新時代3(前のつづき)

第二部経済改革


 〔誰のものでもない土地は誰も所有できない〕
 新しい制度では土地の所有を廃止しますが、それを説明するのは簡単なことではありません。所有を廃止するとは、私有も共有も国による所有も廃止するということです。それを理解するには、土地とはなにか、所有とはなにか、そういうことを基本から考え直さなければならないようです。
 新しい制度の目的の一つは競争を終わらせることですが、歴史を勉強すると人類は土地の所有を巡って延々と争ってきたのがわかります。その争いはいまでもまだ続いています。土地は誰のものでもないからです。誰のものでもない土地を誰かのものにするのは不可能だからです。ある土地が誰のものか一度も明確になったことがないからです。土地の所有という不可能なことをやろうとしているからです。土地も所有も曖昧な概念であって人間の数だけ定義があるようなものだからです。土地とは物ではありません。土地は空間であって、物や人間が存在するための基本条件のようなものです。空間と時間は誰も取り出すことができません。


 土地の所有について考える前に所有そのものについて少しだけ考えておきましょう。経済の基本の基本は所有というものです。お金の発生から経済を考えることが多いのですが、お金が発生する前から所有というものは存在していました。所有こそ経済の基本の基本です。基本の基本にもさらに基本があるものですがどこかで手を打たなければなりません。所有について人類はあまり考えてきませんでしたが、所有について考えると実にいろいろなことがわかってくるということがこれからわかってきます。
 所有は日本語では「私のもの」「あなたのもの」「殿様のもの」と言うように「Aのもの」という言い方になります。Aは所有している主体ということになります。しかしそれをもっと簡単にすると「の」になります。日本語では「の」が所有を表しています。「私の爪」「柿の種」「去年のお正月」の「の」です。私が所有している爪であり、柿が所有している種であり、去年が所有しているお正月です。これはどういうことでしょう。まるで論理学です。所有という考え方が人間の思考・意識に深く入り込んで、所有というものがなければ思考することができないのです。


 「AがBを所有している」「BはAのもの」「AのB」と言うように所有には必ず主体が存在します。Aが主体です。ここでは人間の所有について考えているので、主体は人間です。新しい世界では新しい人間が主体になりますが、ここでは古典的な人間を主体として考えることにします。一つの肉体を一人の人間とする人間です。そのほうがわかりやすいからです。
 ところが人間の所有には個人の所有と集団の所有があります。国という集団がなにかを所有していたり、会社という集団がなにかを所有していたりします。集団の所有を考えるのは面倒なのでここでは個人の所有を考えます。集団の所有を考えるのがめんどうなのは、集団というものを考えるのがめんどうだからです。人類はまだ集団というものをうまく考えることができません。集団の思考というものが存在していないからです。集団の思考が存在していないので、集団の思考を個人が考えることになります。ここに根本的な欠陥があります。集団の考えをどうやって作るかということが政治です。人類はまだ集団の考えを作る方法がよくわかっていません。ですから集団の所有も常にあいまいなものになります。会社が所有しているものもほんとうは社長や会長が所有しているのかもしれませんし、国が所有しているものもほんとうは誰が所有しているのかよくわかりません。そこでここでは個人の所有について考えます。
 人間がなにかを所有するとはどういうことなのか。まず人間が主体になっています。これはつまり人間がまず主体を所有しているということです。主体を所有しているのが主体なのです。主体を所有している主体がなにかを所有できるということです。つまり人間はまず自分を所有しているということです。ここからすべてが始まります。自分を所有することが所有の基本になります。それが所有の原型だということで原所有と呼ぶことにします。そうすると真に所有できるのは原所有だけということになります。
 自分が所有している自分とはほぼ肉体のことですが、意識活動も含まれますし、肉体の境界もそれほど明確に存在するものではありません。その自分の領域を拡大していくことが所有するということです。自分の領域の拡大とは自分でないものを自分の領域に引き入れることです。原所有つまり自分だけが真に所有できるものなのですから、自分でないものを所有するとは所有できないものを所有するということです。所有とは所有できないものを所有することなのです。ここにすでに「むりやり所有する」というニュアンスが含まれています。所有とは所有できないものをむりやり所有することなのです。ようするに、誰のものでもないものしか所有できないのです。
 どうやって自分の領域を拡大していくのでしょうか。まず第一に食べることです。食べることは食べる物を自分のものにすることです。次に自分の排泄物を放出することです。自分の大小便や汗や血が降りかかった物は自分のものになります。自分が触れた物は自分のものだ。自分が歩いた所は自分のものだ。自分が触れている地面は自分のものだ。自分のニオイがする物は自分のものだ。そのようにして自分の領域が拡大されます。それが所有するということです。自分の肉体に触れた物は自分のものだ。自分の肉体から分離した物は自分のものだ。自分の手が掴まえた物は自分のものだ。自分がもぎ取った柿は自分のものだ。自分が身に着けている物は自分のものだ。自分が作った寝床は自分のものだ。自分が育てた鳥は自分のものだ。
 そのようにして自分の領域は拡大されますが、それは物だけに対して起こるのではありません。考えや感覚や記憶も自分のものになります。たとえば、見ることは視覚像を自分のものにすることです。現在の人間が写真を撮って物を所有したと思うのと同じです。このようにして自分の領域をどこまでも拡大することができます。理論的には世界全体を自分のものにすることができます。宇宙は自分のものだと思えばいいのだから簡単なことです。世界とは自分が知っていることのすべて、自分が意識できることのすべてにすぎないのですから、理論的には世界とは自分の世界ということになります。


 しかし、ここまでの全過程は自分がそう思っているだけです。オリオン座が自分のものだと主張してもあまり苦情がきませんが、山の柿の木を自分のものだと主張したら苦情が殺到します。山の柿の木を自分のものだと思っている人はほかにもたくさんいるからです。富士山に登った思い出が自分のものだと言っても文句を言う人はいませんが、富士山は自分のものになったからほかの人が登るのは禁止すると言えば様々な質問を浴びることになります。いや富士山は百年前から私のものだと主張する人がいるかもしれません。(私は実際に近くの山でここは自分の山だから入ってくるなと言われました。)世界にはかってに所有できるものとかってに所有できないものがあるようです。
 かってに所有できないものは物つまり物質的存在であることがほとんどです。しかもたいていは近くに存在している物です。近くにあって誰もが所有したがる物、食べられる動物、食べられる植物、なにかに使えそうな石、安全な洞窟、川の近くの草地などです。それらを所有したい人がたくさんいます。すでに自分の所有物だと主張する人もいます。そういう物の代表が土地ということになります。そういう物はかってに所有できないのであり、そういう物を所有するにはほかの人に「あなたのものだ」と認められる必要があります。それが所有権であり、それを取り決めるのが契約ということになるようです。
 誰のものでもなかった物がどうして誰かのものになるのか。人間はまだ誰もこの問題の答えを提出していません。答えがないので試験問題にはなりません。すべての人間が現在所有している物はすべて、最初は誰のものでもありませんでした。原所有である自分は別です。最初は誰のものでもなかった物が誰かのものになり、その所有権が移ってきただけです。宇宙に存在する原子はすべて最初は誰のものでもなかったのです。それがある時誰かのものになったのです。どうしてそんなことが起こったのでしょう。
 私の腕時計の金属のベルトを構成する一個の原子は私の所有になっていますが、その前はビバホームの所有でした。その前はどこかの工場の所有でした。その前は金属を作る会社の所有でした。その前は鉱石を掘る会社の所有でした。お金と交換されて所有権が移動してきたのです。鉱石を掘る会社の前はどこの所有だったのでしょうか。鉱石を所有する人がいたようです。そこの山を所有していた人が山に埋まっていた鉱石も所有していたことになるようです。ここに問題があります。山を所有するとは山のどこからどこまで所有することなのかわからないという問題です。これは土地の所有の問題と同じ問題です。次にその山の所有者の前には別の所有者がいました。その前にはまた別の所有者がいました。そして最初の所有者に辿り着きますが、その人はどうやってその山を所有したのでしょう。現在の人間が所有しているどんな物でも過去を辿るとこの同じ問いに到達します。
 答えは最初からわかっていました。物を所有するにはこれは自分のものだと宣言し、周囲の人にそれをむりやり認めさせるしかないのです。土地ならば柵で囲って、侵入者を撃退するしかありません。つまり互いに争って所有権を強引に作り出すしかないのです。それを調停するために出現したのが政治です。所有権は政治的に認定するしかないからです。議会とか、多数決とか、選挙などによって誰がなにを所有するか決めるしかないということです。また、誰かがなにかを所有すると同時に、所有する人と所有しない人の格差が発生します。誰かがなにかを所有するとそれ以外の人間はすべてそれを所有できない人間になるからであり、なにかを所有するのはたいてい一人の人間に限られるからです。所有するとは独占することでもあるのです。
 自然界のほうから見てみましょう。自然界には人間に所有されるために存在している物など一つもありません。自然物にとっては起こるはずのないことが起こったことになります。人間に所有されることなどは宇宙の予定表にないことです。物理学者がどんなに研究してもアメリカ大陸のある土地が誰に所有されるようになるか計算できません。


 物を所有するのではなく感覚や思考によって自分の領域を拡大する方法もあるという話をしましたが、それをもう少し説明します。うまい言葉が見つからないので現象学的方法ということにしておきます。
 それは次のように展開されます。視界から始めるのがいいでしょう。物が見えるとはどういうことでしょうか。見える物はすべて自分が見ているから見えるのです。そのことを探求し続ければやがて視界はすべて自分の一部だということがわかるようになります。さらに探求を続ければ、わかるだけでなくそのことが実現してしまいます。見える世界がすべて自分の一部のようになり、自分の手や足が存在するのと同じように視界が存在するようになります。それが視界の所有です。嫌いな人間の顔も自分が見ているから存在するのであり、自分の世界の一部、自分の所有物なのです。そのことはほかの感覚でもできるようになります。そうなれば感覚で捉えることができる世界はすべて自分の所有物ということになります。それはさらにどこまでも拡大できます。言葉の世界、概念の世界にも拡大できます。そうやってあらゆるものを自分の領域に組み込むことができます。他人はすべて自分がその存在を認知するから存在するのです。別の国の見知らぬ人も自分がその人間について考えるから存在するのです。そうやって自分の世界を拡大していけばやがて宇宙全体を所有することになります。所有にはそういう方法もあるということです。地球の一つや二つを所有することなどちっぽけなことだということです。
 (所有には二つの形式があることになります。この二つを経済的な所有と現象学的な所有とに言い分けることができます。新しい制度では、新しい人間が経済的な所有を担当し、SDが現象学的な所有を担当することになるようです。また、土地の所有とは経済的な所有にかかわる問題ということになります。)


