新時代4(前のつづき)

 ここまではものの値段がどのように決まるかをおもに考えてきたので、お金そのもについてはあまり考えませんでした。少しだけお金そのものについて考えておきます。新しいお金がどうやって発生するかです。
 われわれはなにかを作りそれを売ることによってお金を得ています。(あとで考えますがサービス業も同じようなものです。)ものを作るための経費より高く売ることによってお金を稼ぎます。(その高くした部分が労働の値段ということになります。)80円で作ったものを100円で売ると20円の儲けになります。いままで存在していなかった20円が発生したことになります。ものを作って売った人には、いままで存在していなかった20円というお金が新しく出現したように見えます。いままで存在していなかったお金が創造されたのです。しかしそれは錯覚です。よく考えれば、買った人のお金が移動してきただけです。つまり、すでに存在していたお金が移動してきただけです。買った人はそのお金をどうしたのでしょう。同じようになにかを作って売ることによって得たのですから、それも別の人のお金が移動してきただけです。どこまで追求してもそれが続くだけ、同じお金が移動しているだけです。新しいお金はどこにも発生しません。自分が20円稼ぐと自分には新しい20円が発生したように見えるだけです。「お金がぐるぐる回っているだけ」とはこのことを言っているのでしょうか。
 作るー売るー買うー使うのサイクルからは新しいお金は発生しないようです。すでに存在しているお金が移動しているだけです。いままにないような新しいものを作っても新しいお金が発生するわけではないということです。誰かのお金が増えると必ず別の誰かのお金が減ります。
 そうすると様々な疑問が発生します。
 同じお金がぐるぐる回っているだけなら、世の中に存在するお金の量は常に一定なのでしょうか。世の中に存在するお金の量が一定ならそれはどのくらいの量なのでしょうか。量が一定のそのお金はいつどうやって発生したのでしょうか。しかしテレビでは世の中のお金の量が増えたとか減ったとか言うのではないでしょうか。総生産とか総所得とか総貯金とかもずいぶん変化するようです。外国との貿易のせいでしょうか。そうだとするなら世界全体のお金の量は一定ということなのでしょうか。GDPとかが変化するのはお金の回転を速くしているからなのでしょうか。500円玉が一日に十人の人間を移動するとします。高速で売ったり買ったりを繰り返すわけです。そうすれば500円玉が一個しかないのに一日の総生産が5000円になり一日の総消費が5000円になります。GDPが増えるとはみんなが高速で動いたということなのではないでしょうか。その場合売るだけではだめです。売っただけの分は買わなければなりません。お金持ちとは短い時間に大量のお金が通過しているというかもしれません。
 世の中に存在するお金の量が一定なら人口が増ええたり減ったりしたらどうするのでしょうか。人口にあわせてお金の量を誰かが調節しているのでしょうか。人口が減ればお金持ちが増えるのでしょうか。


 しかし、世の中に存在するお金の量が一定などということはないはずです。あらゆるものの値段が一斉に高くなったり、賃金がだんだん上がっていったりするからです。(下がることもあるが上がるほうが多いのも不思議です。)それに人々の行動の速度もあまり変化していないようです。たぶん世の中に存在するお金の量はだんだん増えているにちがいありません。いまだけの現象かもしれませんが。
 存在しているお金を動かすだけではお金の量は変化しないのだから、お金の量はどうやって増えるのでしょう。つまりいままで存在していなかったお金が発生するのです。お金が自然現象で発生するなどということは考えられません。ということは人間が作っているのです。しかし、作ろうと思って作っているのか、作ろうと思っていないのに作ってしまうのか。お金を作るのは思っているほど簡単なことではないようです。札を印刷すればいいのでしょうか。印刷した札をどうやって世の中に出すのでしょうか。全員に無料で配るのでしょうか。そんなことは見たことがありません。古い札と交換するくらいしかできないのではないでしょうか。それではお金が増えません。印刷した札を売りにだすのでしょうか。たぶん一万円札は一万円で売るしかないでしょう。それでは誰も買いません。このように新しいお金を存在させるのはひどくむずかしいことです。なにか裏技のようなものが必要なのではないでしょうか。でも実際にそれをやっているわけです。
 同じお金を同時に二回使えばいいのではないでしょうか。500円玉一個で500円のスイカと500円のメロンを同時に買うということです。同時といってもほぼ同時であって少しの時間差を作ります。次のようにします。500円のスイカを買って500円を一時間後に払う約束をします。その一時間の間に500円でラーメンを作り1000円で売ります。儲かった1000円のうちの500円で500円のメロンを買います。手元に500円が残っています。一時間でそれだけのことをやり、一時間後に一時間前に買ったスイカの代金を支払います。これで500円で500円のスイカとメロンをほぼ同時に買ったことになります。これは時間差を利用しているようですが、一時間だけ借金をしているのであって、借金を利用したマジックです。というより借金とは常に時間差を作り出すことです。でもこれもすでに存在しているお金が動いただけで、新しいお金が発生したわけではないようです。計算できませんがたぶんそうです。
 資本家は銀行から金を借り、金を返すまでの間にその金を使って借りた以上に儲けて利子と一緒に金を返せば手元に金が残ります。それは新しく発生したお金ではないでしょうか。売り買い貸し借りがすべて終わっても残っているお金だからです。いったいなにが起こっているのでしょう。計算機で計算しながら考えなければわからないかもしれません。銀行にとっては出て行ったお金が利子の分だけ増えて戻ってきただけです。利子の分だけ増えていますがそれは資本家がなにかを売って儲けたお金ですから新しく発生したお金ではありません。資本家にとってもすでに存在しているお金が動いただけではないでしょう。資本家が儲かった分は誰かのお金が減少しているのです。ですから借金が新しいお金を発生させるわけではないようです。でも、借金が新しいお金を生み出すことに関係しているようです。


 銀行に貯金するとはどういうことでしょう。銀行がわれわれから借金しているということです。銀行はこの借金をほかの人に貸します。銀行から金を借りた人は銀行の借金を借金しているのです。もっと複雑なこともできます。銀行からお金を借りてそのお金を 
銀行に預金します。そのお金をまた借りるということもできます。実際にそのお金かどうかはわかりません。またほかの銀行から借りたお金を別の銀行に預金するということもできます。そうするとなにが起こるのでしょう。われわれの想像力と思考力ではまったく理解できません。


 われわれの給料は銀行振り込みです。それは給料が自動的に銀行の預金になるということです。でも数字が変化するだけです。会社の預金の数字が減って、従業員の預金の数字が増えるだけです。銀行はわれわれの預金を誰かに貸します。それも数字が変化するだけです。銀行がお金を貸した人の預金の数字が増えます。しかし、われわれの預金の数字は変化しません。銀行はわれわれの預金を誰かに貸しているのにわれわれの預金の数字は減らないのです。これはどういうことなのでしょう。ここに秘密がありそうです。
 先に進みます。銀行からお金を借りた人はそのお金を原料の支払いに使います。それもたぶん預金の数字が変化するだけでしょう。原料の支払いを受けた人の預金の数字が増えます。それはわれわれの預金のお金だったものです。でもわれわれの預金のお金もそのまま残っています。どちらの預金も現金に変えることができます。そうするとやはりまったく存在しなかったお金が出現したことになるのではないでしょう。その時こそ新しく印刷した札が必要になります。
 新しいお金を作り出すためには借金だけではだめだということです。銀行が介在しなければならないのです。銀行はわれわれの預金を誰かに貸しているのにわれわれの預金の数字を変えないでいることができるのです。これはマジックです。貸したはずのお金がそのまま残っているのです。ないお金をあることにできるマジックです。銀行はこのマジックを使うことを許されているようです。そして実際にわれわれはないはずのお金を引き出すことができます。このマジックを使えば同じお金を何人にも貸すことができるはずです。法律でそれを制限してもきっとなにか裏技が作られます。
 このマジックの全貌を完全にわかる人はいないのではないでしょうか。同じお金を貸したり借りたりしていると、どのお金が貸したお金なのかどのお金が借りたお金なのかわからなくなります。自分が借りたお金は自分が貸したお金かもしれないのです。やがてそこにどこにも存在しなかったお金が出現するのです。同じ方法を使ってお金を消滅させることもできるはずです。経済のいろいろなことがこのマジックに関係しているはずです。経済の様々な活動がこういうマジックに自然に根を伸ばしてしまうからです。様々な植物の根が生物の死体に寄り集まっていくように。





 〔新しい人間と経済改革の合体〕
 人間を新しい人間に変える新しい制度と経済改革は密接に関係しています。経済改革を実現するためには人間を新しい人間に変える必要があるということです。個人中心主義を終らせなければならないということです。新しい制度に変われば経済の基本単位も新しい人間に変わります。新しい人間と経済改革を合体させるとどうなるかはここでは考えません。みなさんが考えてください。たとえば、新しい制度になると所有の主体も新しい人間になりますが、経済改革によって所有というものはなくなります。自然物はすべて無料で使用し使用が終われば返却されるからです。


