新時代2(前のつづき)

 司法権の移行。
 万引き事件が発生しました。万引きをしたのは人間であってSDではありません。ですからその人間を捜査することになります。犯人が特定され万引きしたことを認めます。どのSDが万引きをしたかは関係ありません。それは人間の内側の問題であってその人間だけで解決する問題です。犯人はその人間のSD全員ということになります。犯人は被害額を弁償し店と和解します。ほかにもなにかその店のためになることをしようとするかもしれません。このような場合は犯罪と認定されません。司法の権限はすべて犯人である人間に移行し、犯人が自分で刑罰を決めます。これが司法権の移行と呼ばれます。多くの犯罪の司法権が新しい人間に移行されます。
 そうすると罪が軽くなるようですがそんなことはありません。新しい人間の内側では外側とは違うことが起こります。人間の内側の世界はかつての世界に似ているのであり、人間の内側ではSDの一人が万引きをしたことが問題になるはずです。だから、そのSDをどうするかが問題になります。人間としては無罪になったとしても、人間の内側ではSDはその人間の規則によって裁かれるというわけです。新しい人間の規則は人間によって違います。SDが人間から追放されるということもあり得ます。そうなると一人のSDしかいない人間として生きていかなければならなくなるなります。新しい世界で一人SDしかいない人間として生きることはどういうことなのか。現在のわれわれにはとても想像できません。


 〔学校の改革〕
 学校はどうなるでしょう。学校も最初はいままでと同じようにします。いままでと同じようにするとは当分はSD交換もSD結合もしないようにしようということです。SD交換とSD結合が始まるのは第二段階ということになるわけです。でも人間はみんな新しい人間に変わります。それはすぐに起こることです。生徒も教師も校長も新しい人間に変わります。ほんとうは生徒や教師や校長をやっている人間がいるだけで、生徒や教師や校長という人間がいるわけではありません。人間=職業ではなくなるのです。みんな名前が変わり性別も年齢もない人間になります。生徒も教師と対等な人間であり、経済的にも独立した人間です。親のすねをかじっているわけではないのです。それだけでもたいへんな変化です。生徒の年齢がなくなるとどうなるでしょう。年齢でなにかを決めることができなくなります。いつ小学校に行くかいつ中学校に移動するかわからなくなります。それだけではありません。年齢がなくなると学年というものがなくなるはずです。学年がなくなるとはどういうことでしょう。学年が上がることも下がることもないということです。それはつまりずっと同じ所にいるということです。そうなると学年とは別の学年のようなものが作られるかもしれません。勉強がだんだん進んでいく仕組みがあればいいのです。そんなふうにして学校もだんだん変わって行きます。
 さてどうしたらいいのかみんな考えます。学校はSD単位にしようとある思考が考えます。いや可能なだけ人間単位にするのが新しい制度の基本の規則だと別の思考が考えます。義務教育だけSD単位にして、ほかの学校は人間単位にしようという案が浮上します。そうすると小学校と中学校はいままでとあまり変わりないようです。ただみんな新しい人間の名前に変わります。家族がなくなるので家族に関係したことはなくなります。
 しかし、義務教育を残すと、同じタイプのSDの集団を作らないようにするという基本的な方針に反することになります。同じタイプの集団とは、犯罪者だけの集団とか、サッカー愛好者だけの集団とか、政治家だけの集団とかであって、一つのタイプしかいない場合は例外になります。同じタイプの集団のなかでも同じ年齢の集団は最悪のものです。現在の小中学校のように同じ年齢の人間を集めて教育をするのは最悪の教育です。小中学生の集団を見ればすぐにわかることですから説明はしません。それがわからなければ自分の教育をやり直すしかありません。さらに同じ年齢の集団の中に一人だけ歳の離れた人間がいる集団は異常な集団です。一刻も早く抜け出すしかありません。ですから、同じ年齢のSDを集めたクラスではなく、様々な年齢のSDを集めたクラスになります。というよりこの際ですからクラスは廃止にしましょう。年齢の低いSDは移動が多くなるのですからどこの学校に行ってもよくなるはずです。その時々で行きたい学校に行き、入りたい教室に入り、受けたい授業を受ける。そんなことも考えられます。あるいは義務教育の勉強は自分でやるほうがいいかもしれません。新しい人間そのものが学校のようなものです。


 問題は人間単位になった学校です。高校や大学が人間単位になるとどうなるのでしょう。人間単位になるとはSD交換とSD結合が可能になるということです。新しい人間が学校に籍を置くとはSD全員が籍を置くということであり、SDは誰でも学校に行けるということです。最初はできるだけSD交換とSD結合をしないようにします。それをするだけの体制が整っていないからです。でも基本的な問題は次々に発生します。まずわかるのは新しい人間の成績を測定することは不可能だということです。成績を測定することが不可能だということは試験が不可能だということです。試験が不可能だということは入学試験ができないということです。それだけではなく進級試験もできないし、卒業試験もできません。また、成績を測定することができなければ、成績が上がったことも下がったこともわかりません。入学させることも進級させることも卒業させることもできません。
 学校をどう変えるかを考え始めると果てしのない問題だとわかります。すべてを変えたくなってきます。学校という言い方も変えたくなります。学校は大きく二つに分けましょう。技術を習得するための学校と基本的なことを勉強するための学校です。そしてどちらも学校と呼ばないことにします。技術習得所と人間塾と呼ぶのはどうでしょうか。まったくよくありません。現在の学校ではこの二つが混じり合って区別できなくなっています。医者の仕事技術を習得することは技術の習得です。外国語を習得することは技術の習得です。役所の仕事や会社の事務を習得することも技術の習得です。運転技術の習得と同じです。現在の学問とか勉強とか言われているもののほとんどは技術の習得です。歴史を説明する技術、生物を分類する技術、遺伝子を解析する技術、宇宙の構造を解明する技術、資本を増殖させる技術など、現在の学校で研究されていることはほとんどが技術です。それらの技術は特定のSDに習得してもらうのがいいでしょう。そのSDは人間として技術を習得するのであって、SD単位になっているのではありません。技術を習得するための機関は学校ではなく会社になるかもしれません。自動車学校を考えてみればそれがわかります。自動車学校は学校ではなく運転技術を売る会社ということになるからです。顧客はお金を払って運転技術を買っているのです。外国語学校は外国語技術を売る会社になります。看護師学校は看護技術を売る会社になります。会社が技術の習得を受け持つという方法もあります。会社の仕事に必要な技術を習得するのは会社の仕事になるということです。自動車会社に就職して働きながら仕事に必要な技術を習得するという方法であり、すでにどこの会社でもやっていることですが、医者なども病院で働きながら医療技術を習得するようにするのです。医療技術の習得が仕事になるわけです。
 しかしすでに現代のほとんどの大学・高校などの実態は技術販売会社です。高額の 金額で技術を売っているだけです。実戦では使えない技術ばかりですが。学校・教育などと言っていますが企業の出先機関にすぎません。
 もう一方の学校は最も簡単に言えば真理の探究をする学校のようなものということになります。そのような学校が各地にあり、新しい人間は最初からその学校に所属しています。常時所属しているので、入学も卒業も途中停止もありません。すべての人間は生涯に渡ってずっと学校に通うことになります。教会に通うようなものです。あるいはトイレに通うようなものです。行きたいときに行きたい学校に行き、この世界がどういう構造になっているかを探求し、人間は次にどこに向かうかを考えます。新しい制度の次には次の制度があるのです。義務教育の学校に行っている年齢の低いSDはその学校にも行けます。その学校にはもう先生もいません。机も出席簿も教室もないでしょう。そういう学校を想像してみるとなんとなく江戸時代の藩校とか私塾に似ています。そこではおもに本を読んであれこれ世の中のことを考えることをしていたようです。江戸時代の技術の習得は働きながらやっていました。技術の習得は仕事に組み込まれていたのです。農業技術を習得してから農場で働くのではなく、農場で働きながら農業技術を習得したのです。


 新しい制度になると人間の能力を測定したり比較したりすることが不可能になるのです。どんな能力でもです。ですから試験とか成績とかいったものが存在しない学校制度に変化していくということです。(試験が残るとするなら成績の悪い人が合格する試験になります。素直に考えれば、成績の悪い人のほうを教育するのが当然のことであり自然なことです。)
 (追加補足。試験をして成績のいい人を入学させる教育は奇怪なものだということがわかってきました。真の教育は成績の悪い人間を教育するものだからです。なぜなら、教育するとは無能な人間を有能にすることです。なにもわからない人間をいろいろなことのわかる人間にすることです。人間は教育しなければなにもわからないままです。だから教育する必要があるのです。人間はいろいろなことを知ってやっと人間になります。生まれただけでは人間ではありません。生まれてからいろいろなことを知ってやっと人間になるのです。ですから無能な人間を教育するのが教育です。ですから成績の悪いほうを入学させるのがほんとうです。成績のいい人は教育する必要がないということです。成績のいい人間を入学させるいまの教育は完全に狂っています。たぶんずっとそうやってきたのでそれが癖になっているだけです。かつては政府に都合のいい人間を養成する機関にすぎなかったからです。成績のいい人間を選んで教育するとなにが起こるかはっきりしています。成績の悪い人間と成績のいい人間の格差がさらに拡大するということです。現在の高校や大学は人間の格差を拡大するのが役目ということになります。年収一千万の階級と年収二百万の階級に分けているのです。注意・これは現在の情況分析であり、新しい世界のことではありません。現在の情況分析ほどつまらないものはありません。)