 そろそろ土地の所有について考えます。なぜ土地の所有について考えるのかというと、土地の所有をあらゆる物の所有の代表と考えているからです。それにまた、物の所有はすべて土地の所有と同じだと予測しているからです。自動車を所有することも、服を所有することも、食料を保存することもすべて土地の所有と同じだということになるようです。
 所有というものはひどく曖昧なものだということがわかってきました。現在でもそうです。誰のものかわからない物がたくさんあります。街路樹の下に生えたキノコは誰の所有物なのでしょう。街に出現する熊は誰のものなのでしょう。公園の雪だるまは誰のものなのでしょうか。誰にも所有できない物もあります。太陽の光、空気、風、重力、空、自動車の走る音などです。これらの物も徐々に誰かの所有になりつつあるような気がします。隣にマンションができて窓から太陽の光が入らなくなると太陽の所有権を奪われたような気がします。風力発電所は風の使用料を誰に払っているのでしょう。ふいにそれが疑問になります。
 人間には所有できない物と所有できる物があるようですが、その区別が曖昧です。所有できる物でもまだ所有されていない物とすでに所有されている物があり、その区別がはっきりしません。誰かに所有されているのが間違いない物でもほとんどの物は誰の所有物かわかりません。ある物がどうして誰かの所有物になるのかよくわかりません。海を泳いでいる魚はいつ誰かの所有物になるのでしょう。誰かがその魚を自分の所有物にして値段を付けて売るのです。それができる人とできない人がいるようです。物の一つ一つによって所有する仕方が違っているようです。法律をいくら作っても間に合いません。ペットボトルの蓋の所有権はどうやって移り変わっていくのでしょう。いつのまにか廃品処理業者の所有物になっています。これら全体がどういう法則で決まっているのか誰にもわかりません。この所有の混沌のなかにいつのまにか土地も巻き込まれているようです。
 土地とはなんでしょう。砂でも土でも石でもありません。石は蹴っ飛ばせば別の土地に転がっていきますし、中国の砂が風に乗って日本にやってきますが、中国の土地だから返してくれとは言われません。土地とはそこにはえている植物でもそこに住んでいる動物でもありません。そこの上空の空気でもないし地下の鉄鉱石でも石油でもありません。土地は物ではありません。地下の石油は誰の所有物なのでしょう。土地の所有者が地下の石油も所有するのでしょうか。そこをわざと曖昧にして土地と石油をごちゃ混ぜにします。仕舞いには石油の採掘権を所有しているなどと言います。最初にその採掘権を所有していたのは誰なのでしょう。土地は物ではありません。土地は空間です。しかも空間の一つの面にすぎません。人間は空間に存在する物は空間から取り出せますが(移動するだけですが)、空間から空間そのものは取り出せません。空間と時間は世界の外形のようなものです。人間は空間と時間のなかに存在することしかできません。
 土地を所有するとは空間の一つの面を所有することであり、そこに物は一切含まれていないということになります。あなたが所有しているのは何平方メートルの面ですので、そこにある砂一粒も動かしてはなりません。ということになります。あなたが所有しているのは面ですからそこから一ミリ上も一ミリ下もあなたのものではありません。ということにもなります。そういったことをすべて曖昧にして適当にやっているのです。だからもう少し正確にやろうとするなら、土地ではなく空間の所有に変えるべきです。空間を細かく分割して所有権を争うわけです。そうすればマンションの59階の家の部分の空間を所有するということが可能になります。上空一万メートルの空間を少し所有すれば航空会社から使用料を取れます。地面から何メートル下の空間まで所有できるか、地球の中心まで土地なのか、海面から何メートル下の空間まで所有できるか、地面・海面から何メートル上までの空間が所有できるかといったことを決めなければなりません。
 さらに問題が発生します。地球の運動によって空間が移動するという問題です。昨日所有した空間が次の日にはどこに移動したのかわからなくなっています。空間に印を付ける方法を開発しなければなりません。さらに問題が発生します。人間は生まれながらにして空間を所有しているという問題です。肉体の形と同じ形をした空間です。しかもその空間は刻々と形を変えて移動します。正確には空間が移動するのではありません。肉体が次々に別の空間を所有・占拠しながら移動するのです。一つの肉体が一日に所有・占拠する空間はたいへんな量になります。空間使用料をもらえば儲かります。さらに人間が所有する空間は肉体の周辺に拡大しています。この問題はさらに追及できますがもうやめます。
 ようするに所有とはすべてがデタラメ、適当、いい加減ということです。ある物がある人の所有になるための規則や法則のようなものはまったく存在せず、それぞれの人間のかってな主張があるだけです。人間の所有権を認めると言っても、その所有権がどこからどうやって発生するのかわからないのです。ところがこの所有の混沌を平定する一つの統一原理が出現しました。お金です。お金は必ず誰かの所有物として存在します。人間に寄生しなければ存在できないのがお金です。お金は所有の概念そのものです。所有の概念が物質化したのがお金です。お金は必ず誰かの所有物です。そして自分のお金で買った物は必ず買った人の所有物になります。これこそが所有の統一原理です。最速に簡単に言えば、買った物は自分のものになるということです。こうしてあらゆる物が誰の所有なのか次々に明確になっていきました。よくわからなかったことがすっきりしてわかりやすくなったということであり、真理が実現したわけではありません。この原理は逆にも働きます。誰かからある物をお金で買えば、逆に以前の所有者が明確になるということです。Aさんがある土地を柵で囲ってそこは自分の土地だと主張します。なんの根拠もありません。そこにBさんがやってきてその土地を一億円で買いましょうと言います。Aさんがその土地を一億円で売るとその土地はAさんの所有物だったことになるのです。Aさんの所有物ではなかったのに、あとからAさんの所有物だったことになるのです。しかもその土地は一億円の土地だったことになります。そんなバカなことがあるものかと思うかもしれませんがこれは歴史上実際に起こったことです。そうやってすべての土地は最初から誰かの所有物だったことになります、最初は誰のものでもなかったのにです。これは土地だけに起こることではありません。どんな物にも起こることです。お金は過去さえ変えてしまうということです。ゴッホは十億円の絵をたくさん描いたことになってしまいます。


 土地の所有について考えてみましたがなにがわかったのでしょう。土地の所有にはなんの原理も法則も規則もないということです。だからいくら考えてもなにもわからないということがわかっただけです。まず土地とはなにかがわかりません。土地を所有しているといってもなにを所有しているのかわからないのです。土地を所有している人によってなにを所有しているのかというイメージが違うはずです。ある人は土地こそ自分の基盤だと思っています。ある人は財産だと思っています。ある人は故郷だと思っています。ある人は生きる糧だと思っています。ある人は土地にある木も自分のものだと思っています。地面の下は地球の中心まで自分のものだと思っている人もいます。ですから過去の土地所有を学習してもなにもわかりません。わかったのは〔土地は誰のものでもない〕ということです。いろいろ考えて確実にわかったのはそれだけです。
 そしてこれは土地だけのことではありません。自然に存在する物はすべて土地と同じであって誰のものでもありません。自然に存在する物のすべてとは物のすべて、物質のすべて、原子で出来ている物すべてということです。土地に存在する土や石や砂も含まれますし、地下の鉱石や石油も含まれますし、水や空気も含まれますし、植物や動物もすべてです。それらすべては誰のものでもありません。誰のものでもないとはそれらすべてのものということです。自然はすべて自然全体のものです。ですから特定の誰かのものにすることはできません。人間以外の誰かのものにすることもできません。こうして所有そのものが廃止になります。所有という概念が人間世界から消滅します。人間はそれらを使用できるだけになります。そして使用が終われば自然に返却されます。


 誰のものでもない物がどうして誰かのものになることができるのか。もう一度この問題をできるだけ簡単に考えてみます。所有の謎のすべてがここにあります。こうすれば、あるいはこうなれば、誰のものでもない物が誰かのものになるという法則とか原理のようなものがあるのでしょうか。ありません。所有の基本とは自分の領域の拡大です。それぞれの個人がかってに自分の領域を拡大するだけです。つまり自分がかってにあの柿の実は自分のものだと思っているだけです。ほかの人もみんなあの柿の実は自分のものだと思っているかもしれません。自分が思っているだけでは自分のものではないのです。あの柿の実は依然として誰のものでもありません。早い者勝ちです。奪い合うしかないということです。食べることによってやっと所有できたということになるようです(食べるという強制所有)。柿の木は食えません。柿の木を自分のものにするにはどうしたらいいのでしょう。誰のものでもない物を自分のものにする方法などありません。柵で囲って立て札を付けても無駄なことです。誰のものでもない物は無限に誰のものでもないからです。そんな物が誰かのものになることなど不可能です。
 政治的に解決するしかありません。集団の全員が話し合って決めるわけです。あの柿の木を誰かのものにできるとしたら、人間の全員が自分のものにできるということです。地球上に存在するすべての人間です。そこから一人を選ぶわけです(複数で所有するということも可能ですが)。次にはどうやって一人を選ぶか、その方法が議題になります。そこに異議が提出されます。柿の木の枝の一本一本を別々に考えるべきだと言うのです。その問題を追及すると原子の一個一個、素粒子の痕跡まで別々に誰のものにするか考えなければならなくなります。あらゆる自然物についてそうしなければなりません。誰のものでもない物が誰かのものになることなどは宇宙の原理には含まれていないのです。


 追加。
 土地や資源などの物(物質・原子・エネルギー)は人間のものではありませんので、人間はそれらを所有できません。ですからそれらを所有するには奪い合うしかありません。戦争をするしかないのです。戦争をするということは土地や資源が人間のものではないということを逆に証明していることになります。戦争が隠された真実を暴露してしまうのです。いまでも戦争で土地を奪い合っていますが、土地は誰のものでもないと世界中に知らせていることになります。


 追加。
 ここまで考えてきて次のことがわかってきました。土地の所有をなかなか終わらせることができなかったのは、土地のことだけを考えてきたからです。土地は自然物の一部にすぎないのですから、自然物すべてのことを考えなければならなかったのです。自然物すべての所有を終わらせなければ土地の所有を終わらせることもできないということです。アル中を終わらせるためにビールだけを禁止しようとしたようなものです。アル中を終わらせるためには日本酒、焼酎、ワインなども同時に禁止しなければなりません。ウイスキーもマッコリもです。土地の所有を終わらせるためには自然物すべての所有を終わらせなければならないのです。



 〔物には値段がない〕
 自然使用許可局のようなものが作られ、そこが自然に変わって使用許可を出します。使用はすべて無料になります。使用許可は簡単なものです。
 無料のものは買えません。買えないので誰のものにもなりません。無料とは誰も買えないほど値段が高いのと同じです。
 自然は大きく三つに分類されます。
1、面積・空間。
2、土地・海に存在する物質。
3、土地・海に生成する植物。
4、土地・海に生息する動物、土地・海を通過する動物。
 家を建てるためには面積・空間の使用許可が必要です。家を建てるのには土地を使用するのではないということです。家を建てるために使用するのは面積・空間なのですから、土地に存在する物質・生物は使用できません。人間一人が住むための面積・空間の量は決められます。使用が終われば自然に返却されます。
 地下の鉄鉱石なども使用許可を取って使用します。物質は使用が終われば自動的に自然に返却されますので、返却するのは別の人になります。人間は物質を使い果たすことができません。物質を消費することはできないということです。一個の原子(素粒子)さえ消費できません。原子は人間を通過してそのまま自然に戻って行きます。
 自然に生成した生物を捕獲して使用するには使用許可が必要です。海の生物などですが、いまでも同じようなことをやっています。漁業権は三陸沖サンマの使用許可などに変わります。人間が育てた植物や動物も自然に生成した生物と見做されます。人間が育てても人間のものにはなりません。
 稲作には面積・空間の使用許可、水と土の使用許可、生成した種の使用許可などが必要になります。
 自然の物はすべて無料で使用できます。面積・空間を移動するだけの場合は使用許可はいりません。使用許可は自動的に取得できると考えても同じです。船が海上を移動するのにも使用許可はいりませんが、サバを取るには使用許可が必要です。サバは無料です。サバは無料ですがサバを捕まえるための労働によってサバに値段が発生します。サバの値段はサバを取るための労働の値段なのであり、サバは常に無料です。
サバを買う人間はサバを捕まえるための労働にお金を払うのであって、サバは無料なのです。サバは無料なのでサバを食べるのも無料です(要再考)。サバを食べる使用許可はサバを捕まえる使用許可がそのまま移動してきたものです。食べるために使用されたサバはやがて自然に自動返却されます。サバを構成していたすべての原子は自然に戻って行きます。つまりサバを売ったり買ったりしているのではありません。サバは常に無料です。サバを捕まえたり運んだりする労働を売り買いしているだけです。


 鉄鉱石は自然のものですから鉄鉱石を取り出すためには使用許可が必要になります。ある程度の面積の使用許可も必要です。この場合もサバと同じで鉄鉱石は常に無料です。鉄鉱石はやがて鉄になり鉄の板になり自動車の一部になります。人間の労働がたくさん追加された結果です。しかし鉄は常に無料であり自然のものを使用しているだけです。自動車に乗っている人は自然の鉄を使用しているだけです。最初の使用許可が受け継がれて継続しているということになります。使用している物はやがて自然に返却しなければなりません。使用とはすべて一時的な使用であり最後には自然に返却しなければならないのです。
 こうして自然の物と人間が作った物にはほとんど区別がないということがわかります。人間が作った物はすべて自然の物に労働を加えただけであり、自然の物は自然の物のままに継続していますし、一時的に使用しているだけであり、最後には自然に戻さなければなりません。戻さなくても戻ってしまうでしょう。つまり、お金で売ったり買ったりしているのは労働であって物ではないということです。物はただ通過していくだけです。人間は物を使い果たすこともできず、消費することもできないということです。周囲にある物はすべて家具も服も家電も食べ物も自然の物を一時的に無料で使用しているだけでやがて自然に返却しなければなりません。だからゴミなどというものは存在しません。空間や時間や人体も使用が終われば返却されます。