 返却がむずかしいのはエネルギーです。エネルギー問題はこれからますます大きな問題になります。もうこれ以上エネルギーを使えないのはみんなわかっています。余計なものを作るのをやめるしかないのもみんなわかっています。余計なものを生産するために使うエネルギーの余裕はないからです。しかし、余計なものの生産をやめることができません。なぜなのでしょう。やめられない仕組みが出来上がってしまったからです。それが新しい制度に関係しています。
 まず電気から考え始めます。エネルギーはおもに電気を作るために使われているからです。電気とはいったいなんのでしょう。電子というものがそこいらじゅうを動き回っているようなのです。人類はそれを見つけました。そしてそれを操作する方法まで見つけたのです。それはたいへんなことでした。歴史上の皇帝や権力者を全部集めても電気の発見にはかないません。人類が電気を使いこなすようになるのは必然的なことだったのでしょうか。宇宙人はみんな電気を使うようになるのでしょうか。電気の代わりになる電気のようなものはありそうもないからです。電気は電気しかないのです。電気を使い続ける限り電気を作り続けるしかありません。
 石油・石炭・天然ガスの量には限界があります。原子力は危険すぎます。太陽光発電は効率が悪すぎます。そのうえ環境問題があります。これがエネルギー問題です。電気は電気しかありませんが、電気を作る方法はほかにもあるはずです。やはり最後に頼れるのは太陽ではないでしょうか。もっと簡単で効率的な太陽光発電を誰か考えてください。太陽の光で水を熱くして発電機を回しましょう。細い金属管で水をあたため一方のノズルから蒸気が噴き出すようにします。ほかに使えそうなのは人体です。人間が眠っている間に発電します。
 いまのところはまだできるだけ電気を使わないようにするしかありません。それはつまりできるだけ余計なものは作らないということです。
 なにが必要でなにが必要ないかは誰でもわかっています。生物体が自然にわかることだからです。食べ物や衣類は必要ですし、アニメやゲームは必要ありません。生きるためには必要なものが必要なだけあればいいのです。ところがわれわれは必要のないものを大量に作り、大量に買い、大量に使い、大量に捨てています。なぜなのでしょう。そうしなければ生きていけないからです。不思議なことです。生きるために必要のないものを作って消費しなければ生きていけなくなっているのです。どうしてそんなことになるのでしょう。このねじれに謎が隠されています。経済のあらゆる欠陥がここに集中しているのです。
 (なにが必要でなにが必要でないかも細かく考えると切りがなくなります。食べ物でも必要のないものがありますし、必要と不必要が合体したものが多いとかです。)
 生きるために必要なものはすべて作られています。たぶん全人間の20%くらいの人間によって、すべての人間が生きるために必要なものは作られています。つまり全人間の80%は働く必要がないということです。しかしそれだとお金を稼ぐことができるのは、必要なものを生産している20%の人間だけです。そのお金が残りの80%に回っていかないので、残りの80%は必要なものを買うことができません。お金を稼ぐことができる20%の人間のお金が残りの80%に回っていく仕組みがないということです。この80%の人間が必要なものを手に入れるには自分でお金を稼ぐしかありません。そこでなにかを作って売ろうとします。しかし、必要なものはすべて作られています。だから違うものを作って売るしかありません。それほど必要のないもの、アニメやゲームです。こうして必要のないものを作って生きるためのお金を稼ぐしかない人が増えていったのです。必要のないものを売るためには必要のないものも必要だと思わせる宣伝が必要になります。アニメやゲームも生きるためには必要だと思わせなければなりません。アニメやゲームを必要でないものの代表として扱っているだけで、特にそれらを槍玉に上げているわけではありません。80%の人間はそういうものを売ってお金を稼ぎ、そのお金で必要なものを買ってなんとか生きているのです。また、われわれはそういうことを薄々知っているのです。必要のないものを買わなければ必要のないものを作っている人が困るとわかっているのです。旅行しなければ観光業界の人が困る。飲食店に行かなければ飲食業の人が困る。そういうことがわかっています。このようにして余計なものをたくさん作るようになり、余計なことをたくさんするようになり、余計なエネルギーを使うようになりました。もうすぐ月々の出費の半分は電気代になるでしょう。
 これらすべての原因は人間から人間へお金がスムーズに移動できないからです。ものを売ったり買ったりしなければ人間から人間へお金が移動できないからです。どうしてそうなるのか。財布が個人別になっていることが主要な原因ですが、ここには経済のあらゆる問題が含まれています。現在の経済制度そのものを変えなければどうしようもありません。ゴッホのひまわりにマヨネーズを塗ってもなにも変わりません。
 人間が新しい人間に変わっても50人くらいの財布が一つになるだけですから小さな変化にすぎません。しかし、新しい人間には様々な職業の人が集まります。必要なものを作っているSDもいれば必要でないものを作っているSDもいるわけです。それがだんだん、必要でないものを作っているSDが必要のほうにシフトすると予定されています。そのためにSD交換とSD結合が使われます。お金を稼ぐSDが10人いれば50人のSDが生きていけるようになると予定されています。いや、お金を稼ぐSDが10人いるのではなく、お金を稼ぐ仕事が10個あるということです。その10個の仕事をみんなでやるというわけです。


 この問題はあまりにも重要なのでもう一度簡単に復習します。
 われわれは余計なものを大量に作っています。必要のないもの、別になくてもいいものを大量に作っています。そのために大量の無駄なエネルギーを使って環境を破壊しています。なぜそんなことができるのか。いらないものでも売れさえすればお金になるからです。お金になればそのお金で必要なものを買えます。ようするに、不必要なものを売ってお金になれば必要なものを帰るということです。お金を使えば不必要なものを必要なものに変換できるのです。お金は不必要なものを必要なものに変換できるのです。お金を使えばガチャポン(カプセルトイ)がラーメンに変身するのです。これこそが錬金術です。ですから大量の不必要なものを生産するようになるのです。どんなものでも売れてお金になりさえすれば生きていけるのです。売れさえすればなんでもいいのです。そのためにそれを必要なものだと思わせなければなりません。現在の文化とはほとんどがそう思わせるためのものです。まったく必要のないものを欲しくてたまらないものに思わせるための仕掛けが文化になっています。テレビなどはすべてがそうす。CMだけでなく番組のほとんどがいらないものの宣伝です。お金は不必要なものを必要なものに変換できる。そうして世界には不必要なものが大量に作られ続けているのです。
 たとえばプロ野球などまったく必要のないものです。そんなことは誰でもわかります。水害で避難所に非難した人はみんな野球のことなど忘れています。そのようにまったく必要のないプロ野球でたくさんの人が活動して大量のお金が動き大量のエネルギーを使っています。誰もそれが変だと思いません。それどころか至る所で野球の話題で盛り上がっています。連日スター選手の話題で膨大なエネルギーが消費されます。多くのの人間がそういうものだと思い込まされているのです。野球だけではありません。たぶん80%の人間が必要のない産業に従事しています。


 〔経済改革はどのように始まるか〕
 人間を新しい人間に変える制度改革と経済改革は同時にすることが可能ですが、別々にすることも可能だし、どちらかだけすることも可能です。しかし、同時にするとやりやすくなります。互いに互いを補助する関係になるからです。いずれにしてもこのような大きな改革はいきなり始めるしかありません。とりあえずここでは経済改革をどのように始めるかを考えます。
 まず開始する日を決めます。それまでにあらゆるものの新しい値段(ジョブ)がどうなるかを計算しておきます。サービス業ならサービスの値段(ジョブ)になります。おもにその当事者が計算しますが、会社では会社全体で計算するようになるでしょう。
 その日にまず起こることは、労働以外のあらゆるものが無料になること、いままでのお金が廃止になること、所有というものがなくなることです。これらのことは連動して起こります。ものに値段がなくなるのだから必然的にあらゆるものが無料になります。土地も家も自動車も家の中のものも家の外のものも自然のものも情報もすべてが無料になります。あらゆるものが無料になり誰のものでもなくなり、所有できるものがなくなるのです。シャツも眼鏡もスマホもただ一時的に自然から無料で借りて使っているだけです。
 所有がなくなるということは共有や国有もなくなるということです。
 いままでのお金(円)は使えなくなります。お金はただの物質になり、使い終わったものとして自然に返却されます。貯金は消滅し、株や債券も消滅します。金額が表示されているあらゆるものから金額が消えます。ですから借金もすべて消滅します。国の借金もほぼ消滅するでしょう。(世界じゅうの円が消滅する?)財産、資産、不動産といったものがなくなります。値引き、安売り、ポイント、手数料がなくなります。賞金、宝くじ、ビール券などがなくなります。
 お金(円)が消滅すると同時にジョブが発行されます。すべての人間(新しい人間)に一年分のジョブが支給されます。ジョブは電子マネーのようなものになるかもしれません。
 これより以後あらゆるものの値段(ジョブ)は人間の労働(ジョブ)によって決まります。労働(ジョブ)によって作ることのできないものには値段(ジョブ)が発生しません。すべての人間の労働ジョブは同じです。一時間の労働が1000ジョブとすると、一日の労働は8000ジョブ、一週間の労働は40000ジョブになります。どれで計算してもかまいません。労働によってものの値段が決まるのであって、需要と供給などなんの関係もありません。売れるか売れないかも関係ありません。一時間に一個作るものは1000ジョブであり、一時間に二個作るものは一個500ジョブになるだけです。
 一日の労働が8000ジョブとは一日に八時間が労働の限界ということにするからです。八時間以上働いても一日の労働は8000ジョブにしかなりません。一週間の労働が40000ジョブとは一週間に五日働くのを限界とするからです。それ以上の労働はジョブにはならないということです。
 その日からあらゆるものの値段がジョブに変わります。その日の労働からジョブが発生するということです。支給される一年分のジョブは別です。また、経費のジョブもその日から発生したことにします。
 その日までにあらゆるもののジョブが計算されていなければなりません。もののジョブはものに加えられた労働ジョブの総計になります。まず自然からものを取り出すためのジョブが一番目のジョブになります。そこにそれを加工するジョブや運搬するジョブが加えられていきます。電気や燃料のジョブも追加されます。機械やパソコンや設備のジョブも追加されます。ようするに経費のジョブです。どんな仕事もその前段階の労働ジョブが積み重なっているのです。すでに存在している機械やパソコンは対象外になるかもしれません。機械やパソコンの労働からジョブは発生しませんが、電気代ジョブは発生します。そういったことがすべて前もって計算されて商品やサービスのジョブが決まります。チーズを作っている会社には牛乳のジョブが牛乳を作っている会社から前もって報告されるわけです。税金ジョブもその日までに計算しておかなければなりません。それらはすべて当事者が計算することになるでしょう。
 その日にはスーパーの商品も電車賃も水族館の入場料もすべてジョブになっています。給料も次の給料からジョブになります。しばらくは支給されたジョブで生活することになります。最初はたいした変化ではないような気がします。円がジョブに変わっただけのようです。しかし円とジョブを簡単に比較することはできません。ものの値段がどのように変化するかはみなさんが予測してください。安くなったように感じるものもあれば、高くなったように感じるものもあります。農作物は以前と同じように天候によってずいぶん左右されるはずです。大量に簡単にコピーできるものはほとんど無料になります。利用する人数によって値段が変化するものが増えます。人間の労働によってものの値段が決まるとは、一人の人間が一日になにかを一個作るとすると、そのすべてはほぼ同じ値段になるということです。そこから予測すれば値段の異常に高いものは存在しなくなります。大量生産品は安くなります。そしてもちろん全員の収入がほぼ同じになります。
 ジョブは交換のための道具にすぎません。ですから「値段」という言葉も適切ではありません。しかし急にあれもこれも変えることはできません。
 労働が以前より楽になることはありません。前よりいっそう創意工夫が必要になります。作ったものがすべて売れるようにしなければならないからです。
 機械やパソコンの労働はどうやって計算するかという問題が発生しますが、機械やパソコンの労働は人間の労働に組み込まれて計算されます。パソコンを使わなければ一日に100個しかできないものがパソコンを使うと300個できるとします。そうするとパソコンが200個作ったことになりそうです。そうだとすると、人間が作った100個とパソコンが作った200個の値段を別々に計算しなければならなくなります。そんなめんどうなことをせずに、人間が300個作ったことにすれば100個作った場合と比較して値段が三分の一になります。機械やパソコンの労働はそのようにして人間の労働に組み込まれます。運送業ではトラックの労働は運転手の労働に組み込まれます。牛や馬や犬の労働も同様です。ミツバチや麹菌の労働もです。それらの設備費は別です。機械やパソコンやAIや人間以外の生物の労働にはジョブが発生しないということです。それらを操作する人間の労働にジョブが発生するだけです。動物や植物の成長にもジョブは発生しません。


