間に変わり、新しい人間が選挙権と被選挙権と納税の義務を持つようになります。被告や原告や弁護士が新しい人間に変わります。国会議員や総理大臣が新しい人間に変わります。「お一人様三個まで」の「お一人様」が新しい人間に変わります。「百名様御招待」の「名」が新しい人間に変わります。電車やバスに乗るのは新しい人間になります。テレビの出演者がすべて新しい人間に変わります。俳優やスポーツ選手がすべて新しい人間に変わります。かつての人間であるSDは社会の表面に登場しなくなります。(この制度を批判する人も新しい人間に変わります。)
 メディアは人間を取り上げるものであり、SDを話題にすることはできなくなります。過去の人間はすべてSDと見なされます。
 ようするに、いままで「一人の人間とはこういうものだ」と考えていたことをすべて新しい人間に移動させればいいのです。たとえば「自分だけでもなんとか食っていければいい」と考えていたのなら、その自分を新しい人間に変えるのです。つまり新しい人間が「自分だけでもなんとか食っていければいい」と考えるわけです。しかし、新しい人間は胃袋が五十袋ほどもあるので食費はいままでよりずいぶん余計にかかります。このように自分も新しい人間に変わります。自分のことを考えるとは新しい人間のことを考えることです。これからは自分とは新しい人間のことです。自分の生き方を考えるとは新しい人間の生き方を考えることであり、幸福を考えるとは新しい人間の幸福を考えることです。


 この改革は実行するにはとても簡単な改革です。人間を新しい人間に変えるだけで、ほかにはなにも変えていないからです。SDはいままでと同じように生活していればいいのです。しかし人間を新しい人間に変えるだけで様々なことが変わってしまいます。でもそれは少しずつ変わっていけばいいことです。人間を新しい人間に変えることによって自動的に変わってしまうこともありますし、どうしても変えなければならないこともあります。それらについてはこれから少しずつ説明します。
 同じ名前になり財布を一つにするだけでもそうとうの変革になります。
 財布を一つにすることはひどく単純なことに思われるかもしれませんが、これほど重要なことはありません。これだけでこの改革の十分の一くらいは終わったようなものです。一人の人間が一つの財布を持つようになったのはいつからなのかわかりません。(一つの家族に一つの財布ということもあります。)また、どうして財布が個人別になったのかもわかりません。われわれはごく当然のこととして財布を個人別にする制度を受け入れていますが、そんなことにはなんの根拠もありません。経済学者も財布についてはあまり考えていないようです。財布の問題は意外にもとても大きな問題なのです。一人の人間が一つの財布を持つようになったのではありません。一つの財布を持つものが一人の人間になったのです。
 (ホームレスを支援する人もホームレスと財布を一つにしようとはしません。)
 共産主義の国でも財布は個人別になっていたようです。不思議なことです。全員に一つの財布にすべきでした。財布を分散しなければならなかったのは物理的な問題だったのかもしれません。遠くの財布までお金を取りに行くのは困難だからです。そう考えると、新しい人間が一つの財布にできるのはIT技術などの発達があったからということになります。新しい人間が一つの財布を持つとは、現実には一つの口座を持つということです。つまりSDがみんなまったく同じ番号のキャッシュカードを持つということです。どこでもお金を引き出すことができるので財布を一つにできます。
 新しい人間は一緒に住むわけではなく、様々な地域に分散して存在します。外国に住むSDがいてもかまいません。
 (追加補足。この改革はどんな国でも可能です。日本よりアメリカと中国とロシアにすすめたいくらいです。いくつかの国が合同で行うことも可能です。また、新しい人間が様々な地域に点々と存在するということを応用すれば、国民が世界中に点々と存在する国も可能だとわかります。それはもう領土のいらない国であり、ネットワークとしてしか存在しない国です。新しい人間とはネットワークとして存在する人間なのです。)
 この改革の大事な特徴を一つ忘れていました。この改革はお金がほとんどかかりません。すべての国民にマスクを配るくらいの予算があればいいでしょう。人類始まって以来の大変革がほとんど無料でできます。


 この改革によってなにが起こるのかをもっと細かく見てみます。すべてのSDが新しい人間になり、同じ人間のSDはすべて同じ名前になります。最初のうちはいままでと同じように生活します。しかし財布が一つになることによってお金の流れは劇的に変化します。次に起こることは同じ人間が連絡を取り合うことです。同じ人間とはなんなのでしょう。それは家族とも違いますし、クローンとも違います。まったく同じ人間なのです。同じ人間とは交換してもなにも変わらないということです。そういう同じ人間が五十人ほどできました。そういう人間と話をしたり出会ったりするのはどういうことなのか。そんなことはいままでなかったことなので想像するのもむずかしいことです。同じ人間は日本の至る所にばらばらに住んでいます。同じ人間は一緒に住む必要もないし、会う必要もないのです。いまでは科学技術の進歩によって離れて住んでいても緊密に連絡を取ることができます。
 (追加。SDが同じ人間のSDと初めて会う場面を何度も想像してみましたが、とても不思議なことが起こるようです。いままで様々なことがぜんぜん違う人間だったのに、会った途端に同じ人間になってしまうのです。かつてならまったく波長が合わない二人だったはずなのに完全に波長が合ってしまうのです。)
 新しい人間のSDは最初はいままでと同じように生活します。SDはばらばらに住んでいますから、新しい人間には住所がたくさんあることになります。電話番号もたくさんあります。代表の住所と電話番号が必要になるかもしれませんが、代表を作らないことも新しい制度の目標なので、代表は交代制になるでしょう。いやもっと別の方法を考えたほうがいいかもしれません。
 新しい人間には性別も年齢もありません。性別や年齢はSDのものであって人間のものではありません。新しい人間には死も存在しません。死はSD専用のものになります。新しい人間に死は存在しませんが別の終わりがあるはずです。どんなものにも終わりはあるからです。このことから人間の思想とSDの思想は違う思想になると予測されます。
 新しい人間には性別も年齢もありませんから、性別と年齢に関する制度は消滅します。何歳でどうするという制度がすべてなくなるということです。性別と年齢はSDには残りますが、人間の性別がなくなるとSDの男女分けもだんだんなくなり、服装や髪形など見た目の男女差もだんだんなくなります。スポーツというものが残っているならスポーツの男女分けもなくなります。トイレや温泉の男女分けもなくなると予測されます。
 新しい人間のSDはすべて同じ人間になります。完全にまったく同じ人間です。完全に同一ということです。そういう制度になるということであって、物質的に同一ということではありません。新しい一人の人間が五十くらいに分裂して存在しているということです。ですからこの新しい人間は様々な地点に同時に存在しているのであって、一つの地点に存在するのではありません。新しい人間は様々な都道府県、様々な市町村にまたがって存在しているので、都道府県や市町村の人口はわからなくなります。ほかにも地方自治には様々な問題が発生します。最初は人間以外なにも変えないのですが、そのように問題が発生するたびに少しずつ制度を変えなければならなくなります。
 追加説明。新しい人間は様々な地域にまたがって存在するので、特定の地域に住んでいる住人というものが存在しなくなります。新しい人間はどこに住んでいるかわからないのです。ですから都道府県市長村というものが消滅します。都道府県市町村は地点を特定するための住所として残るだけです。地方自治というものが消滅し、政治は国に一元化されることになるでしょう。役所はすべて国の支部になるということです。警察は日本警察があるだけで、すべての警察署は日本警察の支部になります。水道事業などは国がすべてを行います。地方政治・地方議会はすべて消滅し、地方に存在するのは国の事業の地方事業所だけになります。議員や市長などもいらなくなります。もちろん地方税もなくなります。そもそもなぜ地方ごとにいろいろなことを変える必要があったのか。全部同じにすれば余計な手間がかからないし、経費を節約できます。地方自治こそ税金の壮大な無駄使いだったのです。
 五十人ほどのSDが新しい一人の人間になるのですから、日本の人口は五十分の一くらいになります。
 改革の初期にしなければならないことがもう一つあります。土地の所有を廃止して別の制度を導入します。どさくさにまぎれて土地の所有を廃止してしまうのです。どうするかはあとで説明します。


 〔SD交換とSD結合〕
 この新しい制度の最大の特徴は次のことです。
 新しい人間は五十くらいに分裂して存在しています。それがSDです。分裂したものの一つ一つが新しい人間です。つまりSDは一人でも新しい人間ということになります。SDはSDであると同時に新しい人間でもあるのです。SDは様々な地点で新しい人間として生活し行動しています。しかし新しい人間はたくさん存在しているのではなく一人しかいません。SDは一人でも一人の新しい人間ですが、SDは二人でも一人の新しい人間です。SDは何人でも一人の新しい人間です。これが新しい制度の第一の規則ということになります。これをSD結合と呼びます。SDは社会的な場で集まると合体して一人の人間になってしまうのです。
 SDはどれも同じ人間ですからSDを別のSDに変えてもなにも変わりません。ですからSDはいつでも別のSDに交換できます。これが第二の規則であり、これをSD交換と呼びます。これによって会社で働いている人間を別のSDに変えることが可能になります。国会議員になっている人間を別のSDに変えることが可能になります。すべての人間がそうなります。SDの性別や年齢は関係ありません。80歳くらいの男に見える人間が12歳くらいの女に見える人間に変わることもあります。別のSDに変わっても同じ人間のままです。
 SD結合とSD交換を使えば次のようなことが可能になります。あいにょんさんがスーパーのレジ係をやっているとします。あいにょんさんは別のあいにょんさんを連れて来て仕事を教えることができます。この場合はSD結合によって一人のあいにょんさんになっています。給料は一人分です。これはあいにょんさんが自由にしていいことであり誰も拒否できません。基本的人権のようなものです。そのようにしてほかのSDにも仕事を教えれば、いつでもSD交換できるようになります。次々に別のSDに変わっても同じあいにょんさんなのです。同じ会社の中ではSDが何人いても一人の人間にしかなりません。そういう規則になります。同じ会社にあいにょんさんは一人しか所属できないのでSDが何人いても一人分の給料です。この方式を活用すれば一人のSDが様々な仕事をできるようになります。曜日ごとに別の会社に出勤できます。これによって休まなくてもよくなり、コロナで休みになる仕事があってもすぐ別の仕事ができます。会社は仕事を教える手間が省け、人を募集する手間も省けます。SDが仕事を引き継いでいけばその仕事をいつまでも続けることができます。社長も部長も会社のすべての人間がそうなるのです。(これは会社の中に会社でないものが侵入することでもあります。)
 新しい制度の目標に「集団の代表者(長の付く人)を廃止する」というのがありますが、SD結合とSD交換が普通になるだけでその目標はほぼ達成されます。社長が次々に別のSDにSD交換するようになると社長であることに意味がなくなってしまうと予測されるからです。大統領が日によってSD結合したりSD交換するのを想像してみてください。少女のようになったり年寄りのようになったりBTSのようになったりするのです。それで不都合があるなら大統領制度のほうを変えなければなりません。
 また新しい制度の目標に「一人の人間(新しい制度ではSD)が一つの仕事をするのをやめる」というのもありますが、SD結合とSD交換によってそれが可能になります。
 SD結合とSD交換はすぐにはできそうもありません。だんだんそうなっていくという未来の目標です。いや、すぐにやってもかまいません。新しい人間が誕生すると同時にそれらが可能になります。