 これらの考え方を基本にして経済は再編されます。中心にある考えを簡単に表現すれば〔物に値段はない〕ということになります。
 自然物はすべて誰のものでもありませんから、人間が自然物を所有することはできません。自然物とは原子、分子、素粒子、電子、光子、電磁波、引力、重力などです。人間は自然物を一時的に使用できるだけで、使用が終われば自然(宇宙)に返却しなければなりません。食物も使用が終われば自然に返却され、食物を構成していた原子はすべて自然に戻ります。同様にどんな物も使用が終われば自然に返却されます。人間は物を使い切って消滅させることはできません。人間は一個の原子さえ消滅させることはできません。物(物質・原子・エネルギー)は無限にループするだけです。ですからゴミなどという物は存在しません。ゴミは人間中心主義の世界にしか存在しない幻想です。
 人間は物を使用できるだけで所有できません。所有権は使用許可に変わります。物の使用はすべて無料になります。つまり物(物質・原子)はすべて無料になります。物に値段を付けることは禁止されます。物を売ったり買ったりすることはできなくなります。物は移動するだけであり、物の移動と共に物の使用許可が移動するだけです。
 値段を付けられるのは人間の労働だけになります。お金で売り買いできるのは人間の労働だけです。キャベツが半分で百円とは半分のキャベツに投入された人間の労働が百円ということであり、キャベツは無料なのです。百円で買ったのは人間の労働であり、キャベツの使用許可は農家から無料で移動してきただけです(実際は様々な人間の間を移動してきました)。キャベツの使用が終われば糞や呼吸となって自然に返却されます。農家の人は労働を売ったのであり、店の客は労働を買ったのです(実際は様々な人の労働の集合ですが)。労働を売り買いすることによって物が移動します。キャベツが百円のように思われるのは仮象にすぎません。現象としてはそう見えるだけです。
 同様にダイヤモンドなども無料になります。採掘した人や加工した人の労働にお金を払えばダイヤモンドの使用許可は移動します。そうなると現象としてはダイヤモンドの値段はひどく安くなるはずですが、ダイヤモンドに値段などありません。(そうすると逆に、なぜいままでダイヤモンドが高かったのかが謎になります。)
 お金で売り買いできるのは労働だけだということは、歌手のライブに行く場合を考えるとわかりやすいです。客がお金を払うのは歌手の労働に対してであり、空気の振動を買っているのではないからです。空気の振動は無料で使用されただちに返却されます。
 (追加。サービス業と言われる仕事はたいてい、物ではなく人間の労働に対してお金を払っています。バス代は運転手の労働の値段です。しかし、製造業もほんとうは同じなのです。物の値段は物の値段ではなく、物を作った人間の労働の値段です。それがいつのまにか物の値段だと思い込むようになりました。そして「燃料費」「原材料費」「物価」などという言葉が作られます。ついには「人件費」などという言葉まで出現します。これは逆に人間が物のように扱われるようになったことを示しています。労働ではなく人間そのものに値段が付けられたのです。)


 いままでの経済は物に値段があるという錯覚によって作られていました。物の値段は物に加えられた労働の値段なのですが、人間はすぐ物に値段があるように錯覚します。労働を省略してしまうのです。それは思考を短縮するからです。(同じような思考の短縮はほかにもたくさんあります。)お金をまず考えてしまうことも影響しています。そして人間は物に値段があると思い込んでしまいました。物に値段があるという考え方が凝り固まると「物価」などという言葉が生まれます。
 物に値段があると錯覚すると物の値段を労働に関係なく自由に変えられると思うようになります。物の値段は労働だけによって決まるのに、労働と関係なくなると、どうやって物の値段が決まるのかわからなくなります。そこで物の値段を決めるための様々な方法が考え出されるようになります。物と値段にはなんの関係もないのですから、物の値段はかってに操作できるようになります。適当な理由をつけて高くしたり安くしたりできるようになります。
 適当な理由の最大のものは、需要と供給の関係で物の値段が決まるというものです。この考え方も物に値段があるという錯覚によるものであり、これほど間違った考え方はなく、この考え方が経済を混乱させています。あらゆることの結果と原因が逆になっています。需要と供給の関係で値段が決まるのではなく、適当に値段を変えることが需要と供給の関係を変化させるのです。また、需要のあるものが売れるのではなく、売れたものを需要があったことにしているだけです。トイレットペーパーの芯も売れると需要があったことになるのです。しかも、需要があるから売れるという考え方がすでに間違っています。ほとんどの物は幻想で売れるのですから。
 また、需要と供給で物の値段が決まるという考え方には一番肝心な労働が含まれていません。供給は労働によって出来上がった物だけを見ているのであり、労働は切り捨てています。労働がなくても物に値段が発生すると考えているのです。
 また、物に値段があると錯覚すると、物の性質や性質の変化で物の値段が変えられるようになります。ダイヤモンドの値段はダイヤモンドの性質によって決まるという錯覚です。
 また、物に値段があると錯覚すると、労働の値段が物の値段を決めるのではなく、物の値段が労働の値段を決めるようになります。物の値段がゼロ円になると労働の値段もゼロ円になります。農作物の大量廃棄です。物に加わった労働の量が一定なら物の値段も一定でなければなりません。
 そうなると、物の値段を誰かが適当に決めるように賃金も誰かが適当に決めるようになります。国会議員の賃金を国会議員が好きなように決めるのを見ればわかります。誰かが勝手に決めているのに、物の値段や賃金を決めるような方程式があるかのように偽装しています。株価や為替も同様です。それらを決める方程式自体誰かが適当に作ったものにすぎません。


 需要と供給で値段が決まるという考え方は間違っています。間違っているのです。需要と供給で値段が決まるという考え方は労働を無視しています。労働が値段を決定するのではなく、消費が値段を決定するという考え方にすりかわっています。「供給」というのも生産された物だけを見て労働を無視しています。労働を無視して消費だけを見ています。そして消費につながらない労働は切り捨てられてなかったことになります。物の値段を決めるのは労働だけです。(労働を賛美しているわけではありません。)
 需要と供給の関係で物の値段が自動的に変化するなどということはありません。値段がかってに変動するなどということはないのです。神の見えざる手など存在しないのであり、誰か人間がかってに値段を操作しているのです。競りを見ればわかります。また、石油の値段を見ればわかります。誰かが適当に操作しているだけです。物に値段があると思い込んでいるからです。物に値段があるなら労働を無視して物の値段を変えることができると思うようになります。そうなると、高く売れるなら高くする、高く売れないなら安くするという考え方が発生します。これこそ消費だけを参考にして値段を操作するという方法です。物の供給といっても労働を無視して生産された物だけを見ています。神の見えざる手が存在するならそれは労働する手なのです。
 (追加補足。また消費などということもありません。人間は物を消費することはできません。一時的に使用することができるだけです。)
 (追加補足。経済学の需要という考え方は「需要があるから売れた」のではなく「売れたので需要があった」ことにしているだけです。これは結果と原因を入れ換える思考法です。その結果、売れたものはなんでも需要があったことになります。しかし、需要のないものまで買うのが人間です。むしろわれわれは需要のないものばかり買ってしまいます。)


 物に値段はありませんが物に値段があるかのように仮像します。物の値段はどうやって決まるのでしょう。すぐにわかることは、物の値段を決めるにはお金の物差しのようなものがなければなりません。お金の物差しとは値段が固定された物ということです。決して値段が変わらない物で、お金以外の物です。あらゆる物の値段が変動するこの世界に値段の変わらない物はありません。値段を決めるための物差しが存在しないのですから物の値段を決定することは不可能だとわかります。だからあらゆる物の値段がかって気ままに変動してしまうのです。
 物の長さを測るには物差しが必要ですが、物差しによって目盛りが違うと精確な長さを測ることができません。そこで物差しの長さを測る物差しが必要になります。原器というやつです。現在では光とかを使っているようですが違うかもしれません。物差しの原器になるのは自然の物であり、長さの変化しない物です(変化しないことにしているだけかもしれません)。お金にもそういう原器になる物が必要です。そういう物が存在しなければ物の値段や賃金や株価を測定することも決定することもできません。お金の原器になるのはお金ではない物ということになります。金(きん)も値段が変化するので原器になりません。値段が永久に変化しない物が必要ということです。物の長さですと、たとえば鉛筆の長さが変化していれば、変化したのは鉛筆であって物差しではないとわかります。しかし、商品の値段が変化したら、変化したのは商品なのかお金なのかわかりません。ですから、商品の値段を適当に変えても、変化したのは商品なのかお金なのかわかりません。それがわかるのは、これは絶対に100円、なにがあっても絶対に100円という物が必要です。一つあればいいのです。長さの定まった物が一つあればあらゆる物の長さが定まります。値段の定まった一つの物がないためにあらゆる物の値段が適当に変動します。これは現実に起こっていることです。値段の定まった物がなければどんな物の値段も決定できません。
 経済を安定させるには値段の定まった物が必要ということです。そういう物を作り出さなければなりません。それはどんな物なのか。それはたぶん物ではないものです。そしてこれはそういうものが元々存在していたということではなく、なにかをそういうものにするということです。つまりなにかの値段を固定することに人間が決めるということです。そういうあれやこれやを考えると値段を固定できるものは人間の労働しかないことになります。(みなさんも自由に考えてください。)
 人間の労働の値段をすべて同じにします。そして物の値段はどれだけの労働によって作られたかによって決定されます。面倒なことのようですが、いまの人間はもっと途方もなく面倒なことをやっているのです。これは人間の労働の値段をすべて同じにするということであって、実際は違っていてもいいということです。どうやって同じにするのか。たぶん人間の一定時間の労働量は同じということにするしかありません。つまりすべての人間の一時間の労働の値段は千円というふうに固定するのです。これは時間給の考え方に似ていますが、まるで逆です。すべての人間の時間給を固定するのですから。


 人によって収入が違うということは、労働の値段が人によって違うということです。格差が大きいということは、労働の値段が違いすぎるということです。人によって労働の値段があまりに違いすぎる。労働ほど値段がまちまちなものはないということです。これはとても異常なことではないでしょうか。同じ商品が場所によって値段が違うということだからです。しかも極端に違う。あらゆる物の値段の違いが労働の値段に集中しているようです。なにひとつ値段が固定されているものがない。すべての物の値段が変動する。それらの値段の変動が労働の値段に集中してしまうということです。いまの経済制度では労働の値段は一番最後に考えるものになっているのです。電気の値段がこうで、ガソリンの値段がこうで、小麦の値段がこうで、家賃がこうで、学費がこうだから給料はこうだ。というように労働の値段が最後に決まる。だからあらゆる物の値段の違いが集中して労働の値段の違いが最も大きくなる。これを逆にしなければならない。一番先に労働の値段を決める。労働の値段を固定することによってほかのあらゆる物の値段が決まるようにする。


 物の値段がどのようにして決まるのか見てみましょう。
 サンマが高くなくなりました。サンマが自分で自分の値段を上げたわけではありません。誰か人間がサンマの値段を上げたのです。しかし「漁獲量が減ったから」などと説明されます。漁獲量が減ったからサンマの値段が上がっただけで自分が上げたわけではない。サンマの値段が上がったのは自分が上げたのではなく漁獲量のせいだ。そう言いたいようです。サンマの漁獲量が減ったのはなぜなのでしょう。サンマがかってにサンマ人口を減らしたのでしょうか。気候のせいなのでしょうか。サンマを食べる動物が増えたのでしょうか。原因はよくわかりません。よくわからない原因によってサンマの漁獲量が減ったのです。
 漁獲量が減るとなぜ値段が上がるのでしょうか。サンマの数が変わっても一匹のサンマはなにも変わっていません。サンマそれ自体は同じままです。それ自体は同じなのに値段だけが変わりました。サンマそれ自体はなにも変わっていないのだからサンマのせいではありません。人間がかってに値段を上げたのです。漁獲量が減るとなぜ値段を上げるのでしょうか。同じ労働で千匹獲れたのが十五匹しか獲れないからです。だから値段を上げたのです。つまり労働の値段を同じにするためです。労働の値段を同じにするためにサンマの値段を上げたのです。それを「漁獲量が減ったから」と説明するのはなぜなのでしょう。「労働の値段を同じにするため」ということを隠蔽しようとしているのではないでしょうか。どうしてそれを隠蔽しようとするのでしょうか。値段が上がったのをサンマのせいにしようとしているのではないでしょうか。