 それまで自分のものだったものはすべて自分のものではなくなります。自分のものといえるのは自分だけです(自分の労働も)。土地も家も自動車も誰のものでもなくなります。家の中にあるものすべて、着ている服もです。所有ということがなくなるのです。しかし、使っているものはすべてそのまま使い続けることができます。住んでいる家にそのまま住み続けることができます。ローンは消滅し、賃貸の場合は家賃がなくなります。土地も住んでいる人がそのまま使い続けることになります。工場や畑に使っている土地もそのまま使い続けることができます。使われていない土地は誰のものでもない土地になります。そういう土地が至る所に発生します。使っている自動車などをほかの人が使うことを拒絶できません。そしてそのまま戻ってこないこともあり得ます。
 そういった問題を考えていると、所有と使用の区別がはっきりしないという問題が発生するということがわかります。使用がいつのまにか所有になってしまったり、所有しているものを使用するということもあります。所有と使用はなにが違うのかもっと明確にする必要があります。所有は使用していない時にも継続しているが、使用は使用している時だけです。所有は所有している人だけのことですが、使用は誰でも使用できます。などといったことが考えられますが、少し考えただけでひどくむずかしい問題だとわかるのでこれからの課題にしておきます。
 所有と使用の違いは結婚と恋愛の違いのようなものかもしれません。恋愛を「好きになること」と考えれば、一方的に好きになってもいいし、何人好きになってもかまいません。簡単にやめることもできます。ただ遠くから見ているだけの好きもあります。恋愛ドラマでは「好きな人を一人に決めなければならない」ということになりがちですが、それは結婚を前提にしているからです。好きな食べ物がいくつあってもいいように、好きな人が何人いてもかまいません。ラーメンを好きな人がカレーを食べたら不倫ということにはなりません。あらゆる食べ物が好きだと「こころがゆたか」といわれたりします。つまらない比喩ですが、使用には愛情があるけれど所有には愛情がないのです。ただ好きなだけというのが使用だということにしておきます。
 もっと簡単な説明を見つけました。使用とはなにかは、言葉の使用を考えるとわかります。使用とは言葉の使用のようなものです。言葉は誰のものでもなく、誰でも言葉を自由に使うことができ、誰も言葉を独占することができず、ここに存在する言葉も誰の言葉かわかりません。あらゆるものが言葉のようなものになるのです。
 自然物はすべて所有できません。ジョブでなにかを買っても所有することはできません。ジョブで買ったのは人間の労働であって自然物ではありません。(「買う」「売る」という言葉も変えたほうがいいかもしれません。)自然物は使用できるだけです。使用とは使用している間だけ使用しているということです。独占的に使用することはできません。使用できるものはすべて誰でも使用できます。電子レンジなどはその辺に置いておけば誰でも使えます。電気もです。(電気をどういう仕組みにするかも考えなければなりません。)たいていのものは誰が使ってもよくなります。新しい人間の内側だけでなく外側でもそうなるということです。言葉が人間から人間へ(SDからSDへ)次々と移動するようにあらゆるものが人間から人間へ(SDからSDへ)移動します。ボールペンなどは同じボールペンに二度と出会えません。誰のものでもない服を着て、誰のものでもない自転車に乗って寺家町に行き、誰のものでもない自然を感覚できます。「私有地につき関係者以外立ち入り禁止」という立て札があったら過去の遺物なのですから抜いてください。入ってはならない土地や建物はなくなります。鍵を掛けることは禁止になります。トイレの鍵以外すべての鍵です。トイレの鍵も中に入っている間だけ掛けます。
 所有というものがなくなると「盗む」ということもなくなるようです。「盗んではならない」という規則が存在する社会にはすでに所有というものが存在していたということです。


                    
 同じものを使用し続けるためには許可が必要になります。そのための使用許可局を作ります。あらゆるものの使用を管理するためのものではなく、おもに土地とか資源とか海などの使用を管理します。それも小さな土地ではなく、工場や発電所や農地を作るための土地です。所有権がなくなると誰も使っていない土地がたくさんできます。そういう土地の使用を管理します。作物を作るために空いている土地を使いたい場合などに使用許可局から許可をもらいます。もちろん土地は無料で使えます。
 いま住んでいる家の土地はそのまま無料で使えますが、新築の場合などは人間(SD)一人に使える土地の広さは制限されます。自給自足のための農地の広さも制限されます。使用量の制限ということですが、それはほかのいろいろなことに適用されます。無料で使用できるものにも量の制限が必要なのです。漁獲量の制限などです。恋愛に限界があるように使用にも限界があるということです。求めすぎてはいけません。相手は誰のものでもないのです。誰のものでもないものはそっと静かに扱わなければなりません。
 所有権が存在しない世界には「貸す」とか「借りる」ということも存在できないようです。自分のものでないものを貸すことなどできないし、相手のものでないものを借りることなどできないからです。むしろ貸したり借りたりすることによって所有権が強化されていたのです。学校でも消しゴムを借りることができなくなります。消しゴムはみんなで使うだけです。


 小売でも店が商品を所有しているのではありません。「商品」という言葉がよくないのです。このように古い経済用語はすべて変えたほうがいいようです。古い経済用語で新しい経済制度を説明するとだんだん混乱してきます。人間(SD)は店(生産物の分配所)にいってジョブと生産物を交換するのですが、売ったり買ったりしているのではないのです。所有権が移動しているのではありません。ではなにをしているのでしょう。自分のジョブと生産物に含まれる他人のジョブを交換しているのです。いや、ジョブでジョブで消していると考えたほうがいいかもしれません。店の人間は生産物を多くの人間に分配するという労働を生産物に加えています。その分のジョブは生産物に追加されます。
 ということは、ほかの人間のジョブが含まれるものは使用できないということでしょうか。ということは、ジョブが所有権のようになっているということでしょうか。人間が所有できるのは自分の肉体だけで、労働は肉体に含まれるということになるようです。





 ほかの国との関係はどうなるでしょう。同じ経済制度を導入した国との貿易にはなんの問題もありません。為替レートなどの呼ばれていたやつは固定されるからです。日本の一日の労働が8000ジョブで、別のある国の一日の労働が500ジュールなら、8000ジョブ=500ジュールになり、16ジョブ=1ジュールに固定されます。ですからどちらもジョブにしてしまえばいいのです。そうすれば経済的には一つの国になってしまったようなものです。
 以前の経済制度のままの国との貿易はどうなるでしょう。
 いままでどんな国ともそれなりに貿易が可能でした。そのほうが不思議なくらいです。つまりすべての国の経済制度がほぼ同じだったということです。そこにまったく違う経済制度の国が出現しました。人間の労働の値段が人間ごとにみんな違う国ばかりなのに、人間の労働の値段がみんな同じ国が出現しました。ジョブはいままでのお金とまったく違うものです。たとえば1ドルが何ジョブになるか計算不能ということです。それどころか1円が何ジョブになるかも計算不能です。ジョブはどこの国のお金とも交換できません。ですから、貿易どころか旅行もできません。どうすればいいのでしょう。そんな国とは貿易をしないという選択肢もあります。
 試しに計算してみます。
 アメリカで日給120ドルの人が一日に10ドルの商品を100個作っているとします。日本の日給はすべて8000ジョブですので、120ドルを8000ジョブとします。8000ジョブで100個の商品を作ると一個80ジョブになります。10ドルの商品が80ジョブになります。そうすると給料の比較では1ドル67ジョブくらいになりますが、商品の比較では1ドル8ジョブになります。こんなに食い違うわけです。それがあらゆるもので起こります。ものによってドルとジョブの交換比率がすべて違うということになります。それはドルとジョブは交換不能ということです。


 自国と他国で同じものの値段が違います。これは実に不思議なことです。ものの値段がかってに変動するのでそうなるのです。(経済学者はものの値段がどのように変動するか、その法則を見つけようとしますがそんな法則はありません。自分の収入がどうやって決まるかを考えただけでそんなことはわかるはずです。)ものの値段が決まる明確な法則などなく、ものの値段は適当に決まります。国によってものの値段の決まり方が違うので国によってものの値段の体系が違っています。
 ものの値段の体系が違うと経済的な交流が面倒になります。だから、経済制度が変わってしまうと経済的な交流はほぼ不可能ということになります。そこに逆転の発想があるはずです。ぜんぜん違うから逆に行き来しやすくなるということもあるはずです。相手の国では相手の国の制度に切り換えるのがいいかもしれません。
 アメリカのものや人間が日本に来るとすべて日本式に変わり、日本のものや人間がアメリカに行くとすべてアメリカ式に変わるようにします。アメリカでタマネギ一個50ドル、日本でタマネギ一個100ジョブだとすると、アメリカのタマネギが日本にくると100ジョブになるようにします。だからといって50ドル=100ジョブということではありません。日本から見ればプラス50ポイント、アメリカから見ればマイナス50ポイントということにします。
 これはアメリカのタマネギの値段をジョブで計算しなおすということです。日本のタマネギの値段を参考にして決めているだけですが。なぜなら人間の労働ジョブは世界じゅう同じということにしているのだから、どんな国でも同じものはほぼ同じ値段ジョブになるはずです。
 アメリカで卵が一個30ドルで、日本で卵が一個20ジョブだとする。日本の卵がアメリカに行くと30ドルになります。これを日本から見ればマイナス10ポイント、アメリカから見ればプラス10ポイントということにします。
 プラスとマイナスは反対でもかまいません。問題は数字の差だからです。ドルとジョブの関係を為替の関係ではなく、単なる数字の関係として処理します。そしてプラスマイナスゼロにすれば貿易が成立ということにします。つまり、アメリカから日本へタマネギが一個来たら日本からアメリカへ卵が五個行けば取り引き成立ということです。これは物々交換に似ていますが物々交換ではありません。タマネギと卵の取り引きは別々に起こってもいいからです。しかし、それぞれの国でタマネギ業者と卵業者の協議が必要になります。それはそれぞれの国の問題です。だからそれはそれぞれの国の経済制度によって決められます。
 あまりいいアイデアではないようです。めんどうです。
 ジョブを軽く見すぎているようです。ジョブには浸透力があるはずです。ジョブはいつのまにか世界じゅうに浸透して行くかもしれません。それはジョブによる世界統一ということになります。なぜなら人間の労働ジョブは世界じゅうの人間みんな同じだからです。人間はみな平等だと宣言した時点ですべての人間の収入を同じにするべきだったのです。