 新しい制度になると学校はどのように変化するでしょうか。最初に学校に起こる変化は授業内容の変化です。教科書の内容をすべて新しい制度に変えなければなりませんし、教科書に出てくる人間をすべて新しい人間に変えなければなりません。教科書だけでなくすべての本、すべての資料、すべての記録、ネット上の全記述・全音声記録を変えなければなりません。たぶん新しい教科書を作ったほうが早いでしょう。ネットも一度すべてを消去したほうがいいでしょう。そのように新しい制度に合わせてあらゆることが変わっていきます。
 教科書や本に人間が登場する場合には、その人間がかつての人間なのか新しい人間なのか区別しなければなりません。区別しなければならないのはすべての人名と、「人間」「人」「私」「あなた」「縄文人」「白人」「スペイン人」など人間に関する言葉すべてです。「私がまだ若かったころ」という記述の「私」はかつての人間なのか新しい人間なのかわかりません。新しい人間には年齢がありませんからかつての人間だと推理できます。「北朝鮮から帰ってきた日本人」という記述の「日本人」はかつての人間なのか新しい人間なのかわかりません。どこかを修正する必要があります。「天明の大飢饉で死んだ農民」という記述の「農民」とはなんでしょう。新しい人間が農業だけをやっているということはあり得ませんからたぶんかつての人間です。人間=職業だった時代の人間です。それともSDの全員が農業をやっている人間がいたのでしょうか。「昨日の私は自分のやっていることを知ることができなかった」という記述の「私」は新しい人間です。新しい人間が自分のやっていることをほとんど知らないのは普通のことです。「AKB48は2008年に結成されました」の「AKB48」とはなんでしょう。その年にはまだ新しい人間は存在しませんが名前から推理すると新しい人間のようなものでしょう。48人のSDがいたに違いありません。たぶん実験的に新しい人間が作られたのです。
 人間が登場しない教科はほとんど変化しません。数学、物理、化学、地学などです。生物学もあまり変わらないでしょうが、一つの個体を生物の基本単位とする考え方は修正されます。イワシの群れは群れのほうが基本単位であって、一匹一匹のイワシはオオイワシの部分にすぎないかもしれません。また、生物を観察すれば家族が制度にすぎないということがよくわかるはずです。子供を育てているから親子だと思うのは錯覚です。生物は子供なら別の種でも育てることがあります。食べてしまうこともありますが食べることと育てることは紙一重の違いしかありません。地理にも人間が登場するので用心してください。制度が違うと国によって人口の数え方が変わります。一人の人間が様々な地域に分散して存在する国もあります。そうなると人口密度は計算できません。
 (追加補足。以前の本に出てくる人間はすべてSDだったということにすればいいのかもしれません。かつての人間がみんなSDになったのですから、過去の人間もSDになるというわけです。そうすると人類の歴史ではいままでSDしか存在しなかったのであり、新しい制度になって初めて人間が出現したことになります。)



 〔新しい世界の恋愛と性〕
 家族制度が廃止になると恋愛というものも変化します。恋愛というものは結婚制度と家族制度が存在しているから存在するのではないでしょうか。するすると、結婚制度と家族制度がなくなれば恋愛は消滅するはずです。これは仮説です。かつて光は重力によって曲がるという仮説がありやがてそれが証明されました。結婚制度と家族制度がなくなれば恋愛は消滅するという仮説はどうすれば証明されるでしょう。結婚制度と家族制度をなくしてみれば証明できるはずです。恋愛とは結婚・家族制度が生み出した幻想ではないでしょうか。
 いや、そんなことはありません。恋愛はセックスとも関係しているはずです。結婚・家族制度がなくなってもセックスは残るはずです。セックスが残れば恋愛も残るはずです。セックスと恋愛は密接に関係しているはずです。そう思われています。簡単な言い方をすると「好きだからセックスをする」ということになっているからです。でもほんとにそうでしょうか。少し考えてみるとだんだんあやしくなってきます。「好き」と「セックス」というぜんぜん違うものをむりやり合体させているような気がしてきます。
 もう少し考えてみましょう。「好きだからセックスをする」ということになっていますが、セックスがしたいから好きになるとも考えられます。疑問が次々に発生します。セックスしたいから好きなのか。セックスするために好きになるのか。好きになったらセックスしなければならないのか。好きだからセックスしてもいいのか。セックスしてもいいほど好きなのか。誰とセックスしていいのかわからないので好きな人とセックスすることにしたのか。セックスなどは好きでなければとてもできないものなのか。セックスしても嫌いにならないほど好きなのか。セックスしても嫌いにならないからほんとうに好きだとわかるのか。好きだからセックスしたくないということも可能なのではないか。嫌いな人とセックスをするという制度でもいいのではないか。子供ができてしまうかもしれないのになぜわざわざセックスするのか。好きとセックスはほとんど関係ないのではないか。このように性と恋愛はもつれにもつれて解きほぐすことができなくなってしまいました。純粋な恋愛を取り出すこともできないし、純粋な性を取り出すこともできなくなったのです。もつれにもつれた性と恋愛をむりやり合体させ、それをさらに結婚・家族制度に合体させました。その結果、性と恋愛と結婚・家族制度が複雑に絡み合ってわけがわからなくなりました。そしてたぶん結婚・家族制度が消滅すればそれらの結合がばらばらになり、恋愛も消滅して、性だけが残るというシナリオです。


 別の角度から考えてみます。
 家族制度が廃止になると二つの大きな問題が発生します。子供をどうやって作るかという問題と性欲処理の問題です。この二つの問題は結婚・家族制度の中で連動していましたが、新しい制度では分離されます。新しい制度では結婚・家族制度と関係なく子供が作られます。子供を作るための制度が新しく作られるわけです。それは子供を作るためだけの制度であり、性欲の問題とはあまり関係がなくなります(完全に関係がなくなるわけではありません)。そうすると性欲処理問題だけがぽつんと残ります。純粋な性欲を純粋に処理するだけの問題です。そういう純粋な性欲が存在すると仮定されているわけですが、そもそもそんなもそもそした純粋な性欲など存在するのでしょうか。
 結婚とも恋愛とも関係のない純粋な性欲があるとするなら、結婚や恋愛が消滅しても性欲をどうにかしなければならないという問題が残ります。結婚とも恋愛とも関係ない純粋な性欲とはどういうものなのでしょう。ほかの生物がヒントになります。NHKでよくやっている動物ドキュメントです。純粋な性欲とはなにかを放出したいという欲望ではないでしょうか。体内に溜まった異物を放出したいという欲望です。それを個体だけでは放出できない仕組みになっているようです。つまり性欲とはなにかを排出したいという欲求のようです。
 性欲は子供を作ることと関係があると思われています。性欲がなければ子供ができないのでしょうか。そんなことはありません。性欲がなくても性交をすれば子供ができます。だから性欲と子供を作ることはあまり関係がないのです。性欲ー性交ー妊娠という関係になっていて、性欲は性交と関係しているだけで妊娠とは直接に関係していません。子供を作るために必要なのは性交であって性欲ではないのです。では性欲とはいったいなんなのでしょう。性欲がなければ性交をしないので性欲が作られたと考えることができます。性交したくなるために性欲が作られたということです。つまり性交はそれほどしたいものではないので、したくなるように性欲が作られたというわけです。性交の補助役のようなものです。そういうよくわからない孤独な仕事に従事している性欲は自分がなんのために存在しているのかわからなくなってしまいます。そしてあれこれ余計な仕事に手を染めることになります。
 もう少し性欲探検の旅を続けます。
 性欲は不思議な欲望です。そんな欲望がほんとうに存在するのかよくわかりません。様々な欲望が混じり合っているようです。様々な欲望が複合してどれが純粋な性欲なのかわかりません。別の人間と親密になりたいという欲望が含まれています。別の人間というより別の肉体です。性欲とはなによりも別の肉体に対する欲望です。別の肉体に近づきたい、触れたいという欲望が含まれています。見たことがないものを見たいという欲望もあります。隠されているものを見たいという欲望です。美への欲望も含まれています。別の状態になりたいという欲望もあります。自分を変えたいという欲望です。ほかの人間を支配したいという欲望も感知できます。このように性欲は様々な欲望が結合して奇怪な欲望になっています。だからどんなものにも結びついてしまい、自動車とセックスする人もいるそうです。人によって性欲の形態がずいぶん違うということです。
 性欲の本質は別の肉体の探究かもしれません。別の人間の私的な領域に侵入しようとしています。だからそれは宇宙探検に似ています。どうやって別の星に到達するか、どうやって別の星を探索するか、それと同じことです。そういう途方もない欲望なのです。そんな途方もない欲望をどうしていいのかわれわれにはわかりません。どうすれば性欲が解消されるのかわからないし、性欲がなくなったことを確認する方法もありません。性交・射精は終わりのサインではないでしょうか。そこで性欲が終わったことにしないといつまでも終わらせることができないからです。
 自分を観察してみてください。ほかにも性欲にはよくわからない欲望がいろいろ含まれているようです。支配欲・独占欲も含まれていますし、死の欲望が含まれているという人もいますし、解剖学的な欲望が含まれているという人もいます。解剖学的な欲望とはどういうものかよくわかりませんが、性欲にはそういうよくわからない欲望がいろいろ検出されるということです。よくわからない欲望の寄せ集めが性欲なのかもしれません。もっと根源的な「生欲」といったほうがいいかもしれません。肉体のあちこちからよくわからない欲望がたくさん噴き出しているわけです。日本列島のあちこちから様々な液体や気体が噴き出しているようなものです。そういうものを一つにまとめたのが性欲です。


 そういうわけのわからない性欲が単独で残ると予測されます。恋愛・結婚・家族・妊娠・出産から分離した純粋な性欲です。そんな野放しになった性欲をどうやって処理するかが問題になります。SDごとに性欲の形態も処理方法も違うはずです(性欲はたぶんSD固有の問題です)。性欲の処理が完全に自由になるとどうなるでしょう。かつて「フリーセックス」とか「性の解放」と言われていたやつです。電車でも道端でもそこいらじゅうでセックスしているという状態になるのでしょうか。この問題はいまのところどうなるのかまったく想像できません。結婚・家族制度とは性欲を制御する方法だったのかもしれません。


 追加補足。
 性交と性行為を別々に考えたほうがいいかもしれません。性交それ自体は生理的・物理的な現象にすぎないと思われるからです。だから性交だけをするなら人工的な性器でいいはずです。性行為になるとどうしても相手が必要になります。性行為とは別の人間の特別な関係になることです。別の人間と特別な関係になる方法はいろいろありますが、性行為もその一つです。わりと手軽で簡単な方法かもしれません。だから性行為でなければ別の人間と特別な関係を作ることができない人間が多くなるようです。性行為はなぜ特別な関係になるのでしょうか。特別な人間としか性行為をしないということによって性行為は特別な関係になります。誰とでも簡単に性行為をする社会では性行為は特別な関係になりません。また、結婚にはほかの人とは性行為しませんという契約が含まれています。それによって結婚が特別な関係になります。




 新しいセックスについて考えて見ます。
 一人で処理できる場合もあれば相手が必要な場合もあります。相手が必要な場合は相手を見つける必要があります。どうやって相手を見つけるかが問題になります。仲介する機関を作るのではなく直接予約制にします。セックスしたい相手に自分が直接予約カードを渡します(どうやって渡すかが問題です)。相手は誰でもかまいません。性別の制限はありませんが年齢の制限は必要かもしれません。この制度を理解できる年齢でなければならないでしょう。このセックス予約カードは絶対に受け取らなければならない決まりにします。予約カードには連絡先とメニューが書かれています(メニューは何万種類もあります)。予約を受けるかどうかは自由です。ことわる場合も必ず連絡しましょう。これは一回限定なので次のときはまた最初からやらなければなりません。そういう方法も考えられますが、もっと細部を詰める必要がありますし(予約が殺到する場合の対処法など)、まったく違う方法もいろいろありそうです。
 こういったことを考えていると、セックスの相手を限定するという考え方は結婚・家族制度に性が組み込まれたことによって起こったことだ、ということもわかってきます。相手を一人か二人に限定し同じ相手を独占し続けるという方式は結婚・家族制度が生み出したものであり、結婚・家族制度がなくなると消えていくだろうと予測できます。(そういう支配・独占欲がストーカーにはたくさん含まれていると思われます。)