 台風が来てリンゴの収穫量が減ってもリンゴの値段は変わりません。そのためにリンゴ生産者の収入は少なくなります。リンゴ生産者の労働の値段が暴落したことになります。サンマの場合は労働の値段を同じにしようとしましたが、リンゴの場合は労働の値段を同じにしようとする運動が起こりません。サンマの場合となぜこんなに違うのでしょうか。


 バスの乗客が多くても少なくても運賃は220円です。乗る距離が長くても短くても運賃は220円です。ガソリンの値段が上がっても下がっても運賃は220円です。運転する人の労働の値段も変わらないようです。乗客の数や走る距離が違ってもガソリンの値段が変わっても運転する人の労働の値段は変わりません。ここではなんと労働の値段が最初から固定されています。サンマやリンゴの場合となぜこんなに違うのでしょうか。物の値段を決めるための決まったやり方が存在していないからです。値段の決め方がみんな違っているからです。その時その時で誰かが(偉そうな人です)適当な理由をつけて適当に変えているだけだからです。
 商品、給料、金(きん)、株、土地、石油、家賃、通信料、広告料、税金、保険、戒名、あらゆる物の値段が変動します。これは異常事態ではないでしょうか。値段の固定された物がなにもないので、なんの値段がなんの値段を変動させているのかまったくわからりません。経済学者は株の値段の変動の理由を適当に説明しますが、理解できる人はいません。一番変動の激しいのはお金の値段かもしれません。商品の値段が変わったのは商品が変わったのかお金が変わったのかわかりません。100円のパンが120円になったのは、パンが値上げしたのではなく、100円というお金が120円になっただけなのかもしれません。


 あらゆるものの値段が適当に決まるのですが、最も適当に決まるのは給料です。給料がどのように決まるかはもはや経済学ではまったく説明できません。給料は給料を決める権力を獲得した人間がかってに決めています。国会議員が公務員の給料を決め自分の給料も自分で決めるように、権力者は部下の給料をすべて決め自分の給料も自分で決めます。法則があるとしたら地位が上の人間ほど給料が高いという法則だけです。そこで役職をたくさん作り地位の序列を増やします。地位の序列が増えると一番上の人間の給料が自然に高くなるという仕組みです。班長より係長の給料を高くしなければなりません。係長より課長の給料を高くしなければなりません。課長より副部長補佐の給料を高くしなければなりません。副部長補佐より副部長の給料を高くしなければなりません。副部長より部長補佐臨時の給料を高くしなければなりません。部長補佐臨時より部長補佐主任臨時の給料を高くしなければなりません。社長まであと百段はあります。そしてこれらの地位の序列の至る所に下位の給料を決めるミニ権力者が生まれます。需要も供給も市場原理もへったくれもありません。ほかの人間の給料を決める権力を握って手放そうとしない人間がいるだけです。最も肝心な労働の値段が最もいい加減に決められています。
 


 労働の値段を固定しそれによってあらゆる物の値段を決めるようにします。労働の値段を決めるには労働の量が測定されなければなりません。どうやって労働の量を測定するかはまだよくわかりませんが、たぶん労働の時間で測定するしかないでしょう。労働の結果(作業量)で測定すればいままでと同じになってしまいます。労働の量は時間
で測定するしかあるません。時給、日給、月給、年給などです。仕事の種類によってどれかになるような気がします。時給が1000円なら日給は8000円、月給は20万円くらい、年給は240万円くらいになるでしょう。


 それを会社で行なうとどうなるのか考えてみます。会社では一人一人の労働を明確に区別できないので、全体で考えるしかありません。月給制にするとすると、全員の月給が20万円に固定されます。10人いると全員で労働の値段は200万円になります。全員で一ヶ月に20万個の商品を生産すると、労働の値段によって商品の値段が決まるので、200万円割る20万個で一個10円になります。それに商品を作るための経費が加算されると商品は一個30円になるとします。作った商品がすべて売れると全員の月給が20万円になります。一番先に給料を決めるのですがそれが実現するのは最後ということになります。
 一ヶ月に商品を20万個作っても10万個しか売れなければ、全員の給料が10万円になってしまいます。そこで商品を10万個作ることにすると一個20円になり、経費を加算すると一個40円になります。そうやって物の値段が調整されます。労働の値段によって物の値段が決まるとはそういうことです。
 買うほうにしてみれば、商品の値段はすべて固定された労働の値段によって決まっているのだから、これは高いとかこれは安いとかはなくなるはずです。すべての値段は適正な値段だからです。その値段で買わなければすべての人間に適正な給料が払われなくなるということです。その値段で買わなければ、めぐりめぐって自分の給料も減ってしまう恐れがあるのです。物の値段がどのように変化するか予測するのはむずかしいことですが、安い商品は高くなり、高い商品は安くなり、だんだん平均化すると予測されます。ダイヤの指輪がそんなに高いということはなくなるでしょう。ダイヤの指輪の値段もそれを作るために投入された労働の量で決まるからです。
 サービス業の料金はもっと均一化するはずです。サービス業には明確な商品が存在せず、一時間の労働がそのまま一時間の商品のようになっています。ですから一時間の労働の値段を固定すると一時間のサービスの料金も同じになります。しかし、サービスを受ける人数によってサービスの料金は変化します。時給を1000円に固定すると、10人に一時間のサービスを提供すると一人100円の料金になります。歌手が東京ドームで一時間のライブをするとします。観客は5万人です。歌手の時給が1000円に固定されているので、観客の料金は1000円割る5万ですから一人2銭になります。実際はほかにもスタッフがいるし経費もかかるのでもっと高くなります。スタッフが100人いるとスタッフの時給も1000円なので観客の料金は2円2銭になります。(東京ドームの一時間の使用料がいくらになるかは各自考えてください。)


 本を書く場合はどうなるかも考えて置きましょう。十年かけて本を一冊書いたとします。この場合の労働はどうやって計算したらいいでしょうか。実のところどのくらい労働したのかはわかりません。このような場合は年給にします。年給を240万円とすると、本を書くのに十年かかっているので2400万円の労働になります。本を一万冊作ると一冊2400円になります。十万冊作ると一冊240円です。印刷・製本などの労働の値段が加算され、紙やインクを作る労働の値段も加算されるともっと高くなりますが、ここでは本を書いた労働だけを考えます。百冊くらいしか売れないと予測して百冊作ると一冊24万円になりもっと売れなくなるのでやはり一万冊作ることにします。一万冊が全部売れたのでまた一万冊作ることにします。この一万冊にはもう本を書く労働が存在しませんので一冊0円になります。印刷・製本・紙・インクなどの労働の値段だけで本の値段が決まります。
 しかし、本などはネットに無料で公開されるようになるでしょう。新しい制度になればなおさらです。本を書くことは労働とは見做されないということです。本を書くことなどはすべての人間の共同作業であって特定の製作者などいないという考え方です。







 労働の値段が固定されると商品の値段も固定されます。店によって商品の値段が違うということが起こらなくなります。商品の値段を変えると労働の値段を変えたことになってしまうからです。労働の値段をかってに変えるのは犯罪になるかもしれません。同じ商品はどこで買っても同じ値段になります。
 しかし、商品や労働に値段があるわけではありません。商品や労働に値段があるかのように見えるだけです。お金が存在する世界を前提にしているからそうなるのですが、いまのところまだお金の存在を前提にして考えるしかありません。それがいまのところ人間の限界です。人間はまだお金なしでやっていけるほど成熟していないということです。労働の値段を固定するといってもそれが正しいわけではないのです。なにかの値段を固定しなければならないのでとりあえず労働の値段を固定することにしただけです。それしか考えられないというだけのことです。さて、しかし、労働とはなんなのか。それが次の問題になります。
 同じ行動をしても労働であったり労働でなかったりします。カレーライスを作ることが労働だったり労働でなかったりするのです。自分のためや家族のためや身近な少人数のためにカレーを作るのは労働ではありません。それは単なる行動です。見知らぬ多くの他人のためにカレーを作るのが労働です。労働は他人のための行動ということになります。しかし日本語では自分のための行動も「仕事」とか「労働」などと言う場合もあります。ここでは考え方を明確にするために言葉の使い方を少しばかり厳密にしているだけです。
 労働とは他人のためにする行動です。もっと簡単に言えば、労働は他人の行動を行動することです。他人の行動を代わってすることだともいえますが、他人の行動を奪うことだともいえます。われわれは会社で他人の仕事を略奪し続けているのです。だから商品を買うとは自分の行動を取り返すことです。お金で行動を買っているということになります。するとつまり行動を売り買いしているということになり、商品の値段とは労働の値段なのだという考え方とみごとに整合したことになります。(ここでは論理というものも一緒に勉強しています。)


 (反省とお詫び。言葉「もの」と言葉「物」がひどく混乱しています。どういう場合にどちらを使うかはっきりしていません。物質で出来ている「物」と物質でない「もの」を区別しようとしていましたが、それらすべてを含んだ「もの」もあります。あらゆるものという「もの」です。また、所有を表わす「誰のもの」の「もの」もあります。それらを明確に区別するのは不可能だとわかりました。すべてを平仮名の「もの」に統一すればいいのですが、どうしても物質の「物」と物質でない「もの」を区別したくなります。物質でない「もの」とは思考・意識に関するもので、感覚・感情・欲求なども含みます。言葉や情報も物質でない「もの」に含まれるはずです。ところが、物質と物質でないものを明確に区別することも不可能です。言葉や映像は物質なのか物質でないのかよくわかりません。遺伝子などもそうです。さらに「物質」と「物」を区別することもあります。さらに「もの」と「こと」の区別という厄介な問題も控えているようです。残念ながらこの混乱はこれから先もそのまま続きそうです。これは日本語の問題なのかもしれません。)
 (追加説明。「物質」と「物」の区別とは、「物質」は原子・素粒子・量子といったもので、「物」とはわれわれが生活上「物」と言っている〔もの〕です。生活するうえで「物」として扱っている〔もの〕です。機械としてのテレビは一つの「物」であり、リモコンも一つの「物」です。テレビは様々な部品の集まりであり様々な元素の集まりですが、テレビを一つの「物」として生活しているわけです。ですからこの「物」には「一つの」という言葉がよくくっ付いています。「物」を一つ一つ区別して生活しているからです。ーーーこの文章に登場する〔もの〕がとても厄介なものです。)



 この考え方によって経済を再編します。いままでの経済に慣れ親しんだ目から見れば奇怪なものに見えるかもしれませんが、いままでの経済こそ異常なものであって、単にそれに慣れ親しんでしまっただけです。
1、物(自然物)はすべて誰のものでもない。
1、人間は物を所有できず一時的に使用できるだけだ。そして使用が終われば自然に返却される。
1、物に値段はない。物はすべて無料で使用される。
1、人間の労働の値段を固定することによってあらゆる物の値段が決まる。
1、すべての人間の給料が同じになる。


 これらのことによって経済がどう変わるかいくつか見てみましょう。
 物がすべて無料ということはすべての物が等価値になるということです。金(きん)や銀も水や石灰石と等価値になります。物の性質によって物の値段が変わることはないということです。量が少ないので値段が高くなるということはなく、よく使用されるので値段が高くなるということはなく、たくさんあるので値段が安くなるということはありません。千バーレルの原油も三バーレルの原油も同じ値段です。物に値段がないとはそういうことです。すべてが同じ値段になって等価値になるのではなく、すべてが無料になることによって等価値になります。
 また、物に値段がないということは物を売り買いできないということです。意外なことかもしれませんが、無料の物は売り買いができないのです。誰のものでもない物は売り買いができません。売り買いできるのは人間の労働だけになります。
 いままでもそういう物が存在していました。人体です。人体には値段がないので売り買いできません。ですから自然がすべて人体のようなものだと考えればこのことが理解しやすくなります。なぜ人体には値段がないのでしょう。それがわかればこの謎が解けます。(いまのところ空気、太陽光、重力なども無料です。)


 自然物が無料とは原材料がすべて無料ということです。それに人間の労働が加わるとだんだん値段が加算されます。扇風機を考えてみれば、まず原材料を掘り出す労働があり、原材料から一定の物質を作り出す労働があり、それらから部品を作る労働があり、それらの部品を組み立てる労働があります。だから思ったよりずっと簡単です。扇風機は四人くらいの労働が加算されているだけです。
 サービス業では労働そのものが商品ということになるようです。ですからサービス業では確実に商品が売れたことになります。常に完売というわけです。また、原材料は人間で人間は無料ということになるかもしれません。