 すべての国の経済制度がほぼ同じなのはなぜでしょう。まったく違う経済制度があってもいいのではないでしょうか。世界じゅうの経済制度がほぼ同じなのは、すべての国が西欧の経済制度を真似たからです。真似せざるを得ないように西欧が仕向けたともいえます。西欧のような経済制度になるのは必然的なことではないというです。
 しかし、お金が出現するのは必然的なことでした。そして、お金が出現するとどこでも同じようなことが起こります。お金はどこでも同じように運動するからです。それは自然法則のようなもので人間がそうしようとしてそうするのではありません。それこそが「神の見えざる手」です。ほかの国が西欧を真似たのはそういう部分ではなく、もっと細かい部分でした。会社や銀行の作り方とか、取り引きや株の細かい規則などです。
 そうやって現在の経済制度が出来上がりました。それを変えようというのが経済改革ですが、それを起こすためには一度現在の経済制度が出来上がらなければなりませんでした。現在の経済制度が出来上がったことによって新しい経済改革が可能になったのです。無意識的に作ってしまった経済制度をやっと意識的に改革できるようになったということです。


 新しい人間の制度と新しい経済制度が合体したのが新しい世界の構想ということになります。しかしいったいなぜこのような世界が構想されたのでしょう。なにか指針のようなものがあったはずです。こういう世界を目指すという指針です。そういう指針のようなものがなければ行動できませんし、なにも決定できないはずです。そういうものがあるとしたらたった一つしかありません。〔痛みと苦しみはできるだけ少ないほうがいい〕というものです。これを倫理と呼んでいます。真実ではないからです。これが倫理なのですから倫理はこれ一つしかありません。〔痛みと苦しみはできるだけ少ないほうがいい〕という倫理によってあらゆることが決定されます。痛みと苦しみとはあらゆる痛みと苦しみです。自分はもちろんすべての人間の痛みと苦しみであり、すべての生物の痛みと苦しみも含みます。異星人がいるなら異星人の痛みと苦しみも含みます。痛みと苦しみはできるだけ少ないほうがいいのです。それは真実ではありませんがそういうことに決めたのです。どう考えてもそうとしか考えられないからです。ですから、新しい人間の制度と新しい経済制度もこの指針によって構想されたことになります。
 痛みと苦しみを少なくすることは快感と喜びを増やすことではありません。その逆です。快感と喜びが増えると痛みと苦しみも増えるのです。痛みと苦しみが増えると快感と喜びも増えます。どこかに喜びがあるということは別のどこかに苦しみがあるということです。喜びと苦しみが合体して無に戻る法則になっているからです。喜びの量と苦しみの量は比例するわけです。これは法則なので真実です。どこかで喜びが爆発していると必ずどこかで苦しみが増量しているのですから用心してください。痛みと苦しみを少なくするということは快感と喜びも少なくなるということです。
 喜びと悲しみが合体して無に戻ると悲しみが発生する。悲しみは無の感情かもしれない。


 この世界の痛みと苦しみの総量はどれくらいなのか。そんなことは誰も計算したことがありません。他人の痛みと苦しみはほとんど見えないのでなおさらです。この世界に痛みと苦しみが存在していることを知らない人もいるようです。そこで、この世界にどれくらいの痛みと苦しみが存在しているかを推測するための一覧表を提示しておきます。こんなことでしかイメージできないからです。とある国の平成の終わりころはこんな感じでした。人間界に限定されます。
 人口は1億2646万人(211万人が外国人)。
 15歳未満1549万人。15歳~64歳7555万人。65歳以上3541万人。
 就業者数6715万人。人口の53%が働いていることになる。47%は働いていない。
 15歳~64歳の就業者数は5817万人となり、それ以外の就業者数は898万人になる。
 15歳~64歳で働いていない人は1738万人になる。
 精神疾患390万人。認知症500万人。
 精神疾患による入院28万人。
 障害者360万人。
 難病患者150万人。(ASL一万人。)
 アルコール依存症80万人。予備軍440万人。
 糖尿病1000万人。予備軍1000万人。
 慢性腎臓病1330万人。うつ病650万人。喘息1100万人。高血圧4000万人。動脈硬化400万人。アトピー性皮膚炎450万人。花粉症5000万人。B・C型肝炎44万人(キャリア300万人)。椎間板ヘルニア100万人。日本の病人約6億人。
 病院に行く人一日180万人。一年で6億4千万人。入院患者常に140万人。一年で入院する人1300万人(退院する人はそれより少ない)。精神疾患の入院数28万人。
 医療的ケア児(変な言葉だ)1万8千人。十年で二倍になっている。
 癌患者一年で100万人。百年で一億人。癌による死者一年で37万人。百年で3700万人。
 ひきこもり54万人(39歳以上は含まない)。(39歳以上が61万人だとわかる。)不登校小中学生12万人。(予備軍30万人。)(令和4年には24万人になる。)
 自殺一年で2万人。人工妊娠中絶平成28年16万件(16万人とは言われない)。
 交通事故死傷者数年間70万人。百年で7000万人。(医学の進歩によって死者は減少しているが障害者は増えているかもしれない。そういう統計はない。)
 受刑者6万5千人。そのうち男6万人。アメリカは200万人。
 犯罪者(検挙者)一年で100万人。交通違反を含む。(「検挙」という言葉は明確ではない。犯罪に関する言葉は曖昧なものが多い。犯罪には加害者と被害者がいる。)
 火災。一年で10万件。
 ホームレス平成28年6235人。アメリカ60万人。
 生活保護受給者210万人。
 貧乏人とその家族、年収122万円以下1700万人。
 (注。痛み・苦しみの量と同じ量の快感・喜びも存在しています。)




 〔無の思想〕
 最後に無の思想を説明して終わりにします。無の思想はただひとつの完全な思想です。新しい世界の学校ではまず最初に無の思想を学習します。無の思想を基点にして考えればほかのあらゆる考えのつながりがわかりやすくなります。
 無の思想は生きることにはなんの意味もないという思想です。存在することにはなんの意味もないと言い換えても同じです。これは人間だけでなく宇宙にも適用されます。宇宙とは世界全体ということであり、存在するものすべてということです。存在するものすべてはなんの意味もなく存在しています。完全に無意味なのであって、あってもないのと同じであり、なくてもあるのと同じです。無とはそういうことです。存在していることがすでに無であり、存在していても存在していないことと同じなのです。それはつまり存在していなくても存在していることと同じということです。生きることにはなんの意味もなく、死ぬことにもなんの意味もありません。生きていても死んでいるのと同じであり、死んでいても生きているのと同じです。
 無の思想は死の認識から始めることができます。死とは完全な消滅です。完全な消滅とは完全な無になることです。なにもなくなるのです。なにもなくなるとはかつて存在したということも消滅するということです。最初から存在しなかったことと同じになることです。生まれる前の無に戻ることであり、宇宙が始まる前の無に戻ることです。SDだけでなく新しい人間もやがてすぐ消滅します。すべての生物が消滅します。すべての物質が消滅します。地球も消滅し宇宙も消滅します。宇宙の消滅も一匹の生物の消滅も消滅ということでは完全に同じです。どちらも同じ無に戻るだけです。
 人間は完全な無というものをなかなか理解できません。無を考えたり無を想像しようとしても、無には思考も想像もないのですから、思考し想像することが無の否定になってしまうからです。無というものを認識できない人間は、死後の世界や天国や霊魂などを考えてしまいます。神というものも同類です。それらのものをすべて否定するのが無の思想です。死は完全な消滅でなければならないのです。死後の世界も天国も霊魂も神も存在してはならないのです。むしろないほうがいいのです。なぜ死は完全な消滅でなければならないのでしょうか。それを理解できるかどうかが無の思想を理解できるかどうかの鍵になりますが、それは自分で考えてください。むしろ意味などなにもないほうがいいというのが無の思想です。この思想の全体がわかるとだんだんわかってくることかもしれません。
 自分で考えるといっても、思考はいくつもあるのではなくこの世界にはたったひとつの思考があるだけです。われわれはそのひとつの思考を使って考えているだけです。みんな同じ思考を使って考えています。人間だけでなく思考するものすべてです。これは無の思想とは別の問題でした。
 無の思想とはむしろ意味などないほうがいいという思想なのです。それを説明することは不可能ですので自分で考えてください。しかしいくつかのヒントは提出できます。まず、完全な無から始めたほうがなにかを始めやすいということがあります。次に、死後の世界や天国や霊魂や神はあまりに強力な意味なので無の思想を破壊してしまいます。それらのものは意味がありすぎるのです。あまりに強力な意味は争いや戦争の原因になります。それどころか人間の争いはすべて意味と価値を巡って起こります。意味や価値を信じてしまうことから起こります。人間は意味で争うのであって、無意味で争うことはできません。無には守るべきものがなにもありません。無にはなにもないから無の思想だけが完全な思想になれます。
 宇宙そのものが無から始まったのです。宇宙とは世界全体ということであり、存在するものすべてということです。それにしてもなぜ無からなにかが発生するのでしょうか。無からなにかが発生する方法は一つしかありません。プラスとマイナスが同時に発生することです。無がプラスとマイナスに分裂するのです。これは比喩的な言い方であって、プラスとマイナスのようななにかということです。そのプラスとマイナスのようななにかが発生し次にはまた合体して無に戻ります。その発生と消滅の間に一瞬なにかが存在するわけです。その一瞬だけ存在するなにかがこの宇宙に存在するもののすべてです。人間も生物も物質もその一瞬のなかに存在しているだけです。その一瞬が宇宙の全歴史であり、そのほんの一部分が人間の歴史です。