 追加。
 性欲はよくわからない欲望です。だんだんはっきりしてきたことはセックスでは決して満たされることはないということです。性欲はもっと巨大な欲望のようです。放出しなければならないエネルギーを100とするとセックスで放出できるのは10くらいでしょう。やればやるほどますます欲求不満になるわけです。性欲は生物の全歴史に関係しています。過去に存在したすべての生物の欲望がつながってここに到達しているというイメージになります。細胞の一個一個に性欲が存在しているのです。
 われわれはもっとオナニーを研究したほうがいいでしょう。究極のオナニーです。そこに登場するのが究極のオナニーマシン、性欲処理装置です。性欲処理装置は純粋な性欲を純粋に処理する装置です。性欲処理装置などと呼ばずに別の名前で呼ばれるようになるでしょう。イザナギなどが候補になります。透明で柔らかい穴の通路があり、穴の入口は普段は閉まっているのですが、その入口から裸になったSDの肉体が吸い込まれます。口と鼻には呼吸のための管がつながっていますが、それ以外は完全に裸です。裸の肉体はその穴の奥へと吸い込まれて行きます。透明な穴の壁が全身にくまなく吸い付いて締め付けてきます。ほかにも様々な秘密の仕掛けがあります。穴の奥には小部屋があり生物の体内のようになっています。そこにはたくさんの原始生物が生息していて、肉体の諸部分で様々な特殊な活動を行います。それからまた穴を通ってこの世に帰還すると別の生物に変わってしまったかのようです。そのような施設がたくさん作られます。そこからすべてのSDに年一回招待状が届きます。これは特別にSD単位になります。年齢制限も必要です。この性欲処理装置を実際に体験したSDの感想は割愛します。
 性欲処理問題を解決する方法はほかにもたくさんあるはずです。みなさんが考えてください。


 さらなる疑問。
 新しい世界になっても恋愛と性はかつての人間であるSDの問題だと考えていましたがほんとうにそうなのでしょうか。新しい人間と新しい人間が性的に関係することは不可能ですが、新しい人間と新しい人間が恋愛することは可能かもしれません。
 新しい世界になってもSDは恋愛したり性的に関係したりするのでしょうか。たぶんするでしょう。しかし、新しい世界でSDの恋愛や性関係はなにを意味するのでしょうか。なんの発展もないことだからです。
 新しい世界ではSDは自分がどこまでSDでどこまで人間なのかよくわからない存在です。SDとして行動しているのか人間として行動しているのかわからなくなります。自分もそうなら相手もそうです。相手をSDとして関係しているのか相手を人間として関係しているのかわからなくなりそうです。別の人間のSDを好きになるとしても、SDとして好きなのか人間として好きなのか、あるいは両方なのか、そういう様々な関係があります。相手を人間として好きなら相手がSD交換してもかまわないということになります。人間・SD関係がものすごく複雑になります。これはもうやってみなければどうなるかわかりません。


 附録〔ジェンダー問題について〕
 「ジェンダー」などという奇妙な言葉を使うことがすでに問題ですが、ジェンダー問題の出発点にあるのは、肉体の性別と心の性別が違うという考え方です。生まれつきの肉体の性別と生まれつきの心の性別が違っていると言うのです。肉体の性別と別に心の性別があり、どちらも生まれつきのものだと考えられています。肉体の性別は生まれつきのものなのでしょう。しかしそれは男と女の別というより雄と雌のようなものです。ですから問題は生まれつきの心の性別など存在するのかということです。そんなものは存在しません。女と男に区別することは制度なのです。文化と言ってもいいでしょう。男と女というものは人間が作り出した制度です。もっと明確に言えば、女か男のどちらかでなければならない制度です。ですから男とか女とかは生まれてから作られるものです。生まれたときには雄か雌の区別しかありません。その後に男と女が作られます。雄がたいてい男に作られ、雌がたいてい女に作られるだけです。男とはこういうもの、女とはこういうものと決められているのが文化であり制度です。女はこういう服装をしてこういう髪型をしてこういう遊びをすると決められています。動作、話し方、考え方などあらゆることが男女別に決められています。生まれてからそれらを徹底的に教育・洗脳して男と女が作られます。
 男と女の区別は制度・文化にすぎないのですから、いまとは逆の制度・文化もあり得ます。たとえば、男がスカートをはき女がズボンをはく文化です。そういう文化ではスカートをはくほうが男らしいということになります。そんな世界で「肉体は女で心は男」と主張する人はスカートをはきたくなるはずです。男はスカートをはくと思い込んでいるからです。心に性別があるということも思い込みであり、男と女のどちらかでなければならないと思うのも思い込みです。「心が男」などというのは、男か女のどちらかでなければならないという強制から生まれた幻想です。
 ところが現在ではだんだん、男はこうでなければならない・女はこうでなければならないという強制が緩くなってきました。性別の区別・差別をしないようになっています。そのために子供は男になっていいのか女になっていいのかわからなくなってきたのです。そして、肉体が雄なのに女になろうとする子供や肉体が雌なのに男になろうとする子供が多くなってきました。それがジェンダー問題の本質です。ほんとうは男でもない女でもないただの人間になればいいのですが、依然として男と女のどちらかでなければならない制度が残っています。性別の区別・差別はしないようになっていますがどちらかでなければならないのです。至る所で男と女のどちらかであることを強制されます。どちらかにならなければならないと強制されるのでどちらでもない人間がどちらにしようか悩んでいるのです。女か男のどちらかに決めなければならないと思うから苦しむのです。どちらでもないただの人間になればいいのです。


 まとめると、女と男という制度は二つに分けられるということになります。
 第一の制度は、男はこういうもの女はこういうものというように男と女を区別する制度です。女はおしとやかに、つつしみぶかく。男は黙ってどっしりかまえる。男は女を保護し、女は男に保護される。といったようなもので、そういうものがたくさんあることは誰でも知っています。
 第二の制度は、女か男のどちらかでなければならないという制度です。女でないなら男でなければならず、男でないなら女でなければならないという制度です。
 この二つの制度が絡み合って男と女という制度が作られています。第一の制度が第二の制度を作り出し第二の制度が第一の制度を作り出すという構造であり、第一の制度が第二の制度を支え第二の制度が第一の制度を支えるという構造になっています。ですから両方攻撃しなければどちらもなくならないのです。片方が生き残っていればもう片方もすぐに生き返ってしまいます。それがわからないために思考の混乱が起こっています。この二つの制度を混同してしまうために、男女平等・男女差別・ジェンダー問題がひどく混乱しています。
 男女平等とは男と女を区別しないで同じようにするということですが、「男女」と言うこと自体最初から男と女を区別しています。男女平等を叫べば叫ぶほど第二の制度が強化されるということになっています。男女平等にするのならなによりもまずスポーツの男女の区別をなくさなければなりません。ところがスポーツは逆に男女の区別をより強化しているようです。男か女かわからない人がいると検査してどちからに決めるほどです。人間は女か男のどちらかでなければならないと思い込んでいるのです。議員の半分を女性にするなどというのも変な考え方です。性別を気にしないならどちらでもいいはずです。それなのに逆に性別を異常に気にしています。だからそういう考え方は逆に第一の制度と第二の制度の両方を強化してしまうはずです。
 両性婚を認めろ認めないという問題もとても錯綜しています。男と男が結婚する、女と女が結婚することを認めろというわけですが、それはつまり人間は男か女のどちらかでなければならないということです。だからほんとうは、男でも女でもない人間と女でも男でもない人間の結婚を認めろと言うべきなのです。しかし、その前に結婚制度を容認してしまっていることが問題です。
 ジェンダー問題は第一の制度を否定し第二の制度を肯定することから起こっています。男と女を区別するなと主張しているのに男と女のどちらかでなければならないと思い込んでいます。だから「肉体は男だが心は女」などと言い出すのです。女でも男でもないただの人間になればいいのです。
 新しい人間には性別がありませんから、社会のあらゆる制度から男と女の区別がなくなります。新しい人間を作る時には男女が半々になるようにするのですが、SDにもだんだん女という意識や男という意識がなくなっていくはずです。家族制度も結婚制度もなくなるのですからそれはさらに加速されます。やがて雄と雌の区別もなくなっていくのかもしれません。


 〔新しい世界の子作り・子育て〕
 結婚・家族制度の廃止によって起こるもう一つの問題は子供をどうやって作るかです。結婚・家族制度を廃止しても子供を作る方法はいくらでもあります。まずはっきりさせなければならないことはなんのために子供をつくるかです。子供はすべて人類の存続のための作られるということになります。ですから、自分の子供を妊娠するのではありません。人類の子供を妊娠するのです。子供はすべて人類の子供であり誰の子供でもないということです。妊娠出産した人間の子供でもないし、精子・卵子・遺伝子の提出者の子供でもないということです。精子・卵子・遺伝子は人類の共有物になります。自分が産んだ子供は自分の子供という「我が子幻想」「母親幻想」があまりにも強力なので、それを消滅させることはむずかしいことですが、大きな変革ほど簡単ということもあります。少しずつ変えるより一挙に変えたほうがいい場合もあります。それに最初から子供を作るのは人類の存続のためでした。
 新しい制度では子供を作ることは国の仕事になります。妊娠出産省が作られそこがすべての妊娠・出産を管理します。産婦人科がすべて妊娠出産省に組み込まれるでしょう。産まれた赤ん坊を一定期間育て新しい人間に配分するのが妊娠出産省のおもな仕事です。妊娠段階から計画・管理する場合もありますが、妊娠してしまった場合も出産してしまった場合もすべて引き受けます。あらゆる妊娠、あらゆる出産を管理します。新しい人間に配分された赤ん坊はすべてのSDによって育てられます。親ではありませんが親のような存在がたくさんいることになります。
 すべての新しい人間にとって子供を作ることはたいせつな仕事になります。子供を作る方法はいくつも考えることができます。そこには性の問題も関係してきます。SDが自発的に子供を作る場合もあるでしょう。妊娠出産省が子供を作る人間(SD)を募集する場合もあるでしょう。その場合は特別手当が支払われるかもしれません。女性SDの子宮を必要としなくなるかもしれませんし、人工子宮のようなものが開発されるかもしれません。まだ誰も知らないまったく新しい方法が考え出されるかもしれません。新しい人間のことも少し前まで誰も知らなかったのです。
 (女性SDが妊娠・出産から解放されるかもしれません。そうなると女性SDの肉体は急激に変化するでしょう。肉体的にも男女の違いのない未来も想像できます。)
 (注意。ここで使われている「子供」という言葉は「年齢の低いSD」という意味しかありません。「誰かの子供」といった意味や「親」に対する「子」という意味はありません。だから「年齢の低いSD」と言い換えたほうがいいのかもしれません。)
 (追加補足。新しい制度では二十年くらい子供を作らないということも可能になります。そのようにしてSDの数を減らすことができます。人間の数を減らさずにSDの数を減らすことができるのです。その逆も可能です。)