 「物の値段」と言うことが物に値段があるかのように錯覚させます。そこで「物の値段」という言葉を変えます。様々な候補。「物の人間率」「物の労働価格」「労働含有量」など。「労働含有量」を採用すると「100円のボールペン」ではなく「労働含有量100円のボールペン」になります。「円」が「労働含有量」という意味になるわけです。(もっとふさわしい言葉を見つけてください。)
 「円」を「労働」に変えたほうが簡潔でわかりやすいようです。そうすると「100円のボールペン」ではなく「100労働のボールペン」になります。そうすると「一時間1000円の労働」は「一時間1000労働」になります。わかりやすく「一時間60労働」にしたほうがいいでしょう。労働の単位がそのまま労働になり、それがそのままお金の単位になります。60労働で60個のボールペンを作れば一個1労働になり、スーパーで12本入りが12労働で売られるというわけです。そうなるともう「金」(かね)という言葉が「労働」に変わります。強盗の「金を出せ」が「労働を出せ」に変わると言うほうも言いづらくなります。「金がないと生きられない」が「労働がないと生きられない」に変わり、「金の融資」が「労働の融資」に変わります。「値段」「価格」「物価」などの言葉が消滅するのも時間の問題です。「労働」という言葉はごっついので「ワーク」のほうがいいかもしれない。


 


 会社などでは誰がどれだけ労働したかわかりません。誰がどれを作ったのかわかりません。また、サービス業ではどれだけ仕事をしたのかよくわかりません。そういうあれやこれやを考えるとすべての人間の給料が同じになる方向に向かっていくでしょう。そして原材料がすべて無料なのですから、あらゆる商品の値段(労働含有量)は同じになっていくと予測できます。同じといっても様々な商品をどうやって比較するのかわかりません。テレビ一台とマグロの赤身100gとイチゴ一個が同じになるわけではありません。


 労働の値段をすべて同じにして固定する改革は、世界全体でやらなくても、それぞれの国が別々にやればいいことです。時給を固定するとします。日本の時給が1000円になります。アメリカの時給が100ドルになります。そうすると1000円=100ドルということになり、1ドル=10円ということになります。これが為替ということになり、時給が固定されるので為替も固定されます。労働の値段を固定することによって為替も固定されたのです。そうするとどうなるでしょう。日本とアメリカは別々に改革したのですが、一緒に改革したのと同じことになります。お金の価値が同じになるのですからやがてあらゆる物の値段が同じになるはずです。国別にこの改革をやっても世界全体でやったのと同じことになってしまうのです。世界じゅうどこで買っても同じ物は同じ値段になります。ようするに人間の労働はどこでも同じ値段ということです。労働が世界通貨になったのです。


 労働の値段が同じになるとはすべての人間の給料を同じにするということです。ある時点ですべての人間の給料を同じにするだけですから、この改革はとても簡単です。新しい制度よりもっと簡単です。新しい制度になってもこの改革は可能ですが、新しい制度になったほうがむしろ簡単にできます。決める給料は月給でも日給でも時給でもその他でもかまいません。金額もいくらでもいいのです。その金額が基準になるだけなのですから。
 すべての人間の給料が同じになるとは、すべての人間の給料が同じになるということです。あらゆる職業の給料が同じになるということです。スポーツ選手も芸能人も政治家もCEOもです(そういう職業が存在していればですが)。このことは給料が目標ではなく出発点になるということを意味しています。給料を目標にして働くのではなくなるということです。
 この経済改革は新しい制度にしなくても可能ですが、新しい制度にするとずっと簡単にできます。その場合、新しい制度の始まりで新しい人間の収入を均一にする必要がなくなります。この経済改革ですべての人間の給料が同じになってしまうからです。
 新しい経済制度では最初に労働の値段が決まります。労働の値段が固定されることによってほかのあらゆるものの値段が決まります。それに比較すれば、かつての経済制度では労働の値段が最後に決まっていたことになります。あらゆるものの値段が適当に変動し(変動させられ)、その変動の波が寄り集まって最後に給料となっていました。そのために給料に大きな違いが発生したのです。


 労働の値段を固定するのはそれによってものの値段を決めるためであって、それだけの給料が保障されるということではありません。作った製品やサービスがすべて売れなければそれだけの給料にはなりません。ですから、決められた給料をすべて獲得するためには製品やサービスがすべて売れるように工夫しなければなりません。しかし、どんなに頑張っても決められた給料以上にはなりません。つまりそれは最低賃金ではなく最高賃金ということになります。
 また、労働の値段でものの値段が決まるのですから、労働を調整することによってものの値段を変えることができるということです。
 また、労働の値段が同じということは、すべての人間の労働の値段が同じということです。それはつまり、働けない人や働かない人の労働の値段も同じということです。極端な話し次のようになります。一時間の労働の値段が1000円だとすると家でごろごろしている人の労働の値段も一時間1000円です。その人が一時間に一回溜め息を吐くとその溜め息が1000円になります。それが売れれば1000円の収入になります。一時間に二回溜め息を吐くと溜め息一個が500円です。


 物はすべて使用できるだけで所有できません。周囲にある家の中の物はすべて自分の所有物ではありません。すべて自然の物を一時的に使用しているだけで、使用が終われば自然に返却しなければなりません。物は長く使っていると労働含有量がだんだん減少してきてただの自然物のようになってきます。すでに自然に戻りつつあるのです。物に含まれる労働含有量が徐々に減少するということは、ものの値段がだんだん減っていくということです。そして最後には無料の物だけになります。




 経済についていろいろ考えてきましたが、なにかをひどく間違えているようです。お金が存在するということを当然のことと考えていたのです。お金が存在することを前提にしてあれこれを考えていたのです。そこで、小学生がよくやるように、お金のない世界を想像してみます。
 お金が存在しなかった時代に戻るのではなく、いまの世界からお金を消してみるのです。お金がなければ値段とか代金とかは存在しなくなります。給料や賃金も存在しなくなります。売ったり買ったりが存在しなくなります。給料の代わりになにかをもらうわけではありません。ただ給料がなくなるのです。切符とか、商品券とか、ポイントとか、お金の代わりになるようなものはすべてなしにします。銀行・金融業が消滅します。税金はどうなるでしょう。お金以外の物を税金にすると、それがお金に変わる危険がありますので税金は廃止です。お金が消滅するのですからお金が必要でなくなるのです。お金がなくても所有はあります。作った物やいらない物はどこかに集めます(かつてのスーパーやコンビニです)。必要な物はそこへ取りに行きます。なにか規則が必要になるかもしれません。工場で作った物や収穫した野菜などはそこへ持っていくわけです。集配所などと呼ばれるかもしれません。生活に必要な物はそこから自由に持って行きます。
 そうなるとどうなるでしょう。普通は次のように考えます。人間は働かなくなる。そして物の奪い合いになる。働かなくなるとますます物が減って、ますます奪い合いが激化する。ほんとうにそうでしょうか。労働は純粋に人類のための労働になるし、物がいつでも手に入るなら必要な物しか欲しがらなくなるとも考えられます。
 お金がなくなると人間は働かなくなり、物の奪い合いになるということがほんとうなら、お金が存在するので人間は働き、物の奪い合いをしないでいることができるということになります。お金には人間を労働させる力があり、物の奪い合いを阻止する力があるということになります。つまり、お金がなければ物が手に入らなくなり、お金を手に入れるためには労働するしかないということです。この簡単なことにお金の秘密が隠されているようです。最初のころはお金は贅沢品を買うためのものだったようですが、だんだんお金がなければ手に入らない物が増えてきて、いまではもうあらゆる物がお金がなければ手に入らなくました。お金なしに物を手に入れることは犯罪になることが多いようです。人類はこの変化を強力に推し進めたことになります。お金がなければなにも手に入らなくさせる変化です。それと同時に推し進めたのがお金の個人化です。お金を個人の所有にしたのです。個人が自分専用の財布を持つようになり、個人は自分の財布のお金しか使えなくなりました。これは個人中心主義の推進と同時に起こったことです。自分専用の財布を持つ者が個人になったのです。お金がなければほとんどの物が手に入らなくなったのでお金を手に入れなければならなくなりました。労働しなければならなくなったのです。労働すると自分の財布にお金が入ってきて、自分の財布からお金が出て行くと必要な物が手に入ります。財布にお金が入ってきて財布からお金が出て行く。われわれが毎日やっているのはそれだけかもしれません。
 そのためには自分の財布のお金しか使えないという規則が必要になります。他人の財布のお金を自分のものにしたり、他人の財布のお金を使うことは禁止されました。犯罪になったのです。このようにしてお金の動きを限定していきました。
 人間はお金がなければなにも手に入らない世界を作り出しました。徐々にお金がなければ手に入らない物を増やしていって、この百年ほどでそれはほぼ完成したようです。お金がなければなにもできない世界、お金が支配する世界を人間は作り上げました。人間はそういう世界を作ろうとして作ったのでしょうか、お金が存在するとそういう世界が出来てしまうのでしょうか。お金というたった一つのものによって世界は支配されたということになります。完全な独裁制です。
 お金がなければ物を手に入れることができないとは、あらゆる物に値段が付いたということです。それはあらゆる物が同じ性質を獲得したということであり、その性質は数量化できるので、その数量であらゆる物を比較できるということです。また、お金は一定の規則に従って動くようにされました。お金が一定の規則に従って動くことによって物の動きがコントロールされます。また、お金は常に誰の所有かが明確にされます。誰のお金かわからないお金があってはならないという規則です。お金はまるで動く法律であり、いつも小さな警察官がつきっきりで警備しています。
 お金が支配する世界はとてもシンプルでわかりやすい世界です。お金を操作する方法は誰でもすぐ理解できます。シンプルでわかりやすいということがお金の最大の魅力です。シンプルとわかりやすさを追求するとそういう世界になってしまうのでしょうか。お金は入ってくるか出て行くか二つの動きしかなく(二進法)、その動きと連動して人間とあらゆる物が動きます。どっちがどっちを動かしているのかわかりません。互いに互いを動かし合っています。税金、保険、年金、貯金、生活保護、株、国債などすべてお金です。(お金の動きがすべて見える世界地図を作ればなにかがわかるはずです。)お金が支配する世界が出来上がると、社会の構造が一定の状態に固定し、それによってあらゆることが固定し変えられなくなります。社会の根本的な構造はもう変わらないとほとんどの人が思っています。働いて給料を得て、その金であらゆる物を買い、あらゆるサービスを受けるという構造です。
 (神がいつのまにかお金に入れ換わっている。キリスト教の神もすでにお金に入れ換わっているのではないか。)


 これらのことの一番根底にあるのは「お金がないと物が手に入らない」ということです。ここに秘密の光が隠されています。物の交換をスムーズにするためにお金が作られたと経済学は説明しますが、スムーズどころではなくお金がなければ交換できなくなったのです。これは予想外の展開ではないでしょうか。お金があればなんでも手に入るようになったのですが、お金がなければなにも手に入らなくなったのです。これでは便利になったのか不便になったのかわかりません。簡単に物が手に入るようになったのか、物を手に入れるのが困難になったのかわかりません。自由になったのか不自由になったのかわからないのです。お金がなければ物が手に入らないとはなにか自然の原理に反しているような気がします。自然と人間の間にお金が入り込んでなにか悪事を働いているという印象です。そしてそのお金の悪事に加担する人間が出現します。お金を操作することによって人間と自然の関係を操作できるようになります。また、自然と人間の間にお金が入り込んで自然と人間を分断しているとも考えられます。人間と稲科植物の関係が分断され人間と稲科植物の関係がわからなくなるというわけです。
 「お金がなければ物が手に入らない」ということは実にたいへんなことなのです。それは物よりお金のほうが優位に立ったことを示しています。人間は物よりお金を欲しがるようになります。


 残念ながらお金のない世界を構想することは不可能だと思うようになりました。お金をなくすことは個人や家族をなくすのよりむずかしいようです。思考は必然的にお金というものを生み出してしまうものだと思われます。人間でなくても思考する存在は必ずお金を生み出すはずです。思考が言葉を生み出してしまうように、思考はお金を生み出してしまいます。言葉のない世界を構想できないようにお金のない世界を構想できません。しかし、人間を新しい人間に変えればお金の流れは大きく変化します。「自分の財布のお金しか使えない」という規則の「自分」が新しい人間に変わってしまうからです。
 それだけではありません。物をすべて無料にして、物の値段とは労働の値段ということにできます。お金で売り買いできるのは労働だけということです。あちこちでお金を動かしているのはすべて労働を動かしているということになります。人間が所有できるのはお金だけになります。つまり人間が所有できるのは労働だけです。人間が所有しているのは物ではなく、物に含まれる労働だけということです。物の値段とは労働の値段ということになるのですから、これはつまり、労働を数値化できれば労働がお金の代わりになるということです。この変革は実のところ考え方を変えるだけなのですからいつでもできます。