 SDは人間の外側つまり社会では常に人間として行動するということです。人間の内側にいる時だけSDになれます。人間の外側では常に人間の名前で行動します。人間の内側ではSDだけの名前が必要になります。それをSDネームと呼びますが、SDネームは人間の内側でしか通用しません。SDネームは人間の内側だけで使われるものであり、SDネームで社会に登場することはできません。このように最初から必要な規則がけっこうあることがわかってきますが、それらは新しい制度の基本的なシステムから必然的に派生することです。
 これはつまり人間は人間とSDに分裂して生きるようになるということです。社会的には人間として生き、個人的にはSDとして生きるということです。個人は消滅しましたがSDの中に隠されたことになります。これによってSDはSDだけの問題に専念できるようになります。このような分裂はいままでも存在していましたが、いままではぼんやりしていてよくわからないものでした。「家と個」とか「公と私」とか言われていたものです。それらはなんだかよくわからないものなので思考の混乱をまねくばかりでしたが、それが人間とSDというはっきりした形になります。
 人間の領域とSDの領域は明確に区別できません。どうしても曖昧な領域が残ります。SDの領域とはおもに肉体的(生物的)な領域ということになります。食べること、排泄すること、眠ること、健康や病気や老化や死などです。SDの領域とはSD固有の領域ということであって、その領域ではSD結合やSD交換はできないということです。
 新しい人間はSDの集団ですが、同じ人間のSDは新しい人間以外の集団を形成できません。それは次のような原理によります。SDが自民党に入るとするなら人間として入ります。ほかのSDがまた自民党に入るとSDはSD結合して一人の人間になってしまいます。SDは何人自民党に入ってもSD結合して一人にしかなりません。つまり新しい人間はどんな集団にも一人しか入ることができないのです。ですから新しい人間は自分だけで会社を作ったり野球チームを作ったりギャング団を作ったりはできません。
 同じ人間のSDが大勢でディズニーランドに行ったり映画を見に行ったりはできます。その場合料金はどうなるでしょう。SDが何人でも一人分の料金になるのでしょうか。そんなことはありません。映画館なら一人いくらではなく一席いくらになります。ディズニーランドの料金はどうなるでしょう。入場料は一人分ですが席のあるアトラクションは席の分の料金になるかもしれません。そういうことはその会社の人が考えてください。しかし、ディズニーランドも新しい制度に変わっています。ディズニーの世界に新しい制度が適用されるとどうなるでしょう。ミッキーはたくさんいるようですが全員で一人なのですから新しい制度を先取りしていたことになります。世界じゅうにミッキーはたくさんいますがすべて同じミッキーなのです。ミッキーがSD結合したりSD交換するところを見たことがあるはずです。
 新しい制度が始まると人間はだんだん人間のことばかりを考えるようになり、SDのことは考えないようになります。***たぶん


 〔個人中心主義について〕
 ここで、個人中心主義について少し説明したいと思います。「一つの肉体を一人の人間として、その一人の人間を人間の基本単位にする」という考え方が個人中心主義です。現在ではそれが当然のことだと思われていますが、それは一つの考え方にすぎません。だからそういう考え方を個人中心主義と呼ぶことにします。個人は個人という制度にすぎないのです。現在ではあらゆることが個人を基本にして考えられ、ほとんどの制度が個人を基本にして作られています。幸福と言えばなんの疑問もなく個人の幸福を考えることであり、自由と言えば個人の自由を考えることになっています。人類の歴史は初めから個人中心主義であったかのようですが、個人中心主義は一時代の流行にすぎません。個人中心主義があまりにもあたりまえになったので過去のすべてを個人中心主義で解釈しているだけです。そればかりか動物の世界も個人中心主義で解釈しています。
 歴史を勉強すると人類はずっと個人を人間の基本単位にしてきたかのようですが、それは現在の考え方で過去を解釈しているだけです。個人中心主義はわりと最近のことにすぎないのかもしれません。
 一つの肉体である個人を人間の基本単位にするというのが個人中心主義ですが、一つの肉体である個人を人間の基本単位にしなくてもいいのです。一つの肉体である個人もいろいろなものの集合体なのですから、個人よりもっと小さなもの(たとえば遺伝子)を人間の基本単位にできるはずですし、SDの集合体を人間の基本単位にすることもできます。個人より家族のほうを人間の基本単位だと感じている人もいるはずですし、国や会社のほうを基本にしている人もいるはずです。
 しかし、現代人のほぼすべてが徹底的な個人中心主義です。骨の髄までコチコチの個人中心主義であり、それが自然なことだと思い込んでいます。個人中心主義を最も簡単に説明すると自分のことばかり考えることです。自分をどうするかということばかり常に考えています。そんなことは制度にすぎないと言っても誰にもわからないでしょう。肉体の範囲に自分の領域を限定して、それを自分としているだけです。その領域だけをとりあえずどうにかすればいいというのが個人中心主義です。(肉体の範囲に自分の領域を限定してその領域だけをどうにかするという仕事に打ち込んでいるのが寺の修行僧です。)(個人中心主義は個人主義よりもっと範囲の広い概念です。個人主義は個人中心主義のなかに含まれその一部を形成するだけです。)


 個人中心主義を説明し始めればいくらでも続いてしまいますので、個人中心主義の最も基本にある考え方について少しだけ説明します。それは「私の思考は私のものだ」という考え方です。「私が思考する」「私が考えているので私は存在する」といったバリエーションがあります。それに対抗する考え方は「思考は誰のものでもない」「誰のものでもない思考が私のことを考えている」「すべての思考は同じただ一つの思考だ」「思考が私のところでなにかを思考している」という考え方です。「自分の思考は自分の思考だ」という考え方を否定しているわけです。
 「私が考える」「私の思考は私のものだ」という考え方が個人中心主義の中央に君臨しています。それを強力に補佐しているのが「脳が考える」という考え方です。脳は自分のものなのだから脳が考える思考は自分の思考だということになります。ほとんどの人がそう思い込んでます。またあらゆるものからそのように教育されます。しかし、脳は思考しません。脳はパソコンのようなものなのです。パソコンが思考するでしょうか。パソコンは思考しません。パソコンに発生する様々な思考のようなものはすべてネット世界に存在するものであって、パソコンが考えているのではありません。ハードディスクに残っている思考もネット世界からやってきたものです。脳も同じようなものです。思考は世界のどこからかやってくるのです。自分のところで作動している思考を観察してください。そうすればだんだんそれがわかるはずです。私のところにやってきた思考がなにやら考えているだけです。
 脳がパソコンだというより肉体そのものが一つのパソコンだといったほうがいいでしょう。脳も肉体というパソコンの部品の一つにすぎません。肉体というパソコンにスマホを接続するとスマホで肉体というパソコンを操作できるようになります。
 ですから誰の思考も同じようなものです。宇宙にはたった一つの思考があるだけでみんなそこに接続しているだけです。神秘主義ではありません。人間でなくても思考する存在は同じ思考に接続するしかないでしょう。思考はすべて同じように思考するしかないからです。2X2=4というやつです。思考はそのように思考するしかないということです。どんな思考もそうです。トイレに行こうかどうか考えます。なにを考えているのでしょう。どう考えてもこうとしか考えられない答えを探しているのです。考えるとはどう考えてもこうとしか考えられないように考えるということです。誰が考えてもそうとしか考えられないように考えるということです。思考はそんなふうにしか考えられません。真理の探究です。思考は真理を探究することしかできないのです。間違うのは思考ではなくパソコンです。
 思考は個人のものではないということです。思考は共同的なものなのです。ですからこれからは「私はこう考える」「私がこう考える」というスタイルを終わりにします。「ところで君の考えはどうなんだ」「私の考えはこうこうこうです」という話法を終わりにします。この本のスタイルがすでに「私はこう考える」というスタイルにはなっていません。「ここにやってきた思考がこう考えている」というスタイルになっています。思考は個人としての自分のことを考えるためのものではないということです。世界全体を自分のことのように考えることができるのです。