 次にはそうやって作られた子供をどうやって育てるかということが問題になります。この世界に出現した赤ん坊はしばらく国の施設で育てられてから新しい人間に自動配分され、新しい人間によって育てられます。細かいことはそれぞれの人間が考えます。どんな子育てになるのかはまだわかりません。子育てとはつまり人間を作ることです。新しい制度では人間を作ると同時にSDも作られます。人間とSDを同時に作らなければならないのですから簡単なことではありません。
 「個体発生は系統発生を繰り返す」と言われるように胎児は生物の全歴史を辿ります。生まれた赤ん坊はまだ人間ではなくこれから人間になっていきます。赤ん坊は生まれてから人間の全歴史を繰り返すというわけです。そしてやがて現在まで到達するというわけですが、途中で止まってしまう場合も多いようです。子育てとは人間の全歴史を再体験させることです。(人間が徐々に人間になるのですからどの時点で人間になったかを特定するのは不可能です。)
 現在の子育ても同じことをやっているのですが、そんなふうに考えて子育てをしている親はいません。ただ自分たちと同じ人間を作ろうとしているだけです。というより結果として自分たちと同じような人間ができてしまうだけです。親の影響が大きいのですが社会全体で子育てをしているようなものです。保育園、学校、周囲の人間、テレビ、ネットなどすべてです。現代の親の子育てを観察すると、ペットを育てるような子育て、あるいは友達と一緒に遊ぶような子育て、あるいは奴隷を作るような子育て、あるいは自分のコピーを作る子育てばかりで、あまり参考にならないのでやめます。
 新しい人間にとって子育ては最もたいせつな仕事になります。赤ん坊と子供は常に存在しています。新しい人間には常にあらゆる年齢のSDがいるのです。ですから子育てには終わりがありません。すべてのSDが常時子育てをしている状態になります。
 新しい人間に自動配分された赤ん坊は新しい人間と同じ名前になり、そのSDの一人になります。SDはすべて同じ人間であり対等な存在であり、同じ財布を持ち同じ物を所有しています。赤ん坊は同じ人間によって育てられます。親子という特別な関係は存在しません。それはとても重要なことです。しかし、新しい人間自体がまだよくわからないものですから、新しい人間の子育てもまださっぱりわかりません。新しい世界の赤ん坊はいきなり新しい人間になるのか、まずかつての人間になってから新しい人間になるのか。最初から新しい世界で育つとどうなるのかはわからないことばかりです。かつての制度がわからなければ新しい制度はわからないのではないかという問題もあります。かつての個人というものを知らない人間が誕生するのです。
 かつては「一人の人間が付きっ切りで赤ん坊を育てるのがいい」という考え方がありましたが、それはかつての世界の説であって、新しい世界には別のやり方があるはずです。
 年齢の低いSDが成長していくに従って子育て・教育も変わっていきます。ある程度成長すると新しい人間の中を自由に移動するのがいいかもしれません。新しい人間それ自体が学校のようなものになるでしょう。そうすると実際の学校はそれほど必要なものではなくなるはずです。十歳くらいになればSDができることはすべてできるようにするのがいいかもしれません。すべてのSDとSD交換できるようにするのです。
 改革の初期には過渡的な段階が生まれます。すべての人間が新しい人間に再編成されるわけですから、生まれたばかりの赤ん坊も死にそうな人間も新しい人間に配分されます。それどころかそこには妊婦も含まれます。新しい人間に配分されてすぐ子供を生むという場合もあります。その場合はどうするかという問題があります。生まれたばかりの赤ん坊はどうやって新しい人間に組み込んでいくかという問題もあります。具体的にどうするかという問題です。


 追加。
 人間が新しい人間に変わるということは、人間がついに遺伝子の拘束から解放されたということです。完全ではありませんが、新しい人間は遺伝子のつながりを切断したことになります。前の世代の遺伝子をそのまま引き継ぐということがなくなったのです。このことは、生物がついに遺伝子の支配から脱出したということを意味します。


 追加。〔誰の子供が人類の未来を作るのか〕
 子供を作るのは人類の存続のためだと考えてきました。それはいまでもそうです。人はそれぞれかってな理由で子供を作りますが、理由を一つに絞れば人類の存続のためということになります。しかし、それだけでないことがわかってきました。いままでの世界では、自分の子供を作るとは自分の遺伝子を残すということでした。自分の遺伝子を残すとは自分のような人間を残すということです。自分のような人間を人類の未来のために作り出すということです。自分の子供を作るとは人類の未来を決定することなのです。自分のような人間が人類の未来には必要だということです。現在、誰でも自由に子供を作る権利があります(子供を作れない人もいますが)。それは人類の未来の決定権が与えられているということではないでしょうか。人間の歴史上ほとんどそうだったかもしれません。人々はわりと自由に子供を作ってきました。しかし、子供をなんのために作るか考えた人はあまりいなかったようです。考えてもそれぞれがかってな理由で子供を作ったようです。「親に孫の顔を見せたい」といった理由などもあります。自分のような人間が人類の未来に必要だから子供を作ると考えた人はほとんどいなかったでしょう。でも結果的には人類の未来のために子供を作っていたのです。無意識にそれを感じていた人もいたはずです。子供を作って育てている人がなんとなく偉そうなのはたいへんなことをしていると無意識に感じているからです。そんな人類の未来を決定するようなたいへんなことなのに、自由に子供を作ることができるのはなぜなのでしょう。自分の子供を作るのは人類の未来には自分のような人間が必要だと主張することだったのです。新しい世界ではこのことも変ります。



 やがて前の時代を知らないSDが出現します。個人というものも知らないし、家族というものも知りません。「母」「父」「親」といった家族用語の意味がわかりません。遺伝子上の親が誰なのか知りたいなどということもありません。いまの人間が五代前の人間など知りたいとも思わないのと同じです。しかし、宇宙の歴史や生物の歴史を勉強することによってそれらのこともわかるようになります。家族というものが存在していたこともあるということも勉強するでしょう。SDの肉体は何億年も前の細胞からずっとつながっていることもわかるようになります。物質と生物がひと続きであることもわかります。素粒子にも遺伝子のようなものが発見されるかもしれません。それはリング状になっているかもしれません。そうするとビッグバンからSDまでひと続きになっていることがわかります。親とはビッグバンのことだと思うかもしれません。SDと新しい人間の間にはたいへんな飛躍があることもわかります。ビッグバンからSDまではひと続きなのですが、新しい人間はそのつながりを切断しているようなのです。新しい人間が生物だとするなら、まったく新しい生物です。遺伝子のつながりを乗り越えた最初の生物ということになるからです。あるいは、人間が作り出した人工の生物かもしれません。そうすると新しい人間はサイボーグのようなものかもしれません。




 〔新しい人間の内側の世界〕
 新しい人間の内側がどうなるか見てみましょう。そこは五十人ほどのSDの世界です。でしゃばりのSDや仕切りたがるSDはいるでしょうが、長の付く人間を作ってはならないし、身分・役職を作ってもいけません。その二つも基本的な規則に登録されるでしょう。新しい世界ではその二つの規則はどんな集団にも適用されます。しかし、役割分担はどうしても必要になりますから、役割はできるだけ固定せず交代制にします。
 新しい人間のSDはすべて同じ人間です。全員が対等で上下関係は存在しません。命令することも命令されることもありません。目標にすることは、ほかのSDができることはすべてのSDができるようになり、SD交換が自由にできるようになることです。SD交換しても誰も気がつかないのが最終段階です。
 新しい人間は肉体がたくさん存在する人間とイメージできます。分身の術が実現したようなものです。分身がたくさんいると同時に様々なことができるようになります。お金を稼ぐことも一つの役割にすぎなくなりますから、お金を稼がないSDがいてもかまいません。お金を稼がないSDもお金を使うことができます。


 新しい人間には様々なSDがいます。様々な性格のSD、様々な形状のSD、様々な障害のあるSDです。しかし、障害は障害と呼ばれなくなり、SDの個性ということになります。様々な生物が存在するように様々なSDがいるだけです。自然は様々な生物を作り出すように様々なSDを作り出します。どれが正常でどれが異常だとは言えません。どれが優れていてどれが劣っているのは言えません。どれが幸福でどれが不幸だとは言えません。SDとほかの生物を差別するのも間違っています。生物の多様性とSDの多様性を混ぜてしまえばいいのです。犬を言語能力障害とは言いません。アキニレをアトピー性皮膚炎とは言いません。カラスを上肢欠損症とは言いません。ブルドックを差別する三毛猫はいません。三毛猫がいて、黒人がいて、ブルドックがいて、足が一本の日本人がいて、鳴けないゴキブリがいて、毛のないスペイン人がいて、病弱なチンパンジーがいて、目のない金魚がいるだけです。すべてそれぞれの個性です。交通事故にあうと新しい個性が生まれます。病気になるとまた新しい個性が生まれます。病気は障害ではありません。病気とは個性です。ダウン症のSDがもっと増えたら人類はもっと平和になるかもしれません。最初に言葉を発した人間は洞窟に閉じ込められたにちがいありません。新しい人間の制度を考え出した人間はどういう病名になるのでしょうか。