 〔繰り返す〕
 もう一度同じことを考えてみます。少し角度を変えて見てみるというやつです。
 人間を新しい人間に変えるだけでもそうとうな変革ですが、それだけでは不充分だということがだんだんわかってきました。経済を変えなければなにも変わらないような気がしてきたからです。この世界がどういう世界なのかわからなければ行動できません。経済のことがわからなければこの世界のことはわかりません。経済のことを理解するのが最もむずかしいのではないかということがだんだん明確になってきました。われわれは経済のことをなにも知らないようです。
  
 人間は経済の諸制度に完全に拘束されています。経済の様々な規則に完全に従っているということです。ほかの規則には幅(自由度)がありますが、経済の規則には幅がないので完全に従うしかありません。お金を考えるよくわかります。148円のものは148円で買うしかありません。あらゆるものの値段が決まっていてそれに従って行動するしかありません。毎日毎日一日じゅうそうやって行動しています。あらゆるものの値段・代金・料金が決まっていて完全に拘束されています。家賃、授業料、診察料、税金、給料などもそうです。決められた金額はどんな規則よりも強力な規則となって人間を拘束しています。ものの値段がよく変化しますがそれに従うしかありません。誰もそれに反抗できません。人間はお金に翻弄され続けています。最近はものの値段が上がっています。特に食べ物の値段が上がっています。われわれはそれに翻弄されるだけです。


 人間にとって経済とはなによりも値段・代金・料金です。つまりお金であり、なによりもお金の移動です。われわれに見えているのはお金とお金の移動だけかもしれません。
経済を理解するのがむずかしいのはお金しか見えなくなるからです。お金があまりにも濃密で明確なのでお金しか見えなくなります。経済活動はお金がどこからどこへどれだけ動いたかということで表現されます。経済の数値は重さや量で表示されることもありますがほとんどはお金の量で表示されます。GDPだとか、貿易の量、国家予算、物価、収入と支出、資本金、株、国債、保険、金利などはすべて金額で表示されます。しかしお金は経済の本体なのでしょうか。


 お金を基本にして経済を考えてしまうのはお金しか明確なものが存在しないからです。お金を消去した経済を考えてみれば、なにをどう考えていいのかわからなくなります。お金なしで経済のことを考えることができなくなっています。
 お金は経済活動の結果のようなものではないでしょう。結果だけわかり原因はわからない。そこにお金が存在していればお金が存在しているのがわかる。わかるのはそれだけです。そのお金からはそのお金がなぜそこにあるのかはわかりません。そのお金からはそのお金がなにをしようとしているのかはわかりません。なにかが起こってそのお金はそこにやってきた。またなにかが起こってそのお金はどこかに行ってしまう。お金が動くとお金以外のなにかが動く。なにかが動くとお金も一緒に動く。お金はいつもお金以外のなにかの動きと連動している。お金が動くと人間が動き、物が動き、言葉が動き、音と光が動く。しかしどうしてそんなことが起こるのかわからない。それらの動きとお金の動きがどう連動しているのかわからない。



 給料がどうやって決まるのか。商品の値段がどうやって決まるのか。石油の値段がどうやって決まるのか。金(きん)の値段がどうやって決まるのか。税金の額がどうやって決まるのか(決める方程式がどうやって作られるのか)。家賃の額がどうやって決まるのか。株の値段がどうやって変動するのか。われわれはなにか法則があるのだと漠然と思っています。経済の専門家もなにか法則があるようなことを言います。しかし、そんな法則はまったく存在しません。すべて誰かがかってに決めています。それを決めることができるということが権力です。権力を握るということはものの値段・代金・料金・金額を決めることができるということです。誰が値段を決めるかで争うのが権力争いということになります。そういう争いが至る所で起こっています。小さな争いはほんとうにすぐそこで起こっています。
 われわれはなにか経済の法則があると思い込まされています。ものの値段を決める方程式があると思い込んでいます。税金を決める方程式が書かれた通知が送られてきます。株の値段が刻々と変化するのはどこかに測定器があるからだと思っています。カップラーメンの値段もコンピューターが計算しているはずです。なにも知らないわれわれは決まった値段で買うしかなく、決まった給料を貰うしかなく、決まった家賃を払うしかなく、決まった税金を払うしかありません。われわれにできるのはそれだけです。
 お金に関することに契約書が必要になるのはすべてデタラメだからです。給料が最低賃金になるのは最低賃金の雇用契約書にサインしたからです。サインしなければ雇用されないのだからどうしようもありません。契約書といえばなんだかかっこよく対等のようですが、あなたの給料はこれ以上になることはないという一方的な通知書です。


 ものの値段はどのようにして決まるのか、そしてものの値段はどうやって変化するのか。経済の問題はこれに尽きるといってもいいくらいです。
 値段のあるものはすべて値段を変化させます。値段の定まったものはなにもありません。何度も言っているように、値段の定まったものがないのであらゆるものの値段が変化するのです。なにかの値段が上がると別のなにかの値段が上がります。それは単なる偶然であって次もそうなるとは限りません。なんの値段が上がるとなんの値段が上がるのかわかりません。その都度その都度ぶつかり合うものが違うからです。すべてのものの値段がすべてのものの値段に影響しているといってもいいくらいです。あらゆるものの値段が風船のように浮遊していて互いにぶつかり合い互いに影響し合っているだけです。
 商品の値段や賃金はもちろん、土地の値段、家賃、マンションの値段、金(きん)の値段、株、石油の値段、電気代、円の値段などあらゆるものの値段が変動しています。一番変動しているのはお金の値段かもしれません。土地の評価額とはなにか。誰かがかってに付けているに決まっています。土地の表面に値段が浮き出てくるわけではないのです。すべてのものの値段は誰かがかってに決めています。値段の固定したものが存在しないので、あらゆるものの値段をかってに決められるようになっています。値段をかってに決めることができるのが権力です。議員が議員の給料、公務員の給料、消費税率、給付金などたくさんの値段を決めています。会社では上の方の人が商品の値段や社員の給料を決めます。家では親が子供のこづかいを決めます。権力者たちはものの値段をかってに決めることができるようにわざわざ値段の固定したものを作らないようにしています。そしてさらにものの値段が決まる方程式があるかのように装っています。自分が決めているのではないと見せかけるためです。
 まるでお金が経済の本体のようですが、残念ながらそうではなく、経済の本体は労働です。ほかの人間の労働によって生きること、ほかの人間の労働を労働すること、労働の交換こそ経済の本体です。でもお金によってそれが見えなくなります。



 ものの値段がどうやって決まりどうやって変化するのか、具体的に見てみます。
 マグロがどうして高くなるのか。それを説明する方法はたぶん百くらいあります。「船の燃料費が高くなったからだ」というのもその一つです。どうして船の燃料費が高くなったのか。それを説明する方法もたぶん百くらいあります。「石油の値段が高くなったからだ」という説明がよく使われます。どうして石油の値段が高くなったのか。その理由の説明の仕方は人の数だけあります。アラブの王様がいつまで遊んで暮らせるか将来に危機感を感じたためかもしれない。プーチンの愛犬が病気のせいだ。太陽光発電の効率的な方法を誰も発明できないからだ。プラスチックを石油に戻すことができないからだ。無駄な自動車が多すぎるからだ。


 食べ物が次々に値上げしています。電気も値上げしました。必要なものが値上げしています。必要なものは値上げしても買うしかないからです。不必要なものは値上げすると売れなくなるのでなかなか値上げできません。ということはみんななにが必要なのかわかっているということです。なにが必要かわかることは生物として最も必要なことなのだから当然です。だからみんな自分の仕事がどのくらい必要なものかわかっているはずです。必要なものかどうかが値段の変動の理由になるということです。


 ものの値段はなぜだんだん上がっていくのでしょか。五十年前にはアンパンが30円でした。ちんちん電車が15円でした。リンゴひと山100円でした。ひと山は8個くらいです。ものの値段は上がったり下がったりするが、結局はだんだん上がっていきます。どうしてそうなるのか考えてみれば不思議なことです。少しでも高く売ろうとする結果そうなるのでしょうか。賃金と物価が競争しているからなのでしょうか。
 あらゆるものの値段が上がるのなら相対的にはなにも変わっていないのだから、あらゆるものの値段が下がっても同じことなのです。それなのにあらゆるものの値段が上がっていきます。ものの値段を下げようとする力より、ものの値段を上げようとする力のほうが大きいからです。特に賃金を下げるのはむずかしい。しかし最大の理由は値段の固定したものがないからです。すべてのものが値段も定まらずふらふらしているからです。だから全体が風の強い方向に動いていくのです。ですから値段の定まったものが作られなければこの状態がずっと続き、われわれはものの値段の変化に振り回され続けることになります。
 お金の値段も変化しているのだからさらに複雑になります。ものの値段が変化した場合、ものが変化したのかお金が変化したのか判断できません。ものがまったく同じなのに値段が変化した場合、変化したのはお金ではないでしょうか。そんなことはありません。ものの値段が変化する理由はほかにもいくらでもあるからです。雨の日に安くなるものさえあります。


 電気代が上がると値上げするものが多いが、米が値下げしても米で作る菓子は値下げしない。米が値下げしても食堂のライスは値下げしない。


 競りというものが存在するのも不思議なことです。もっと不思議なのは競りをするものと競りをしないものがあることです。競りをするものとしないものをどうやって決めているのでしょう。いや、形を変えた競りのようなものがたくさんあります。スーパーの価格競争も競りのようなものかもしれません。入学試験や入社試験も競りのようなものかもしれません。議員の選挙は完全に競りです。


 スーパーに行けばわかりますが、青果・精肉・鮮魚は国産品のほうが輸入品より高いのがほとんどです。普通に考えれば国産品のほうが安くなるはずではないでしょうか。国産品は輸送費も少なくてすむのだからなおさらです。こんなことも説明するのはとてもむずかしそうです。国産品より安い外国品を捜して輸入しているからなのでしょうか。たしかにどちらも同じ値段ならほとんどの人は国産品を買うでしょう。国産品のほうが安全だと思われているからです。そうすると金持は国産品を買い貧乏人は外国産を買うということになるようです。つまりこのことも格差の拡大に関与していることになります。ここにはよくわからない問題がもっとたくさん隠されているようです。国の補助金とか、有機栽培・無農薬とか、労働の値段の安い国とか、いろいろです。


 飼料の値段が上がっているのに牛乳の値段は上がらないので酪農が赤字になっているというそうです。牛乳の値段を上げると売れなくなるから牛乳の値段を上げることができないらしい。それなのに飼料の値段はいくらでも上がるようだ。牛乳の値段が上げられないのに飼料の値段を上げることができるのはなぜなのでしょう。飼料の値段が上がっても飼料は売れるからです。乳牛の数が決まっているので必要な飼料の量が決まっているせいです。人間は牛乳を飲まなくてもいいが、牛は飼料を食べるしかないらしいのです。
 牛乳と飼料はいったいなにが違うのでしょう。牛乳を作るためには飼料が必要ですが飼料を作るために牛乳は必要ないということでしょうか。そのために飼料の必要度のほうが大きくなり牛乳と飼料の対決では飼料が勝つということでしょうか。食品は絶対に必要なものですが、種類がたくさんあり、なにかがなくても別のなにかがあればいいものです。それに対して飼料は代わりになるようなものがあまりないようです。あってもほとんど同じようなもので、たぶんどれもが同じ理由で値上がりするらしい。一斉にすべてが値上がりすると安いほうに変えることもできません。
 牛乳という商品の特殊な事情も関係しているようです。牛乳の生産量を簡単に調整できないという問題です。牛は経済事情によって出す乳の量を調節できません。このように商品一つ一つの特殊な事情によっても値段は左右されます。ものの値段を決める決まった規則など存在しないということです。
 (乳牛の餌を牛乳にしたらどうなるのかという外野の声。)