 自分を一つの肉体に限定しなくてもいいんだ。




 個人が存在する限り必然的に競争社会になります。個人は必然的に競争してしまうものだからです。それは子供を見るとわかります。子供はどんなことでも競争します。家族が家に帰ってくる場面を見てください。家が近づくと子供たちは一斉に走り始めます。誰が一番先に家のドアにタッチするか競争してしまうのです。子供たちはどんなことでも競争にします。誰のふかし芋が一番大きいか、誰が一番遅くまで起きているか。そのように個人は競争できることならすべて競争してしまいます。個人というものが存在する限り競争社会は存続します。競争社会が存続する限り格差や差別はなくなりません。
 新しい制度によって個人は消滅します。個人が消滅すれば必然的に個人を比較することがなくなり、必然的に個人と個人の競争と格差と差別がすべて消滅します。また、個人が消滅するのですから個人が活躍するということがなくなります。個人が消滅するのですから有名人がすべて消滅します。個人は社会の表面から消滅し、個人は注目されることがなくなるのです。それはいままでの世界とはまったく違う世界です。個人を話題にすることが完全になくなった世界を想像できればそれがどんな世界かわかります。現代人の頭の半分は個人の話題で占められているのですから頭の半分は空になります。
 何度も言いますが、個人の問題は個人と個人があまりに違いすぎるということです。年齢が違い、性別が違い、肉体が違い、能力が違い、性格が違い、家族が違い、仕事が違い、収入が違い、ほかにもたくさんの違いがあります。ですから個人を同じにすることは不可能なことなのです(格差が拡大する一方のいまの社会を見てください)。制度をどのように変えてもある個人のためにはなるが別の個人のためにはならないということが起こります。儲かる個人がいると必ず損をする個人がいますし、願いがかなう個人がいると必ず絶望する個人がいます。新しい人間にも違いはありますが個人よりずっとましです。
 新しい制度が始まると、それ以前は個人中心主義時代と呼ばれるようになります。
 (明治維新を勉強するとほとんどが個人の問題だったとわかります。政治とはおもに個人の駆け引きと根回しでした。個人の考えのどれを採用するかで争っていました。そして政策より人を優先しました。政策そのものより誰の政策かが重要でした。また、個人の身分・地位・役職の総入れ替えが明治維新でした。一方に上昇する個人がいて、他方には没落する個人がいました。)
 個人中心主義にはほかにも様々な問題がありますが、ここではもうやめます。個人中心主義がどういうものかは誰でも知っていることです。現代のほぼすべてが個人中心主義の産物だからです。テレビの天気予報で天気予報士の顔をわざわざ映すのも個人中心主義です。


 (追加。個人は必ず独裁制になります。自分しかいないのだから当然です。独裁制を否定するなら個人の独裁制も否定しなければなりません。個人を独裁制にしないためにはどうすればいいのでしょう。個人をもっと小さな人間に分割して、みんなで議会でも開設するしかありません。)



 〔家族制度の廃止〕
 新しい制度が始まると同時に起こることがもう一つあります。家族制度の廃止です。新しい人間と家族制度は両立不可能だからです。新しい人間は家族ではありませんが家族のようなものだから家族と同時に存在することはできません。というより、新しい人間が作られると家族は自動的になくなります。個人が個人という制度にすぎないように、家族も家族という制度にすぎません。男と女も制度にすぎません。女か男のどちらかでなければならないという制度です。制度にすぎないとは変えることができるということであり、消滅させることもできるということです。
 家族制度が消滅するということは、結婚制度・夫婦制度・親子制度・兄弟姉妹制度などが消滅するということです。それらに付随する養子制度・相続制度なども廃止になります。それは血縁関係(遺伝子関係)が無意味になるということではありません。遠くの血縁関係(遺伝子関係)より近くの血縁関係(遺伝子関係)を重視する考え方が否定されるだけです。血縁関係(遺伝子関係)に意味があるなら遠いとか近いとかには意味がないはずです。人間はすべて血縁関係(遺伝子関係)で結ばれているということです。そればかりか生物はすべて血縁関係(遺伝子関係)で結ばれています。そしてたぶんそれは生物だけのことではないでしょう。近くの血縁関係(遺伝子関係)だけを重視する考え方にはなんの意味もないのです。単に近くしか見えないだけです。家族とは近くしか見ないことにした制度です。遠くの血縁を切り捨てることによって家族制度が作られたのです。
 新しい人間は家族と似ていますが夫婦・親子・兄弟姉妹といった身分制は存在しません。夫婦・親子・兄弟姉妹は階級の始まりであると同時に、役割の固定化であり専門化の始まりでもあります。家族こそ差別と格差の根源だったのです。
 夫婦愛や親子愛は家族制度を存続するために作られた幻想です。
 家族は自然なものではなく人間が作った制度であるということを説明するのはここではやめにします。ほぼすべての人が家族は自然なものであって絶対になくならないものだと思い込んでいるからです。それを変えるのは個人の消滅より困難なことかもしれません。このことを説明するともう一冊の別の本になってしまいます。でも、家族が解体しつつあることは誰でもうすうす気がついています。家族がやたらに強調されるのは解体しつつある家族をなんとか繋ぎ止めようとしているからではないでしょうか。
 結論めいたことを言ってしまえば、いまだに家族が存続しているのは、家族以外に子供を作って育てる方法がわからないからです。子供を作って育てるだけのために家族が存続させられています。つまり、家族がなくても子供を作って育てることができるなら家族は必要ありません。
 ですから、家族制度を廃止するからには子供を作って育てる別の方法を考えなければなりません。それにはまずどうして子供を作って育てる必要があるのかということから考えることです。それを考えればすぐに子供は人類の存続のために作るのだとわかります。人類を存続させなくてもいいのなら子供を作る必要はありません。実にいままではそういう基本的なこともわからずに子供を作っていたのです。そういう基本的なことがわからないので、どうしても子供を作らずにいられなくなるような家族制度を作りだしたのです。その家族制度を維持するために様々な幻想が作られました。恋愛幻想、結婚幻想、親子幻想、我が子幻想、母の愛幻想、血を分けた幻想、血縁幻想などです。文学の半分はこれらの幻想で作られているかもしれません。テレビドラマなどは90%がこれらの幻想で作られています。
 というわけで、新しい制度が始まると同時に家族制度は廃止になります。どういうことになるかというと、家族は別々の人間になり違う名前になります。家族は必ず別々の人間になります。その家族とは血縁の近い家族ということであり、近い血縁とはどこまでの血縁なのかはまだわかりません。しかしそれは厳密なことではありません。やがて誰が近い血縁なのかもわからなくなり、血縁や遺伝子つながりにはなんの意味もなくなります。
 親子制度が廃止され、自分が産んだ子供が自分の子供ではなくなります。誰が産んでも子供はすべて人類(すべての人間)の子供になります。子供を産む人間は人類の存続のために人類の子供を産むのです。卵子提供者や精子提供者が誰かということは知る必要もなく記録する必要もありません。そんなものは誰でもいいので気にもしなくなります。産まれた子供は新しい人間の誰かに自動配分されます。それまではまだ人間になっていませんし、SDでもありません。人間でもないSDでもない段階が存在することになります。
 追加補足。家族制度が廃止になると憲法や法律の家族に関する項目は自動的に消滅します。


 家族制度が廃止になると同時に廃止になるものがたくさんあります。父、母、夫、妻、息子、娘、兄、姉、弟などの家族用語が消滅します。ママ、パパ、孫、祖母、じじ、おば、いとこ、曽祖父、主婦、主人、主夫、家内などのすべてです。母の日と父の日がなくなります。結婚式がなくなります。婚約指輪も結婚指輪もウエディングドレスもなくなります。誕生日もなくなるでしょう。家系、身内、親族、実家が消滅します。離婚や不倫や浮気が消滅します。バツ1、出戻り、一夫一婦制、専業主婦なども消滅します。里親制度、養子制度がなくなります。配偶者、世帯主、扶養義務がなくなります。家族旅行、家族で食事、家族で一泊がなくなくなります。家族割りがなくなります。父母参観日がなくなります。双子三つ子がいなくなります。子のいない親、親のいない子がいなくなります。一人っ子がいなくなります。兄弟喧嘩、親子喧嘩がなくなります。勘当もできません。家出はできるかもしれません。婚前交渉がなくなります。できちゃった婚がなくなります。血縁が無意味な言葉になります。先祖も子孫もいなくなります。サンタクロースがいなくなるかもしれません。エデュプスコンプレックスも父殺しもなくなります。ヤングケアラーがいなくなるでしょう。バレンタインデーもなくなるでしょう。家族を守るために戦う映画がなくなります。聖母マリアはどうなるでしょう。世襲制が消滅します。DNA親子検査、親族検査がなくなります。家族そろって歌合戦、新婚さんいらっしゃいがなくなります。家族ドラマがなくなります。


 〔政策自動決定システム〕
 新しい人間の意見は意見の自動決定システムで決定されます。詳しくはあとで説明しますが、SDの誰かが「こうしてはどうか」という意見を自動決定システムに提出してほかのSDの投票によって採用されるかどうかが決定されるシステムです。何段階にも分かれていて最終段階までは全員が投票する必要がありません。そういう意見が提出されたことを全員が知る必要もありません。第一段階ではその意見をこのシステムに乗せるかどうかが決められます。最終段階に到達する前に決定する場合もありますし、様々な意見のどれを採用するかもこのシステムで決定できます。新しい人間の名前を決める場合もこのシステムを使って決定します。やがてこのシステムはあらゆる集団に導入されるようになります。会社や学校などですがやがて国にも導入されます。そうすればもう議員も大臣もいらなくなります。政治家がいなくなるのです。
 政治もしばらくはいまのままです。しかし、政治家もすべて新しい人間に変わります。人間が新しい人間に変わるだけでも大変な改革ですから社会制度のほとんどはいまのままでいいのです。いまのままでいいとは、議員をやっている人が新しい人間の誰かに配分されて、その人が配分された新しい人間が議員になるということです。SDが全員議員になるということです。もちろん名前も変わります。考え方も変わるでしょう。次の選挙からは新しい人間が立候補することになります。新しい人間が立候補してもその人間がどういう人間なのかはなかなかわかりません。そうするとだんだん人間を選ぶより政策を選ぶほうが簡単だということになるはずです。
 政策自動決定システムとは選挙を自動化するシステムということになります。いままでの選挙は人間を選んでいました。そしてその人間が政策を決めていました。しかし、これからの選挙は政策を選ぶ選挙に変わります。直接政策を選挙するのです。この方法はあらゆる集団が意見・考え・規則を決定するために使われます。