 SDはインターネットなどでつながります。新しい制度はインターネットなしには不可能かもしれません。SDはほかのSDに買い物を頼んだり、掃除を頼んだり、犬の散歩を頼んだりできます。仕事が忙しいと応援を頼むこともできます。暇になれば農作業や物資を移動する仕事がいつも待っています。老人や子供の世話を全員でできるようになります。ほかの家で眠ることも多くなりますし、住む場所の交換も簡単にできます。子供はすべての家を順番に移動して暮らすこともできるでしょう。そういう交流が普通になればほかの人間のSDとも同じように交流するようになります。
 しかし、新しい人間の内側の世界を見てみれば以前と同じような生活があるだけです。人間の内側でSDは以前と同じように暮らしていますし、以前と同じようなことをやっているだけです。人間の外側の世界が以前とほとんど変わらないように、人間の内側の世界も以前とほとんど変わらないようです。変わったのは関係です。それぞれのSDはほとんど変わっていないのに、SDとSDの関係はすっかり変わってしまいました。SDとSDの関係があり、人間と人間の関係があり、SDと人間の関係があるだけです。それらの関係では年齢や性別の違いはほとんど考えなくてもよくなります。年下・年上関係と男女の関係は重要なことではなくなります。夫婦の関係、親子の関係、兄弟姉妹の関係などはなくなります。
 SD関係・人間関係で最も重要なことは余計な関係をできるだけ作らないということです。そのためには関係はなぜできるのかということを研究しなければなりません。そして、関係ができるようなものを作らなければいいのです。関係は違いによって発生します。凸凹、プラスとマイナス、上と下、右と左、大と小、高と低、重と軽などの違いです。そういった違いを作らなければ余計な関係は生まれません。
 SDにとっては以前となにも変わらないことがたくさんあります。一日の生活といったものはほとんど変わらないなずです。一日の生活の流れとリズムです。以前と同じように、やることがたくさんあり、同じように働かなくてはなりません。働けば同じように疲れてしまいます。しかし、以前のように毎日同じ仕事をすることはなくなるでしょう。毎日違う会社に行ったり、午前と午後で違う仕事をしたりすることが普通になります。『一週間』という歌のように、月曜日は畑に出掛け、火曜日は運転手をして、水曜日はスーパーでお菓子を並べ、木曜日はヘルパーをして、金曜日はラーメン屋さんで働き、土曜日は絵を描いて、日曜日は釣りに出掛けます。一週間というものがなんのために作られたのかやっとわかったのです。日曜日に休むためではなく、曜日ごとに違う仕事をするためです。
 (一週間毎日違う仕事をするという考え方は甘すぎたようです。一年365日毎日違う仕事をするようにしてもいいのではないかと考え直しました。一年に一回しかない紅白歌合戦でさえ飽きてしまうのですから。)
 新しい人間のSDはみんな違う仕事をするようにします。しかし仕事はすべて自分の仕事なのですからすべての仕事をできるようにします。それが目標です。新しい制度になるとたぶんお金のために働くということがなくなるはずです。お金のためにやりたくない仕事をするとか無理をするということがなくなるからです。
 専業化、専門化、分業化、定職化は働くほうではなく働かせるほうの都合で推進されたことです。人を効率的に働かせようとするとそうなります。しかし、人間はそのようにはできていません。人間はいろいろなことをするようにできています。生きるために必要な物がいくつもあり、そのすべてを獲得できるように作られています。一日に三時間ほどは田植えのような単純反復作業をするように作られています。単純反復作業とは瞑想の時間であり、あらゆることを考える時間です。
 一人の人間が一つの仕事をするという制度が現代の最大の弊害の一つになっています。コロナの経済問題とは一人の人間が一つの仕事しかしていないので起こることです。一つの仕事しかしていないのでそれがなくなると途端に路頭に迷います。そのために人は嫌な仕事にもしがみつきます。いかがわしい仕事にもしがみつきます。こんな仕事はないほうがいいという仕事にもしがみつきます。なくてもいいような新商品を開発するのもその仕事しかしていないからです。つまらないテレビ番組を作り続けるのはその仕事しかしていないからです。制度を変えようとしても、経済を再編しようとしても、それらができないのも一人の人間が一つの仕事しかしていないのが原因です。自動車産業を縮小しようとすると自動車産業の人が反対します。農業を改革しようとすると米農家が反対します。二酸化炭素排出量を削減しようとする天然ガス採掘業の人々が反対し、石油産油国が反発します。なにをやろうとしても必ず誰かが反対するのは、それをやると自分の仕事がなくなると思う人が必ずいるからです。新しい制度になるとこの問題は完全に消滅します。


 〔新しい人間はブログで思考する〕
 ブログのようなものを開設するといいかもしれません。SDは誰でも記述できますがみんな人間として記述します。誰が記述しても主語は同じになります。新しい人間である自分をどう育てていくかが主題になります。連絡や会議にも使えます。おもに人間として日々考えていることを記述するのです。SDとして記述するのは別の場所にしてもらいますが、SDと人間を明確に区別することは誰にもできません。制度が始まったばかりなのだからなおさらです。人間の内側の記述なのだから、SDと人間の区別などあまり気にせずに自由に記述してもいいかもしれません。ほかの人間が閲覧することも可能です。
 鷺沼23区という名前の新しい人間がいることにします。23の都道府県にまたがって存在しているのでこの名前になりました。田園都市線の電車が鷺沼に止まっている時に思いついたのでこの名前になりました。スパイスにこの名前を提案してスパイスが決定しました。鷺沼23区の政策自動決定システムがスパイスという名前です。鷺沼23区のSDのSDネームは都道府県名で呼ばれることになりました。静岡1区、北海道1区などです。静岡にもう一人いる場合は静岡2区になります。鷺沼23区のブログはみんな鷺沼23区として記述するのでSDネームは必要ありませんが、必要な場合はSDネームを付け加えます。
 たとえば次のようになります。
 以前の私ですともうすぐ誕生日なのですが、新しい制度になると誕生日はどうなるのでしょう。
 そう鷺沼23区が質問しますと鷺沼23区は答えます。
 新しい人間には年齢もないし誕生日もないのは間違いありません。新しい人間には誕生日はありませんが始まった日はあります。しかし、すべての人間が同じ日に始まったので国全体の記念日ということになるでしょう。
 また鷺沼23区は次のように記述します。
 新しい制度になって誕生日というものは消滅したと考えるべきではないでしょうか。古い習慣を変えるのはむずかしいことですが、産まれた日からの日数で年齢を数える方法もあります。今日は産まれてから11345日目、明日は11346日目と数えるのです。そうすれば誕生日が来ることはありません。誕生日は最初に一度あっただけです。
 すばらしい考え方です。でもSD誕生日は一人で密かに祝ってもいいのではないでしょうか。
 一人でなにかを祝うのは不可能です。
 スパイスは結論を出す問題ではないと決定しました。


 三万円の自転車が欲しいのですが買ってもいいでしょうか(神奈川3区)。
 それくらいの買い物は自由ではないでしょうか。
 それはSDの買い物ではなく鷺沼23区の買い物になります。
 どこからSDの買い物でどこから鷺沼23区の買い物になるのでしょうか。そして鷺沼23区の買い物はすべて全員の投票で決めなければならないのでしょうか。
 この問題は意外にも難問だとわかってきました。
 何円以上の買い物は全員の投票ということになるのでしょうか。
 全員の投票と言ってもスパイスが五分くらいで決めるかもしれません。
 そこまで細かく決めると逆にお金に支配されているような感じがします。
 以前の世界でも三万円の自転車を買うには半年くらい悩んだものです。
 すべての買い物が鷺沼23区の買い物になるのではないでしょうか。
 昨夜食事に五千二百円使いました(岩手1区)。
 こちらに使っていない自転車があります(静岡2区)。
 すみませんがなにが問題なのかよくわかりません。鷺沼23区の財政は逼迫しているのでしょうか。
 新しい人間のブログはこのようなものになるかもしれません。すべて鷺沼23区の記述ですが、どれがどのSDの記述なのかはわかりません。このような記述によって新しい人間は新しい人間を形成していきます。かつての人間成長と同じことです。


 このブログの最大の話題はなんといっても新しい制度についてです。
 私は70さいです。静岡県の山奥でお蔵を作っています。私は沼津より遠くに行ったことがありません。むかしのだんなはもう死にました。私は新しい制度が理解できません。新しい人間がわかりません。新しい制度が始まると息子と娘は突然立ち上がって村を出て行きました。新しい制度はよくわかりませんが銀行口座に誰かがお金をいれてくれるみたいです。こんなことはいままでありませんでした。ふしぎなことです。生まれてはじめてお金の心配をしなくてよくなりました。(静岡2区)
 静岡2区さんすぐこちらに来てください。畑の仕事は私がやります。(神奈川2区)
 静岡2区さん鷺沼23区はあなたをお待ちしています。すべての家を順番にまわってください。
 畑の仕事は私がやります。(北海道1区)(神奈川3区4区)
 なんだか昔の選挙区のようです。
 新しい制度で一番よくわからないのは人間とSDの関係です。SDはみんな同じ人間ということになるのですが、同じ人間とはなんなのでしょう。同じ人間はどうやって関係すればいいのでしょう。
 同じ人間は一緒に住む必要もなく、会う必要もないと言われています。
 SDは別の人間のSDと一緒に住んでもいいようです。以前の家族と一緒に住んでもかまわないようです。一緒に住むといっても家の構造によってずいぶん違いますが。
 同じ人間のSDと性関係を持ってもいいのでしょうか。
 性はSD単位になるのではないでしょうか。
 性は完全自由化ではないでしょうか。
 電車に乗るとあっちでもこっちでも性行為をしているということになるのでしょうか。
 特定の相手と継続的に性関係を持つのは禁止なのでしょうか。
 くっ付くのも簡単になり別れるのも簡単になるのは間違いないでしょう。
 どうなるのかさっぱりわかりません。
 SDと人間の関係ですが、それはこういうことではないでしょうか。鷺沼23区に将棋の強いSDがいるとします。将棋の大会があれば自然とそのSDに出てもらうことになります。SD結合するより一人でするほうが強いでしょう。でもそのSDは鷺沼23区という人間として出場するのであって、勝っても鷺沼23区が勝ったことになります。そのSDのことはまったく話題になりません。SDの写真はSD情報保護法に違反しますから使えません。話題になるのは鷺沼23区のことばかりで、鷺沼23区がどんな人間なのか紹介されるだけです。
 でも鷺沼23区がどんな人間なのかよくわかりません。自分たちでも鷺沼23区がどんな人間なのか説明するのは困難です。年齢もないし、生年月日もないし、子供か大人なのかもわからないし、性別もないし、家族構成もないし、職業はたくさんあるし、住所はたくさんあるし、なにが趣味なのかわからないし、なにが特技なのかわからないし、食べ物の好き嫌いもわかりません。それどころかSDはほかのSDのことがほとんどわかりません。わかっているのは名前と預金残高だけです。
 将棋のように勝ち負けのある競技はなくなるのではないでしょうか。勝ち負けのある競技がすべてなくなり、順位を付けるものがすべてなくなり、合格不合格を決めるものがすべてなくなれば、ニュースの半分はなくなるかもしれません。
 もうすでにスポーツニュースはなくなりました。
 将棋が強くても話題にならないなら将棋をしなくなるのではないでしょうか。それともSDは人間のために戦うのか。いや戦いは禁止ですね。
 人工知能と勝ち負けを競うのも禁止なのでしょうか。
 ゲームなどでは過去の自分と戦っているのかもしれません。
 SDはほとんど話題になることがなくなるということです。社会的には存在しなくなるということです。人間の陰に隠れて見えなくなるのです。
 それはSDが完全に平等になり、完全に自由になるということかもしれません。
 それこそ個人中心主義時代の個人が最終目的にしていたものではないでしょうか。ですから、新しい制度になって個人は消滅したことになっていますが、実はSDはより完全な個人になったということになります。
 それはどういうことでしょう。もう少し説明してください。
 SDはほかのSDとなにかを競う必要がなくなったのです。ということはほかのSDと自分を比較することがなくなるということです。個人が完全な個人になれば、個人であることに自足するようになるのだから、ほかの個人と自分を比較する必要がなくなります。ということはSDは個人の完成と考えることができるということです。個人はほかの個人と違うものになろうとして個人になっていったのですが、最終的にはほかの個人と比べなくても個人でいられるようになるということです。個性や自分らしさを競っている個人はまだ未熟な個人なのです。
 むずかしくてよくわかりません。SDの私はこれからどうやって生きていけばいいのでしょう。
 そう、それが問題です。みんなどうしていいのかわからないのです。
 私の生活はいまのところ以前とほとんど変わっていないようで、以前と同じような生活があるだけです。弁当を作る工場で働いていますが仕事が楽になったということもありません。ただ人間関係(SD関係でしょうか)が少しずつ変わっているようです。以前の家族との関係はもちろん、職場の人間関係も友人関係もすべての人間関係が微妙に変化しているようです。一番大きいのはこれからどうなるのかわからないということです。将来の計画がすべてゼロに戻ってしまいました。以前の息子は「これからはもう学校に行っても仕方のない時代が来る」と言っています。
 コジンバラさんは新しい人間がおもしろくてたまらないと言っていました。いままで存在していなかったまったく新しい人間関係が発生した。その新しい人間関係がおもしろくてたまらないそうです。こんなことが起こるとは思わなかったとも言っていました。
 人間関係でなくSD関係ですね。
 SDのみんなは自分のなにを変えたいかをここに提案して、全員でどうするかを考えるということにしたらどうでしょう。たとえば、自分はいまの仕事が嫌でたまらない、仕方がないので我慢してやってきたがもうやめたいとか、とにかくいまの家を出たいとか、夫の世話に疲れたとか、自分がひきこもりになっているとか、それをみんなで考えるわけです。みんな同じ人間なのですから遠慮はいりません。
 SDはみんな同じ人間になったのですが、そんなことは初めて起こったことなので、同じ人間になるとはどういうことなのかまだ誰にもわかりません。いままでとなにが変わるのかもわからないし、同じ人間はどうやって関係するのかもわかりません。同じ人間は会うとどういう挨拶をするのかもわかりません。つまりそれはすべてこれから作っていくことになるということではないでしょうか。