 ものの値段がどうやって決まるのかはわかりませんが、誰かが決めているのは間違いありません。ものの値段を決めるための選挙などほとんどきいたことがありません。値段を決める人はどうやって決めているのでしょう。様々なことを考えて決めているはずです。需要と供給のようなことも考えます。経費、天気、世界情勢、会社の人事、あらゆることを考える必要があります。しかしすべてのことを考えることはできません。考えなければならないことでも抜かしてしまいます。
 あらゆるものの値段をもっと明確に決められるようにしなければなりません。そうしなければ誰かにかってに決められてしまいからです。ものの値段を決めるには値段が定まったものが必要です。なにかの値段を定める必要があるのです。値段をただめることができるのは人間の労働しかありません。このように論理は進んできました。
 労働の値段を固定するとはすべての人間の労働の値段が同じになるということです。
これはそういうことにするということであり、この宇宙にそういう法則があるということではありません。労働の値段をいくらにするのかという問題が出現します。それはいくらでもかまいません。次に労働の量をどうやって測定するかという問題が出現します。
 労働の量を測定するのは不可能かもしれません。タマネギを千個収穫したとして、そのためにどれだけ労働したか測定するのは不可能だからです。眠るのも食べるのもタマネギを収穫するためだったかもしれないからです。そうなると人間はみんな24時間労働していることにしたほうがいいくらいです。
 労働の量を測定するのが不可能だから逆に儲かったお金の分だけ労働したことにしたのかもしれません。そうすると、労働より先にものの値段が存在していたことになり、ものの値段は労働以外のもので決まったことになります。「需要と供給」とか「見えざる神の手」とかです。これがいままで人間が採用していた方式です。儲かったお金の分だけ働いたことになるという方式です。
 それを逆転して最初に労働が存在することにするのですが、そのためには労働の量を測定して一定の量の値段を決めなければなりません。すでにわかっていたことですが、労働の量を測定する方法は時間しかありません。次には何時間働いたかをどうやって測定するかという問題が出現します。会社など勤務時間がはっきりしている労働は簡単に労働時間を測定できますが、勤務時間が決まっていない場合はどうするかということです。画家とか個人商店とか生活と労働が分離できないほど混じり合っている場合です。
 そこで導入されるのは、人間はみんな一日8時間労働していることにするという案です。人間はみんな一日8時間週五日働いていることにするのです。労働時間一定の規則です。人間はみんな一週40時間労働していることにします。それ以下でもそれ以上でも一週40時間労働にするのです。どれだけ労働するかはそれぞれのかってですが、一週40時間に決めるとそれに合わせるようになるはずです。
 一時間の労働を1000円にすると一週間で40000円になります。一ヶ月180000円とすると一年で1160000円になります。一年でタマネギを一万個収穫すると一個116円になります。それに経費もプラスされますが、肥料の値段も同じように計算されています。二ヶ月で絵を一枚描くと360000円の絵になります。その値段は自分で調整できます。タマネギをもっと安くしようと思えば収穫量を増やせばいい。360000円の絵は売れないと思えば一週間で一枚描くようにする。そうすれば一枚40000円になります。
 こうしてすべての人間の労働の値段は一週間40000円になります。それが実現するためには作ったものが売れなければなりませんし、提供したサービスを利用する人がいなければなりません。そのためにはそれなりの努力が必要になります。これはすべての人間に適用されます。働かない人間にも適用されるということです。ひきこもりの人間も一週間40000円の労働をしていることになります。ただその人が生産するものはまったく売れないというだけのことです。労働の値段を固定するのはものの値段を決めるためであって収入を決めるためではないのです。
 そんなことができるわけがないと思うかもしれませんが、新しい人間の制度にすると簡単にできます。


 (追加補足。労働の値段を固定することによってものの値段を決めるのであって、ものの値段を調節することによって決まった給料を確保するのではありません。電気の会社を考えてみます。月給180000円に労働の値段が固定されたとして、月給180000円貰えるように電気の料金を変えるということはできません。それでは労働の値段に関係なく電気の料金を変えたことになります。電気の料金は労働の値段だけによって決まるのであって、電気の料金を変えることによって労働の値段を変えることはできません。このことを説明するのはとてもむずかしいようです。よくテレビなどで「様々な経費が値上がりして従業員の給料を維持するには商品の値段を上げざるを得ない」といった言い方をしますが、労働の値段が最初から決まっている世界ではそんなことはあり得ないということです。労働の値段を固定するといってもそれを維持するためにものの値段を変えることはありません。)


 会社の給料はどのように決まるでしょうか。会社では一人一人別々に考えることができないので全体で考えるしかありません。全員の給料が一週間40時間労働40000円に統一されます。それによって商品の値段が決まります。商品の量と値段はだんだんすべてが売れるように調整されていくと思われます。
  現在はそれとはまったく違うことが行なわれています。商品の値段に関係なくそれぞれの給料がかってに決められています。地位の序列の最上段にいる人間がかってに決めます。しかも人によって給料が違います。月給の人がいたり、時間給の人がいたりします。日本では社員、準社員、派遣社員、パート、アルバイトといった差別があり、それぞれ給料が違っています。仕事の量や労働時間とも関係がなく給料が決められています。どうやって給料が決められているか決めている人にもわかりません。
 最低賃金制度というものがありますが、最低賃金とは「最低賃金以上にしなければならない」という制度ではなく「最低賃金でいい」という制度です。ですから、最低賃金まで上げられる人より最低賃金まで下げられる人のほうが多いのです。しかし、常に最低賃金まで下げられているので下げられていることに気がつきません。最低賃金制度は賃金を上げるために導入されていると思い込まされていますが、実際は賃金を下げるために導入されています。
 会社の賃金は一番最初に決められているのですが、ほかのものの値段となんの関係もなく決められているので、ほかのものの値段が変わっても賃金は変わりません。一番最初に決まっているのだから労働の質や量ともなんの関係もありません。働かなければ賃金は貰えませんが賃金額は働く前から決まっています。また、賃金はほかのものの値段となんの関係もないので、賃金がほかのものの値段を変化させることもありません。実に不思議な制度です。人間が考えつくこととは思えません。


 労働の値段を固定しそれによってあらゆるものの値段を決めるようにすると、少人数で大量に作るものの値段は無料に近くなります。大量にコピーできるものもほぼ無料になります。これはテレビ・ネットがすでに実現しています。テレビ・ネットの内容はすべてどこかにある情報のコピーにすぎないのだから、一台の自転車を一億人で使っているようなものなのです。みんな違うスマホを持っているようで実際は一つのスマホを全員で使っているのです。新しい方式でNHKの受信料を計算すれば一年で10円くらいになるでしょう。


 現在の公務員の給料はどこから発生するのでしょう。なにかを作って売っているわけではないし、料金を取ってサービスを提供しているわけではないからです。ですから、すべての人間にサービスを提供しているということにして、すべての人間からサービス料を徴収しています。それが税金ということになります。だから、公務員の給料と経費の合計が税金になるはずですが、まったくそんなふうには決められていません。税金となんの関係もなく公務員の給料が決められ、公務員の給料となんの関係もなく税金が決められています。それだけではなく、税金はサービスを受ける人の給料で計算されています。これはどういうことなのでしょう。商品の値段が買う人の給料によって決められているようなものです。給料の安い人が10円で買うものを給料の高い人は100円で買うわけです。それもまた面白いかもしれませんが、それほど適当にものの値段が決められているということです。
 公務員のサービスはほとんどが無料ですが料金を取るものもあります(無料のものも結局は税金で支払っているのですが)。料金を取るものと取らないものの違いがなんなのかもわかりません。救急車は無料ですが粗大ゴミは有料です。刑務所の食事は無料ですが区役所の食堂は有料です。税金の催促状は無料で届きますが住民票の取得は有料です。どうしてこんなに適当なことができるのか呆然としてしまいます。
 新しい制度になると政治家は必要ありませんが公務員の仕事は必要です。警察、消防、学校、役所などの仕事です。新しい制度になるといらなくなるものもありますし、民営化できるものもあります。逆に病院をすべて公務員の仕事にすることもできます。新しい人間は全員が必ず公務員の仕事もするようにする、ということも可能です。そうなれば公務員の仕事は無給でもいいかもしれません。料金を払う人間と料金を受け取る人間が同じ人間になると料金はいらなくなるからです。
 公務員の労働の値段もすべてほかの人間と同じになります。そして税金は公務員の労働の値段と諸経費から計算されます。税金も労働の値段から決まるということです。諸経費も労働の値段から決まっているからです。コピー機はコピー機を作る労働の値段から決まっているし、コピー用紙はコピー用紙を作る労働の値段から決まっています。労働の値段はすべて同じです。
 (料金を払う人間と料金を受け取る人間が同じ人間になると料金がいらなくなるということがわかりましたが、この原理をさらに追求するといろいろなことがわかります。家族が作った料理が無料なのは、代金を払う人間と代金を受け取る人間が同じ家族だからだ。同じ家族とは財布が一つになっているということです。新しい人間も財布が一つになっているので同じことが起こります。同じ人間のSDからSDへ移動するものはすべて無料になります。そこではお金がいらなくなります。新しい人間の財布を一つにできるなら、すべての人間の財布を一つにすることも可能なのではないでしょうか。原理的には同じことだからです。むしろ新しい人間の財布を一つにするより簡単かもしれません。そうなればすべてが無料になりお金がいらなくなります。ところがお金がいらなくなるとそれと同時に財布もいらなくなります。財布がいらくなると一つにしたはずの財布はどうなるのでしょう。振り出しに戻る?)
 


 労働含有率の変化。ものに含まれる労働量は時間の経過と共に減少します。労働含有率が減少すると値段も下がります。労働含有率がどのように減少していくかが問題になります。それはものによって違います。ずっと使い続けるものとすぐなくなってしまうものがあります。食品などは食べると同時に労働含有率がゼロになります。食べることは労働ではないからです。労働含有率がゼロになると同時に値段も消滅します。洗剤など使うとだんだん減少していくものは労働含有率が量に比例するはずです。問題は使ってもそのままの外見を保っているものです。家具、電化製品、衣類、各種道具類です。それらすべての労働含有率の減少を同じにすることもできます。たとえば一年で労働含有率が10%ずつ減少することにします。そうすると十年でゼロになります。残りの10%という方式にもできます。一年で90%になると、次の年は90%の10%が減少するという方式です。そうすると二年で81%になるわけです。なかなかゼロにはなりません。でも壊れるとゼロになります。
 この方式だと古いものは値段がなくなります。金閣寺などはゼロ円です。作った人が死んでいるのだから当然と言えば当然です。家賃などもこの方式で減少します。築十年のアパートは最初からほぼ無料になります。
 労働含有率が減少するとはものが自然に戻っているということです。人間が無料で使用している自然物は人間が自然に返却しなくてもかってに自然に戻っていくのです。
 労働含有率の減少は売れるかどうかに関係ありません。作られるとすぐ労働含有率の減少が始まります。


 新しい経済の方式で考えるとゴッホの絵の値段はどうなるでしょうか。一日8000円の労働とすると、三日で描いた絵は24000円になります。売れるかどうかはわかりません。売れても売れなくても労働含有率の減少が始まり値段が下がっていきます。いまではもう完全に無料になっています。たぶん自然の一部に戻っています。
 無料になったゴッホの絵にはもうなんの価値もないのでしょうか。そんなことはありません。無料とはもう誰もお金で買えないということです。地球上のお金をすべて集めても買えません。無料ほど価値のあるものはないのです。
 ところがいまの経済制度ではまったく違うことが起こっています。だんだん値段が上がっているのです。誰かが新しい労働を加えているのでしょうか。そんなことはありません。簡単なことです。ものの値段は誰かがかってに決めることができるからです。誰かがゴッホの絵は30円と決めれば30円ですし、誰かが30億と決めれば30億円になります。どうしてそんなことができるのでしょう。ものの値段を決める明確な方法が存在していないからです。そういう方法が存在しないのは値段の定まったものが存在しないからです。値段の定まったものが存在しない世界ではどんなものでも30億円になれます。これはものがお金に変異してしまうということを示しています。値段の定まったものが存在しない世界ではものがお金に変異します。ものとお金と区別がなくなるのです。ゴッホの絵は現在ではお金になってしまいました。30億円紙幣が誕生したのです。ゴッホは絵を描いたつもりですが実際は30億円紙幣をデザインしただけです。値段の定まったものがない世界とは、なんでもお金になり得る世界、なにがお金なのかわからない世界なのです。