 生きることは完全に無意味であって、あってもないのと同じであり、なくてもあるのと同じです。生きることが無意味なら死ぬことも無意味であり、生きていても死んでいるのと同じであり、死んでも生きているのと同じです。それが無の思想でありただひとつの完全な思想です。ここからすべてを始めるしかありません。生きることは完全に無意味ですが、それでも生きるということからこの世のすべての問題が始まります。なんの意味もなく単に生きるのです。生きなければならないのではなく、なんの意味もなく単に生きるのです。生きなければならないなどというと生に意味が発生してしまいますから用心してください。
 なんの意味もなく単に生きるということからこの世のすべての問題が始まります。やらなければならないことが次々に発生します。必要なものが次々に発生し、必要なものはなんとか手に入れなければなりません。トイレに行かなければならず、歯を磨かなければならず、食べ物が必要になります。生きることは様々な必要から出来ているのです。水も必要です。電気も必要です。お金も必要です。服も布団も必要です。腹が痛くなれば薬が必要になります。必要なのは物だけではありません。必要なものはすべて手に入れなければなりません。すべてを同時に手に入れることはできません。一つ一つ手に入れるしかありません。そこで様々な行動が必要になります。生きることは様々な行動の連続です。なんの意味もなくただ生きるということからこの世のあらゆる問題が始まるということは、新しい人間の制度も経済改革もここから始まるということです。
 ここから無の思想に続く第二の思想が始まります。意味が発生してしまうメカニズムの学習です。


 〔意味と無意味のメカニズム〕
 人間は行動しなければならないのです。この「しなければならない」ということに秘密が隠されています。人間は行動を計画しなければ行動できないということです。まずなにをするか考えてからでなければ行動できません。もちろん無意識に行動できることもたくさんあります。食物の消化や細胞分裂などです。しかし、なにをするか考えてからでなければ行動できないこともたくさんあります。トイレに行くことさえトイレに行こうと考えなければ行くことができません。もらしてしまうこともありますが、もらす場合でももらすことを決心するのです。たいていは様々な行動から優先順位を測定してトイレに行くという行動を選択します。トイレに行っても小便を放出しようと考えなければ小便を放出できません。自分がどうやって小便を放出しているのか観察してください。とても複雑なことをやっているのがわかります。意識と無意識をなんとか繋ぎ合わせてやっと小便が放出されます。
 行動には目的や計画が必要になります。それが価値や意味を作り出してしまうのです。なにを食べようか考える場合を考えてみてください。たくさんの食べ物からなにかを食べようと考えなければなりません。たくさんの食べ物からカレーを選択するということはカレーに価値や意味を与えてしまったことになります。なにを食べるかなどはすべて適当に作られた意味や価値によって決められます。あれがうまいだとか、あれがお袋の味だとか、あれは健康にいいとか、しばらくラーメンを食っていないからとか、好きなタレントが宣伝しているとか、食文化だとか、適当な意味や価値でなにを食べるか決められます。そういったことが総合されて幻想の体系が形成されます。
 すべての行動がそういう構造になっています。なにをするか考えてからでなければ行動できないということが価値や意味を発生させてしまうのです。金メダルに価値があるから金メダルを取ろうと思うのではなく、金メダルを取ろうと思うから金メダルに価値が発生するのです。それがいつのまにか金メダルに最初から価値があるように錯覚するのです。この世の価値や意味はすべてそういうものです。しかし、それらすべては幻想です。あらゆる意味や価値は行動の必要から生み出された仮のものであり、一時的なものであり、臨時のものです。ようするに迷妄であり、偽物であり、デタラメであり、幻想です。それをわれわれはほんものの意味や価値だと勘違いしてしまいます。無の思想が構築されていないからです。無の思想が構築されていれば発生してしまう意味や価値がすべて幻想だとわかります。般若心経にはこの意味や価値が発生してしまうメカニズムが欠けています。
 このメカニズムがわかるといままでつながらなかった考えがつながるようになります。たいていの人は一方では生きることは無意味だと思っているのに一方では生きることには意味があると思いたいのです。矛盾した二つの考えの間をふらふらしているのです。矛盾した二つの考えをつなげる方法がわからないので、どっちつかずにふらふらしています。「どうせ死ぬだけだ」と思いながらつい「なんとしても生きることが一番大切だ」などと言ってしまいます。しかしこのメカニズムがわかれば矛盾した二つの考えを合体できます。生きることは完全に無意味ですが生きるためには意味が必要なので幻想の意味を作って生きるしかないのです。それがわかれば、神も霊魂も天国も死後の世界もそうやって発生した幻想だとわかるようになります。。
 この世の意味や価値は一つ残らずすべてが仮のものであり幻想なのですから、どの意味や価値がほんものなのかと考える必要がありません。またマイナスの意味やマイナスの価値もすべて幻想ということになります。生きることは完全に無意味であり、生まれないのが一番よく、次にいいのはできるだけ早く死ぬことです。と言いたくなりますが、生まれないことも無意味であり、死ぬことも無意味なのです。生きていても死んでいるのと同じであり、死んでいても生きているのと同じだからです。それが完全な無の思想です。
 それでも幻想の意味や価値を求めて生きるしかありません。しかし、意味や価値が発生してしまうメカニズムがわかれば、それらが幻想だとすぐわかるようになります。うまいものが食べたいと思ってもそれは幻想だとわかっています。試験に合格したいと思ってもそれが仮の目的だとわかっています。もっと長生きしたいと思ってもそれが幻想だとわかっています。誰かを殺したいと思ってもそんなことにはなんの意味もないとわかっています。簡単なことです。意味のあるものなどなにもないのだからすべてが無意味だとわかるのです。だから無の思想は完全な思想なのです。しかも、無の思想そのものも完全に無意味です。無意味の思想なのだからそれ自体が無意味なのです。



 人間が作る意味や価値はすべてそういった無意味な幻想です。すべてとは100%ということです。無の思想が存在しているからそれがすぐわかるのです。すべての意味や価値はそういうものがなければ生きられないので作られた仮のものにすぎません。「生きるのは素晴らしい」「生きることに価値がある」などというのもそうです。「少しでも長く生きたい」「死後の世界が存在する」「天国で待っている人がいる」「家族を大切にする」「人類の存続のために子供を作る」「幸福な人生だったと思いながら死にたい」「死後に名前を残したい」「自分の遺伝子を残したい」などもすべてデタラメです。そういうデタラメがなければ生きられないだけです。
 人間はどういう意味や価値を作って生きているのか少し書き出してみます。
 「便利」「効率」「進歩」「発達」「成長」「改革」「前進」「推進」「創造」「開発」「自由」「平等」「挑戦」「熟練」「到達」「発見」「発明」「冒険」「復興」「きずな」「思いやり」「つながり」「一人じゃない」「参加」「援助」「協力」「協調」「選ばれる」「話題になる」「注目される」「取り上げる」「どこにもない」「すごい」「かわいい」「いいね」「あり得ない」「絶賛される」「うまい」「絶品」「感動する」「きっかけを作りたい」「きっかけにしたい」「なにかを考えるためのきっかけになればいい」「思い出作り」「思い出作りにしたい」「思い出作りになればいい」「元気」「元気を与えたい」「元気をもらいました」「勇気をもらう」「一助になればいい」「未来」「子供」「桜」「富士」「涙」「月」「青空」「特別」「驚くべき」「夢」「神秘的」「衝撃的」「伝統」「歴史的」「歴史がある」「由緒正しい」「史上初」「最年少」「芸」「気品」「思いやり」「協力」「力を与える」「手をつなぐ」「見逃せない」「貢献する」「史上N番目」「世界的」「快挙」「唯一無二」「立ち上がる」「傑作」「偉業」「偉人」「文化」「文化的」「画期的」「稀少」「記録」「記録的」「奇跡」「生還する」「命を救う」「病と闘う」「恩人」「頑張る」「負けない」「やり続ける」「あきらめない」などいろいろありますがほんの一部にすぎません。人間はこのように様々な意味や価値を作って生きていますがすべて仮の意味であり、なんの意味もない無意味な意味にすぎません。これらの意味はプラスの意味ですがマイナスに変換しても無意味であることに変わりはありません。「便利」というプラスの価値をマイナスにしたのが「不便」であり、「便利」も無意味なら「不便」も無意味ということです。(これは無がプラスとマイナスに分裂して物質が存在し始めるのに似ています。価値も無がプラスの価値とマイナスの価値に分裂して発生し、プラスの価値とマイナスの価値が合体して無に戻るというわけです。お金も無がプラスとマイナスに分裂して発生したにちがいありません。お金にはプラスの運動とマイナスの運動があり、その二つの運動が合体して無に戻ります。財布が空になるのです。)
 宗教といわれるものもすべて幻想です。坊主とか人生の達人とかの言葉がたくさんあります。「生きているのではなく生かされている」「死ぬときがくれば死ねばいい、平気で生きているときには平気で生きていればいい」「目に見えない自分以外のなにか大きな力」「この世のものすべてには意味があります」「神秘の力の作用で生きている」など、すべてデタラメです。これらはたいていただ意味があるのではなく、意味がどこからか与えられているという形になっています。どこかわけのわからないところから意味が与えられている。わけのわからないほうが意味深い。宇宙意思、生命の海、波動、定説、生命という根源、生命の実相、奇跡の本源、不思議のみなもと、地球という生命体、死から生へと巡るいのちの循環、生命の本体、いのちといのちの触れ合い、生命の無限連鎖、始原に向き合う、形なき広大無辺、あるがままに悠然と生きる、自由な精神世界、人は裸で生まれなにひとつ持たずに死んでいく、などなどなどありがたいお言葉の数々。すべてデタラメです。