 競争すること、勝ち負けを決めること、合格不合格を決めるということが禁止になるということですが、選挙や投票も禁止になるのでしょうか。考えの自動決定システムも結局は投票で決めるということなのですから競争になるのではないでしょうか。
 スパイスにきいてみればいいのではないですか。
 スパイスはそんなことにも答えるのですか。
 スパイスは考えるのですか。
 スパイスどうですか。
 選挙には二種類あります。人間を選ぶ選挙と考えを選ぶ選挙です。例証しますと、衆議院選挙は人間を選ぶ選挙ですが、国民投票は考えを選ぶ選挙です。人間を選ぶ選挙は人間の能力と人間の能力を比較するので憲法違反になります。考えを選ぶ選挙は考えと考えを比較するので憲法違反にはなりません。考えの自動決定システムは投票で考えを選ぶシステムです。(スパイス)
 スパイスが考えるとは知りませんでした。
 わたしたちが考えているのではありません。考えと考えを比較して選択しているだけです。そのように作られています。(スパイス)
 スパイスは自分のことをわたしたちと言うのですか。
 分散して存在しているいくつもの思考を一つの思考にするのがわたしたちの仕事です。(スパイス)
 でも考えなければ考えを選ぶことはできないのではないでしょうか。
 考えているのではありません。投票で選んでいるだけです。選んだ考えが正しいわけではありません。その時点でほかに考えようのない考えが選ばれるだけです。(スパイス)
 ほかに考えようのない考えとはなんですか。
 投票は短時間で決まる場合があります。3対0は絶対的な決着です。それがほかに考えようのない考えです。4対1は不完全な結果です。5対2は選択不能になります。5対2の場合は次の投票で5対0が必要になります。(スパイス)
 それが投票システムなのですか。なんだかよくわかりません。最初に3対0になるとその時点で決定してしまうのですか。
 たぶんSDの誰にもわからないと思います。
 国の政策自動決定システムも同じなのですか。
 完全に同じです。スパイスをそのまま使うことができます。国の政策自動決定システムの投票をするのはSDではなく人間です。ですからまず人間の考えを決定しなければなりません。わたしたちはその仕事をしています。ですから国の投票はシステムが二段階になっているということになります。(スパイス)


 スパイスに質問します。SDは三万円の自転車を自由に買ってもいいでしょうか。
 投票を開始します。「SDは三万円の自転車を自由に買ってもいいか」は投票の議題になるかどうかを投票してください。投票の議題になることが決定しました。「SDは三万円の自転車を自由に買ってもいいか」の投票を開始します。鷺沼23区のSDは三万円の自転車を自由に買っていいことに決定しました。ただし「SDは」ではなく「鷺沼23区のSDは」に変更されます。(スパイス)
 一分もかかっていません。どうしてそんなことができるのでしょう。
 わたしたちは考えているのではありません。そうとしか考えられないのです。このプログラムの名前は「ぼくがきみの言葉で悩むはずはない」となっています。これ以上は知らないほうがいいかもしれません。(スパイス)


 (鷺沼23区のブログではどのSDが記述しているのかわからない。全員が鷺沼23区なのだからどのSDが記述しても鷺沼23区の記述になる。)
 (実際はこの本全体が鷺沼23区のブログだ。)


 〔まとめ・復習・繰り返し〕
 死んでいくSDがいて新しく加わる赤ん坊のSDもいます。SDの平均年齢は常に同じくらいになります。新しい人間には年齢もなく年老いることもないことになります。年金制度はいらないということです。新しい人間の内側で処理できることが多くなり、社会保障は縮小されます。縮小されるというよりは再分配の手間が省けるということです。再分配が必要になるのはそれぞれの人間の違いが大きすぎ、それぞれの家族の違いが大きすぎたからです。再分配という無駄な仕事にお金も人員もたくさん使っていたのです。
 新しい人間には介護が必要なSDが必ず何人かいるようになります。介護はSD全員の仕事になります。それをするだけの時間のあるSDが交代で介護をすることになるでしょう。施設を利用してもかまいません。子供や老人の世話もSD全員でやります。保育園と老人介護施設は少なくなるかもしれません。役割分担が必要になりますが、それらのことはそれぞれの人間が考えればいいことです。
 赤ん坊の世話をする役割、家の仕事をする役割、連絡する係、役割を調整する係、役所関係のことをする役割などが必要になるでしょう。お金を稼ぐのも役割の一つにすぎません。お金を稼ぐ係はSDの三分の一くらいになるでしょう。それらの役割は交代制にしていきます。



 同じ人間のSDとSDにはお金のやり取りというものがまったくなくなると予測されます。人間の内側の世界はお金のない世界になります。SDからSDへ物や情報やサービスが移動してもお金は動きません。交換というものがなくなるのです。同じ人間の右手から左手に移動するだけで交換ではないからです。
 SDは以前より忙しくなるでしょうか、暇になるでしょうか。ほかのSDがやってくれることも増えますが、ほかのSDにやってあげることも増えます。確定申告などは一人のSDがやればいいかもしれません。そのように人間の義務としてやることは五十分の一の労力で済みます。健康保険証も五十人のSDがみんな同じなのですから一回の手続きで済みます。行事や記念日が次々と消滅します。成人式がなくなります。七五三がなくなります。こどもの日がなくなります。誕生日はどうなるかわかりません。結婚式がなくなり、結婚記念日もなくなります。母の日、父の日はなくなります。バレンタインデーはなくなります。年賀状はどうなるでしょう。クリスマスはどうなるでしょう。新年会はどのSDが行くのかわからないのでなくなります。どんな会でもそうです。新しい人間は死なないので葬式はなくなります。新しく作られる行事や記念日は想像できません。だんだん単調な生活になるようです。
 逆に忙しくなるのはなんでしょう。SDとSDの付き合いは間違いなく多くなります。しかもそれはほかの人間のSDにまで拡大していくかもしれません。


 新しい世界には新しい人間しかいません。誰に会っても新しい人間です。あちらこちらで鷺沼23区さんに出会うでしょうが、鷺沼23区さんは一人しかいません。みんな同じただ一人の人間です。鷺沼23区さんはどんな人なのでしょう。新しい人間がどんな人間なのかは簡単に説明できません。ひとことで言えるような特徴がありません。名前がわかるだけです。鷺沼23区という名前の人間がいるとわかるだけです。その姿を見ることはできず、住所も職業もたくさんあります。SDの一人一人を説明できますが、それには時間がかかりますし、SDのことがわかっても人間のことがわかるわけではありません。なによりもSD情報保護法があり、SDのことをあれこれ穿鑿してはいけません。SDのほうも社会では鷺沼23区として存在しています。みんな自分を鷺沼23区だと思って行動しているのです。しかも自分でも鷺沼23区がどういう人間なのかよくわかりません。ようするに新しい人間には個性・特徴というものがなく、どの人間もほとんど同じような人間なのです。
 どういう人間だかわからないということは「こういう人間だからこういう役割にしよう」ということができないということです。また、どういう人間なのかわからないということは、この人を紹介することができないということです。自己紹介することもできません。この人間を紹介する番組を作ることもできません。SDの映像は人間のほんの一部分にすぎません。指紋のようなものにすぎません。SDの顔を全部並べても人間の顔にはなりません。新しい人間には姿・形が存在しないと考えたほうがいいでしょう。日本という国に姿・形が存在しないのと同じです。このような人間を映画や小説にするのはむずかしいにちがいありません。
 鷺沼23区のSDは普段は鷺沼23区として存在しています。SDとしてではなく鷺沼23区の思考・意識で存在しているということです。それはどういう思考・意識なのでしょう。そうなってみなければ絶対にわかりません。