 古い茶碗などの値段が異常に高くなったりするのは茶碗それ自体がお金になってしまったからです。どうしてそんなことが起こるのか考えてみます。まず誰かがそれをお金として使ったのです。お金として使うとは売ったということです。売ってお金を得たということは、茶碗とお金を交換したということであり、茶碗をお金とみなしたということです。茶碗を買った人がまた誰かに売ります。その人も茶碗をお金とみなしたということです。それを繰り返すと茶碗それ自体がお金になってしまうはずです。それはお金がお金になるのと同じではないでしょうか。お金をお金として使うからお金がお金になるのです。
 お金で買ったものはどんなものでもまたお金になることができるはずです。しかしものはたいてい使ってしまうのでお金になることはありません。使わずに売ればまたお金になります。買ったものを売る。それを買った人がまたそれを売る。それを買った人がまたそれを売る。それを繰り返すとものがお金になってしまいます。同じものの売り買いを繰り返すとものがお金になってしまうのです。お金がお金なのはお金の売り買いを何度も繰り返しているからです。
 しかし、お金とものは違います。お金の売り買いは何度繰り返してもお金の値段は変化しませんが、ものの売り買いを何度も繰り返すとものの値段はだんだん高くなります。お金の値段は変化できないがものの値段は変化できるからです。ものがお金になるとは値段を変化させることができるお金が出現したということです。
 (スポーツ選手の値段が高くなるのはスポーツ選手がお金になってしまったということなのでしょうか。)



 原油の値段はどうなるでしょう。自然物はすべて無料になるのですから、原油の値段は採掘にかかった労働の値段だけで決まります。そこには採掘に必要な資材に含まれる労働の値段も含まれています。労働の値段を一日八時間で8000円だとすると、十人で働くと一日80000円になります。資材に含まれる労働をプラスして一日90000円とします。一日に5000バーレルの原油を採掘すると、90000割る5000で1バーレル18円になります。原油の値段は人数や採掘量の変化によって変化しますが、労働の値段は変化しませんから労働の値段によって変化することはありません。


 原油は無料なのだから「原油の値段」などと言わないほうがいいかもしれません。「原油の労働量」とか「原油の採掘料」などが考えられます。これは原油だけの問題ではありません。ものに値段があるような言い方はやめたほうがいいでしょう。「値段」「価格」という言い方はやめるということです。「労働含有量」が的確だが長すぎます。「このパンの労働含有量は98円」になってしまいます。「賃金値」はどうだろう。「サンマ一尾の賃金値は200円」「賃金値200円のサンマ」。「賃金価格」「労働価格」「人間価」「人間値」などいろいろ候補者が名乗りを上げますがどれもぱっとしません。
 角度を変えて考えてみます。
 お金とは労働のことになります。労働=お金になるのです。だから「ジョブ」でいいかもしれません。どうせなら円をジョブにしてしまったほうがいい。一個98ジョブのパン。このパンのジョブは98ジョブ。そういう使い方になります。値段、価格、料金、代金、物価といった言葉が消滅します。ついでにお金という言葉も消滅させます。お金がジョブになります。「金を出せ」が「ジョブを出せ」になります。そこで店員は次のように答えるはずです。「ジョブは働かなければ発生しません」。「お金を借りる」は「ジョブを借りる」になります。「借りたジョブはジョブで返す」ということになります。世界じゅうのお金がジョブになるのは間違いありません。円がジョブになれば連動してすべてのお金がジョブになるしかないからです。500ジョブのTシャツといえばこのジョブが労働だということがはっきりわかります。65000ジョブの家賃といえばこのジョブが労働だとすぐわかります。無料の土地に無料の自然物で作られた家がそんなに多くのジョブを奪っていいのでしょうか。一度建てただけの家になぜ毎月ジョブが発生するのか調査が必要になります。


 このような世界になると金融・投資はどうなるのでしょうか。まず金融・投資とはなにかを考えます。金融・投資とは人間から人間へお金が移動することです。お金は常に誰かのものとして存在するものですから、かってにほかの人間に移動するものではありません。では金融・投資ではどうやってお金がほかの人間に移動するのでしょう。売ったり買ったりすることによって移動します。あらゆるものが売ったり買ったりされて人間から人間へ移動するという経済の基本と同じです。つまりお金も商品となって売ったり買ったりされるわけです。ですから金融・投資とはお金が商品に変身して売り買いされることです。お金が商品になるとはどういうことでしょう。いまの世界では商品の値段はかってに変えることができます。お金が商品になるとはお金の値段を変えることができるということです。お金を高く売ったり安く売ったりできるのです。売るほうは高く売ろうとし、買うほうは安いほうがいい。というよりお金を安く売ればあっというまに売り切れるでしょう。ですからお金という商品は常に高く売られるようになります。高くても買う人がいるのです。そのために様々な仕掛けが作られます。お金を買った代金を少しずつ払うとか、一年後に払うとかです。
 銀行に貯金するとは銀行にお金を売るということです。銀行に一万円貯金するとは一万円を一万円より少し高く売ったということです。売った代金はいつでも払ってもらえますが、たいていは必要な時に少しずつ払ってもらいます。それが「預金の引き出し」と言われるものです。少し高く売った分が「利子」と言われるものです。預金の引き出しが遅くなるほど利子が多くなる仕組みが作られています。銀行は人々から買ったお金を別の人々にもっと高く売ります。小売店が商品を買った値段より高く売るのと同じです。お金を実際の値段より高く買う人がいるのは不思議なことですが、そういう人はたくさんいます。お金を実際の値段より高く買うのはもっと高く売るためです。お金で別の商品を買って高く売るという方法もありますし、お金で別の商品を作って高く売るという方法もあります。いずれにしてもお金そのものが商品となりほかの商品と同じように運動しています。



 新しい経済制度になると労働の値段が固定され、労働の値段によってあらゆるものの値段が決まります。そうするとだんだんあらゆるものの値段があまり変化しないようになります。労働=お金つまりジョブ=ジョブになるのですから、労働とお金はまったく同じものになり、お金の値段が完全に固定されます。お金の値段が変化することはなくなるということです。お金を商品にすることはできなくなり、お金を売ったり買ったりできなくなります。労働に労働を加えることができないように、お金に労働を加えることはできません。労働によってお金の値段を変えることはできません。 〔ジョブでジョブは変えられない〕 そのような世界に金融・投資は存在できるでしょうか。
 新しい世界では労働の値段が固定されます。ということはすべての人間の収入が同じになるということです。減ることがあっても増えることはありません。この世界では最高賃金が決まっているようなものです。みんな同じくらいのお金しか持っていません。つまり、お金をたくさん持っている人間が事業を始めるということが起こりません。労働のジョブが最初から決まっているのだからそれ以上ジョブを稼ぐということが起こらないのです。そんな世界では起業とか、資本とか、事業とかいったものもすべて別の形態に変わってしまいます。会社の作り方も変わってしまい、誰か個人が作るものではなくなるでしょう。



 新しい人間の制度を導入すると同時に新しい経済制度も導入するとします。まずすべての人間の給料が同じになります。新しい人間は様々な仕事をしています。そのすべての給料が同じになります。それぞれの人間が商品やサービスの値段を計算します。一ヶ月単位の計算にするといいでしょう。しかし仕事によって違うかもしれません。一ヶ月180000ジョブでいくつの製品を作っているかを計算すれば一つのジョブがわかります。それに機械や道具や資材や電気のジョブが追加されます。最初はどれくらいなのかわかりませんが、だんだんわかるようになります。機械や道具や資材や電気を作る人間が同じようにそれぞれのジョブを計算するのを待たなければならないからです。機械など長く使うもののジョブをどのように計算するかという問題もあります。
 そのようにしてあらゆるものの値段が決まっていきます。医療費も税金も同じ方法で決まります。
 新しい人間のジョブを計算するのはもう少し複雑になるかもしれません。SDが50人いる新しい人間のジョブは一ヶ月180000ジョブ×50で9000000ジョブにするという計算も可能です。この新しい人間が30種類の仕事をしているなら、一つの仕事は300000ジョブになります。といったことも考えられるというだけです。
 サービス業のジョブの計算も少し考えておきます。小売(スーパーやコンビニ)の従業員のジョブも最初から決まっています。問題はどういう労働をしているかです。小売の従業員は商品に労働を加えているわけではないのだから、商品の仕入れ値ジョブは変化しません。運送業のジョブは商品にプラスされています。単純化すれば商品の製造ジョブと運送ジョブの合計したジョブの商品が棚に並びます。小売の仕事とは製造業が作った製品を人々に分配する仕事です。小売がなければ製品を人々に分配するのがむずかしくなります。仕入れ値より高く売って儲けるのが仕事ではありません。ものを人々に分配するのが仕事です。だから従業員のジョブは客が買った商品の総合計にプラスされるのが正当なやり方になります。ディズニーランドのように入場料ジョブにする方法もあります。従業員が10人だと一ヶ月1800000ジョブになり、一ヶ月の客数が30000人なら一人60ジョブになります。レジの合計ジョブに60ジョブがプラスされます。しかし製品の分配が仕事なのですから買い上げ個数によって変わるはずです。商品の値段によって手数料ジョブがかわることはありません。(だから「買ってもらっている」とか「お客様は神様」という考え方は完全に間違っています。それはいまでもそうです。)


 それでもお金の改革を考えることはできます。
 逆回転するという方法があります。お金の動く方向をすべていままでと逆にします。商品を買った人がお金を払うのではなく売った人がお金を払います。商品を買う人は商品の代金を貰うことになります。労働者諸君も働いた分の給料を雇用主に払います。そうなるとどういうことになりますか。お金をたくさん持てば持つほど貧乏ということになります。溜まったお金はできるだけ早く少なくしなければなりません。そのためには商品を作って売らなければなりません。売らなければお金がなくならないからです。できるだけ働いてお金を雇用主に払うことも必要になります。買い物はできるだけ控えなければなりません。買い物をすればするほどお金が溜まってしまうからです。そしてどうなるのかは想像力が貧困なのでわかりません。
  お金がかってに変化するというアイデアもあります。使わないとだんだん減ってしまうお金とか、かってに別の人間に移動するお金とかです。
 新しい制度はお金の改革でもあります。新しい人間の財布を一つにするということはそれだけでもたいへんなお金の改革です。そこにはお金がかってに別の人間に移動するというアイデアが含まれています。しかし、考えてもみてください。どうして一人の人間に財布が一つという制度が出来上がったのでしょうか。そちらのほうが不思議な気がします。
 想像力の貧困を駆使して考えれば次のような改革も可能です。
 お金は二種類になります。S貨幣とN貨幣です。S貨幣とN貨幣は絶対に交換できません。あらゆるものをS財とN財に分けます。S貨幣ではS財しか売買できません。N貨幣ではN財しか売買できません。実際に売買されるのはS財に含まれるS労働であり、N財に含まれるN労働です。あらゆるものをどうやってS財とN財に分けるかが問題になります。必要度の大きいものはS財になり、必要度の小さいものはN財になります。どちらかよくわからないものをどちらにするか決めるのが政治の主要な役割になります。それは政策自動決定システムで刻々と決められます。国民が必要と判断したものはS貨幣でしか売買できません。国民が不必要と判断したものはN貨幣でしか売買できません。これによって経済がS経済圏とN経済圏に分離します。新しい人間も二つの経済圏に属することになります。どちらにどれだけ属するかはその人間の自由ですが、ある程度はS経済圏に属さなければ生きることはできない。N経済圏だけでは生きることができないからです。
 給料もS貨幣とN貨幣のどちらかで支払われます。会社で作るものがS財かN財かで給料も変化します。会社で作るものがすべてN財なら、N財はN貨幣でしか売ることができないので、給料もすべてN貨幣になります。会社で作るものの半分がS財で半分がN財なら給料も半分半分になるはずです。給料がすべてN貨幣なら、N貨幣では食品を買えませんから、S貨幣を獲得できる仕事も始めなければなりません。
 そうなると、金持ちはすべてN貨幣をたくさん持っているにすぎないということがわかるはずです。S貨幣だけで見るとひどく貧乏なのです。N貨幣では電気も買えません。N貨幣で買えるのはバンクシーの落書きくらいです。
 S貨幣とN貨幣は交換できませんが、S貨幣とN貨幣を合体させて消滅させることはできます。S貨幣10万円とN貨幣12万円が合体すると、10万円は合体して消滅し、N貨幣2万円が残ります。