 この問題をもう少し詳しく考えてみます。政治とは集団の考えをどうやって決めるかという問題です。国だけでなく、どんな集団にもこの問題が発生します。会社にも、家族にも、新しい人間にも、学校にも、野球チームにも、ギャング団にもです。集団の考えをどう決めるか、人類はこの問題にずっと悩んできました。いまだに悩み続けています。集団の考えを決める方法は大きく分けると二つになります。みんなで話し合って決めるか、人間を選んでその人間に決めてもらうかです。みんなで話し合って決めるとは、いくつかの考えから一つを選ぶということです。だから、直接考えを選ぶか、人間を選んでその人間に決めてもらうか、そのどちらかということになります。もっと単純化すれば、考えを選ぶか人間を選ぶかです。実際の政治はその二つを様々に組み合わせています。集団によっては一人の人間がすべてを決めるという集団もあります。
 考えを選ぶ方法にもいろいろありますし、人間を選ぶ方法にもいろいろあります。新しい制度になると人間が新しい人間に変わってしまうのですから、それだけで大きく変わってしまいますが、人間を選んでその人間に集団の考えを決めてもらう制度を完全に廃止するという目的に向かってこの本は書かれています。簡単に言えば人間を選ぶ選挙を廃止し議員や政治家を消滅させるということです。国だけでなくあらゆる集団がそうなります。会社から社長がいなくなるだけでなく部長や班長もいなくなります。野球チームから監督やキャプテンがいなくなり、ギャング団からボスがいなくなります。
 なぜ人間を選んでその人間に集団の考えを決めてもらう制度はよくないのか。歴史を見れば一目瞭然です。いまの選挙を見るだけでもすぐわかります。一人の人間はすべてどうしようもなく無知で無能なのです。また、人間はほかの人間がどんな人間かまったく理解できませんので、人間を選ぶことなど不可能なのです。漱石の本を全部読んでも漱石がどういう政治をするかわかりません。ガンジーに投票したはずなのにヒトラーだったということもよくあることです。また、人間はすぐ考えを変えます。選挙前に言っていたことなど簡単に変えてしまいます。人間を選んでよいことなどなにもありません。
 集団の考えはすべて政策自動決定システムで決まります。政策自動決定システムには二つのシステムが作動します。自動投票システムと二つの考えを一つにするシステムです。二つの考えを一つにできるなら、初めにいくつの考えがあっても最終的に一つの考えになります。二つの考えを一つにし、その考えをまた別の考えと一つにしていけば、最終的に一つの考えになります。二つの考えを一つにする方法さえわかれば一億個の考えを数分で一つにできるでしょう。
 (新しい制度にならなくてもこの改革はできます。)
 人間を選ぶ選挙はよくないということをさらに追求すると、人間を選ぶことはすべてよくないということになります。人間を選ぶ試験、人間を選ぶ面接、人間を選ぶ結婚などです。人間を選んで失敗する確率は50%をはるかに越えるでしょう。人間には様々な要素があり、すべての要素を知ることはできないからです。そのなかでも最もむずかしいのは医者を選ぶことです。最適な医者を選ぶことは誰もできません。



 〔新しい制度の始まり〕
 実際にどうなるかを見ていきましょう。名前が一つになり財布が一つになりました。ほかのSDがどんなSDかだんだんわかってきました。でもまだ以前と同じように生活しています。以前の家族はもう家族ではありませんが以前と同じように生活しています。ですが名前は別々になり財布も別々になりました。小さな子供でも赤ん坊でも経済的には独立したことになります。収入のない人間も自分の財布からお金を使えるようになりました。家賃や光熱費は新しい人間の口座から引き落とされます。かつての家族のそれぞれが家賃や光熱費をどう配分するかが問題になるかもしれません。以前の家族は以前と同じように生活していてもかまいませんが、すぐに別れてもかまいません。もう家族でなくなった家族をどう呼ぶかはそれぞれが考えることです。家族関係が消滅しても人間関係は消滅しません。新しい人間と別の新しい人間との人間関係です。
 同じ人間のすべての物が共有になりました。SDのすべての家が自分の家になりました。SDの仕事がすべて自分の仕事になりました。SDの仕事はすべて自分がやっていることになるのです。家具・家電・移動機械なども共有になります。基本はすべての物が共有なのですが、メガネや歯ブラシや衣類はSDが専用に使用するということになるでしょう。「SDのものは鞄に一つ」と言われます。鞄一つでほかの家に引っ越すことができるのです。
 最初はあらゆることがどうしていいかわからなくなります。好きなお菓子をかってに買っていいのか。一日のおやつ代は決まっているのか。朝の挨拶は「おはよう」でいいのか。違う人間と同じ人間によって挨拶の言葉が違っているのではないか。かつての家族をなんと呼べばいいのか。家に鍵を掛けてもいいのか(家はすべてのSDの家なのだから誰が帰ってくるかわからない)。電車の定期券はSD全員が使っていいのか。新しい制度のことをまったく理解できない老人をどうしたらいいのか。野球はやってもいいいのか。やってもいいならルールはどう変わるのか。代打はSD交換とどう違うのか。結婚制度と家族制度がなくなると恋愛は消滅するのか。そうなると女性の服装や髪型は男と同じになり化粧することもなくなるのか。
 あらゆることがどうしていいのかわからないのだから、違う人間だろうと同じ人間だろうと会うとこの話題ばかりになります。テレビのワイドショーもこの話題ばかりになります(ワイドショー自体をどうするかも問題です)。***



 徐々に同じ人間のSDの交流が始まります。この時期のワイドショーの話題はそれに尽きます。同じ人間のSDが初めて出会うシーンが連日放送されますが、見ている人間にはそれが同じ人間かどうかはわかりません。
 まず空前の旅行ブーム、空前の引っ越しブームが起こると予測されます。東京に住むSDにとって地方に住むSDの家は家具つきの別荘のようなものです。住む家の交換などもできますし、大きな家があればSDが何人も引っ越すことができます。
 仕事のないSDがいればすぐにほかのSDの仕事を一緒にすることができます。それを考えればSD結合とSD交換が始まるのは意外と早いかもしれません。どの人間にも必ず農業のSDを含めるようにすれば、SDは誰でもそこで働けるようになり、農家の後継者問題は一瞬で解決します。(解決する問題があれば必ずまた新しく発生する問題もありますが。)また、SDは時間があれば農場の仕事に行くようになるはずです。空いている土地があれば誰でも農地に使えるようにします。新しい人間は農作業が主要な仕事になるでしょう。仕事とは思われないかもしれませんが。(こうして食料自給率が上がります。)
 新しい人間はできるだけ多様な仕事をするようにします。すべてのSDが違う仕事をし、一人の人間だけで自給自足できるのが理想になります。様々な仕事をしていれば災害やコロナなどによっていくつかの仕事ができなくなってもなんとかなります。また、様々な仕事をしていればやりたくない仕事をしないことが可能になりますし、しなくてもいいような仕事はやめることができます。保険などなくてもいいと思えば保険会社をやめればいいのです。現代人がやりたくもない仕事にしがみついているのは一つの仕事しかしていないからです。
 以前の家族と暮らしているSDもだんだん同じ人間のSDとの交流が多くなります。以前の家族とすぐに別れてほかのSDの家に移動する人もいれば、なかなか以前の家族と別れられないSDもいます。以前の家族とずっと交流を続けるのは自由です。新しい制度では別の人間のSDと一緒に住むことも自由です。しかし別の人間のSDと一緒に住むということは別の人間と一緒に住むということです。そのSDの背後にはさらに五十人くらいのSDがいるということです。


 新しい世界は有名人というものが一人も存在しない世界になります。新しい人間が有名人になることは不可能だからです。個人というものが存在したので有名人というものが存在できたのです。新しい人間には特定の肉体が存在しません。特定の肉体が存在しないので特定の容姿や顔が存在しません。新しい人間は透明人間のようなものなので写真に撮ることができません。また特定のSDに注目することは禁止されるはずです。新しい人間はかつての人間より何十倍も複雑な存在なので「こういう人間だ」と簡単に言うことができません。ですからすでに存在していた有名人も消滅するはずです。有名人が一人も存在しない世界がどんなものか現在のわれわれにはとても想像できません。いや、まったく新しい形態の有名人が出現するかもしれません。
 総理大臣というものがまだ存在しているとするなら、総理大臣も新しい人間になっています。その総理大臣の映像が登場することはないでしょう。文字の記述で登場するだけです。名前はあるけど姿はありません。総理大臣も職業の一つにすぎず、総理大臣も有名人にはなれません。
 もしかしたら写真や映像から人間の姿は消滅するかもしれません。人間が映ったとしても風景の一部として映るだけで、それが誰かはわからないのです。
 そうすると俳優はどういうことになるでしょう。名前があるだけで年齢も性別もない俳優であり、誰もその姿を見たことがありません。その俳優がドラマに出演しても、そこに見えるのはドラマの中の人間の姿であって俳優の姿ではありません。ドラマの中の人間も新しい人間のSDという設定になります。同じ名前の俳優が男の老人になったり女の子供になったりします。そういう俳優の演技をどう評価すればいいのでしょう。
 いや、ある新しい人間を俳優と呼ぶこともなくなります。ある新しい人間がドラマ作りの仕事もやっているだけです。新しい人間は様々な仕事をしているので、その人間が画家であるとか作家であるとか言うことができなくなるのです。同様に新しい人間が教師であるとか看護師であるとか漁師であるとか言うこともなくなります。人間=職業とすることがなくなるのです。人間=職業とする言い方が可能だったのは個人中心主義時代だったからです。
 ついでに言うことですが、俳優という仕事はとてもむずかしい仕事になります。新しい人間を演じることなどできるのでしょうか。一人の新しい人間を演じるだけでも何人もの人間が必要になるのではないでしょうか。というより新しい人間はカメラに写るのでしょうか。というより、すでに言いましたように、新しい人間を映画やドラマにすることができるのでしょうか。もっとむずかしいのは小説です。新しい人間を小説にするにはまったく新しい方法を開発するしかないでしょう。映画やドラマはとりあえずカメラを作動させればなにかが映るでしょうが、小説はそういうわけにはいきません。小説とは個人中心主義時代の文学形式にすぎなかったのです。新しい時代の文学形式はどうなるのかというと、それはこの記述がヒントになります。新しい世界を想像するだけでも大変なのですから、新しい世界の映画や小説はとても想像できません。