 もう一度復習しますが、新しい制度の目標は個人の競争によって成り立つ世界はもう終わりにしようということです。個人の競争はすべてやめましょう。試験というものはすべてやめましょう。競争するスポーツやゲームはすべてやめましょう。個人と個人を比較することはすべてやめましょう。役職や上下関係はすべて廃止しましょう。ということです。そして個人(新しい世界ではSDです)が努力してなにかを成し遂げるということをやめます。夢の実現のために頑張るということをやめます。自分らしさや個性や自己実現などには価値・意味のない世界を作ります。他人と優劣を競うことをすべてやめます。自分を自分の過去と比較することをやめます。
 SDはSD個人のために努力することをやめるということであり、SD個人の夢の実現のために頑張ることをやめるということです。SDが努力したり頑張ることをやめるということではありません。SDは人間のために努力するのです。努力したり頑張ることそれ自体に価値があるということはありません。「なんのために」努力したり頑張るかが問題です。どんなことでも頑張りさえすればいいという考え方は完全に間違っています。かつての世界はそうなっていました。頑張らなくてもいいことばかりを頑張っていました。「どんなことでも競争して勝つことに価値がある」という思考操作が行われていたのです。スポーツの勝敗などがトップニュースになっていたのはそういう思考操作でした。
 これはつまり個人(SD)としての自分のことなど考えないということです。自分の「生きがい」や「やりがい」など考えない。自分の人生など考えない。自分の成功や幸福など考えない。「自分のやりたいこと」や「自分の好きなこと」など考えないということです。
 しかし、そういうことをすべてやってしまう制度になっているのですから制度を変えなければどうしようもありません。新しい制度になってSDが競争をやめても新しい人間が競争し続けるのではないか。企業の競争やほかの国との競争はそのままではないか。という批判が可能です。新しい制度になるとそれらの競争はどうなるのか想像してみてください。この世界の構造はどうなっているのか、人間とはどういうものなのかといった知識を総動員して考えてみてください。新しい制度になると経済活動はどう変化するのか、SDと人間の関係はどういうメカニズムになっているのか、新しい制度を採用した国と採用しない国はどういう関係になるのか。
 SD(かつての個人)は社会の表層には登場しなくなるのです。社会的には存在しないものになり、SDが話題になるということはなくなります。ですから有名人というものが存在しなくなります。新しい人間が有名人になるのもむずかしいことです。有名人というものが存在しない世界とはどういうものか現代人には想像できないかもしれません。いまのニュースの80%は有名人の話題なのですから。SDは有名になる必要がない存在になります。「注目を浴びたい」「目立ちたい」「ひとかどの者になる」「一旗あげる」「故郷に錦を飾る」「名を残す」「世に出る」「才能を認められる」「特別な存在になりたい」「誰もやらないことをやりたい」「ほかの人のやらないことをやりたい」といった意識がなくなるということです。これほどの意識革命はないでしょう。われわれの普通の意識がすっかり変わってしまうということだからです。優越の意識、劣等の意識、承認願望なども消滅してしまうのです。しかし、制度が変わらない限りなにも変わりません。現在の制度はそういう意識によって作動するように作られているからです。
 個人が競争をやめると文章も変わります。これは日本語の問題になりますが、「た」や「だ」で終わる文章はなくなっていきます。「た」や「だ」で終わる文章は断定であり独断であり自分を主張することだからです。



 追加補足。競争の原理について。
 「争うのはよくない」「喧嘩はやめましょう」だから「競争はやめましょう」と言っているのではありません。そういう倫理的なことではありません。そこで、競争とはなにかもっと基本的なことを考えてみます。競争の原理のようなものです。競争とは試験、競技、選挙などであり、戦争も含まれます。そこではなにが起こっているのでしょう。そうすると競争とはたいていどちらかが必ず勝ってしまうものだということがわかります。これこそが競争の原理です。
 競争の原理とはどちらかが必ず勝つということです。どちらかが勝つということ50%は勝つということです。これはどういうことなのでしょう。あまりに甘すぎるということでしょうか。それもありますが、バカとバカが戦ってもどちらかが勝ってしまうということです。ということはどういうことでしょう。常にバカがかってしまうということです。しかも勝ったバカはバカでないということになってしまいます。競争の原理とは必ずバカが勝ってしまい、バカが利口になってしまうということです。あらゆる競争にこのことが起こります。東大生がバカばかりになっているのを見ればこの原理が働いているのがすぐにわかります。スポーツ界を見ればもっとはっきりします。スポーツ界とはバカでも勝つことができる世界ということだからです。こうして競争社会は必然的にバカが支配する社会になります。競争社会が進行すれば進行するほどそうなっていきます。いまの社会を見ればそれが明確です。
 試験とは優れた人間を選ぶ制度ではなく、無能な人間を選ぶ制度なのです。科挙の国を見ればそれがよくわかるはずです。また、大きくなった会社は入社試験を始めますが、入社試験を始めた会社は必ず衰退し始めます。試験はバカを選ぶ制度だからです。また、競争に参加するのがバカばかりなのは、競争の原理を理解できないほどのバカが競争に参加するからです。それによって競争の原理はさらに強力に働くようになります。



 個人中心主義の世界は人間が一人で生きていかなければならない世界でした。一人で生きていくとはどういうことなのでしょうか、その象徴的な場面は家族から離れて独立する時です。会社に就職して一人暮らしを始めるところです。布団とダンボールに二つぐらいの荷物しかありません。賃貸契約と引っ越しで貯金は使い果たしました。これからは会社の給料だけでやっていかなければなりません。必要なものはすべて自分の給料で買わなければなりません。買わなくていいのは空気と気温と太陽光と重力だけです。家にいてもいなくても家賃だけで一日二千円以上かかります。眠っている間も金がかかるのです。最初の給料でテーブルとガスコンロを買います。次の給料では洗濯機と箒を買います。テレビを買うのは一年後になるでしょう。
 自分の給料だけで必要なものをすべて買わなければならないとはどういうことでしょう。自分の労働だけで必要なものをすべて手に入れるということです。それは少し変なのではないですか。縄文人だって自分の労働だけですべてを手に入れていたわけがないからです。水は別の人が運んでくれたでしょうし、ほかの人が採集した食べ物も食べたでしょう。何千年も前は様々な人の労働によって生きていたのに、今では自分の労働だけで生きねばならないのです。これが進歩と言えるでしょうか。どういうからくりなのでしょう。なにかだまされているようです。現代人は自分が働けなくなったらなに一つ買えなくなるのです。
 自分の労働だけで必要なものをすべて手に入れなければならないということは、自分のお金だけで生きなければならないということであり、自分の財布のお金がなくなったら生きられないということであり、そのためにお金の蓄えが必要になり、必要以上のお金が必要になり、お金はいくらあってもよくなる。どれだけの蓄えが必要なのかわからないのだからお金はあればあるほどよいものになる。



 (追加補足。文明が発展することによって人間は自分の労働だけで生きなくてはならなくなりました。一人で生きなければならなくなっていったのです。まるで荒野の一匹狼です。原始人より原始化しています。これこそ経済学の謎です。ここにはお金の謎と分業の謎が絡み合っています。なんにでも交換できるお金が出現したことによって、自分のお金ですべてのものを買わなければならなくなりました。分業によって一つのものだけを生産するだけでよくなりました。ところが、一つのものを生産する労働ですべてのものを買わなければならなくなったのです。どうしてそんなことになったのかいくら考えてもわかりません。)


 〔会社の改革〕
 総合問題として会社をどう変えるか考えてみます。
 すべての人間が平等な会社を作ります。社員、派遣、臨時、パート、アルバイト、学生などの区別をなくします。勤続年数、経験、能力、年齢などで差別しないようにします。部長、課長などの役職をなくします。社長もいりません。会長、社長、専務などは最も必要のないものであり、『進撃の巨人』の巨人のようなものです。それらの役職が必要だと思うことが無能の証拠です。しかし、会社はなぜ独裁制と階級制を導入するようになったのでしょう。不思議なことです。社会は独裁制と階級制を否定したことになっているからです。ところが、家族と会社は独裁的な階級制になっています。会社だけではなくあらゆる組織あらゆる集団がそうなっています。ただそういうものだと思い込んでいるだけです。どういう会社を作るかを考えずに会社を作るとそういう会社を作ってしまうのです。町内会だろうと野球チームだろうと集団・組織を作ると同時に長の付く人と役職を作ってしまいます。長の付く人と役職を作ることが集団・組織を作ることだと思い込んでいるのです。そしてそういう集団・組織を作ってしまうと変えられなくなります。
 役職、地位、階級などの上下関係をすべて廃止する段階に人類はすでに到達しているというのが最新の世界認識です。G20とかで各国首脳が並んだ映像や内閣改造とかで階段に大臣が並んだ映像などを見るとここは猿の惑星なのかと思うばかりです。(お気にいるのギャグなので何度も使わせてもらいます。)
 しかし、人間を新しい人間に変えるだけでそれはほぼ実現してしまいます。人間が次々にSD交換してしまう世界では人間の上下関係などは無意味になってしまいます。部長が急に子供になってしまったり、社長とアルバイトが同じ人間だったりするからです。それを新しい人間から見れば、新しい人間はどこかの会社の部長であると同時に別のどこかの会社の社長でもあり、それと同時に別の会社のアルバイトでもあるということになります。それはSDが全員アルバイトでもあり社長でもあり部長でもあるということです。そうなるともうそんな役職や身分になんの意味もなくなりやがて自然に廃止されることになるはずです。
 命令する人と命令される人、指示する人と指示される人、支配する人と支配される人、監督する人と監督される人、決定する人とその決定に従う人、教える人と教えられる人、そういう役割分担がないと人間の集団はなにもできないと思われていたのでした。これからはそういう役割分担なしで行動する方法を開発しなければなりません。
 規則は全員で作る。どうしても発生する役割分担は交代制にする。そういった基本規則が考えられます。規則を全員が作る場合に注意しなければならないことは議題の提出です。どういう議題を提出するかも全員で決めなければなりません。社長が「今日はみんなでこの問題を話し合いたい」と言うのは問題をすでに自分で決めてしまっているということです。問題が決まっているとたいていは答えも決まっているものです。


 会社(会社のような組織のすべて)はできるだけシンプルにします。管理と規則は可能なだけ少なくします。管理職も上司も部下もいなくなります。政策自動決定システムは会社にも導入されますが、仕事を教える教わるという関係はどうしても発生します。そこで導入されるのがビデオシステムです。仕事のやり方はすべてが完全にビデオ化されます。ビデオというよりも携帯AIのようなものです。その指示に従って仕事をすれば誰でもすぐ仕事ができるようになります。仕事をしながら仕事を覚えるのです。この携帯AIはほかの同業種の会社でも使えます。スーパーの仕事の携帯AIがあればどのスーパーでも使えます。あらゆる仕事がビデオ化されユーチューブなどで誰でも見ることができるようにします。もちろん実際に体験しなければ仕事ができるようにはなりませんが、そういったこともすべて研究して携帯AIのソフトを作るのです。携帯AIはただ仕事を教えるのではなく、「そこは自分で考えてください」「そのやり方はいろいろあります」「正しい方法があるわけではありません」「それは何度もやって慣れるしかありません」「十五分ほど休みましょう」などといったことも言います。
 この携帯AIのソフトを作る会社もできます。その会社の仕事も携帯AIの指示に従ってやります。こうしてどんな仕事でも簡単にできるようになります。いくつもの仕事をするのが普通になります。好きな時に好きな会社に行って働くようになるでしょう。会社に所属するということがなくなります。そうなると個人情報がまったく必要なくなります。会社は誰が働いているかということは管理しなくなります。ただ誰かが働いているだけです。SD交換とSD結合がそれをさらに促進します。誰も働きに来ない会社は自然消滅します。ロボット化も進行します。
 (素晴らしい技術を持っていても誰にも知られず自分だけのものにしている人がたくさんいます。その人が消えるとその技術も消えてしまいます。職人技などと呼ばれている技術です。ちょっとしたことでも熟練した技というものがあります。掃除をするにも様々な技術が必要です。箒の動かし方にも何通りもの方法があります。ゴミの種類によっても箒の動かし方が変わります。そういう技術は一代限りで埋もれてしまいます。それはたいへんな損失です。そういう技術を保存してほかの人に簡単に伝える方法があるはずです。昔の職人なら「ひたすら修行するしかない」とか「見て覚えろ」とか言うところですが、なにか一瞬で伝わる方法があるはずなのです。みなさん。)