 意味や価値をほんものだと思ってしまうことを避けなければなりません。新しい社会で意味や価値を語る場合は最後に「でもそんなことにはなんの意味もありません」と必ず付け加えるようにします。**賞を受賞しました。でもそんなことにはなんの意味もありません。史上最年少で四冠を達成しました。でもそんなことにはなんの意味もありません。新年おめでとうございます。でもそんなことにはなんの意味もありません。大学に合格しました。でもそんなことにはなんの意味をありません。もっと生きたかった。でもそんなことにはなんの意味もない。夕日がとてもきれいです。でもそんなことにはなんの意味もありません。意味を語るときには常にそれを付け加えるようにします。意味だけ語ることの禁止です。意味には必ず無意味であることを表示しなければならないということです。短縮形を作ったほうがいいかもしれません。PSNMはどうでしょう。ピーエスエヌエヌです。それが「でもそんなことにはなんの意味もない」という意味になります。とても感動的な映画でしたPSNM。おいしいお魚が食べたいわねPSNM。漫画家になるのが夢ですPSNM。今日もよい一日でありますようにPSNM。この本はすごいPSNM。
 しかし、そんな面倒なことはしなくてもいい社会にだんだん変わっていくでしょう。
 最も注意しなければならないのは「生きることには価値がある」という考え方です。「生きることは素晴らしい」とか「できるだけ長く生きるほうがいい」とか「人命は地球より重い」といった考え方です。そういった考え方や言い方は徹底的に排除しなければなりません。それこそあらゆる意味や価値の総元締めのようなものだからです。生きることにはまったくなんの意味もありません。3歳で死ぬのも90歳で死ぬのもまったく同じです。3歳で死ぬのも90歳で死ぬのもまったく同じなら、3歳から90歳までの87年間になんの意味があったのか。なんの意味もありません。あってもないのと同じ、なくてもあるとの同じです。生まれなくても生まれるのと同じ、生まれても生まれないのと同じです。
 人間(SD)の死に対応する仕方も変えたほうがいいでしょう。みんなで祝うという方法も考えられますが、何事もなかったかのように対応するようになるでしょう。死んだ人間(SD)のことはできるだけはやく忘れてあげるのがベストです。使用が終わった人体は自然に返却されます。



 〔必要という意味〕
 なんの意味もない生をただ生きるということからこの世のすべての問題が始まると言いました。まずなにから始まるのかというと「しなければならない」ということが始まります。どうしてもしなければならないことや、どうしても手に入れなければならないものが発生し、そこから行動が始まります。それが必要です。最初に発生する意味は必要という意味であり、必要という意味さえあればとりあえず生きることができます。生きるために最小限必要なことだけをやれば生きることができるからです。
 生きるためにどうしても水が必要なら水はどうしても手に入れなければなりません。すると水を手に入れることに意味や価値が発生します。それが必要という意味です。必要最小限の必要を考えることが必要最小限の意味ということになります。そして必要とは必要最小限の必要ということになります。「わたしにはどうしても歌が必要なの」という必要は必要ではなくかってな思い込みです。必要は需要でもありません。需要は過剰な幻想によって作られるものです。
 この考え方をさらに展開すると次のようになります。まず、人間にはどうしても必要なものがいくつもあるということになります。簡単なことです。食べること、眠ること、排泄することなどです。ライフライン、生活必需品などといった言葉があるように、なにが必要なのかは誰でもわかっていることです。現代人はそれがわからなくなっているのかもしれませんが。必要なものはどうしても手に入れなければなりません。そういう必要という最小限の意味だけで生きるのが無意味な生き方に最も近いということになります。しかしそれも仮の意味にすぎません。生きることにはなんの意味もないからです。
 このことがどうして新しい世界の思想になるのでしょう。人間がSDと人間に分裂するからです。人間が意味・価値・目的を分担し、SDが無意味を分担するようになります。


 (追加補足。たいていの人間はすべてが無意味だとうすうす気がついています。日本人は特にそうです。日本人の根底には無の思想があります。死は完全な消滅であり、かつて存在したということも消滅するのです。しかし他方では様々な意味も信じています。ですから意味と無意味の間をどっちつかずに揺れ動いています。生きることに意味があるのか無意味なのかわからなくなり混乱しています。揺れ動く思想をどうやって統一していいのかわからないからです。意味と無意味のメカニズムがわかれば混乱を鎮めることができます。すべては無意味ですが意味がなければ生きられないので仮の意味を作って生きるというメカニズムです。意味がなければ生きられないのは、まずなにをするか考えてからでなければ行動できないからです。そのために仮の意味が必要になります。この世界には無数の意味が存在していますがすべて仮の意味であり無意味な意味です。基本は無です。意味などあってはならないのです。)




 新しい世界がどんな世界かだんだんわかってきたでしょうか。みなさんももっと自由に新しい世界を構想してみてください。
 人間(SD)はなんの意味もない生をただ無意味に生きるのですが、生きるためには生きることに意味があるかのように生きるしかありません。新しい制度も生きることに意味があるとして構想されています。そうするしかないからです。でもそれは仮の意味にすぎません。それがわかっているかどうかで世界認識は大きく変わります。
 意味はすべて無意味なのですから意味=無意味ということになります。「意味」と「無意味」が同じ意味の言葉になるのです。「同じ無意味な言葉になる」と言っても同じです。同様に価値=無価値、目的=無目的ということになるでしょう。
 新しい制度になると経済は必要なものが必要なだけあればいいという経済に変わっていきます。この必要とは生きるために絶対必要ということであり、「絶対必要」とか「絶必」といった言葉に変えたほうがいいのかもしれませんがまだそのままにして置きます。この必要という意味も無意味な意味にすぎませんが、生きることに意味があるかのように生きるしかないように、必要に意味があるかのように生きるしかない基本的な意味(無意味)です。必要とは生きるために絶対必要ということであり、水や空気や睡眠や食べ物のようなもののことですが、それほど明確な概念ではありません。常に必要なものもありますし時々必要になるものもあり、時々必要になるものも必要に含まれます。食べ物のように様々な種類があってどの食べ物が必要なのか明確でない場合もあります。現在では電気も必要なものになっています。自動車も必要なものになっていますがすべての自動車が必要なわけではありません。パソコンも同様です。そのように必要は明確な概念ではありません。必要なのは物だけではありません。人間(SD)には思想も必要です。
 必要なものが必要なだけあればいいという経済に変わっていくのは、個人が消滅し個人の競争がなくなるからです。個人の競争がなくなると会社の競争もなくなり国の競争もなくなり経済競争がなくなります。個人の競争があらゆる競争の大本になっているからです。まず人間が人間とSDの二重構造になることによって競争が緩和されます。人間がSDの競争を緩和し、SDが人間の競争を緩和するということです。家族の消滅によって家族の競争もなくなります。次に役職、地位、身分など上下関係がすべて廃止されます。代表者を選出する制度がすべて廃止されます。政治家がいなくなり、長の付く人間がいなくなります。それは徹底的なものであり、スポーツチームの監督やキャプテンも廃止されます。親分や族長や町内会の副会長なども廃止されます。次に勝敗を争うもの、順位を付けるもの、記録を測定するものがすべて廃止されます。賞や勲章がすべて廃止されます。ギャンブルや宝くじが廃止になります。試験がすべて廃止になります。というより新しい制度になるとそうなってしまいます。
 必要なものが必要なだけあればいい経済とはどんなものでしょう。必要なものは宣伝しなくても売れますから、宣伝・広告活動は縮小されます。宣伝・広告活動が縮小されるということは経済活動の半分がなくなるということです。半分は大袈裟ではないかと思われるかもしれませんがそんなことはありません。テレビなどはほぼすべてが宣伝・広告です。CMだけではなくニュースもそうです。ニュースはなによりもニュースの宣伝です。自局の宣伝であり、ニュースを作る技術の宣伝であり、アナウンサーはなによりも自分を宣伝しています。自分をほかの仕事にも使ってくれと宣伝しています。髪型や服装も宣伝しています。画面に映る物はすべてその物を宣伝しています。また様々な思想や価値観を宣伝しています。個人中心主義を宣伝し、競争社会を宣伝し、家族制度を宣伝し続けています。ドラマも同じです。俳優の宣伝であり、プロダクションの宣伝であり、演出家の宣伝であり、脚本家の宣伝であり、衣装の宣伝であり、作曲家の宣伝であり、思想の宣伝であり、映画の最後のようにかかわった人間の名前をすべて並べるとそれだけで五分はかかるでしょう。それらすべての人が自分を宣伝しています。テレビから宣伝・広告活動をカットするとなにもなくなってしまいます。ネットの世界も同じようなものです。ほとんどすべてがなにかの宣伝です。パソコンだけで仕事をしている人はすべて宣伝・広告活動をしていると考えて間違いありません。それが競争社会の最前線だったのかもしれませんが競争社会が終わればいらなくなります。
 必要なものが必要なだけあればいい経済とは必要なものを必要なだけ生産し必要なものを必要なだけ消費する経済です。それらの生産を機械におまかせすれば人間はあまり働かなくてもよくなります。暇になった人間(SD)は第一次産業に移動すると予測されます。第一次産業の復活です。しかしそれは労働ではなく趣味であり娯楽であり余暇であり運動であり生活の一部である第一次産業です。そこではできるだけ機械を使わなくなります。
 このように必要のないものの生産をやめればなくなる仕事が多くなります。新しく作られる仕事もありますがなくなる仕事のほうが多くなります。そうすると仕事を変えなければならないことが多くなります。いままでの社会制度ではそれがひどくむずかしいことでした。いままでの社会制度とは、個人が一つの仕事をし自分だけの財布で生活するという社会制度です。新しい人間になるとそれが簡単になります。それは何度も説明してきたことです。



 必要なものが必要なだけあればいい経済に移行することには環境問題も関係しています。誰にもわかっていることですが、すでに人類は、余計なものの生産・消費をやめなければならないぎりぎりのところに来ているという認識です。しかしいまの社会制度が続く限りはやめることができません。個人中心主義社会、競争社会、宣伝・広告社会が続く限りは大量生産・大量消費を止めることはできません。
 環境問題には容器・包装問題が含まれています。これは実に不思議な問題です。容器・包装とはなんでしょうか。ほとんどの商品は容器・包装に包まれています。商品には容器・包装が商品の一部として付属しているのですが、容器・包装は商品それ自体ではありません。容器・包装は消費されずに捨てられる不思議な商品なのです。容器・包装は運搬・保管・陳列に必要なものであって消費者が消費するものではありません。
 容器・包装とはいったいなんなのでしょう。それを追求すれば生物に到達します。生物のほとんどは皮膚や膜に包まれているからです。細胞自体がそうです。それはどういうことでしょう。生物が地球環境に存在するには容器・包装が必要ということです。人体などは皮膚に包まれさらに下着に包まれさらに服の布地に包まれます。商品は生物のようなものであり、商品が地球環境に存在するには容器・包装が必要ということでしょうか。それだけではありません。容器・包装から商品が出現することは新しい生物が生まれたことに匹敵します。生まれたばかりの新生児です。まだなんの傷も汚れもありません。まだ誰も触っていないのです。それが商品の価値になっています。(女性が着飾ったり若さを保とうとするのも同じ効果を狙っているようです。この世に出現したばかりのように見せようとしているのです。)このように容器・包装は商品を保護して商品の価値を高めていますが、商品が取り出されると同時に無価値になって捨てられます。
消費されることなく捨てられるこの不思議な商品は人間以外の存在によって消費されるはずです。それがどういうことなのかは宿題になりますが、容器・包装を減らすには商品を減らす以外にないということは明確です。