 小説も映画もドラマも主人公は新しい人間になります。新しい世界の映画を想像してみます。人間失格という名前の新しい人間が主人公です。人間失格さんにはSDが56人います。人間失格さんの日常を描くという単純な映画です。SDが56人いるので俳優が56人必要になります。その俳優の一人一人が新しい人間です。一人の俳優にもSDが何人もいます。だからすぐ次のように考えるようになります。一人の俳優の全SDをそっくり使って人間失格さんのSDの役に割り当てればいい。しかしそれはできません。新しい人間のSDが集まって一つの仕事をすることは禁止されているからです。SDが全員集まって仕事をしても一人分の給料にしかなりません。やはり人間失格さんを演じるには56人の俳優が必要になります。それらの俳優が仕事ちゅうにSD交換することは禁じられるかもしれません。
 撮影が始まります。人間失格さんを撮影するには56人のSDを同時に撮影しなければならないのかという問題が発生します。映画の画面が56分割されて56人のSDが同時に映るわけです。リモート会議かリモート飲み会のようなものです。でもそれは却下されます。そんなことをすると逆に新しい人間が単なる個人の集まりのように見えてしまうからです。新しい人間は単なる個人の集まりではありません。新しい人間こそが個人のようなものです(個人ではありませんが)。新しい人間よりSDが濃密になってはならないのです。SDなど存在しないかのようにする必要があります。
 人間失格さんがスーパーマーケットで働いている場面から撮影します。SD交換やSD結合の場面はなくてはなりません。見たところ60歳くらいの男性に見えるのが人間失格さんです。その近くに2歳くらいの男性に見える人間がいます。それも人間失格さんです。その二人がSD結合しているのがわかります。二人が胸に下げた身分証が連動しているからです。近くには商品陳列ロボットもいます。お酒はすべて粉末になっていて計量販売されています。そこに20歳くらいの女性に見える人間がやってきます。「SD交換します」と言って人間失格さんは別のSDに入れ換わります。身分証が移動します。子供のSDは今度は20歳くらいの女性に見えるSDとSD結合することになります。周囲の人間は気にする様子もありません。単なる日常のひとこまにすぎません。最初から最後まで人間失格さんは一人いるだけです。


 〔スポーツの変革〕
 スポーツ選手を考えてみればこれらの変化がもっとよくわかるかもしれません。スポーツ選手もすべて新しい人間に変わり、SD交換とSD結合が可能になります。コーチも監督も審判も観客も実況アナも解説もです。SD交換を起こすたびに選手の諸能力が変化します。昨日の一着が今日は最下位です。マラソンなどは途中で何度もSD交換を起こすと駅伝のようになります。バスケットの試合で選手がみんな30人くらいのSD結合を起動させると満員の銭湯のように見えます。そう見えても選手の数は変わっていないのです。スポーツがほとんど成立しない世界になったようです。スポーツはかつての世界だから成り立っていたものだとわかります。
 ルールを変えると成り立つ競技があるかもしれません。あるいは、まったく新しい競技を作ってもいいでしょう。野球などは一対一の競技に変えます。一人の人間と一人の人間が戦うのです。各チームとも全員が同じ名前の同じ人間です(もはやチームではないのですが)。毎回守備位置がぐるぐる変わります(バレーボールのようです)。打順など存在せず次にどのSDが打ってもかまいません。塁に出ているSDが打席に立つことはできません。打率などは全体を合計して計算した打率しか出ませんので、SDの打率はみな同じになります。前の打席のSDがヒットを打つと次の打席のSDの打率も上がるということになります。この野球選手が海外に派遣されるとどうなるでしょう。まだ新しい制度になっていない国のチームと戦うことになります。こちらは一人ですが向こうは九人以上います。互いに相手の国の制度は理解しています。向こうはSDが一人しかいない人間ばかりの国ですからたくさんの人間で戦うしかないのです。向こうの人間はみんな一つの守備位置しかできず、打つ順番を決めなければけんかになるようです。しかも自分たちで決めることができず、打つ順番を決める専門の人間もいるようです。打率も人間ごとに別々になっていて、同じチームの人間とも競争しているようです。しかし、新しい人間のSDがチームを作ることは禁止されます。
 新しい制度になると人間はかなり複雑なものになり、人間の全体像を捉えるのもむずかしくなり、人間と人間を比較することができなくなります。比較できなくなると優劣を判断することもできなくなります。そうすると競争するということもなくなるようです。というより、競争するということが不可能になります。走る速度を比べようとしても、新しい人間の走る速度をどうやって測定するのでしょう。SDはみな走る速度が違います。一番速く走るSDの速度が人間の走る速度になるのでしょうか。SDの平均速度が人間の走る速度になるのでしょうか。どちらもなにかが変です。たぶん新しい人間には決まった走る速度は存在しないのです。ですから人間の走る速度は比較できず、競争することもできません。競争するスポーツは存在できなくなるにちがいありません。スポーツだけではなく競争するということがなくなっていくのです。スポーツの競争、経済の競争、試験の点数の競争、すべての競争が連動しています。スポーツがなくなるわけではなく、勝敗や順位を争うスポーツはなくなるということです。
 こうしてついには勝ち負けを決めることや順位を決めることはすべて廃止されます。そういうスポーツはすべて廃止され、勝ち負けもなく順位を決めることもないスポーツだけが残ります。競争するスポーツ、なにかを測定するスポーツ、点数を付けるスポーツ、数を数えるスポーツはすべて廃止になります。スポーツだけではありません。競争するものはすべて廃止になります。人間の試験がすべてなくなるということです。学校のすべての試験、入学試験、入社試験などがすべて廃止されます。なぜなら新しい人間はあまりに複雑すぎて比較することができないからです。実際に二人の新しい人間を比較してみればいいでしょう。なにをどうやって比較するのかまったくわからないはずです。
 個人というものが存在するので競争社会になるのであり、個人が消滅すると競争というものが消滅します。そして競争が消滅すると有名人というものがすべて消滅します。歴史の教科書から個人名がすべて消滅します。歴史に個人名は必要ありません。有名人というものが存在する時代は異常な時代だったということがわかります。
 個人が活躍する時代が終わり新しい人間が活躍する時代が始まるのではありません。新しい人間はかつての人間とはまったく違う人間です。新しい人間には個人の顔というものがないのです。新しい人間は姿が見えないだけでなく、その行動も見えません。新しい人間がなにかをしているところは誰にも見えないのです。


 個人・差別・競争・格差は連動しています。四つの歯車が噛み合って〔個人ー差別ー競争ー格差〕という連動システムを形成しているわけです。この連動システムが社会のあらゆる制度を形成して作動させています。個人が差別・競争・格差を作動させ、差別が個人・競争・格差を作動させ、競争が個人・差別・格差を作動させ、格差が個人・差別・競争を作動させる関係になっています。ですからこの四つのどれかを消滅させるた
めには四つとも消滅させなければなりません。どれか一つでも残っているとほかの三つがすぐ復活します。四つすべてを消滅させなければどれも消滅しないということです。


 差別の根源にあるのは能力差別です。男女差別も人種差別も根源にあるのは能力差別です。能力の違いで男女を差別し、能力が違うといって人種を差別しています。すべての差別の根源にあるのは能力差別であり、能力差別の根源にあるのは教育です。義務教育の試験・点数・スポーツが能力差別を作り出しています。すべての試験(つまり競争)を廃止しなければ能力差別はなくなりません。スポーツも勝敗・順位・点数・距離や時間の測定によって人間を徹底的に差別します。しかもスポーツほど徹底した男女差別はありません。男の世界と女の世界を完全に分離しています。





 〔新しい制度の進展〕
 ほかにどのようなことが起こるでしょうか。やってみなければわかりません。このような変革はいままでかつて起こったことがないからです。すべての人間が改革の当事者であり、すべての人間が考え方を大きく変えなければ生きていけなくなります。しかし財布が一つになることが最大の変革ではないでしょうか。それだけでこの改革の半分は終わったようなものです。財布が個人別になっているということは、個人から個人へお金が移動できないということです。水か空気のように多いところから少ないところへ自然に移動し全体が均一になるような運動ができないということです。財布を一つにすることによってなにが起こるかもう少し考えてみましょう。
 人間が新しい人間に変わっても経済の制度が変わるわけではありません。登場する役者は変わってもシナリオは変わらないということです。社会はいままでと同じ自由競争の資本主義社会ということになります。人間が変わればそれもだんだん変わっていくはずですが、しばらくは同じままです。しかし、新しい人間の内側は共産主義が目標にした社会のようになります。すべての物が共有になり、財布が一つになります。財布が一つになることは共産主義とは別のことかもしれません。共産主義を実験した国でも財布を一つにしたことはありません。新しい人間の内側では財布は一つになりますが、新しい人間はそれぞれ一つの財布を持つことになるのでいまままでと同じです。
 新しい人間がいままでと同じ経済システムで活動するようになります。それによってこの経済システムが徐々に変化していくはずです。たとえば一つの仕事を奪い合うということは少なくなるかもしれません。給料の高い仕事よりやりたい仕事を選ぶようになるかもしれません。同じ人間が競争相手の企業にも所属しているとどういうことになるでしょう。新しい人間はかつての人間のように競争しなくなるはずです。そうやって経済システムはだんだん変化し必要のない仕事は徐々に消滅していくと予測されます。
 人間の世界はいままでと同じような自由競争の資本主義世界ですが、人間の内側は共産主義世界のようです。民主主義の国でも会社が独裁制なのと似ています。
 すべて人間の総収入と総資産が同じくらいになる仕組みが必要です。以前の世界よりそれが簡単になるはずです。
 一つの財布からお金を自由に使えるようになれば、SDによってお金を使う量が違うという問題が発生するはずです。あるSDはほとんどお金を使わないのに、あるSDはたくさんお金を使います。しかしだんだんお金は必要なだけあればいいという考え方に変わっていくはずです。SDは自分を主張する必要のない存在になるからです。比較されるのは人間と人間であってSDとSDは比較されないからです。この予想ははずれるかもしれません。
 財布が一つになればお金の心配がなくなるのは確実です。お金の心配がなくなれば逆にあまりお金を使わなくなるのではないでしょうか。この辺の問題は「人間とはどういうものか」という認識の違いによって考え方がいろいろになります。生活保護を申請する人間はいなくなりますから、生活保護制度は自然消滅します。
 (新しい制度でも新しい人間に貧富の差が生まれるのか、という問題もあります。)