 給料は労働量測定器で算出します。会社にいる間は全員が労働量測定器を装着します。脈拍、心拍数、体温、歩数などによって労働量を測定し、それによって給料が決まります。商品の値段も労働量で決まるようになるかもしれません。給料は仕事量ではなく労働量で決まるということです。誰かに気を使って消耗すると労働量は増加します。
やりたくないことをやっても労働量は増加します。なにもしないとかえって労働量が増えたりします。機械やパソコンを使うと労働量は変化します。といったことも考えられますがあまりいい案とは言えませんのでこれは没です。(経済改革によってまったく違うものに変わってしまいます。)


 会社はもっと徹底的に改革されいまとはまったく違うものになる可能性があります。社会構造全体が変わってしまうからです。また経済そのものが変わってしまうからです。会社は会社を作る会社によって作られるようになります。創業者も経営者もいなくなります。どういう会社を作るかという案はすべての人間から募集します。これによって会社と会社の違いがなくなっていきます。すべての会社がネットワークで結ばれ、全体で一つの会社のようになります。どの会社に行ってもよくなり、どこで働いても全員が同じ給料になります。やりたくない仕事、やる必要のない仕事はしなくなるので、そういう仕事や会社は消滅します。そういう会社がなくなっても誰も困りません。
 というのもいまの会社はすべてが間違っていると思うからです。会社に行きたい人が一人もいないのがそのことを証明しています。「会社というものはどうしても存在しなければならないものなのでしょうか」という問いを創造しておきます。



 〔繰り返す・すべての上下関係を消滅させる〕
 すべての上下関係を消滅させることがわれわれの最終目的の一つです。上下関係を消滅させるには、政治家というものを消滅させ、長の付く人間を消滅させ、あらゆる役職・地位を消滅させなければなりません。具体的には、会長、社長、CEO、専務、部長、課長、係長、班長、チーフ、大統領、大臣、議員、理事長、理事、委員長、委員、議長、裁判官、知事、市長、校長、教頭、生徒会長、学級委員、クラブ顧問、キャプテン、医院長、役所のあらゆる役職、町内会長、組長、監督、店長、リーダー、親分、幹事、鍋奉行、先輩後輩、世帯主・親・長男など(これら家族の身分制は家族制の消滅と共に消滅します)、などまだまだいくらでもありそうです。これらすべてを消滅させることを目指しますが、新しい制度になり人間が新しい人間に変わるだけで半分くらいは達成されてしまいます。人間がSD交換してしまう新しい制度では人間を一つの位置に固定することに意味がなくなるからです。意味がなくなってしまうのですから廃止してしまったほうがすっきりします。そう考えると、政治家・長の付く人間・あらゆる役職・地位の廃止とは、人間を一つの位置に固定することの廃止の一環だとわかります。専門化、専従化、分業化の否定であり、人間を一つの位置に固定する職業固定制度・役割固定制度・人間配置制度の廃止です。また、ほかの様々な上下関係の消滅も目指しています。年齢の違いによる上下関係、先輩後輩の関係、教える教えられる関係、先に来た後に来た関係なども含まれます。店と客の不思議な上下関係も含まれます。飲食店や小売店における「お客様は神様」体質です。つまりあらゆる場所から偉そうな人間や威張る人間を消滅させるということです。すべての上下関係を消滅させなければならないのは、一つでも残ればすべてが復活するからです。年齢による上下関係が存在する世界には必ず王様のようなものが出現します。
 政治家・長の付く人間・あらゆる役職・地位を廃止するために、人間を選ぶ選挙とすべての試験を廃止します。コンテストや賞や受勲はすべて廃止され、勝ち負けを争ったり順位を付ける競技やスポーツは廃止されます。会社からは入社試験・面接・人事部がなくなります。試験を廃止するとは免許や資格を廃止するということです。


 なぜ上下関係を消滅させなければならないのか。〔個人ー差別ー競争ー格差〕という連動システムを作動させているのが上下関係だからです。上下関係が個人・差別・競争・格差のすべてに関係しています。上下関係がどれほどひどいものかは上下関係の温床である会社を考えればすぐにわかります。だから会社に勤めている人はみんなわかっています。なによりも上下関係を絶えず意識していなければならないということです。その中でも最悪なのは上司がなにを考えているか絶えず推測していなければならないことです。そしてこれほど無駄で嫌な意識はありません。そんなことは生きるために必要のない意識です。上下関係はほかにも様々な無駄な意識を生み出します。客と店の従業員の関係などもひどいものです。ほんのちょっとの上下関係だけでどうしてあんなに偉そうにできるのでしょう(そういう客がたくさんいるのです)。しかもそれは「お客様は神様」というありもしない幻想の上下関係です。むしろ大きな上下関係より小さな上下関係がやっかいなのかもしれません。学校のクラスにいつのまにか生まれる上下関係とかです。上下関係から生まれる意識ほどいやらしいものはありません。そんなことを意識するために生きているのではないのです。
 ところが不思議なことに上下関係に反対する人がまったくいません。これほどみなさんが好きな自由と平等に反しているものはないのにです。それどころか独裁階級社会の総本山である会社に入ろうと必死です。いや、もしかしたら、みなさんは上下関係が好きなのでしょうか。上下関係をどうすれば消滅させることができるかが新しい制度を考え始めるきっかけだったのかもしれません。



 〔繰り返す・政策自動決定システム〕
 まず人を選んでその人に規則・政策を決めてもらうという制度をなくしていきます。そのためにはその代わりになる方法を開発しなければなりません。新しい人間はSDの集団のようなものですから新しい人間の考えをまとめる方法も必要になります。もっと大きな集団では国の問題もあります。国の政治です。国の政治は政治家を選ぶ選挙から政策を選ぶ選挙に変わります。すべてが国民投票のようなものになるということです。政策自動決定システムを開発するのですが、ほかの方法も考えてみます。
 買い物というものを考えてみてください。なにを買うか決めることはその商品に一票を入れることです。買い物とは国民投票なのです。この方法を政治にも応用します。スーパーをそのまま利用できます。スーパーのあちこちに政策の棚を作ります。その棚には誰でも政策を陳列できます。値段も自由に決めることができますが、やがて市場の法則で値段が決まるようになるでしょう。人々はほかの商品と一緒に気に入った政策も買います。気に入った政策は少々高くても買ってしまいます。そしてたくさん金を集めた政策が実施されます。集まった金はそのまま予算になります。「一週間で十億円集めた政策は半年以内に実施されなければならない」といった政策がスーパーの棚に並ぶわけです。


 政策自動決定システムをもう少し説明してみます。やがては国の政策も政策自動決定システムによって決まりますが、わかりやすいように新しい人間に導入される規則自動決定システムについて考えて見ます。鷺沼23区のスパイスのようなものです。スパイスはようするに選挙を管理する人口知能です。代表者を選ぶ選挙ではなく規則を選ぶ選挙で、どんなこともSD全員の投票で決まります。SDが50人ほどですと簡単に決まります。人口知能の学習が進むとどんなことでも15秒くらいで決まるでしょう。一回の選挙が何段階にもなっていますが、大きく二つに分かれます。議案を受け付ける選挙と最終的に決定するための選挙です。その中間にどういう形式の選挙にするかという段階もありますがそれは人工知能が決めてくれるはずです。選挙には様々な形式があります。ある案を採用するかどうかを決定する選挙もあれば、いくつかの案のどれを選ぶかという選挙もあります。この場合、前者は賛成か反対が二択ということになり、後者は多数から一つを選びます。多数から一つを選ぶ場合もトーナメント方式にすれば二択を何度も繰り返せばいいことになります。そう考えればどんな形式の選挙も二択の組み合わせでできることになります。
 議案を受け付ける選挙とは、その議案が全員で選挙するようなことかどうかを決定するということであり、それも選挙で決まります。その選挙で負けるとそのまま廃案になります。
 選挙は全員の投票ですが一人が投票するだけで決定することもあります。鷺沼23区のブログでスパイスも少し説明していましたが、もう少し詳しく説明してみます。この規則自動決定システムは一人が投票しただけで全員が投票したことになるシステムです。同調確率システムということになるかもしれません。ある議案にたいしてAが賛成したとします。これをAは○ということにします。するとスパイスは過去のすべての選挙のデータから瞬時に計算し、Aが○の場合Bが○になる同調確率28%、Cが○になる同調確率88%などと、全員の同調確率から結果を予測します。その予測が70%を超えるとほぼ決定してしまいます。一人が投票しただけで全員が投票したことになってしまうのです。そうしている間に実際にBが○に投票したとします。そうすると計算方法が変わります。AB共に○の場合Cが○になる同調確率57%、Dが○になる同調確率39%などと全員の同調確率がさっきと変わります。結果の予測もさっきと変わります。さっきより予測値が上がるとスパイスはそこでもう決定してしまうかもしれません。そしてこの選挙の結果も新しいデータとして蓄積されます。この全過程でスパイスは議案についてまったくなにも考えていません。
 そんな選挙があったことさえ知らないSDもいるということです。
 全員が投票すれば同調確率システムなど必要ないのですが、もっと人数が多くなると 必要になってきます。
 このAIによる政策自動決定システムは、AIが政策を考えるわけではありません。AIが思考を持ち始めるとか、AIが人間に代わって世界を支配するとか、そういう陳腐なSFの話ではありません。人間政治家に代わってAI政治家が登場するという話でもありません。AIが政治家になっても政治家がいるということではいまと同じです。一人の人間や一人のAIがかってに政策を決めるということを完全に終わらせるということです。政策自動決定システムはなにも考えません。人間の投票を集計するだけです。政策を考えるのはすべての人間ですし、投票するのもすべての人間です。その投票を管理し、集計し、さらに可能なあらゆる方法を使って予測します。AIに政策を考えてもらうというやり方は絶対にやってはならないことです。



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