 〔繰り返すこのポリリズム〕
 ペットボトルの物語。
 ペットボトルは容器・包装の仲間です。液体をどうやって運ぶか、液体をどうやって商品化するか、それは昔から大きな問題でした。最初はおもに酒、醤油、酢などの問題で、土器が使われ樽で大量輸送が可能になり、次にガラスのビンで商品化され、やがておもにペットボトルが使われるようになり、だんだんほかの液体にもペットボトルが使われるようになりました。お茶やコーヒーまで液体の状態で売られるようになり最後に水に到達しそこで終わりのようです。
 問題は二つに絞られます。ペットボトルが使い捨てになっていることと、中の液体より容器のほうが高いということです。使い捨てになっているのは便利だからにちがいありませんが、値段の安いほうを使って値段の高いほうを捨てるという不思議なことが起こっています。たぶん中の液体はお茶やコーヒーだと5円か10円くらいではないでしょうか。水だともっと安いかもしれません(水のほうが高いということもあり得ます)。ペット飲料の値段のほとんどがペットボトルの値段と宣伝費です。実際に売り買いしているのはペットボトルのほうで、お茶やコーヒーは付録なのではないでしょうか。ペット飲料の会社はペットボトルを売って儲けているのです。(ペット飲料のサイズが大きくなっても値段があまり高くならないのは中身の値段がほとんど変わらないからです。)
 中の液体を計算から除外して考えます。ペット飲料の会社は80円のペットボトルを100円で売って20円儲けているとします。ペット飲料を買う人は80円のペットボトルを100円で買ったことになります。100円で買って中身の液体を飲むと100円で買ったペットボトルがそのまま残ります。それはいまでも100円のままのはずです。ところがそれはゴミなどと呼ばれるようになり0円になってしまいました。100円のペットボトルはいつ0円になったのでしょう。キャップをねじると0円になる仕掛けになっているのでしょうか。中の液体を人体の上のほうに開いた穴に流し込むと0円になる仕掛けなのでしょうか。ちがいます。買った人は中の液体が100円だと思っているからです。ですから中の液体がなくなるとペットボトルは0円になったと思うのです。ペットボトルの値段は秘密にされているのでペットボトルの値段を誰も知らないからです。0円になってしまったペットボトルはどうなるのでしょう。0円なのに誰も買ってくれません。無料のものは買うことができないのです。10円なら買ってくれるのでしょうか。ペット飲料の会社はなぜ空のペットボトルを引き取ったり買い取ったりしないのでしょうか。それはペットボトルを売って儲けているからです。売ったものをそのまま回収していては商売になりません。100円で売ったものは100円で買い取るしかありません。100円という値段を付けたのは自分たちなのですから。
 このようにして空になったペットボトルはどこにも行き場がなくなりました。人間にはゴミと呼ばれるようになりゴミの仲間に加わることになります。「使い道のない無駄なゴミ」「かさばっててかてか光るだけ」「もとは液体だったのに液体に戻れないやつ」などとも言われます。ゴミとして集められたペットボトルはどこかに送られていきますがどこに行くのかは誰にもわかりません。しかし地上に放り出されてしまうペットボトルもあり、それらは地上をさ迷い歩くことになり、川や海に流されていくものもあります。ペットボトルはだんだんゆっくりと姿を変えていきますが、形を変えたり断片化したりするだけで本質的な変化はありません。至る所で同じような姿になったプラスチック仲間に出会います。やがてペットボトルもプラスチック仲間に加わります。彼女たちはなんとか自然に戻ろうとしますが自然に戻るのはむずかしい存在になったことに気がつきます。どうしてプラスチックは自然に戻ることができないのでしょう。彼女たちは小さくなってもマイクロプラスチックと呼ばれるようにプラスチックのままです。
 人間も自然の一部だとする考え方もあります。そうすると人間の作ったものも自然の一部ということになります。そうすると自然が自然の過程でプラスチックを生み出したことになります。そうすると地上を岩石が埋め尽くしたように地上をプラスチックが埋め尽くしてもいいはずです。砂や土はマイクロ岩石だと考えることができます。マイクロ岩石の浜辺がかつて作られたように、やがてマイクロプラスチックの浜辺ができあがり、人間はそこで海水浴をするようになります。そこにいる人間をよく見ればみんなプラスチックでできています。よく見なければわかりません。もともと人体はプラスチックとよく似ていたからです。



 新しい経済制度になるとゴミ問題も変化します。ゴミ問題とは使用したものを自然に返却するということに関係しています。自然物に労働を加えて生活に必要なものを作りますが、使い終わったものを自然に返却するのは作ることの逆工程になります。つまり作るための労働と同じだけの労働が必要になるということです。ものを自然に返却するのは労働です。労働の半分はものを自然に返却する作業になるということです。作るのに手間がかかるほど返却するのにも手間がかかります。作ることと返却することはひとつながりの作業と考えることができます。ものを作ることは作ったものを自然に返却して完了するというわけです。むしろ作ることより返却することのほうが創造的な仕事なのかもしれません。
 ものを返却することはジョブでものを手に入れることの逆になります。ものを作るための労働ジョブがものを手に入れるための値段ジョブになりますが、ものを返却するための値段ジョブはものを自然に返却するための労働ジョブになります。いまの言葉で言えば、商品を買ったお金と同じだけのお金がゴミを処分するのにかかるということです。いまでもたぶんペットボトルを処分するためのお金がすでにペット飲料の値段に含まれているはずです。



 必要なものが必要なだけあればいい経済に移行するのは簡単なことではありません。われわれはどうしても必要のないものを生産し消費してしまうからです。デパートやスーパーの棚に陳列してある商品の80%はなくてもいいものです。見ることもなく前を通り過ぎるだけの棚さえあります。食品スーパーの商品でさえ80%は別になくてもいいものです。経済について考え始めたばかりの小学生は次のように考えるはずです。必要のないものを消費してしまうのは必要のないものが生産されるからにちがいありません。ないものを消費できないからです。どうして必要のないものを生産するのでしょう。売ってお金に変換すれば、そのお金で必要なものを買えるからです。必要のないものがどうして売れるのでしょう。必要だと思わせることに成功するからです。宣伝はそのためにあるのです。どうして必要のないものを必要だと思ってしまうのでしょう。なにが必要なのかわからないからです。あるいは、使ってみないと必要かどうかわからないからです。その場合、必要だったかどうかわかるのはいつなのでしょう。自分が死ぬ時でしょうか、人類が滅亡する五分前でしょうか。そこできっと次のように考えるはずです。「人類は必要なかったのか」と。なにが必要なのかわからないのなら、最初の質問さえ成立できないのではないでしょうか。だんだん思考がぐるんぐるんし始めました。わからないことがたくさんあるようです。いろいろなことがよくわからないのです。わからないことがたくさんあるのがすべての原因のようです。
 ポテトチップスは必要なものなのでしょうか。
 必要のないものを生産してしまうのはまずなにが必要なのかわからないからです。次に、個人中心主義と個人の競争が根本的な原因だと考えてきました。分業もそこに含まれます。個人とは自分専用の財布を持つ者です。自分専用の財布を持つことによって個人になったのです。それらのことを説明することなどとてもできません。あらゆることがつながりあっているからです。そういう基本的なことがわれわれにはさっぱりわからないのです。そういう根源的な無知がすべての原因です。
 生きるために必要なもののなにかがわれわれには欠けているのです。空気や水や光と同じくらい必要なもののなにかが大幅に不足しています。たぶんそれは思想のようなものです。思想というより思想の作り方です。誰も思想の作り方を知らないということが人類の最大の問題になりつつあるという世界認識です。水爆の作り方を研究した人はたくさんいますが、思想の作り方を研究した人はまだ一人もいないようです。出来上がった思想がとつぜんぽっと出現するのがいままでの歴史でした。どうやって作ったのかわからない思想が出来上がった状態で急に出現するのです。たぶんまだ出来上がる途中です。思想の途中結果だけが出現するのでそれがどうやって作られたのかわかりません。思想をゼロから作る方法というものがまったく存在しないのです。学校に何年通っても思想をゼロから作る方法はまったくわかりません。どんな本を読んでもゼロから始まっていません。急に八合目あたりから登り始める富士登山のようです。どうやって八合目まで来たのかまったくわかりません。たぶんそのあたりで生まれたのでしょう。
 それは全世界的な傾向ですが日本では最初から山頂にいるようなものです。西洋思想の結果だけを輸入して途中経過をすべて省略しました。明治維新はすべてが西洋の模倣でした。会社も学校も軍隊も憲法も法律も政治も経済もすべて西洋のものをそのまま模倣しただけです。コピーです。どうしてそうなっているのかをなにも考えずに結果だけをコピーしたのです。それがずっと続いているだけです。何度もコピーを繰り返したためにぼやけて解読できなくなったので戦後にもう一度コピーし直したのです。いまだにそのままです。西洋の思想や制度がどうやって作られたのか誰もわかりません。ゼロから説明できる人がいません。でもそれは全世界的な傾向です。ゼロから考え始める人がどこにもいなくなってしまいました。
 ということはまだそういう仕事が残っているということです。ゼロから考える方法を開発しなければなりません。そこから考え始めれば誰でもあらゆることを考えることができるようになるという思想製造システムです。さてまずなにから考え始めればいいのでしょう。そんなこともまだわかりません。