 すべての人間が改革の当事者になるとは、「新しい制度になればこれはどうなるかのか」ということをそれぞれが常に考えなければならないということです。葬式はどう変えればいいのか。お年玉はどう変わるのか。歯磨きのやり方は変えなくてもいいのか。自分のことは「ぼく」と言ってもいいのか。そのようにあらゆること(いまやろうとしていること)を考え直さなければならなくなります。そして変えることがすべて新しい改革になります。普段の思考・意識を変えるのはむずかしいことです。それが一番むずかしいかもしれません。ついSDの自分を中心に考えてしまいます。個人中心主義時代の意識を変えるには長い時間が必要になるでしょう。新しい制度では同じ人間のSDはみんな同じ人間です。SDはみんな自分であり、SDはみんな本人なのです。普段の意識がだんだんそういう意識になっていけばほかの人間のSDも同じように感じるようになるでしょう。
 SDはSDの自分を主張する必要がなくなります。それが最大の意識変革かもしれません。かつての個人は「個性」「自分らしさ」「自己主張」などが重視されていました。ようするにほかの個人との違いを重視するということです。それが競争社会を作り出す大元の元、もとのもとでした。新しい世界では「個性」「自分らしさ」「自己主張」などは人間が発揮するものになります。SDはほかのSDと比較する必要のない存在になり、SDはほかの問題に移行します。
 最初のうちは至る所で新しい制度をどうするかという話ばかりになります。同じ人間のSDが集まればそんな話ばかりです。ほかの人間と出会ってもそんな話ばかりです。ほかの人間がどうやっているかは重要な情報です。ほかの人間はお金の管理はどうしているのか。ほかの人間は子育てをどうやっているのか。連絡はどう取り合っているのか。知りたいことはいくらでもあります。
 新しい制度とはどういうものなのか。まったく新しい制度なのでいままでの考え方で理解することはできません。考え方そのものが変わってしまうので、いままでの感覚・いままでの常識では理解できません。いままでの「自分」という考え方では理解できません。なによりも「自分」が最も変わってしまうからです。



 この物語は同じことを何度も繰り返しながら少しずつ進んでいきます。
 初期に起こると予想されることの一つは世話や介護が必要なSDの問題です。すべての人間に次のようなSDが必ず含まれます。病気のSD、難病のSD、様々な障害のあるSD、寝たきりのSD、認知症のSD、ひきこもりのSDなどです。刑務所に入っているSDもいます。ホームレスだったSDはこの制度が始まると同時にホームレスでなくなりますが、ホームレスでいる自由はあります。でもそれは偽のホームレスです。
 これらのSDも最初はいままでと同じようにしています。病院や施設に入っているSDもいますし、かつての家族に介護されているSDもいますし、かつての親がかつての子供を子育てしている場合が多いでしょう。経済的にはすべて新しい人間に移行できますが、実際の介護や子育てはどうするかという問題です。家族がやっていたことを新しい人間に移行するのがこの制度ですから、介護や子育ても新しい人間が引き継ぐことになります。それをどうするかはそれぞれの人間が考えることです。介護が必要なSDを別の場所へ移動するとか、仕事をしていないSDが赤ん坊の世話をするとか、SDの移動や役割設定が緊急に必要になります。たぶん新しい人間のSDは必ず別のSDの介護や世話をすることになります。子供もいまよりずっと活躍することになるでしょう。
 ほかにも様々な人が同じ人間のSDになります。なにかしら問題をかかえていた人が同じ人間になります。そういう人はたくさんいます。新しい制度をまったく理解できない人もいます。日本語が通じない人もいます。行方不明の人もいるでしょう。指名手配中の人もいますし、刑務所に入っている人もいますし、反社会的な組織に属する人もいます。誰とも会わなくて社会から孤立していた人もいます。そういった人と必ず同じ人間になります。「そういう人間と同じ人間になるのは御免だ」ということがこの制度に反対する大きな理由になります。「自分ひとりで生きていくほうがずっといい」と思うのです。しかし、それこそ個人中心主義の考え方であり、そういう考え方を変えるのがこの新しい 制度です。
 かつての人間がそのままSDになるわけではありません。新しい制度になるだけで人は変わります。我がままだった人や意地悪だった人が制度を変えるだけで変わってしまうと予測されます。新しい制度へ変わることが自分を変えるチャンスになり、かつての生活やかつての人間関係を変えるチャンスになります。新しい制度とは新しい人間関係をむりやり作り出すことでもあるのです。自分が五十人になってしまうのですからたいへんです。(ベーシックインカムは人間をますます孤立させるだけです。)


 学校はどうするか、犯罪はどうするか、免許や資格はどうするか、様々な問題がありますがとりあえずいまと同じようにして徐々に変えていきます。やがては学校も会社もすっかり別のものに変わるでしょう。会社や学校に行くのも犯罪を犯すのもSDではなく人間だからです。


 人間を対象として見る場合も、対象を新しい人間に変えなければなりません。消費者なども新しい人間になるということです。SDに商品を売るのではなく新しい人間に商品を売るのです。宣伝の対象は新しい人間でありSDではありません。SDの好みに合った商品ではなく新しい人間の好みに合った商品を開発するようになります。意識をそのように変えるということです。一人あたりの消費量とは新しい人間の消費量になります。宣伝や広告の対象も新しい人間になります。アンケートの対象も新しい人間であってSDではありません。新しい人間がどうしたがっているか、新しい人間の好き嫌いはどういうものか、新しい人間の意見はどうなっているかということが問題になります。国勢調査の対象も新しい人間です。SDのことをあれこれ穿鑿してはならない社会になったのです。SDの好き嫌いやSDの考えやSDの特徴を調査してはならないようになります。「あなたにおすすめの商品はこれです」の「あなた」は新しい人間です。「国民の一人一人のために」の「一人一人」とは新しい人間です。視聴者や読者も新しい人間になります。SDのための番組ではなく新しい人間のための番組を作ります。SDではなく新しい人間が読むための本を作ります。みんな新しい人間としてテレビを見たり新しい人間として本を読んだりするようになります。従業員数、失業者数、入場者数、観光客数など人間の数を数える場合もすべて新しい人間の数になります。数の存在しなくなる場合や数えることができなくなる場合もでてきます。お金を借りたり貸したりする場合ももちろんどちらも新しい人間がすることです。SDはお金を貸すことも借りることもできません。SDにお金を貸すこともSDからお金を借りることもできません。詐欺をする場合も新しい人間をだまさなければなりません。占いも新しい人間を占います。新しい占いを考えなければならないでしょう。宗教も新しい人間の宗教に変わります。新しい宗教をゼロから作らなければならないでしょう。神もこんな新しい人間が誕生するとは思っていなかったはずです。宗教について考え始めると全百巻になりそうなのでやめます。


〔新しい世界はどうやって実現されるか〕
 新しい制度は国民投票によって決まりますが、それまでの経過を簡単に説明します。まずこの新しい制度のことが人々に広がらなければなりません。それはなかなかむずかしいことです。いまのところまだ誰にも理解されません。まずこれを理解できる最初の一人に遭遇しなければなりませんが、何世紀もかかるかもしれません。そのようなことが起こる前に人類は滅亡するかもしれません。ですからそのようなことがすぐ起こると仮定します。この制度がだんだん理解されるようになったと仮定して、この制度を支持する人が増えてきたと仮定して、この制度が実現可能だと思う人が増えてきたと仮定して、ついにこの制度を採用するかどうか国民投票が実施されることになったと仮定します。そしてついにこの制度を実施することに決定します。準備が必要ですから決定した日から三年後にスタートすることにします。それまでに人間をグループ分けするITシステムと政策自動決定システムとボタン一つで財布が一つになるシステムと一瞬にして資産が共有になるシステムが作成されます。最初からいくつかの基本的な規則も必要だとだんだんわかってきましたので基本的な規則が作成されます。それらの仕事をするのはその時の政治家と官僚ですがそれが最後の仕事になるかもしれません。


 人間をグループ分けするシステムが自動配分システムということになります。これは最初の配分が終わったあとにも使われます。新しく産まれた子供の配分などに使われます。この自動配分システムは新しい人間を均一にするように作動するので、ものすごい金持ちには数百人のホームレスを合体させるように働くかもしれません。金持ちには貧乏人を合体させ、裁判官には犯罪者を合体させ、優等生には劣等性を合体させ、正反対の人間を合体させるようにプログラムされます。


 新しい制度が始まる前に新しい制度がどんなものか知っておく必要があります。すべての人が新しい制度とはどんなものか理解していなければ、新しい制度を始めることは不可能です。すべての人に新しい制度についての教科書のようなものが配布されます。問題は小さな子供と年寄りです。思考力の衰えた年寄りに新しい制度を理解してもらうことは困難かもしれません。子供のほうが簡単に理解できるはずです。新しい制度にスムーズに移行できるようにしなければなりません。新しい制度が始まる準備より、古い制度を終わらせる準備のほうがたいへんかもしれません。いままでの制度が終わる心構えが必要です。なによりも家族制度が消滅する心構えが必要です。学校や保育園や家庭で家族が仮のものにすぎなかったということを教えます。
 もうすぐいろいろなことが変わります。まずみなさんの名前が変わります。いままで一緒に暮らしていた人とは別の名前になり別々に暮らすようになります。家族がなくなるのです。家族はなくてもいいものだったからです。これからすべての人は家族を作らずに生きるようになります。ママとかパパとかいう人がいなくなります。母も父もかあさんもとうさんもです。ばばもじじもです。兄弟姉妹もなくなります。みんなそうなります。すべての人がママもパパもいなくなった新しい世界で生きるようになります。次の世界では家族よりもっとたくさんの人と一緒に生きるようになります。それは家族ではなく自分と同じ人です。自分とまったく同じ人なのだから自分です。次の世界は自分がたくさんいる世界になるのです。わかりましたか。ママやパパや兄弟姉妹が別の人に変わるわけではありません。ママやパパや兄弟姉妹というものがなくなるのです。



 ほんとうは先生にもなにが起こるのかよくわかりません。いまの世界とそんなに変わらないのか、いまの世界とはまったく違う世界なのか、それもわかりません。でもあたりまえのものなどなにもないということです。あたりまえだと思っていたものもみんな変わってしまいます。



 〔新しい世界あれこれ〕
 新しい制度が始まると日本を見に来る外国人が多くなります。日本に来る外国人は家族でも別々と人間とみなされます。また外国人はすべてSDが一人しかいない人間だとみなされます。外国人が日本の人間に組み込まれてSDになることはできます。
 外国人が日本で始まった新しい制度を見に来てもがっかりします。街の様子はかつてと同じままだからです。どこへ行っても電車に乗ってもなにも変わっていません。買い物に行っても食事に行ってもなにも変わっていません。日本の人間にとっても同じです。その辺を歩いてもなにかが変わったようには見えません。以前の世界と同じままです。誰と誰が同じ人間だとはわかりません。一緒に歩いている二人を見ても同じ人間かどうかはわかりません。しかし男と女が並んで歩いていても夫婦ではありません。大人が子供の手を引いていても親子ではありません。同じ名前の同じ人間かもしれませんし、かつて親子だった別々の人間かもしれません。あるいは別々の人間かもしれません。街なかで見かける人間はその人間のすべてではないのは確かです。「そこにいるのは人間のすべてではない」ということです。街なかにいるのは人間なのでしょうかSDなのでしょうか。どちらでもない奇妙な存在かもしれませんが、接触を試みると人間になってしまうでしょう。
 街なかで同じ人間が近づいてもSD結合もSD交換も起こりません。
 街なかで最初に起こる変化はたぶん広告の変化です。個人が消滅するのですから個人(SD)を強調した広告はなくなります。個人(SD)を強調する最大のものは顔ですから広告から一時的に顔が消滅します。顔をどう扱っていいのかわからないので使わないことにするわけです。新しい人間には特定の顔が存在しないので、顔は人間を示すものではなくなるのです。また、かつての有名人の顔を使うと、その人は別の人間に変わっているのに、過去の人間の記憶を呼び起こしてしまいます。つまり有名人の顔は旧時代を呼び起こす反動的なものになってしまったのです。やがてそれも歴史の一部になるかもしれませんが、新しい制度に変わったばかりで過去を懐かしむわけにはいきません。
 広告に使われる文章も大きく変わります。個人と家族に関するものはすべて消滅します。「頑張っているお父さんに」とか「家族の団々のお供」とか家族に関するものは無数にあります。結婚に関するものもすべて消滅します。個人(SD)を強調する広告はすべて消滅します。「あなたらしさの演出」とか「自分へのご褒美」など無数にあります。新時代の広告とはどういうものか広告会社の頭脳を悩ませます。
 街の様子より先に変わるのはテレビや新聞などのメディアです。なによりもニュースや報道の仕方が大きく変わります。メディアは人間を報道するものであってSDを報道するものではないからです。SDを取材しようとしてもSDは必ず人間として登場します。メディアには人間しか登場できません。社会的にはSDは存在しないからです。誰にカメラを向けても人間として振る舞います。誰にマイクを向けても人間として答えます。メディアはSDの世界に入り込むことはできません。ニュースや報道だけでなくすべてのい番組すべての記事がそうなります。人間しか主語にすることができないということであり、人間しか登場人物にできないのです。テレビに出てくる人間はすべて人間です。それらを制作するのもすべて人間です。このことを理解するのはとてもむずかしいことですが、自然にそうなってしまうのであり、それがすぐあたりまえのことになります。ほんとうは現在でもメディアの世界と現実の世界はぜんぜん別の世界なのです。現実の人間と別の人間がテレビに登場していると誰でもわかっているはずなのです。
 ドラマは一人の人間に五十人くらいの俳優が必要になります。この人物の午前七時の様子を見るには画面をを五十に分割しなければなりません。ちょうどコロナ時代のリモート会議のようです。


 同じ人間に会いに行くのが流行します。様々な地域に住んでいる同じ人間を訪ねて回るのです。これは「巡礼の旅」と言われるでしょう。同じ人間に会うのは特別なことです。同じ人間は家族などではなく、本人であり、自分自身であり、自分と同一人物なのです。そんな人間と出合うことがどういうことなのか、ほんとうはまだ誰にもよくわかっていません。そんなことはいままでかつて起こったことがありません。たぶんただ見つめ合うことしかできないでしょう。ほかの人間がすべて他人だった世界では人と見つめ合うことなど生涯に二三度しかありませんでした。巡礼の旅には三年から五年、あるいはもっとかかるのが普通になります。
 SDは十歳くらいになると学校など行かずに巡礼の旅に出て、同じ人間のやっていることをすべて学ぶようにしたらいいかもしれません。


 しかし、かつての人間であるSDの生活はほとんど変わらないような気がします。一日にやることは同じようなことですし、労働するということは変わりようがありません。労働はいつの時代も単調で同じことの繰り返しです。食事もトイレも入浴もなにも変わりません。天気を気にするのも同じですし、散歩で自然を感じるのも同じでしょう。それではいったいなにが変わるというのでしょう。



 〔病院の変革〕
 病気になるのはSDなのだから病気はSD単位になるとつい考えてしまいますが、そんなことはありません。病気になるのはSDだが、SDが病気になるとは人間が病気になることだと考えることもできます。あるSDが風邪を引くと人間が風邪を引いたことになり、そうするとすべてのSDが風邪を引いたことになります。そういう面もあるということです。しかし、SDに限定される面もあります。風邪の症状は風邪を引いたSDに限定され、風邪の治療も風邪を引いたSDに集中して行われます。病院に行くのも風邪を引いたSDだけでいい。病気のそういう面はSD単位になります。症状、治療、病院、カルテなどの面です。しかし病気になるのは人間ですから「風邪を引きましたが熱があるのは別のSDなので学校は休みません」と言うことが可能になります。
 風邪を引くのは人間で風邪の症状を発するのはSDなのですから、風邪を引いたけど学校を休まないSDもいるということです。病気が人間の面とSDの面に分かれるのは奇妙なことに思えますが、かつての人間にもそういうことがありました。左足に靴擦れが出来てもほかの部分はなんともありません。靴擦れは左足だけでほかの部分は靴擦れではありません。靴をはかない手が靴擦れなどということはありません。それでも「私は靴擦れになった」と人間全体が靴擦れであるかのように言います。一つの肉体を一人の人間にする制度だったからです。その人間が新しい人間に変わっただけです。だから少しも難しいことではないのです。
 病院の診断や治療はSD単位ですが、病院のすべての面がSD単位になるわけではありません。保険は人間の保険ですし、料金を払うのも人間です。SDの全員がまったく同じ健康保険証を持っています。新しい人間はさまざまな仕事をしていますから、会社単位や職業単位の健康保険はなくなり国民健康保険のようなものに統一されるでしょう。すべての保険が統一されてオールマイティー保険になるということも考えられます。


 病気のSDは人間の名前で人間として病院に行きますが、病気のSDはSD交換できません。同じ人間のSDが同じ病院にいく場合は「Kさん1」「Kさん2」のように区別する必要があるでしょう。医療費が無料になっていないなら、支払いは一緒になります。
 ワクチン接種はどうなるでしょう。やはりSD単位にするしかないように思えます。どのSDに接種したかわかるようにしなければなりませんから、SDを区別する必要があるということです。そうすると外部機関にSDが管理されるということになります。ワクチンだけでなくSD別にしなければならないことはそうなってしまいます(これは免許・資格問題にも関係しています)。外部機関によるSD管理は新しい制度に反することですから別の方法を考えなければなりません。SD管理はすべて新しい人間の内側で行うことにします。SDが57人いるなら新しい人間に57人分のワクチンを割り当てるのです。それを57人のSDに配分する仕事はその人間の仕事になります。接種会場にSDを順番に送り込むのです。接種会場ではどのSDもみんな同じ人間ですから、同じ人間にワクチンを57回打ったことになります。それでも実際はそれぞれのSDに一回ずつ打ったのですが、そのことはその新しい人間だけが知っていることです。


 患者はSD交換できませんが、医師や看護師はSD交換できるのしょうか。新しい制度では基本中の基本ですからもちろんできます。「患者」「医師」「看護師」という言い方は個人中心主義時代の残骸です。その時代は人間=職業であり、それが人間を一つの仕事に縛り付けるように作用していました。新しい時代には「病気の人」「医療の仕事をしている人」という言い方になるでしょう。その仕事をしていない時間は医師でも看護師でもありません。(何度も同じことを言っているようです。)


 (追加。SDが病気になっても病気になるのは人間のほうだと考えてきましたが違うかもしれません。SDが病気になっても人間は病気にはならない、ということになるかもしれません。SDが全員病気になっても人間は病気ではないということです。つまり、新しい人間は病気になることができないということになります。)


 追加。
 それから三年ほどして別の考えがやってきました。義務教育で医療を必修科目にするのです(教育も変わってしまうのですが)。すべての人間が医療を学ぶわけです。料理や裁縫や木工を学ぶのと同じです。誰でも料理ができるようになるように医療もできるようにします。料理も医療も同じくらい普段の生活に密着したものなのですから片方だけを優先するのがおかしなことだったのです。そしてたいていの病気は自分で治療できるようにすればいい。もちろん身近な人の治療もできます。互いに互いの治療ができるわけです。そう考えれば、いままでなぜ医療が医者の独占だったのか、そのほうが不思議なことに思えてきます。医療は医者がするものだと思い込んでいたいただけです。そのためにすっかり医者に頼るようになってしまいました。自分はなにもしてはならないと思うようになりました。
 注射や診察や簡単な手術は誰でもできるようにします。常に主治医が一緒にいるようなものです。考えてみてください。医療とは生きることの基本中の基本のようなものです。生きるということは自分の状態を観察し調節し続けることです。自分を一定の状態に維持し続けることです。刻一刻と自分を診察・治療しているわけです。ですから教育の基本とは、読み書き・そろばん・医術です。食べ物はすべて薬なのですから、食べることも医療に含まれます。食べ物はすべて自然物ですから、博物学や生物学も医療に含まれます。