 〔思想の作り方教室〕
 新しい世界では思想を作ることが人間の主要な仕事になります。人間にとって思想はどうしても必要なものの一つであって、思想は自分で作るしかないものです。自分に使いこなせるのは自分の作った思想だけですので、自分の思想を作ることが人間の主要な仕事になります。学校ではおもに思想の作り方を勉強することになるでしょう。
 思想は人間が生きるためにどうしても必要なものです。というより、生きるためにどうしても必要な考えがひとまとまりになったものが思想です。そういうものがなければ人間は生きることができません。思想を作れない人間はほかの人間の保護がなければ生きられません。思想がどうしても必要になるのは意味や価値が必要になるのと同じメカニズムです。このメカニズムがわかれば多くの問題がすっきりするはずですので、もう一度復習します。人間は無意識に行動することができません。まずなにをするかを考えなければ行動できないのです。行動を選択し決定するためには意味や価値がどうしても必要なので仮の意味や価値を作って行動します。生きることに意味があることにして生きるわけです。新しい制度もそういう仮の意味の一つにすぎません。同様に思想も行動を決定するためにどうしても必要なものです。意味と価値の体系を支えるのが思想だからです。
 生きるために必要ないくつかの考えが寄り集まって構造を形成しつつあるのが思想です。ひどく単純な思想もあればひどく複雑な思想もありますが、誰にでも思想はあります。フウテンの寅さんの思想は次のようなものです。「誰にでも親切にする」「人を差別しない」「宵越しの金は持たない」「お金は誰が払ってもいい」「労働者諸君は奴隷のようなものだ」「すべての家が自宅だ」「故郷にはたまに帰る」「自分は結婚してはならない」「人間の一生は旅のようなものだ」「人間には言ってはならないことがある」などという考えが集まって一つの体系のようなものを形成し、それが寅さんを動かしています。思想を家のようなものだとするなら、寅さんの家はどこからか適当に寄せ集めた材料で作った掘っ立て小屋のようなものですが、誰の思想もたいていそんなものです。
 しかし、思想という家は自分が作ったものです。自分の家は自分が作るしかないからです。作ろうとして作ったのではなく、いつのまにかできてしまったにしても、自分が作ったにはちがいありません。改造するのも自分です。思想という家の特徴は改造しなければいつまでもそのままになっているところです。作り変えなければ何十年も同じままです。17歳の時の家に死ぬまで住んでいる人もいます。三十年間忙しく働いてふと気がつくと三十年前とほとんど同じ思想のままです。住む家は建てても思想は三十年前のあばら家のままです。思想は意識的に改築工事をしなければ決して変わらないものです。作るより改築のほうがむずかしいかもしれません。





 新しい世界では思想をゼロから作る方法が開発され、誰でも思想を作ることができるようになります。作り方だけではなく作り変える方法もです。思想を作るにはまずなにから始めるのか。そんなことはまだ誰も知りません。人間は水爆の作り方がわかっても思想の作り方がまだわかりません。人間はまだ人間を始めたばかりできょとんとしているのです。








 人間が新しい人間に変わり、政治も学校も会社も変わってしまいます。法律も変わってしまうでしょうし、経済もだんだん変わってしまうでしょう。テレビ番組も映画も小説も変わってしまいます。家族は消滅してしまいました。最大の変革は人間が新しい人間に変わることであって、それによってほかのこともある程度は変わってしまいます。たとえば新しい人間は同時に様々な会社に所属することになります。ライバル会社にも同じ人間がいるとするなら競争することに意味がなくなります。最初は家族が消滅するとは思っていませんでしたが、新しい人間と家族が両立することは不可能だとわかりました。新しい人間は家族ではありませんが家族のようなものだからです。



 このように新しい世界ではあらゆることが変わってしまいます。しかし、そうするのが正しいわけでもないし、そうしなければならないわけでもありません。まったく違う変革も可能です。現在の制度が絶対的なものではないということです。現在の制度は一時的なものにすぎず、いくらでも変えることができるものです。みなさんも自由に構想してみてください。
 確かなことは変わらなければならないということです。世界は同じ状態を持続することはできず、必ず変わってしまいます。とりわけ人間世界は急激に変化します。変化するように人間が働きかけてしまうからです。必ず変化するのだから、変える方向をコントロールしなければとんでもない方向に変わってしまいます。行く方向を決めなければ必ず行ってはならない方向に行ってしまう。これこそ人間の歴史の法則です。
 人間はどんなものでも必ず変えてしまいます。変えずにいられないからです。いまのままでいいと思っても変えてしまいます。いまの状態が最良だとしても変えてしまいます。いまの状態が最良だとするなら必ず最良でない方向に変えてしまいます。このとにかく変えてしまうとういメカニズムは時間が経過すると変わってしまうということではありません。時間が経過すると変わってしまうということもありますが、人間はそれ以上に変えてしまうということです。
 これは無意味と意味のメカニズムに関係しています。無意味と意味のメカニズムをもう一度復習してみます。毎日復習してもいいくらいのことです。すべては無です。それが基本です。生きることにはなんの意味もありません。生きることは完全に無意味ですが人間は意味がなければ生きられないので適当な意味を作って生きます。行動する前になにをするか決めなければ行動できないからです。目的を設定しなければ行動できないということです。目的を設定するには目的に意味を与えなければなりません。金メダルを取るという目的を設定することは金メダルに意味を与えることです。そのような目的をたくさん設定して人間は生きています。それらはすべて行動するための仮の目的であり、仮の意味です。真実は無意味ですが仮の意味を作って生きているのです。
 仮の意味とは、「平凡でいい」とか「悔いのないように生きる」とか「自分の遺伝子を残す」とか「先にあの世に行って待つ」とか「世の中のためになることをしたい」とか、とにかくありとあらゆる意味です。
 ほとんどの人は生きることになんの意味もないと薄々わかっています。しかし一方では生きることに意味があると思っています。実際に意味があるとして生きているからです。だから無意味の思想と意味の思想に分裂しています。無意味と意味の間でどっち付かずにふらふらしているのです。たいていは無の思想は誰にも言わずに胸に仕舞っています。普段は意味の思想で生活し、意味の思想で人と交流します。しかし一人で夜の空を見上げるときなどは生きることになんの意味もないことが深く理解されます。二つの思想を行ったり来たりするばかりでどうしていいのかわかりませんが、無意味と意味のメカニズムがわかると二つの思想を統一できます。意味とはすべて仮の意味なのであり、すべての意味は無意味な意味なのです。
 このメカニズムでは意味と価値と目的はほとんど同じものです。人間は目的を設定しなければ行動できません。そして目的とは必ずいまの状態と違う状態になることです。いまの状態と違う状態を求めて行動します。ですからいまの状態を必ず変えてしまいます。目的を設定しなければ行動できないというこの行動のメカニズムによって人間は必ず世界を変えてしまいます。ユートピアを実現してもまたそれを変えてしまうということです。どんな素晴らしい制度もやがて必ず変えてしまいます。同じ状態を続けることができないのです。家族制度にも終わりがやってきます。土地の所有制度にも終わりがやってきます。会社制度にも学校制度にも終わりがやってきます。分業制度にも終わりがやってきます。役職制度にも終わりがやってきます。議員制度にも選挙制度にも終わりがやってきます。
 選挙制度はもうすでに機能しなくなっています。かつては素晴らしい制度でしたがだんだん機能しなくなってしまいました。簡単に理由を説明できます。誰が選ばれても同じだからです。誰が選ばれても同じなのだから選挙をしても無駄なことをやっているだけです。選挙制度が機能したのは様々な種類の人間が存在していたからです。選挙制度は様々な思想が存在していた時代の産物でした。みんな同じような思想になり、みんな同じような人間になると選挙制度は機能しなくなります。むしろ選んではならない人間を選んでしまうように機能し始めるでしょう。みんな同じような人間になったのは選挙制度が機能したからです。選挙制度などによってある程度平等な世界が作られたと考えることもできます。そしてみんなが平等になりみんなが同じような人間になると選挙制度が機能しなくなります。
 (坂本竜馬にとって議会は「希望の光」のようなものだったが、現在の議会は「五十年使った雑巾」にすぎない。)
 会社や役所の役職制度も同じように考えることができます。部長、課長、係長、次長、室長、チーフといった階層的な役職制度です。効率的に仕事をするにはどうしても必要なものだと思われていました。しかし、ある程度の効率が達成されると今度は会社を衰退させる原因になります。
 このように同じ制度が長く続くとだんだん機能しなくなり、むしろ逆に働くようになります。人間は必ずなにかを変えてしまうからです。Aを変えなければBを変えてしまい、変わったBがAを変えてしまうということになります。
 同じ年齢の子供を集めて教育するという制度も最初は素晴らしかったとしてもだんだん変質してきます。同じ年齢の子供を集めて教育するのは効率的で、平等ということも教えやすかったはずです。すでに年齢の平等が実現しているからです。教科の教育を最優先しなければならない時代には効率的な教育が威力を発揮しました。しかし、周囲に同じ年齢の子供しかいないということは、三年後五年後のモデルがいないということです。兄弟姉妹が少なくなったのでなおさらです。周囲に精神成長のモデルがいなくなるとどう成長していいのかわからなくなります。また、同じ精神年齢の人間ばかりとつき合うと同じ精神年齢のままでいたほうがつき合いやすくなります。仲間はずれにならないためにも同じ状態のままでいたほうがいいということになります。こうして精神成長がだんだん遅れていくようになります。人間の子供化です。いまでは三十くらいでもまだ子供です。六十歳になっても十五歳のままの老人がたくさんいます。子供のままの親が子供を作って子供を育てるようになります。こうして人間の子供化がますます加速して行きます。やがて人間はみんな同じ精神年齢になるでしょう。これこそが平等の実現です。平等が実現した社会は新しい階級世界を作り出すはずです。義務教育のクラスにはすでにクラスカーストというものが発生しているようです。同じ年齢の子供を集めて教育する制度は限界に到達したということです。
 人間は平等になるとさらに小さな違いで差別するようになるということです。差別するのが人間の本質なのだから差別がよくないと言っている間は差別はなくなりません。差別をなくするためには差別できないような構造に変えるしかありません。


 これで終わりにしますが、終わりがあるわけではありません。どこかで終らなければならないので終るだけです。次には次があります。新しい人間の制度と新しい経済制度が合体するとどうなるかを考えなければなりません。無の思想が新しい人間の制度とどう関係するのか、無の思想が新しい経済制度とどう関係するのかなども考えなければなりません。そのためにはあらゆることを考えなければなりませんし、考えるたびになにかが変わります。これは私がかってに考える新しい世界にすぎません。考えるたびにどこかが変わります。思想というものはどんな思想も最終的には新しい世界を構想するのではないでしょうか。みなさんも自由に新しい世界を想像してください。いくらでも自由に考えていいのです。これテキストではなによりも自由に考えるとはどういうことかを勉強したのです。最高度に自由でなければなりません。