 〔免許・資格をどうするか〕
 これは免許・資格問題になります。免許・資格はSD限定にするか人間単位にするかという問題です。そして必然的に人間単位になります。免許・資格は新しい人間に与えられるものになります。免許・資格制度が残っていればのことですが。改革の初めにおいては、SDの誰かに免許・資格があれば、それは人間のものになります。SDの誰でも使用できるようになるということです。それはつまり、どのSDがそれを使用するかは人間が決めるということです。もっと簡単に言えば、運転免許があっても運転できないSDは運転できないということです。しかし、運転できないSDも運転できるSDから運転を習えば運転できるようになります。免許が人間の内側で自然増殖するかのようです。
 個人中心主義の世界から新しい世界を見れば奇妙な世界に見えますが、新しい世界から個人中心主義の世界を見ればとても奇妙な世界です。学校の試験を個人別にするなんてなんという奇妙な世界なのでしょう。そうしてそんなことをするのかまったくわかりません。
 死ぬことは病気よりもっとSD的なことです。新しい人間は死にませんから「誰かが死んだ」というニュースは消滅します。地震や火事があっても誰も死にません。「死者何人」「何人死亡」というニュースはなくなります。SDが癌になると人間も癌になるのですが、SDが死んでも人間は死にません。


 〔犯罪はどう変わるか〕
 犯罪や刑罰がどうなるか考えてみます。犯罪や刑罰も対象は新しい人間になります。罪を犯すのは人間であってSDではありませんし、罰を受けるのは人間であってSDではありません。SDは人間として犯罪を実行するのであってSDとして犯罪を行うことはできません。罰を受けるのも人間であってSDではありません。ですから犯罪の種類も刑罰の種類も違うものになるはずです。たとえば、新しい人間には死が存在しないので殺人罪はなくなるか、別のものに変わるかするでしょう。死刑も不可能になります。新しい人間を禁固にしたり懲役にするのも簡単なことではありません。
 犯罪を犯すのが人間なら被害者も人間ということになります。犯罪は相手の人間のSD全員を相手にして実行されるということです。加害者も被害者も人間ということは、加害者も被害者もSD全員ということです。犯罪捜査をするのも複雑になりますし、裁判をするのもたいへんです。推理小説を書くのはもっとたいへんです。
 ここからわかるのは、かつての犯罪や刑罰はひどく個人中心主義になっていたということです。グループで犯罪を犯しても個人別の犯罪にされ、個人別の刑罰になっていました。すべてを個人単位にしてわかりやすくしていたのです。特に刑罰は極端に個人中心主義になっていました。死刑、禁固、懲役、罰金などは個人だから可能な刑罰です。新しい人間を閉じ込めても次々にSD交換してしまうのであまり効果はないでしょう。
 ついでに言ってしまえば、かつての世界の禁固や懲役にもなんの効果もありませんでした。刑罰としても効果もなければ更生という効果もありませんでした。さらに言えば、罰金がなぜ刑罰になるのかまったく理解できません。罰金はその人のお金を取るのですから犯罪ではないでしょうか。犯罪に対して行う犯罪が刑罰なのでしょうか。これが目には目、歯には歯ということかもしれません。古色蒼然としています。刑罰の世界は何千年も変わっていないようです。それだけではありません。罰金が刑罰なら税金も刑罰になるはずです。もっと単純に考えても罰金がなぜ刑罰になるのかさっぱりわかりません。金を奪えば相手はそうとう苦しむはずだと考えているようです。そこには「お金ほどたいせつなものはない」「金がすべてだ」という思想が隠されています(丸見えですが)。だから罰金は「金がすべてだ」という思想の持ち主にしか効果がありません。つまり罰金という刑罰を考案して維持している権力者集団は、「金がすべて」という思想でない人間はいないと思っているにちがいありません。
 禁固とか懲役といった刑罰もよくわかりません。そんなことで苦しむ人もいませんし、そんなことで思想を変える人もいません。社会から犯罪を起こしそうな人を排除するという意味しかありません。禁固や懲役は犯罪者のためにあるのではなく社会のためにあるのです。禁固や懲役は刑罰ではなく単なる隔離政策です。ですから、社会から犯罪を起こしそうな人を排除できればなんでもいいということになります。犯罪者を隔離すればいいのですから孤島に送るとか、火星移住させるとか、冷凍保存するとか、竜宮城でずっと眠ってもらうとかでもいいはずです。
 罰金も禁固も懲役もぜんぜん刑罰になっていません。われわれはどういうわけか刑罰についてなにも考えてこなかったようです。新商品は次々に考案されますが新しい刑罰を考える人はいないようです。最新式の刑罰を募集しましょう。もしかしたら現代社会に生きることが最高の刑罰かもしれません。
 懲役は勉学にしたほうがいいかもしれません。勉学の刑であり勉学十年の刑に処するです。東大を勉学刑務所にします。そこを出所すると官僚になるしかありません。しかしそれは新しい世界ではできません。
 人間が新しい人間に変わると犯罪も刑罰も新しくなります。既存の犯罪に関しても増える犯罪もあれば減る犯罪もあると予測されます。結婚・家族にかかわる犯罪は消滅します。しかし、犯罪は大きく減少するはずです。なぜなら現在の犯罪のほとんどは人間が個人単位で生きなければならないから発生しています。個人で生きるのはたいへんなことです。まずなによりも自分が生きるためのお金はすべて自分で獲得しなければなりません。ちょっとした失敗でお金がなくなるとそれだけで生きていけなくなります。
 現在の世界で個人で生きるのはたいへんです。個人で生きなければならないことが人間にたいへんな負担を与えています。そして耐えられなくて破綻する人間が大量発生しています。個人ですることが多すぎるし、個人で決めなければならないことが多すぎる。個人の義務や責任が多すぎる。学校も会社も個人として行かなければならない。しかも毎日同じ学校同じ会社に行く。どんな試験もたいてい個人で受ける。税金や保険も個人単位だ。収入も貯金も個人単位だ。買うものはすべて自分のお金で買わなければならない。食べる物も起きる時間も自分で決める。結婚するかどうかは自分が決める。結婚相手も自分が決める。風呂もトイレも自分一人ですべてする。批判されるのも嫌われるのも個人だ。いじめられるのもハラスメントを受けるのも個人だ。嫌なことはすべて個人単位だ。職務質問されるのも個人だし、警察に連行されるのも個人だ。個人でいるのはたいへんだ。個人でいるのはたいへんなストレスだ。疲れるのも、怪我をするのも、病気になるのも、死ぬのも個人だ。忙しくて個人でなくてもいい時間がどこにもない。眠っていても個人だし、夢の中でも個人だ。個人でいることは疲れる。自分のことはほとんど自分でしなければならない。自分で自分に命令し、自分で自分を動かす。自分の世話であり、自分の介護だ。自分で自分の口に食物を運んでやらなければならない。一日に何度も下の世話もする。自分が他人にどう思われているかも考えなければならない。犯罪のほとんどは人間が一人で生きていかなければならないから起こったのです。


 新しい世界になると犯罪も変わります。個人がいなくなるのですから個人に対する恨み、憎悪、嫌悪というものが変化するでしょう。目の前にいる人間は人間の一部分にすぎません。また、SDの個人的な感情や意見は重要なものではなくなります。SDの個人的な欲求を重視することもなくなります。欲しいものがなくなるということです。新しい制度になると新しく発生する犯罪もあります。どういう新しい犯罪が発生するか考えてみましたが想像力が不足しているので思いつきません。人間の内側と外側では犯罪も別々になるかもしれません。
 環境破壊罪、自動車走行音発生罪、ゴミ処理不備罪などもできます。
 新しい世界になると刑罰も新しくなります。罰金と懲役は廃止です。新しい刑罰としてSD全入れ換えなどが考えられます。人間をそのままにして別の人間とすべてのSDが入れ換わります。新しい制度になるとそういうことが可能になります。名前も家も職業も所有物もすべてそのままにしてSDだけが入れ換わるのです。(追加補足。このSD全入れ換えは刑罰になるのではなく、何年に一回は行われることにするということも可能です。)
 また、新しい制度になると警察官と犯罪者が同じ人間ということが起こります。弁護士と犯罪者が同じ人間、裁判官と犯罪者が同じ人間、刑務官と受刑者が同じ人間ということも起こります。警察官と犯罪者が同じ人間ということは現在でも起こることですが、現在ではすぐに合体して犯罪者だけになります。新しい制度では同じ人間を弁護したり同じ人間を裁くことを禁止する規則が必要になります。


 追加。 
 犯罪について考えてみましたが、頭をクリアにしてもう一度考えてみます。
 刑法の対象になるのは新しい人間であってSDではありません。
 一人の人間のSDはすべて完全に同じ人間だとみなさなければなりません。一人の人間のSDはすべて同一人物です。SDとSDの違いを問題にしてはなりません。これが犯罪捜査の基本になります。
 犯罪は社会的な行動です。社会的な行動はすべて人間が行うものです。SDとして犯罪を行うことはできません。(しかし、犯罪の被害はSDまで及ぶことがあります。)だから、犯罪の捜査は人間が対象になります。
 (注。現代でも犯罪は社会的な行動です。また、犯罪はすべて社会制度が必然的に生み出すものです。通り魔やストーカーも現在の社会制度が必然的に生み出すものです。だから真の犯人は社会制度ということになります。真の犯人は社会制度なのに、犯罪行動を行った人間を罰することにしました。社会制度を罰することができないからです。社会制度は社会制度を維持するために人間に罪を着せました。)(人間を罰する以外に犯罪を減らす方法を思いつかなかったようです。その方法もあまり効果はないようですが。)(交通事故が起こるのは交通事故が起こるように自動車や都市を設計したからです。